金刀比羅宮 - みる会図書館


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1. 太陽レクチャー・ブック 007 ミュージアムの仕事

ク実験的展示クの表と裏 「金刀比羅宮書院の美」展が大盛況ですね。 古田どうしても会場の中が混雑するので入場制限をして います。少しすっ動いていますし混乱はありませんが、暑 い中を外で待ってもらうのは申し訳ないというか : : : 最初 会期の終盤になった現在は は 1 日 2 千人くらいでしたが、 午前中をピークに 1 日 5 千人を超えています。 僕が 1 年半前に芸大に移ってきた時点でこの企画は薩摩 ( 雅登 ) 先生を中心に動きはじめていました。金刀比羅宮 の書院の空間をそのまま再現しようという基本構想は決ま っていて、僕はそれがどうすれば実現できるのか、具体的 な実務作業の手伝いをしたに過ぎません。そもそもの目的 はパリのギメ美術館での開催で、当初はその帰りに芸大に 寄ってもらうはずでした。それがパリの開催時期が延びて リ展を見据 しまい、ならば芸大を先にやりましよ、つと。 えながら、「立体的な展示」が一番うまく実現でき、かっ 海外へもっていける展示にはどういった装置が最適か、ア クリルのパネル、全体に金属を使った骨組み、照明、レプ リカの作製 : : : コスト面も含めてすべて、かなり実験的な 試みをしました。 4 ~ を 「金刀比羅宮書院の美」展 2007 年東京藝術大学大学美術館 30 畳の大広間を再現した「虎の間」。連続する 3 方の襖 16 面に虎 8 頭が描かれている 写真提供 = 朝日新聞社 081 080 The Sun Lecture BOOk 007 Working at a M useum Lecture 04: RYO Fu 「 uta

2. 太陽レクチャー・ブック 007 ミュージアムの仕事

一番苦労されたのはどういった点でしよう。 古田今回、金刀比羅宮が非常に積極的に関わってくれて、 金刀比羅宮から取り外せるものは基本的にすべて持ってき いつの間にか学芸員に ました。修復が必要なものはいったん応急措置をして。た だ壁の絵だけは外せないので、そこだけは複製にして部屋 そもそも東京藝術大学のご出身です。 の雰囲気は保ちましようというやり方でした。 古田芸術学科といって、理論系の学科です。入ってから 理論上はきちんとはまるだろうと計算して持ってくるん専攻を決めるのですが、僕の場合は最初からだいたい日本 ですが、襖など紙や木でできているものは動くんです。金美術史をやろうとは思っていました。将来なにをするかと 刀比羅宮は湿度 % くらいになることもある環境にあって、 いったことを何も考えない時間が長くて、 2 浪しましたが、 そこに数百年置かれていたものを外に出して並べた時にど 1 浪までは、理系じゃないから文系だろうくらいでした。 ういう変化をするのか、これは誰にも予想ができないんでそんな時に家の事情だとかいろいろあって、将来のことを すね。それを馴らし馴らし、会期中も毎日観察してきて、考えるようになって、美術史のある大学を受けようと思っ おかげさまでそんなに大きな変化はなく、なんとか無事にたんですね。 終わりそうなのでほっとしているところです。苦労ならぬ 昔から絵を描くことは好きだったんです。でも描く方で 気苦労ですね。 芸大に入ろうとは思いませんでした。ただ、なんとなく美 ただ、これほどの人が来てくれるとは予想していません術を身近に感じていたことは確かでしようね。父が哲学の でした。最近、雑誌に「若冲プーム」として掲載された記研究者で、大学教授の生活を見て育ってきましたが、父の 事にインパクトがあったのか、直後にテレビとラジオの取場合は完全に本の中の世界です。それとは僕は感覚的に少 材かあり、そ、ついうことも影響したんだと思います。 し違って、モノを見る、モノを扱うといったリアリティの あるところから調べたり理論化したりしてみたい、そう漠 然と考えていました。この世界がどういうものなのか、大 学に入ってから少しすつわかってくると、ああ、こっちの ほうが面白い、向いてるな、と気づいて、少しすっ方向性 「金刀比羅宮書院の美」展カタ ログ 2 0 0 7 年 金月比羅宮書院の 応・若冲・岸岱

