最長政権の総理にこそ成し遂けてほしい 私は、「五五年体制」を変えるために、自民党とたもとを分かち、落選の涙ものみ、人 生の後半は野にあり続けて筋を通しましたが、そのように私をつき動かしたものは、中選 挙区制という選挙制度は改めなければならないという燃えるような「使命感」と「責任 感」にほかなりませんでした。 その結果として誕生した小選挙区比例代表並立制という制度に欠陥があるのなら、それ は再度改められるべきことですが、それには、あのときの私をはじめとする改革派のよう に、自分の身を削ってでも、党が政権を失ってでも、それを成し遂げようという悲壮な決 意と爆発力のあるエネルギーをもった現職議員の取り組みが必要不可欠です。 学者や評論家や私のようながどれだけの知恵をもっていても、選挙制度を変えるこ とはできません。それができるのはローメーカーたる現職の国会議員だけです。だからこ そ、それは、このうえない至難のわざだと思います。自らの当落を左右する利害関係の一 242
弊が生じることとなりました。 選挙制度改革をめぐっては当時、与党である自民党や野党第一党の主張と、第二党以下 の少数野党各党とのそれには、たいへん大きな隔たりがありましたが、自民党内にも大き く二つの対立する主張がありました。党内の改革派のグループは、政権交代を可能にして 緊張感のある政治を実現することのできる小選挙区制を主張し、いわゆる守旧派と呼ばれ たグループは選挙制度改革にとても消極的な姿勢をとっていました。 そのような状況の下で、定数の配分という課題をどのように決着させるかに関して、か なりの議論がありました。しかし、人間の生来もっエゴなのでしようか、自らが当事者で ある選挙の制度を自らの手で改革しようとしても、各議員の主張は、とどのつまり、自分 が生き残れるかどうかを基準に発言の論旨が集約されてしまいがちになってしまいます。 たいへん進歩的な考えを持っていて頼もしいほどの発言をしていたはずの議員が、最後ま で話を聞いてみると、やはり自分の身だけはかわいいのかと思うような主張をしたりし て、幾度も落胆させられました。 それでも、後藤田先生の助言どおり、時間を惜しまず、議論に議論を重ねてガス抜きを することによって、党内の空気は、もうとにかく中選挙区から小選挙区に制度を替えなけ 158
知の世界のことのような、現実味を感じにくいものでした。 その当時の世の中はもう政治改革一辺倒で、これに反対するようなものは政治家を辞め ろというような雰囲気でした。マスコミもそのような論調で、選挙制度改革の潮流はいよ いよ加速していましたが、国会の中は、それとはまるで反対の空気が流れていました。 まったく経験のない新しい制度下で有権者の審判を仰ぐことになる議員の心中は、実際不 安に満ちていて当然だったと思います。ですから相当数の議員は、ロでは選挙制度改革を 叫びながらも、実際はとても消極的というたぐいの連中でした。 その中には、当時「」と呼ばれた山﨑拓、加藤紘一、小泉純一郎といった若手の 成長株のように、独特の理論を展開して真っ向から反対する議員などもいましたが、議論 はその後、おおむね小選挙区制を採り人れたらよいが、少数政党の合意を得るために並立 して採用する比例代表制との数の間題だ、そのバランスをどのようなものにするかという ことに論点が移っていきました。 小選挙区制は一つの選挙区につき一人しか当選できない制度ですので、候補者は二大政四 党に所属しているほうが当選の可能性が高くなります。有権者の立場からすれば、選挙の たびに支持する政権を選択することになるので、政権交代の実現可能性が高まり、政権与
自民党にあってはとうてい実現できなかった作業でした。五年にわたる政治改革論議に ようやく結論が出されました。選挙制度の変更に加えて、政治資金の透明化、企業団体献 金の制限、罰則強化、政党助成金制度の導人など従来から考えれば政治改革を大きく前進 させるものでした。 細川非自民政権は極めて高い支持率を得て発足しましたが、政権担当の経験を持っ政党 は新たに結成されたわが新生党と新党さきがけ、それから若干の自民党離党議員だけでし た。細川総理が代表を務める日本新党は、議員経験のある人間はわずかで新人ばかりでし た。社会党は連立八党派での最大勢力で土井たか子さんが衆議院議長に就任しましたが、 意気は上がらず、この総選挙で歴史的な敗北を喫し、新たな党内抗争が起こりつつありま した。 八党派の連立政権の運営はなかなか困難を極めました。高い国民の支持率が大きな支え でした。下野した自民党は、政権復帰を目指して必死でした。細川総理のスキャンダル探 し、公明党と創価学会に対する激しいまでの批判など、連立政権の隙間をなんとか突こう とするさまざまな工作が行われました。 私が最後まで携わった選挙制度は、自民党のこれまでの経緯に加えて、事実上は比例代 184
るのがよい。そして、言いたいだけのことを言ったらその後の決定には従えよ、というこ とにすればよい。発言の済んでいないものがいたら、次から次へと呼んで必ず発言させ ろ。それにはどれだけの時間をかけても構わない」 議員全員に時間制限なしで発言をさせることには、党内の「ガス抜き」の意味がありま した。それぞれの議員の発言は、まさに千差万別のものでした。必ず選挙制度改革を断行 してほしいというものもあれば、絶対に反対というものもありました。おおむねは総論賛 成、各論反対、言語明瞭、意味不明瞭といったありさまで、意見のとりまとめは至難の業 であることが容易に予想されました。 公職選挙法の施行された一九五〇 ( 昭和二十五 ) 年をさかのぼること、じつに四半世 紀、男子普通選挙とともに一九二五 ( 大正十四 ) 年に導人され、戦後の一時期を除いて 七十年も続けてきた中選挙区制という選挙制度を変えることは現役議員の誰にとっても未 守旧派だった「」 154
