いたことでしよう。天皇は大唐の美風を慕われ、詩吟や舟遊びに興じ、また、自ら花をいけ、書を 居並ぶ公卿たちとともに、曲水の宴や観月の宴、たしなんだことと思われます。 書を通じて心をかよわせた 第 . 一嵯峨天皇と弘法大師 さて、嵯峨天皇と大覚寺の歴史に、大きな影響山寺から嵯峨離宮へとお招きになったわけです。 を与えたのは空海、後の弘法大師でした。平城天前にも述べたように弘仁二年 ( 八一一年 ) 、嵯峨天 皇が即位し、嵯峨天皇が皇太弟となられた大同元皇が空海のために五覚院をお建てになったのも、 年 ( 八〇六年 ) 八月、二十年間の留学期日を二年こういった経緯があってのことでした。 半に縮めて帰朝した空海は、その罰として太宰府嵯峨天皇と空海は、これに橘逸勢を加え、いま の観世音寺に足どめされていましたが、空海の力も天下の三筆として賛えられるほどの能書家とし 量を惜しんだ先輩の最澄 ( 伝教大師 ) が、嵯峨天て知られていますが、この二人の書道の関係につ 皇のお力を借りて、空海をとりあえず槇尾山寺 ( 施いては、鎌倉時代の説話集である『古今著聞集』 福寺 ) に移しました。その後、以前に最澄が住職に有名なエピソードが残されています。要約して を勤めていた高尾山寺に呼びよせるよう働きかけ、みると ある時、嵯峨天皇が、一巻の書のお手本を空 成功したわけです。一方、とりわけ書の才能に秀 いでていた嵯峨天皇は、空海が書いた『請来目録』海にお見せになった。天皇によれば、「これは唐 人の手になるもので、大変貴重なものだ」とい などをご覧になり、その非凡な才能を借しまれて、 われた。しかし空海は少しも驚かず、その書を とりあえず一人の有能な書家として、空海を高尾 703
た。その書はあらゆる意味での非凡さを象しんぎようはうとう 心経宝塔 徴する素晴らしいものです。現存するご宸 筆は、心経殿の勅封の心経、光定戒牒、李大沢池越しに大覚寺を見るとき、朱塗り 嬌詩などが有名です。天皇は今でいえば天の美しい多宝塔が、視界の中で、絶妙のア 才肌で、書のほかに、学校の創設、文学のクセントになってくれます。 興隆など、あらゆる文化の発展に大きく寄この塔は、嵯峨天皇のご写経から千百五 与された方でした。 十年にあたる昭和四十二年の大法要の記念 ふめっとう に建立されました。高さは二十メートル。 不滅の灯 中には弘法大師相伝の秘宝といわれる「如 いほうじゅ 非公開の心経殿の扉は、六十年に一度開意宝珠」の玉を納める、数十万個の真珠を かれ、法要が行われます。二十回目にあた使った、美しい小さな塔があります。 また塔の中には、弘仁九年に弘法大師が る昭和三十三年には、大法要が催されまし た。不滅の灯は、それを記念して、心経殿大祈願されたときの姿を彫った、秘鍵大師 ひやくまんほ、っそうしんぎようはうそう の前に半地下式の百万法蔵 ( 心経宝蔵 ) がの木像が安置されています。 この塔から眺める大沢池もまた、格別な 造られ、高野山奥の院の「不滅の灯」から ものです。 火を移したものです。半地下式というのは、 ていこかん もちろん火災を考えての万全の防災ですが、 庭湖館 真昼でもこの神秘的な明りが見られる空間 を提供してくれてもいるのです。この「不正寝殿の北側の奥に、庭湖館という客殿 0 き、ト、 滅の灯」は、永久に明かりが輝き続けるよう に、毎日灯油の菜種油が注がれ、手人れさで、この名が付〔て〔ます。北側には、手 - ) 、・、 ) 、一 入れの行き届いた、非常に美しい庭が目を れ、大切に守りつがれています。 0 によ は、← 客殿・庭湖館の中庭。 気四季の表情豊かな樹木 が、ほどよく配される