3. 太陽レクチャー・ブック 007 ミュージアムの仕事

古田亮 撮影 : 河野利彦 東京藝術大学大学美術館准教授 ふるたりよう。 1964 年東京生まれ。東京藝術大学美術学部 芸術学科卒業、同大学博士課程中退。東京国立博物館絵画室 研究官、東京国立近代美術館企画課主任研究官を経て、 2006 年 4 月から東京藝術大学大学美術館准教授。近代日本 美術史専攻。担当した企画展は「海を渡った明治の美術再 見 ! シカゴ・コロンブス世界博覧会」 ( 1997 年 ) 、「日本美術 院創立 IOO 周年記念特別展近代日本美術の軌跡」 ( 1998 年 ) 、「横山大観展」 ( 2002 年 ) 、「琳派 RIMPA 」 ( 2004 年 ) 、 「揺らぐ近代」 ( 2006 年 ) 、「金刀比羅宮書院の美」展、「岡 倉天心」展 ( 共に 2007 年 ) など多数。また著書に「狩野芳 崖・高橋由ー 日本画も西洋画も帰する処は同一の処』 ( ミネルヴァ書房、 2006 年 ) がある。

4. 太陽レクチャー・ブック 007 ミュージアムの仕事

です。逆に言えばそれ以外の期間をこの人数で回しているといった職人的あるいは役人的な仕事にとどまることなく、 ので大変ですが、その時期にたまった仕事ができます。僕また理論だけで何かを示すこともない、実践と理論化の両 の場合、近美での「揺らぐ近代」のあと、芸大に移ってコ刀を使えるところが大学美術館の利点かもしれません。 レクション展、金刀比羅宮展、岡倉天心展と、 2007 年 モノを見せる仕事、という意味では、展覧会へのお客さんやマ 春からすっと展覧会の仕事が詰まっていましたから、そろ スコミの反応は励みになりますか。 そろ休みたい ( 笑 ) 。 古田学生相手だけの研究者と違って、仕事への反応はか 調査に出る機会も多いですか。 なりリアルに感じますね。ただ励みにはほとんどなりませ 古田今の時代、どこに何があるかだけならここにいてもん ( 笑 ) 。というのは、反応が多いと対応に大変なだけで、 わかってしまいますから、要するに現物を見る意味でです次の仕事には影響しないんです。やりつばなしはいけない、 ね。やはり原点はモノですから。 という話を先にしましたが、作った時点で気持ちは終わっ かって、美術史が凝り固まった方法論だけで行なわれてていますから。展覧会が開いてしまったらもう次のことを いることには反発も感じていて、新しい方法論や、それま考えたい。終わったことに対していろいろ聞かれても、一一一一口 での枠組みを一度相対化してみることに興味はありました。い方はよくないかもしれませんが、適当に答えることも多 ただ、理論上は制度を解体しようと一言うことはできても、 いんです。もちろん自分の展覧会として伝えたいことはそ では次に何をするかという話になると、実際に仕事でやらの都度、一所懸命に伝えますけれど、それは数ある仕事の なきや意味がない。それも自分の思ったやりかたを実践し一つでしかありません。 ていくしかない。それには、モノかないと何もできないん です。モノから離れてやる仕事もありますし、ある程度成 果を生むことができるかもしれません。でもモノから離れますは専門知識を たところにいて、その両立はできない。あくまでモノを見 せることが基本にあって、はじめてモノから離れられると 学芸員になりたい人へのアドバイスをお願いします。 いう感じです。そういう意味では、芸大美術館は両面があ古田まず、なんでも、 しいから自分が専門だと思えるもの ってちょうどいいかもしれません。「これしかやらない」を徹底的に研究すること。一度そういう経験を積まないと、