た。後藤田正晴先生が率いる政治改革本部の中に、選挙制度部会や政治資金部会などがあ り、私はそのうちの選挙制度部会を預かっていたわけです。最終的に、「政治改革Ⅱ選挙 制度改革」の世論が形成され、選挙制度部会にも、またその部会長である私にも世間の注 目か隹木まるよ一つになり・ました。 【手帳から】 ◆一九九一一年一一月一百 ( 日 ) 先週、政治改革本部の選挙制度部会長に就任した。共和の間題 ( 阿部文男元北海 道・沖縄開発庁長官逮捕 ) などで政治改革が新たに大きな政治課題となってきている 今日、このポストは実質的には大きい。先日産経のインタビューもあったがマスコミ 的にも大きい 要は定数是正を含め違憲状態を回避するために、どのような案を作り出すか。党内 論議をとりまとめることだ。 公選法委員長時代から、かなり研究してきたことだが若手の小選挙区論者を味方に つけ、反対論者と公開の席で論争し、説得し、論破し、案をとりまとめることだ。多 152
「派閥」は日本独特の政治文化 前章まで、自公連立政権による不気味な「九九年体制」について述べてまいりました。 では、この体制はどのような政治メカニズムから生まれたのでしようかそのことを詳述 する前に、本章では、それまでの「中選挙区制度」とは何だったのかを、私の経験に基づ き振り返りたいと思います。 小選挙区制度の欠陥が明らかになってから、制度への批判とともに中選挙区制を懐かし む風潮がみられます。しかしながら、この中選挙区制がいかに金にまみれ、そして政権交 代を実現できない選挙制度であったか、まずはその実態を詳しく述べてまいります。 中選挙区制が生んだものに、「派閥」があります。一般的な言葉としての派閥とは、一 定の集団の中で、出身地や出身大学、主義信条などをよりどころにして結びついたグルー プのことです。しかし、こと自民党の派閥を構成する要件は、そのように単純なものでは
難だが前途に希望が出てきた。頑張ってみよう。 ◆一九九一一年三月一一十六日 ( 木 ) 国会は予算審議が案外順調にすすみ、十日間程度の暫定予算で、すみそうな気配 だ。共和だ佐川だと騒ぎ、とても国会は動かないと思われていたのに、鈴木善幸参考 人、塩崎潤証人のあと、スムーズにすすんだ。政治改革本部の選挙制度部会長として て し 相当名が出た。連日ののや週刊誌などでも、大きく取り上げられるところ 手 まできた。 の ただ執行部 ( 綿貫幹事長や梶山国対委員長 ) と政治改革本部との意見が対立してい 革 改 度 る。現下の政治情勢を考える場合、ほんの小手先の手直しでよいのか。そんなことで 参議院選挙を控え、自民党や宮沢内閣がもつのか。党内には甘い認識があり、甚だ遺 憾だ。 章 四 第 当時、私は後藤田先生から幾度も呼ばれてアドバイスをもらいました。 「石井君、発言は全員にさせるのがよい。発言を活発にするために同期のもの同士を集め
れば、当時の閉塞した自民党一党支配の偏った政治状況は変えることができないとの方向 しゅうれん へと収斂していきました。 宮澤総理は究極の「隠れ反対派」 選挙制度改革に反対するグループの中には、これを声高に叫ぶ明らかな反対派と、宮澤 喜一総理のようないわゆる「隠れ反対派」のような議員もたくさんいました。口先では小 選挙区制に賛成と言いながら、機会を見つけてそれを潰そうとする様子がかいま見えまし た。彼らにしてみれば、慣れ親しんだ中選挙区制を別の制度に変えられることに、大きな 不安があったのでしよう。新しい選挙制度での自分の選挙区がどのように区割りされるか もわからない不確定要素のあったことなども、その最大の理由の一つでした。ですから、 「オレの選挙区をこういう形でやってくれるのなら賛成するけれど、この地域をこういう 形にするなら反対だ」というような、あけすけで生々しい発言もしばしば耳にしました。 武士の時代にさかのぼった解説まで加えて選挙区の特殊事情を説くような本筋から外れた 159 第四章選挙制度改革の旗手として
いありません。 小選挙区比例代表並立制という、木に竹をついだようにいびつで不完全な選挙制度のも とで、政権を目指さず、自民党の下支え、補完に徹する公明党のあり方については、私だ けでなく多くの国民が解明の必要性を感じているはずです。公明党の支持母体である創価 学会に、政党はもとよりマスコミも経済界も腰が引けていることも間題です。 四半世紀の昔、私は、自民党政治改革本部の選挙制度部会長を務め、議員立法として関 もりひろ 連四法案を提出もし、また細川護煕連立政権では衆議院の政治改革に関する調査特別委員 会の委員長、さらにはその直後に自治大臣を歴任して、小選挙区の区割りの画定を統括し ました。私は現在の選挙制度を作った、まさに張本人なわけで、自公連立による今日の政 治の劣化を招いたいわば「戦犯」とさえいえるのかもしれません。 あの当時、政治改革、とりわけ選挙制度改革を実現するために一緒に汗をかいた仲間の なかには、中選挙区制を復活すればよいという声すらあります。たしかに、群雄割拠、あ の当時のダイナミックな政治が懐かしくもありますが、金権政治と派閥間の同士討ちをま たぞろ招くわけにはいかず、中選挙区制に戻すことなどあり得ません。 あくへい ただ、小選挙区比例代表並立制という選挙制度に、導人時には予期できなかった悪弊が はじめに