有史以来、皇位を爭う血みどろの歴史が、何 とあるのを読んだことがあります。なにかし 度かみられる中で、この大覚寺が南北両朝合一 ら、ほっと和らぐ思いでした。 の舞台となりました。南朝、後亀山天皇は両統 檀林皇后の山陵を最も北西の位置において、 交替即位という講和条件を信じて神器とともに 双ヶ丘を東とする嵯峨野は数々の寺社、史蹟を 大覚寺へはいりましたが、神器はすぐに後小松 ちりばめています。神戸から「あだし野へ」と 天皇の御所へ運ばれ、以来、大覚寺統の即位は 化野念仏寺をめざした頃は、運転士さん誰も念 ありませんでした。足利幕府は、持明院統の即 仏寺をご存知なかったのですが。 位をつづけたのです。 小倉山の一一尊院、常寂光寺。また臨川寺、天 おたき じきしあん 弘法大師作と伝える五大明王像、国宝不動明龍寺、清凉寺、愛宕念仏寺、直指庵 : : : 、そし 王像。般若心經殿には、空海、橘逸勢とともに て祇王祇女、仏御前ら美しい女人たちの出家し 当時三名筆とうたわれた嵯峨天皇の心經写經が て住んだ祇王寺、小督がいたといわれる法輪寺、 くるまざき 秘められているそうです。 松尾大社、月讀社、車折神社などなど、とても 二六二文字のうちに深遠宇宙の眞理を含む般数えあげることはできません。 若心經は、心に刻んでいる經文です。弘法大師 竹藪が消え、くるまが増え、道も変りました。 撰述の「法語般若心經秘鍵」として すっかり若い人びとの散策に賑う嵯峨となりま 「それ仏法はるかならず。心中にしてすなわち した。日によっては、町なかよりも繁華な人波 近し。眞如外にあらず。身を棄てていずくんか が嵯峨野にあふれています。 求めん。迷悟われに在れば発心すればすなわち やはり、嵯峨野は人心を安らがせるものを備 到る。明暗他にあらざれば、信修すればたちま えているのでしよう。山に、 一こ、マエ」 0 ~ の宀は ちに証す」 たは嵯峨野で、何をごらんになりましたか。 たちばなのはやなり やわ 岡部伊都了・一一一一 700
写経するこころ發若心経写経〕 大覚寺は、その創立のきっかけに、国じゅう 信じられていました。 に疫病が流行した際、嵯峨天皇が国民の病気平 般若心経は、二百六 癒を祈られて般若心経一巻を写経された、とい 十二文字。文字のひと う歴史があります。それ以来、歴代の天皇は国つひとつや、字句につ 民が苦しみを持ったびに、その苦しみを取り除 いての詳細な解釈につ くことを祈願され、だれよりも速やかに心経を いては、数多くの学者、 写経され、納められてきました。そのため大覚研究者によって、さま 寺には、歴代天皇から一般庶民に至るまで、数ざまな説が唱えられて 多くの心経写経が納められています。 います。そのような厳 この写経による祈願、古くは奈良時代から盛密な解釈については、 んに行われ、信仰として一般に深く浸透してい これから先もなかなか ました。弘法大師は唐に渡る際、諸仏にネ願され議論がっきないものだといえましよう。 て日課心経を書かれたと伝えられています。当 しかし大きく考えると、心経は一切諸法皆空 時は現代とは違い、 海を渡り中国へ行くというの理を説き、真空妙有の要諦を説いたものです。 ことは、文字どおり命がけ。大師が海路で渡唐これを読み、講義して考え、信じて所持するも され、無事帰国されたことは、それだけで大変のは「しあわせ」になれると説いてあります。 なことです。そこで、これも心経のご利益だと昔から、これを写経することで、天下太平、風 〃 7
