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検索対象: つくられた最長政権
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1. つくられた最長政権

典型例です。彼らは、いつでも父親の代からの強固な地盤で安定した選挙戦を闘うことが できました。日本のそんな土壌が二世議員、三世議員を多数輩出したことにもうなずけま すが、そんな二世議員の一人を向こうに回して、風向きの変わりやすい都市部の選挙戦で 張り合おうというのですから、気も狂わんばかりの努力もし、また金も使い、日々の政治 生活を送りました。 地方議会へ分身を送り込む 手足となって日常の政治活動や選挙運動を助けてくれる県会議員、市会議員の争奪戦も 熾烈を極めました。自民党に所属する地一兀の地方議員も石井派と砂田派とにはっきり二分 されましたが、人数的にはつねに私が勝っていたように思います。これにも血のにじむよ うな努力がありました。私は、秘書として私に仕えてくれる者のなかで意欲のある野心家三 や血縁のなかで志の高い者を、あたかも私の分身をつくるように、積極的に地方議会へと 送り込みました。選挙の準備から当選にいたるまで、すべての面倒をみるために、実際の

2. つくられた最長政権

虎雄さんとで三議席のうち二議席を占めるような革新的な選挙区で、残る一つの議席に、 、はん、ほく 神戸市長などを務め、自民党の党人派、大野伴睦先生の派閥に所属する中井一夫先生が座 るとの構図がもともとありました。そのころ、中井先生と議席を争っていたのは首藤新八 さんという裸一貫のたたき上げ、終戦直後の混乱期にゴムの商いや金貸しなどをして財を 成した後に政界に人り、通産政務次官も務めた、なかなかの実力を有した政治家でした。 こうぜん 首藤さんは広川弘禅先生の子分で、造船疑獄に引っかかったり、無罪となったものの売春 汚職事件で逮捕、起訴されたりといった異色の経歴をもった人でした。そこへさらに割っ て入ったのが、河野 ( 一郎 ) 派の砂田重民さんでした。 砂田さんは、自民党総務会長や防衛庁長官を務めた砂田重政さんを父にもっサラブレッ ドで、父の後継者として立候補し、二度の落選の後、一九六三 ( 昭和三十八 ) 年執行の第 三十回総選挙で初当選を果たしました。 一つの議席をめぐる自民党候補者三名の同士討ちは、各回の総選挙の結果を見ても、 かれつ 各々の順位や得票の目まぐるしい上がり下がりから、どんなに苛烈なものであったかをう かかい知ることができます。数の決まっている有権者の票を、よその党ではなく同じ党に 、咽 ) ゝこ生き残るために、各派閥の親分は莫大 所属する候補者同士が奪い合うというルしにし (

3. つくられた最長政権

三十八年にわたる兵庫一区の激闘 前述のように、兵庫一区における私の宿敵は、砂田重民さんでした。一九九〇 ( 平成 一 l) 年九月二十四日に砂田さんが急逝されたとき、航空会社に勤める令息は、父親と私の 死闘を幼いころから目の当たりにしていたからか、後継指名を固辞しました。代わりに砂 田さんの従弟で事務所の金庫番をしていた砂田圭佑さんが立っことになり、砂田重民さん 亡き後も、私の衆議院における一九六七年から二〇〇五年まで三十八年間の私と砂田一族 との激闘の戦績が如実に物語「ているように、砂田家とのしのぎを削る「デスマッチ」が 続きました。 左頁に掲げた選挙結果が示すように、砂田一族との攻防に関しては十四回の選挙のうち 八回、私の得票が砂田さんを上回りました。当落に関していえば、その後、転じた参議院 比例区での一勝一敗も加え、私の通算戦績は、十六戦十二勝四敗ということになります。 それにしても、砂田さんとは激しい得票争いをしてきたものです。第三十一一一回と第 106

4. つくられた最長政権

わぬ派閥抗争やそのための狂気じみた資金集めは中選挙区制の弊害と目され、そのような ところに政治改革の機運が芽生えたのです。 当時の自民党には個性豊かな人材と、右から左までさまざまな思想をもった派閥が存在 していました。ですから、一見すると自民党は万年与党で安定した政権を維持していなが ト派からタカ派に変わると らも、派閥同士で政権交代が起きているような状態でした。ハ か、親中から親米に変わるとか、そのようなことが党内の出来事として起こりました。今 の自民党にそのような思想のバリエーションの少ないことを思うと、当時の派閥政治のダ イナミズムを懐かしく感じることもありますが、金のかかる政治、与野党ともに置かれた 立場の居心地のよさに甘んじている状態、政権交代の起こり得ないような状態は改める必 要がありました。 そこで、自民党がたとえ下野し政権を手放すことになっても、欧米のような健全なかた ちで与党と野党での政権交代を実現できる政治体制を構築する必要があるのではないかと の議論が、 リクルート事件を契機に急激に高まり、それはやがて世論の大きなうねりと なっていったのです。 1 引第三章金にまみれた中選挙区時代