5. 太陽レクチャー・ブック 007 ミュージアムの仕事

た。ちょうど今展覧会をしている金刀比羅宮にある高橋由 が定まってきたんです。 一館にも、まだ野ざらしといってもいいような時期に行き 学生時代は何を研究されたんですか。 古田最初は近世など、やや古い時代を勉強していました。ました。 最初は学芸員でなく研究者になろうと考えていた ? それがちょうど日本美術院が 100 年を迎え、アルバイト でしたが、 『百年史』の編纂作業にかなりつつこんで参加古田当時は何も考えていませんでしたねえ。学芸員にな したんです。史料を集め、読んだりするうちに、勉強のほったのは、東京国立博物館 ( 東博 ) に入ったからなんです。 うも近代美術へと移り、結局卒論は岡倉天心について書ききっかけは、公募での試験ではなく、僕が最後の例かもし ました。だから時代でいうと明治のはじめーーー・近代はどうれませんが、僕の先生のところに東博で人を探していると いう話があって、「面接に来い」と。博士課程の 1 年だっ して近代になったのか、近世的な美術から近代的な美術へ た 1993 年のことです。でもそういえば修士課程を終え の変わり目に何が起きたのだろうーーーといったことが中心 的なテーマになっていきました。 る頃、博士課程に進むか美術館に行こうかと迷いもあって、 高橋由一や狩野芳崖について本をお書きになっていますが、そ今思い出すと神奈川県立近代美術館の採用試験も受けまし の辺りに突っ込んでいくようになったのは ? た ! ( 笑 ) ただその頃は、募集があると応募者が殺到する 今と違って、希望者が少なかったんです。でもそれ以前に、 古田修士論文で高橋由一を書きました。というのも、芸 システム的に試験前から採用される人がだいたい決まって 大に「由一史料」という根本資料がありまして、青木茂さ いた。その後はどんどん公募制になり、公平に試験を実施 んという大家が既にやられたのですが、自分なりに調べ直 すというか、追体験をしたかったんです。明治 5 年 ( 18 するようになりましたが。だから僕は古い世代の最後かも 72 ) に由一が東海道を旅して小さなスケッチ帖を残してしれません。実はその時受けた美術館も、もう採用者が決 いて、そこから汕絵ができていたりする。彼がどういう場まっていると知りながら、試験がどういったものか興味も 所で何を見たのかを追ってみた、それが由一研究の始まりあったんです。 でした。理論も大事ですが、僕はその画家が何をしようと したのか、置かれている環境はどうだったのか、どういう きっかけで描いたのか : : : それを自分なりに理解したかっ 古田亮「狩野芳崖・高橋由一 日本画も西洋画も帰する処は同一 の処」ミネルヴァ書房 2 0 0 6 年 狩野芳崖嵩橋山一高 083 082 The Sun Lecture BOOk 007 Working at a Museum Lecture 04: RYO Furuta

6. 太陽レクチャー・ブック 007 ミュージアムの仕事

です。たとえば金刀比羅宮展は朝日新聞社がついていたよ古田勤務は基本的に美術館の開館時間と同じ、午前川時 から午後 5 時が一応の目安ですが、展覧会の開催を控えた うに、予算を確保するには新聞社の事業局などを説得しな この時期は夜 9 時過ぎまで残っていることはめすらしくあ くてはいけません。「うそも方便ーみたいな情況になるこ ともあって、まあそれも学芸員の仕事の一環と一言えるでしりません。土日は当番で出勤します。あと週 1 日は他の大 学で教えています。美術館にいる間は、今はちょうど展覧 ようが。要するに、プレゼンの能力が必要なわけです。 個人的に好きな作家は ? それは企画につながるのでしよう会の準備にに殺されていますが、ふだんは大学教員として さまざまな会議や委員会もありますし、学芸員として作品 古田僕の場合、「好き」と「研究」、つまり知りたいとか貸出しの相談や実際の搬出・搬入の立ち合いもあります。 掘り下げる対象は違いますね。これまでも、好きな画家のまた館内では寄贈品やコレクションの整理が遅れていて、 いくらやっても終わらない状態です。 作品を展覧会に出してきたことはあまりないです。まあそ 芸大は 120 年の歴史がありますが、美術館の歴史とし んなに入れ込む作家がいないともいえます。基本的にある 程度評価されてきた古いものを扱ってますから、ナマモノては 1999 年開館と新しく、大学附属ということもあっ ではないというか、誰かを世に売り出すといった商業べー て、東博や近美ともまったく性質が違います。個人的には、 スとはまず異なっています。もちろん現在の評価のありか組織としてだんだん小規模な方へ移ってきて、常勤の学芸 たにはかなり敏感で、この人はなぜこんなに評価が低いの員 ( 肩書は教授、准教授、助教 ) は 6 人。自分の裁量で時 間を使えるのはありがたいです。あと、この美術館が他の だろ、つと感じる作家を世に出したいという気持ちはありま すけれどね。ちなみに近代の画家ですと、僕は速水御舟が美術館とまったく違うのは、大学内での閲覧や資料のやり とり、つまり教育資料としての美術館利用の業務が大半を 最高峰だと思っています。 占めるという点です。加えて貸出しなど対外的な仕事もあ りますし、展覧会の企画や実際の準備ばかりやっていられ るわけではまったくなく、それはむしろ、いやでもやって くる展覧会開催日が迫っている時だけでしようね。 ただ幸いなことに、毎年入試期間の 153 月が休館なん モノが仕事の原点 ふだんの仕事はどんな感じでしよう。 091 090 The Sun Lecture Book 007 Working at a Museum l-ecture 04 : 日 yo Furuta