さまざまな歴史のロマンを秘めて 花と心経の寺、大覚寺の歴史をたどる 旧嵯峨御所大覚寺執事岡田高功 嵯蛾天皇を中心に華麗にくり広けらに王朝絵巻 書を通じて心をかよわせた嵯蛾天皇と弘法大師 嵯蛾院から大覚寺へ 中興の祖、後宇多法皇から最後の宮門跡まで 写経するこころ般若心経写経 魅力ガイド 魅力のお店軒 嵯峨野 天立月寺周辺気軽に寄れて、便利なメインストリートーーーーーⅱ 「落柿舎・野宮神社周辺この辺りは、手作りの民芸品が中心です 生Ⅲ凉十寸周辺付近の人も利用する、有名な老舗ぞろい 祇王寺・滝ロ寺・一一尊院周辺家庭的、かっュニークな店でにぎわ、 ? ーーール 化野へ仏十寸周辺昔ながらの " 風情。を感じる店が並 伊広沢・大覚寺周辺落ち着いて食事するなら、北嵯いい 和久峻三 京のぶぶづけ 嵯峨野便利帖 拝観ガイド / 嵯蛾野の祭りと年中行事 / 嵯蛾野の花ごよみ / 嵯蛾野ご利益ガイド / 嵯峨野周辺お泊まりガイド ・見どころ別バス系統番号早見表・観光行事のことなら・交通・観光タクシー ・無線タクシー / レンタサイクル・スポーツ & レジャー施設・美術・資料館 4773 734 7 7 8 707
が、人生の無常の象徴だったわ 間の感覚を忘れてしまいそうな、 い幻想的な風景が参詣者の心を けです。「露」で解るようにこのそんな不思議な気分にさせてく打ちます。 ふうそう 化野周辺は風葬 ( 死体を風雨にれる石仏たちです。 さらして、自然に消滅させる、 毎年八月二十三日・二十四日 葬礼の仕方 ) の地。 の地蔵盆には、これらの石仏に せんとう 初め弘法大師が死者を弔うた一斉にろうそくが灯される千燈 ′」ちさんによらいじ くよう めに五智山如来寺を建立し、後供養が行われます。数えきれな の に法然上人がそれを念仏道場に いくらいの多くのろうそく。そ 改めたために〈念仏寺〉と呼ばの炎の揺らめきの中、石仏たち れるようになったとのこと。明の影も揺らめき、言葉にならな 治の末に心ある僧が、無縁仏と してあちこちに散在していたり、 おたぎねんぶつでら もうひとつの念仏寺愛宕念仏寺 出上した石仏、石塔を集め供養 するようになり、現在の姿にな 化野念仏寺から清滝に向かっ く歩けば、仁王門が目に入りま りました。八千体以上ある石仏。てさらに奥に歩きます。しばらす。 ほとんどが室町時代のものとい ( フ〈愛宕念仏寺〉。ここには五百羅 われていますが、ひとつひとっ 漢がありますが、何よりュニー の石仏を見ていると、長年の風 クなのは一般の人が自由に羅漢 雨にさらされ耐え忍んできた石 を彫れることです。奉納金を納 の風合の意外な優しさ、どこか めれば、何日かかってもかまい で出会ったような懐しさに、な ません。用具などは貸してもら せかホッとしてしまいます。時表情豊か、腕時計をした羅漢さん えます。一人で何体彫ってもい
現在の建 流行したそうです。医療が発達した今日で がん さえ、癌やエイズなどの治療困難な病気が物は、大正 あることを考えれば、千年以上も昔の伝染十四年に改 病の恐ろしさは大変なものだったでしよう。築されたモ ダンなコン 多くの国民は、この病魔に苦しめられてい ました。そこで、嵯峨天皇は、空海に病魔クリートの から国民を救う方法を相談されました。空外観。これ 海は、その病気の猛威を考え、ここまでき は、日本で たら陛下の御祈念と、仏の加護によるしか最初のコン 方法はないようです、と進言したそうです。クリート打 天皇は潔斎し、一字三礼の誠をこめ、紺紙ち放しのス に金泥で般若心経一巻を文字どおり心を込タイルです。 