5. つくられた最長政権

たとの知らせを受けたのは、そのさなかのことでした。 【手帳から】 ◆一九九一一年十一一月六日 ( 日 ) 山本通 平成四年十一月十日午後二時五十分、母が死んだ。 本当にいとおしい。病院で苦しんでいた姿を想いおこし、子供のころから " お兄 ちゃん ~ " お兄ちゃん ~ といって僕を愛しつづけてくれた母を想うとき断腸の想いで ある。 そのときは党本部で第六回選挙制度部会を開催中であった。宮沢総理が出席して私 の隣りにいた。国会が佐川問題で空転していたので、その間げきをぬって政治改革に 熱心な総理をイメージアップするために異例の出席をしていたのだ。 " 母キトク ~ そして " 母今死す ~ という弔報がメモで次々と人った。部会では小選挙 せいいち 区制導人をめぐって活発な激論が繰り返されていた。たしか大分の衛藤晟一君が中選 挙区制を主張していたときではなかったか。ー母死すーの報が入り、私の座長席周辺 が騒然とし、それを宮沢総理は気づいた 166

6. つくられた最長政権

神戸市兵庫区にある柳原蛭子神社の「十日戎」での奉納街頭演説。 50 年間、一年も欠かさす立った 第三章金にまみれた中選挙区時代 97

7. つくられた最長政権

今から考えれば最期にもう少しは何かしてやれたのではないかと思われ、くやまれ てならないか、もう帰らない。悔しい残念だ。 何回も続けて来た選挙。その都度、陰で動き、心配し苦労したことと思う。相当助 けになってくれた。どこの演説会にも母の姿があった。心の温かい人だった。もう一一 度と会えないあの懐かしい母の姿。小さくて人なっこくて、こよなく僕を愛してくれ た母。「今はどこで、何をしているの」 息を引きとるときに傍にいてやれなかった。戦士が戦場にいるような臨時国会最中 の火曜日の午後だった。僕の晴れの舞台 ( 政治改革本部、選挙制度部会 ) であった が、母の気丈夫な気持ちからすれば、それを認めて許してくれるだろう。 「お兄ちゃん、仕事が一番ですよ」と。 171 第四章選挙制度改革の旗手として

8. つくられた最長政権

【手帳から】 ◆一九八九年三月三十日 ( 木 ) 進むも地獄、退くも地獄。人生とは一寸先はまっ暗だということがよくわかった。 こんなにおそろしいものなのかと。 つい先日までは何もかも有頂天で、頭にあるものはただ次期大臣だけだった。それ が一瞬にして吹きとび、大臣どころか、落選確実にまでなり下った。一日一日何とか しなければというあせりだけで、成果を生むことがむつかしい 見通しがっかない。政局の展望は地検の動き一つにかかっているが、いっ終結する のか、果たして政治家の逮捕があるのか。中曽根や竹下まで行くのか、まったくわか らない。早く結論を出してほしい 平成元年度予算が通るのかーー単独採決なら即、解散総選挙ー同時選挙だ。この場 合は完敗であろう。まず相当の差があるだろう。・ : ・ : 再起も不可能になる。人生の終 わりである。 もし何らかの形で総選挙が参議院とは別となり、来年にでものびれば事態は相当変 144

9. つくられた最長政権

金はたた目の前を通りすぎていく 当時の政治家が皆そうしていたように、私も、まさに湯水のように金を使い、そしてま た金を集めてこなければなりませんでした。そういうことをのべっ幕なし繰り返している と、金銭に対する感覚がまひしてしまうと言うか、おかしなように変わってしまいます。 千葉県習志野市津田沼の公団住宅から都内まで満員電車に揺られて通勤するサラリーマン 生活をへて政界人りした私は、日常のプライベートな生活ではそのころの金銭感覚が残っ ていて、できるだけ始末、倹約に努めているのにもかかわらず、ひとたび政治だ選挙だと なると、金の使い惜しみをしたら負けるというような思考に頭が一変します。そうして、 使うからこそ金は集まる、使わなかったら集まらない、そんな感覚にすらなりました。そ れはあたかも、留め金のきつい私用のためのガマグチと、政治活動のためのガバガバにロ の開いた長財布を二つ持っているような感覚でした。 しまいには、政治活動のためなら、ある金を使うのではなく、使ってしまってから金を 第三章金にまみれた中選挙区時代

10. つくられた最長政権

のことでもあり、すでに遠く過ぎた昔のことでもあるので、実際にあった選挙にまつわる 。いたしました 一つの思い出話として、読者の皆さまにご披露することこ 田岡の親分とは、後にも先にもあのとき一度きりしか顔を合わせたことはありません が、私の風貌、迫力、存在感などが不思議な相乗効果を生み、あれ以後、国会の内外であ たかも「神戸の石井は山口組の親分」というような陰口をたたかれるようになり、中には 私のことを「神戸の親分」と直接あだ名して呼ぶ者まで現れました。 見た目とちがい、本当の私が心のやさしい男であることは、私の古い友人や、実際に私 と接した方々なら、皆よくわかってくださると思いますが、そう思っているのは私だけで ー ) よ一つ , か 山口組三代目長男の悲劇 ときに田岡満君は不運な人で、映画スターを引退した美しい細君との間に一粒種の女児 をもうけたものの、その細君には挙式の翌年に先立たれ、本人も二〇一二 ( 平成二十四 ) 127 第三章金にまみれた中選挙区時代