旧嵯峨御所大覚寺執事岡田高功 さまざまな歴史のロマンを秘めて 花と心経の寺、大覚寺の歴史をたどる 嵯峨天皇を中心に 華麗にくり広げられた王朝絵巻 豊富な緑と静寂のなか、王朝の昔の風雅な趣をさまざまなエピソードについては、後に詳しくご 残す旧嵯峨御所大覚寺は、日本で最初の門跡寺院紹介するものとし、ここではまず、その概略を述 べておくことにしましよ、つ。 として、いまも多くの人々に親しまれています。 門跡寺院とは、過去に天皇または皇族が、住職と大覚寺の正式な名称は、「旧嵯峨御所大覚寺門 なられたお寺を指し、大覚寺は遠く平安の昔、第跡」。大覚寺が〃旧嵯峨御所″と呼ばれているの は、先にも述べたように嵯峨天皇が、はるか昔、 五十三代嵯峨天皇 ( 七八六—八四二年 ) の離宮に この地に離宮を置かれたことに由来しています。 始まり、幕末にいたるまで、代々天皇、皇族、と 桓武天皇の第二皇子であった嵯峨天皇は、緑豊か きには近衛家の方たちが住職をお勤めになってこ な嵯峨の地を愛され、平安の都の西北に広がるこ られた、由緒ある古刹として知られています。 さて、大覚寺の歴史や大覚寺にまつわる人々の、の四神相応の聖地に離宮をお建てになり、嵯峨院 川 7
嵯峨野” ~ 60 魅力ガイド 嵯峨野を訪ねる楽しみには、 歴史のロマンの舞台を巡る楽しみと、もうひとつ 嵯峨野ならではの魅力あるお店に、立ち寄れることが・ そこで、素敵なお店をピックアップ。 あなたの思い出づくりの、お手伝い。 ・シーズンにより、営業時間、定休日、 メニューが多少変わる事もあります。 〃 3
- ク、峨 峨く里 野速豸 知て 嵯峨野。 わずか二四方のこの地に、 平安人の昔からの、 ゞゝっ斗ま 歴史のロマンカし 本当の魅力を探すためには、 亠少一きたし 歩く速さで見える風景が、 占 ( 時の流れを遡り、 山あなたの心を 野開いてくれるから。
目大覚寺 「野は嵯峨野さらなり : ・ と、Ⅲ少納一一口が 硺『枕草子』で推賞した昔から、 京都・嵯峨野は 多くの人々の心を 物魅了してきました しかし、時代の法皿れととに、 昔日の面 失われつつあることも、 また、事実です そんな今日、歴史のロマンを、 京都らしさを、残しているのが この北嵯峨・大覚寺周辺 といえるでしょ - フ 五社明神
さまざまな歴史のロマンを秘めて 花と心経の寺、大覚寺の歴史をたどる 旧嵯峨御所大覚寺執事岡田高功 嵯蛾天皇を中心に華麗にくり広けらに王朝絵巻 書を通じて心をかよわせた嵯蛾天皇と弘法大師 嵯蛾院から大覚寺へ 中興の祖、後宇多法皇から最後の宮門跡まで 写経するこころ般若心経写経 魅力ガイド 魅力のお店軒 嵯峨野 天立月寺周辺気軽に寄れて、便利なメインストリートーーーーーⅱ 「落柿舎・野宮神社周辺この辺りは、手作りの民芸品が中心です 生Ⅲ凉十寸周辺付近の人も利用する、有名な老舗ぞろい 祇王寺・滝ロ寺・一一尊院周辺家庭的、かっュニークな店でにぎわ、 ? ーーール 化野へ仏十寸周辺昔ながらの " 風情。を感じる店が並 伊広沢・大覚寺周辺落ち着いて食事するなら、北嵯いい 和久峻三 京のぶぶづけ 嵯峨野便利帖 拝観ガイド / 嵯蛾野の祭りと年中行事 / 嵯蛾野の花ごよみ / 嵯蛾野ご利益ガイド / 嵯峨野周辺お泊まりガイド ・見どころ別バス系統番号早見表・観光行事のことなら・交通・観光タクシー ・無線タクシー / レンタサイクル・スポーツ & レジャー施設・美術・資料館 4773 734 7 7 8 707
嵐山嵯峨野 嵯峨野、大覚寺までーー 嵯蛾野見どころコーみカイド 秋歩く速さで、嵯峨野を知るーー コースー紫式部から去来まで文学の舞台を訪ねるーーー 天龍寺↓野宮神社↓落柿舎↓去来の墓↓常寂光寺↓御髪神社↓大河内山荘↓小督塚↓渡月橋 コースーピュアな人々のロマンのなごりを訪ねるーーーーー四 清凉寺↓宝篋院↓厭離庵↓ニ尊院↓祇王寺↓滝ロ寺↓化野念仏寺↓愛宕念仏寺 コースー歴史の面影を色濃く残す、北嵯蛾を訪ねるーーーー 遍照寺↓児神社↓広沢池↓後宇多天皇陵↓直指庵↓大覚寺 目次 邦光史郎 嵯峨野の魅力 北嵯峨大覚寺いにしえの王朝文化 月を愛でるひとびとーー 王朝の美御流いけ花の世界ーーー 嵯峨御流いけばなと大覚寺ーーーー町 嵯峨御流華道総司所理事吉田泰巳 北嵯峨大覚寺ーーー 嵯峨野と大覚寺ーーー岡部伊都子 魅力ガイド