めて写経され、国民の病気の平瘧を祈られこちらは残念ながら非公開のため内部を見 ました。すると、たちまちのうちに疫病は ることはできませんが、内部の部材には、 治まったといわれます。もちろん、国民は二条城の用材が使われているということで たいへん喜んだそうです。天皇はこの時ごす。 さかてんのう 写経になった般若心経を、心経殿を建てて 嵯峨天皇の書 納められました。それ以来、歴代の天皇は、 たちばなのはやなり 国に憂事があった際、般若心経を写経され 日本三筆といえば、空海、橘逸勢、そ 納められています。つまり、心経殿は国民して嵯峨天皇です。空海に帰依された天皇 のために心を尽くされた歴代天皇のモニュ は、弘法大師が中国から招来した名家たち メントであるわけです。 の筆法を研究し、その奥義を究められまし 面・ iiiii ' 皿川胛町 大覚寺の風景の中に ひときわ鮮やかに映 える多宝塔。ビビッ ドな朱色が美しい 一 4-
その後も、さまざまな曲折を経ながら幕末を迎 くなりになってしまったのです。その原因につい えるわけですが、江戸末期、最後の宮門跡とならては不明とされていますが、なかには毒殺とする れたのは第四十七世門跡の有栖川慈性法親王でし説も根強くあり、親王の討幕的言動を快く思わぬ た。有栖川親王も大覚寺の再建に奔走。しかし、 者たちが、ひそかに親王の殺害を図ったものとも 親王の再建にかける意欲にもかかわらず、志なか いわれています。 ばにして、大覚寺復興の夢は破れてしまいました。大覚寺に現在も残る御唐門が、別名「お名残り 幕末という時代的背景を反映してか、討幕の疑い の門」と呼ばれているのは、この悲劇の皇族、有 をかけられた親王は、勅命により江戸の天台宗輪栖川慈性法親王にちなんでのこと。また大覚寺門 王寺門跡に任ぜられ、江戸へと下ることになって跡の職を代々皇族が継承するという習わしも、こ しまったからです。江戸へ下った後も有栖川慈性の有栖川慈性法親王を最後に絶えることとなり、 法親王は、輪王寺の門跡とともに、幸いにも大覚同法親王が、大覚寺の歴史における「最後の宮門 寺の門跡をも兼ねるというお立場を許されていた跡」と呼ばれている理由もこのため。 ため、しきりに嵯峨への帰山を懇願されたといわ 以来今日にいたる大覚寺は、皇族の門跡たちに れています。その結果、・い よいよ帰山が許され、 よって受け継がれるという形態こそ変化してきた 上洛の準備をされておられた折、親王は突然お亡ものの、大覚寺を総本山と仰ぐ全国の末寺の力を 結集することにより、その伝統を確実に伝えてき たということができるでしよう。嵯峨天皇によっ て創建され、また弘法大師たちによって育まれて きた豊かな精神的伝統は、千百数十年という長い 時の流れを超えてなお、この大覚寺のなかに、脈々 と流れ続けているのです。 770
」カ、わーンん じてちょうど心経殿が見えるように、御影 ード 堂側はガラス戸になっています。 建物内部の、何もない空間の両側には、 宸殿の広縁から前苑のさきに、落ちつい ′」うじゃくほうしんのう 嵯峨天皇、後宇多天皇、恒寂法親王のご位 た桃山風の唐門・勅使門があります。 この門はまた、「おなごりの門」とも呼ば牌、弘法大師像があります。この前殿は、 れています。これは、大覚寺門跡から還俗その存在が、そのまま心経殿の重要性を物 し、維新の役で官軍の総帥になられた有栖語っているわけです。 がわのみやじしようほうしんのう ろ、つカ 宮慈性法親王の御徳を偲んでいます。 むらさめの廊ド 有栖川宮は、大覚寺の最後の宮門跡。