げて久次米さんを支援し、現職の議席を死守しています。田中先生は、惜敗を喫した後藤 田先生を衆議院にくら替えさせて翌々年の総選挙に臨みました。一九七六 ( 昭和五十一 ) 年の第三十四回総選挙の徳島全県区で、三木先生に次ぐ二位当選を果たした後藤田先生 は、その後、四回にわたって三木先生と選挙戦を闘っています ( そのうち二回はトップ当 選 ) 。後藤田先生が孤高を持して政治改革に取り組まれた、その気持ちの根源には、ご自 へきえき 身の置かれていた、辟易とするような選挙事情があったからではないかと推察されます。 きんじようとうち もともと徳島は三木先生の金城湯池、そこへ田中先生が後藤田先生を連れて割って人 りました。衆議院でも参議院でも田中派と三木派とで議席を争う構図でした。勝ったり負 けたりを繰り返す中に、やがて被告人と行政府の長としてロッキード事件へと二人を導い しゆくえん た、宿怨のようなものが芽生えたとしても不思議ではありません。当時の自民党内では、 阿波戦争と同じようなすさまじいサバイバルゲームがそこここで繰り返されていたので す。 リリングな政治が行われてはい そんな今日とは比べものにならぬほどダイナミックでス たものの、しかし、それは是正が必要だ、と党内でも良識のある政治家は考えました。マ イノリティーであった、そのような考えは、やがて政治改革を求める大きなうねりとなり 104
く政治改革に取り組まなくてはならないのです。 衆院は小選挙区制、参院は比例代表制に 政治はつねに未完であるという厳然たる真理があります。中選挙区制に問題があって選 挙制度改革が叫ばれたように、さまざまな弊害を生じている現行の選挙制度にも改革が叫 ばれて然りではないかと私は思います。それでは、どう改めるべきか、現在でもさまざま な議論のあるところです。一部には元の中選挙区制に戻すべきだと主張するグループもあ るようですが、それはあまりにも安直で、単なる懐古主義的な発想にすぎないものだと私 は考えます。 現在の私が最良だと考えている選挙制度は、衆議院については政権交代を可能にする一一 大政党制を志向した完全な小選挙区制に、参議院については完全な比例代表制にするとい うものです。政治は腐敗するもの、長期政権にたるみが生じたら、政権の座を取って代わ られる危機感でもない限り、緊張感や倫理観のある政権運営がなされなくなってしまうこ 2 第六章「完全小選挙区制」改革案
新進党が大躍進、自民を上回る 細川連立政権が誕生した一九九三 ( 平成五 ) 年当時、宮澤内閣の不信任案に白票を投じ た私たちに対する世論は、たいへんに好意的なものでした。先にも触れたように、新生党 は結党時、衆議院三十六名、参議院八名、合わせて四十四名で船出し、世論も味方につけ て、迎えた総選挙で十九も議席を増やすことができました。 しかしながら、翌九四年六月に自社さ連立の村山政権が誕生し、政権を失った新生党、 公明党、日本新党、民社党、鹿野 ( 道彦 ) グループなどは同年十一一月、「新進党」を結成 しました。横浜で開かれた結党大会の演出は確か小池百合子さんが中心になって企画した もので、斬新さと新しい選挙制度の下で政権交代を目指す意気込みを示すものでした。代 表に海部俊樹、幹事長に小沢一郎が就任、比較的マスコミの評判も悪くなく国民の期待を 担って出発しました。 なお、公明党は解党して新進党に合流したものの、これは衆議院だけで、参議院と地方 196