歴史の面影を 色濃く残す、 北嵯峨を訪ねる ス コ ①遍照寺↓②児神社↓ ③広沢池↓④後宇多天 皇陵↓⑤直指庵↓⑥大 覚寺 O コースは、見どころの数が じき へんじようじ 少々物足りないようですが、直 北嵯峨へは遍照寺から人り しあん 指庵、大覚寺と嵯峨野のハイラます。スタートは少し不便です ひろさわごしょの イトを巡るのがポイント。何よ が、市バス叭系統、広沢御所ノ うちちょう りも、昔の面影を残した北嵯峨内町で降ります。北へ五分ほど へんじようじ は、最も嵯峨野らしさを味わえ歩けば、遍照寺。 るコースです。 栄華のなごり、今はなく へんじようじ 遍照寺 」〈遍照寺〉は、もとは永祚元年 ( 九八九 ) に寛朝が円融天皇の御 願によって、大沢池のほとりに る建立した寺。今ではあまり目立 たない寺ですが、建立当時は藤 角 ←原家の全盛時代の栄華を誇る、 かなり立派な建物だったそうで 静 す。後には荒廃し、近年になっ 中 - 一てこの場所に再建されました。 ここには、十一面観音があり の 池ます。この十一面観音像は、厚 い唇、膝を少しだけ曲げたやさ
写経するこころ發若心経写経〕 大覚寺は、その創立のきっかけに、国じゅう 信じられていました。 に疫病が流行した際、嵯峨天皇が国民の病気平 般若心経は、二百六 癒を祈られて般若心経一巻を写経された、とい 十二文字。文字のひと う歴史があります。それ以来、歴代の天皇は国つひとつや、字句につ 民が苦しみを持ったびに、その苦しみを取り除 いての詳細な解釈につ くことを祈願され、だれよりも速やかに心経を いては、数多くの学者、 写経され、納められてきました。そのため大覚研究者によって、さま 寺には、歴代天皇から一般庶民に至るまで、数ざまな説が唱えられて 多くの心経写経が納められています。 います。そのような厳 この写経による祈願、古くは奈良時代から盛密な解釈については、 んに行われ、信仰として一般に深く浸透してい これから先もなかなか ました。弘法大師は唐に渡る際、諸仏にネ願され議論がっきないものだといえましよう。 て日課心経を書かれたと伝えられています。当 しかし大きく考えると、心経は一切諸法皆空 時は現代とは違い、 海を渡り中国へ行くというの理を説き、真空妙有の要諦を説いたものです。 ことは、文字どおり命がけ。大師が海路で渡唐これを読み、講義して考え、信じて所持するも され、無事帰国されたことは、それだけで大変のは「しあわせ」になれると説いてあります。 なことです。そこで、これも心経のご利益だと昔から、これを写経することで、天下太平、風 〃 7
われたといわれ、室内の装飾も墨絵山水は かまち 五大堂 狩野元信の作、框には金蒔絵が見られます。 みやび 大沢池の辺にある五大堂は、大覚寺の本 他の部屋も雅やかな王朝文化そのままに、 しこう 狩野山楽、狩野探幽、渡辺始興、尾形光琳堂といえます。嵯峨天皇が離宮である嵯峨 など、桃山、江戸時代初期の日本美術界の院に建立されたもので、空海に命じ不動明 こんごうやしゃ ぐんだり 傑作が惜しげもなく使われ、日本美術のフ王、軍茶利明王、大威徳明王、金剛夜叉明 こうぎんぜ アンにはたまらないところです。 王、降三世明王の五大明王を奉祀させられ ました。現在の建物は、天明年間に再建さ れたもので、東福門院の中宮御殿であった といわれています。 五大堂には、大沢池に向かって大きな濡 れ縁が張り出しています。ここから見る大 堂沢池は、情緒があり、別名「観月台」とも いわれるように、観月の席という感じで す。また、観月のタや華道祭などの大きな りゅうれいせき 縁行事の際には、ここで「立礼席」と呼ばれ る、椅子に座っていただくお抹茶が楽しめ ます。 しんきようでん 心経殿 この建物は、歴史的なモニュメントです。 弘仁九年 ( 八一八 ) 春、疫病が日本に大 ごだいどう 掎子に座ってお茶 り物れいせき をいただく立礼席
門を入って右に、武具のコレクションを展コ 示した京都嵐山美術館がある ス イ ド ② 晴らしい眺望から察するに、故 おおいがわ 寺弋とともに充れたー 大堰丿 人も嵯峨野をこよなく愛するひ とりだったのでしよう。よく手大河内山荘から東海自然歩道大堰川、そこから嵯峨に出るま 入れされた約二万平方の広々を南に歩くと、大堰川に出ます。でを保津川と呼び、嵐山辺りで とした庭と、上品な調度の室内この大堰川、源流はずっと北の再び大堰川になり、またすぐに 」桑田郡。亀岡盆地を経て保津渡月橋から下流は桂川という名 を見て、嵯峨野にこのような住ヒ に変わります。めまぐるしい呼 まいがあればなあ、と夢みる人峡を通り、嵐山に流れてきてい ます。面白いのは、呼び名の変称の変化からも、この川と歴史 が多いというのもうなずける話 わり方です。亀岡市から上流をとの関わりの深さが感じられます。 です。 りんせんし 臨川寺 - 桂川をすぐ南に臨む〈臨川寺〉は、臨 済宗天龍寺派の総本山・天龍寺に先がけ むそうそせき て夢窓疎石が建立しました。天龍寺の開 山も疎石であり、彼は多忙な人生の晩 一」年をこの寺で送りました。 さんね 中門に足利義満 本堂は三会院といし 冖直筆の「三会院」の額が掛っています。 味のある羅漢石を敷きつめた庭園も見 事で、これも疎石の作品のひとつです。 はづ 時代のロマンを秘めつつ、水は超然と流れ続けている