官軍 の総帥として、いよいよ東京へたたれる際、 大覚寺を訪れ、その王朝文化の名残を確 かめるとき、私たちの心に深く口マンを感 大覚寺へのさまざまな思いを胸に、何度も 何度もこの門を振り返って、ご覧になられじさせてくれるのが、このむらさめの廊下 たことから付いた別称だといわれています。ではないでしようか。建物の間を結んでい みえいどう るこの回廊は、平安時代の寝殿づくりの様 御影堂 式を今に伝えるものです。この廊下の作り 方には、いろいろな工夫がなされています。 唐門と心経殿を結ぶ直線上にあるのが、 御影堂です。この位置関係は、そのまま御別名「いかづちの廊下」と呼ばれるように、 影堂の存在価値を表しています。御影堂は、九十度に折れ曲がった直線で構成されてい 大正年間に心経殿と一緒に、その前殿としるのは、侵人者が直進して攻めてこられな て創建されたものだからです。別称、心経いように。低い天井は、廊下で刀を振り上 前殿。面白いのは、正面の中央が空位、つげられないように。歩くと微妙に音をたて 間になっていて、そこを通る、いわゆる「うぐいす張り」は、侵人者 まり何もない空 ありす 1 一ミ誉一 - 7 歩くと、王朝絵巻の 主人公になた気分。′ツ多。欝を むらさめの廊下
と名付けられました。この嵯峨院が、現在の大覚大覚寺の前身である嵯峨院が、いっ頃造営され たのかについては、残念ながらほとんど資料が残 寺なのです。 されていないため、いまもって明確な年代はわか また大覚寺は、別名〃心経の総本山〃、あるいは っていません。弘仁一一年 ( 八一一年 ) 三月、嵯峨 〃花のお寺″とも呼ばれています。これもやはり 嵯峨天皇に由来するもの。弘仁九年 ( 八一八年 ) 天皇が空海のために、池のほとりに五覚院という の春、都に疫病が流行した時、憂慮された嵯峨天お寺を建て、巨大な五大明王像を安置された、と いうエピソードは残されているものの、これも伝 皇は、疫病退散の方法について弘法大師 ( 空海 ) に相談されると、大師は「般若心経写経の霊力」承の域を出ず、確実な証拠となると、なにも残さ れていないというのが実状なのです。しかし、当 を一一一一口上。早速天皇自ら心経を浄写したところ、た 初は小規模な建物であった嵯峨院が、次第に拡張 ちまち霊験が表れ、病魔が退散したため、これに され、やがて時とともに広壮な離宮に発展してい 倣い代々の天皇も、ことあるごとに心経を浄写さ ったことは、容易に想像できるところでしよう。 れ、大覚寺に奉納されるようになったといわれま しかし、この嵯峨院は、時の天皇が建立したも す。また、嵯峨天皇は、いけ花にも意欲的に取組 まれました。そしてこのことが日本におけるいけのだけに、当代一流の芸術家たちによって、華麗 に彩られたものでした。『今昔物語集』によれば、 花、つまり今日の華道を築く基礎となり、現在、 大覚寺を頂点として全国に広がる、「いけ花嵯峨御造園を担当したのは、当時造園技術の名手とうた われた百済河成 ( くだらのかわなり ) 。大沢の池を 流」誕生の契機ともなったわけです。 さて、嵯峨離宮、つまり現在の大覚寺をお造り中国の洞庭湖にみたて、池の中央には中の島 ( 天 になった嵯峨天皇は、幼い頃から聡明で、読書を神島 ) を置き、これに菊ヶ島を添え、名古曽 ( なこ 好み、また特に文章には秀いでておられ、とりわそ ) の滝を流し、持仏堂の壁画を描いた、と書か け草書と楷書とには、絶妙な腕前を発揮されたとれています。もちろん往時はこの庭で、嵯峨天皇 を中心とした、華麗な王朝絵巻がくり広げられて 伝えられています。 702