改革を推し進めようとする改革派の中心人物であった私としては、あのとき、野党に同調 し白票を投じて自民党と訣別する以外に選択の余地はありませんでした。 不信任案の提出が決まってから採決までたったの半日、地元の同志である地方議員や後 せつな 援者と協議する時間的余裕など与えられませんでした。そのいわば「一刹那」のうちに決 断を迫られてした判断が、のちの私の政治家としての人生にどれほど重大な影響を及ぼす か、そのときは想像だにできませんでした。否、それを思い描く時間すらありませんでし このとき参議院議員を務めていた弟の一二は、衆議院本会議の開会ベルが鳴り、私が議 場に人ろうとする扉のところまで来て、「兄貴、間違っているからやめとけ」と背広の袖 を引っ張りました。私が悲しげに振り払った腕の感触の残るなか、三階の参議院議員席で 彼は、私が白票を投じるのをため息とともに見つめていたそうです。私の決断は、弟のそ の後の政治生命にも大きな影響をおよぼすこととなりました。 後になって、地元の後援会の幹部からは、「なぜ、そのような重大な決断を一言の相談 もなしに決めたのか」との抗議を受けましたが、不信任案の提出が決まったその日のうち いとま に採決を行うわけですから、相談をする暇などなかったのです。嘘つきと言われても仕方 178
して挙げると、以下のような面々でした。 竹下登首相、長谷川峻法相、宮澤喜一蔵相、小渕恵三内閣官房長官、原田憲経済企 画庁長官、小沢一郎内閣官房副長官、藤田正明参議院議長、安倍晋太郎幹事長、渡辺 美智雄政調会長、愛野興一郎元経済企画庁長官、中曽根康弘元首相、橋本龍太郎元運 輸相、梶山静六元自治相、森喜朗一兀文相、中島源太郎元文相、砂田重民一兀文相、塩川 ゅ - っこ - っ 正十郎元文相、加藤六月一兀農相、大野明一兀労相、栗原祐幸元労相、山口敏夫元労相、 みそじ 坂本三十次元労相、藤波孝生元内閣官房長官、加藤紘一元防衛庁長官、渡辺秀央元内 閣官房副長官、原健三郎元衆議院議長、それに加えて衆議院議員では浜田卓二郎議 ぶんめい 員、伊吹文明議員、愛知和男議員、大坪健一郎議員、有馬一兀治議員、野田毅議員、堀 ちえのり 内光雄議員、鈴木宗男議員、尾形智矩議員、椎名素夫議員、志賀節議員、参議院議員 では遠藤政夫議員、倉田寛之議員、鈴木貞敏議員 右に挙げた自民党議員のなかに私の名前のないことを、私は、次のように理解していま す。ほとんど面識もない間柄ではあったものの、同窓のよしみで、江副君にはほかの議員 たかし ていびん ひでお 136
この上納金問題は、その年の六月十五日、公明党所属の福本潤一参議院議員が院内で離 党記者会見を行った際、「私は二期目となる二〇〇一年の選挙で参議院議員に再選されま した。そのとき、公明党本部に六百万円を支払いました。一方、衆議院議員は三百万円を 納めます」と告発したことに端を発しています。この一点だけを取り上げても、公明党と いう政党の特殊性が浮き彫りになります。中選挙区制のころの自民党では、「五当四落」 ほんそう 及 といわれたほど選挙資金の調達は重大な問題で、各候補者は金集めに奔走し、自己資金を を はたいたり多額の借金をすることも日常茶飯事でしたが、それでも党に上納金を納めるよ うなしきたりはありませんでした。その当時も、小選挙区比例代表並立制へと選挙制度が 献 変わった現在も、また、自民党に限らずほかの政党であっても、選挙に立っ候補者に公認 料をくれることこそあれ、当選した議員から金を取るなど、まともな政党では公明党以外プ の に聞いたことがありません。 代 現 私は、彼の勇気ある告白を受けて、自ら予算委員会の場で、この問題を取り上げる決意 章 をしました。 第 以下では、国会議事録などをもとに、当日の模様を再現してみます。二〇〇七年九月十 日に召集された第百六十八回国会は、所信表明演説こそ行われたものの、そのわずか二日
【手帳から】 ◆一九九五年匕月一一十六日 ( 水 ) 七月二十三日に参議院選挙が行われた。石井一二は堂々トップで三選された。 今後の政界を予想する出来事であった。要約すると ( 一 ) 新進は善戦し、驚くなかれ比例の党名選挙では自民の上へ行った ( 千二百五十 万対千百万票 ) 。 この調子だと衆議院選での政権奪回も夢ではない。 ( 二 ) 今回の選挙では閣僚懇の選対委員長という立場となった。 比例選挙の党名記人のため種々の秘策を提示したが、それも当たった。 自民党ブランドへの人心回帰 されど、諸行無常と申します。二度、三度と選挙を行うと、じわりじわりと自民党のプ ランドへと人心は回帰していきました。 198
01 ( 1 3 ) 02 ( 14 ) 03 ( 1 5 ) 06 05 04 ( 18 ) ( 17 川 6 ) 07 い 9 ) 08 ( 20 ) 09 (21) 4 ・ 森首相、えひめ丸事故ゴルフ問題で退陣。日に小泉純一郎内閣発足 参院選、「小泉旋風」で自民圧勝 に・跖保守党が解党、「保守新党」結成。自民、公明、保守新の 3 党連立に ・ 5 民主と自由が「民由合併」 ・ 9 衆院選、初の「マ ) 一フェスト選挙」。自公保が絶対安定多数 Ⅱ・幻保守新党が自民に合流。「自公」 2 党の連立体制に 参院選、民主が躍進 「郵政解散」衆院選、自民が単独絶対安定多数 ・第 1 次安倍晋一一一内閣発足 ・公明、太田昭宏氏が新代表に 憲法改正手続きを定めた国民投票法成立 ・四参院選で自公が惨敗。民主が第一党、衆参ねじれ国会に 安倍首相が突然の辞任表明。日に福田康夫内閣発足 1 1 石井一、参議院予算委員会で「献金」追及 ・ 2 福田首相と民主党の小沢代表が党首会談、連立政権について協議 ( 「大連立構想」 ) ・ 11 福田首相が突然の辞任表明。幻日に麻生太郎内閣発足 川・石井一、参議院予算委員会で公明党と創価学会の関係追及 8 ・衆院選で民主 308 議席の圧勝、政権交代 9 ・ 8 公明、山口那津男氏が新代表に ・民主、社民、国民新党の 3 党連立で鳩山由紀夫内閣発足 263
とは、第二次安倍政権で日々起こる出来事がよいエヴィデンスです。 衆議院において、完全な小選挙区制によって、そのようなダイナミックで緊張感のある 政治を、野心だけでなく政治家としての矜持や覚悟を身につけた「プロフェッショナル」 の政治家集団の手によって実現する一方で、良識の府と呼ばれる参議院においては、各政 党に対する有権者の支持率を議席数によって正確に反映させるというのが、私の考え方で す。各党の主義主張に賛同する候補者であれば、たたき上げの政治家でなくても、研究者 でも、教育者でも、ジャーナリストでも、ビジネスマンでも、タレントでも、五輪のメダ リストでも、あるいは宗教家でもよい、有権者が投票したくなる人物をこぞって擁立し て、徹底的に候補者を通じた政党の「人気投票」にすればよいと思います。「死に票」を 限りなく少なくして有権者の正確な政党支持率を議席に反映させた上で、政治のプロ集団 たる衆議院で採決された議案を、それとまったく異なる彼らの視点で、ときに党議拘東を 力しり はずして議論し、政治家の理論と民意とが乖離するのを防いではどうでしようか 自らが選挙される立場の議員や政党がその選挙の制度を自らの手で改革するのはたいへ ん困難なこと、一朝一タに結論の出ることではありませんが、外部の方々の英知を借りて でも、現職議員と政党のエゴを排除してよい知恵をしぼり、一日も早くいま一度、選挙制 254
そもそも創価学会は、一九五六 ( 昭和三十一 ) 年六月に執行された第四回参議院議員通 常選挙に六名の学会員を無所属の候補者として擁立し、組織票をもって三名を当選させる 快挙を成し遂げています。このうちの一人、白木義一郎議員は、慶大野球部のエースだっ た一九四一年に応召し、復員後は東急フライヤーズのピッチャーとしても活躍、連続 七十四イニング無四球という当時のパシフィックリーグ記録を樹立したプロ野球選手でし た。ちなみにフライヤーズの前身、白木さんが人団した当時の球団名はセネタース、セネ タースの投手は引退後、本物のセネター ( 参議院議員 ) になりました。 当時、大学生だった私は「なんで野球選手が選挙に勝てるのだろう」と思うと同時に、 それを実現させた創価学会という宗教団体をいぶかしく思ったことを今でもよく覚えてい ますが、いずれにしても、この六年後の参院選で議席を十五に増やした創価学会が結成し た院内会派「公明会」が母体となって公明党が生まれたいきさつからして、公明党と創価 学会との間に一線が画されているとは、とうてい言えるはずがありません。 私が国会の場で、「公明党Ⅱ創価学会」の問題を取り上げてきたのは、ひとえにこうし た政教一致への危機意識からでした。