それらの道具の中で、最も効果的であったのが、ひき伸ばし用の梯子で、俗に〈オーストリア式梯子〉と呼 ばれたものであった。 この責め道具は、幅の広い梯子の片端を地面にしつかり固定して、約四十五度の角度で壁にもたせかける。 梯子の根っけには、張付台に使用されたのと同じような、自在に動かせる丸棒がとりつけてあった。この梯 子の上に囚人は仰向けに寝て、手首を背中あわせにして桟のひとつに縛りつけられ、足首の方は可動性の丸 棒につながった縄に結ばれた。そうしておいてから、拷間者らは可動性の丸棒を動かして、囚人を下へひっ ばったので、両の腕は肩が脱臼するまで、背中で上方へひんまげられた。このように、腕や筋肉を上下の方 向へひつばるのは不自然なやり方で、それだけにこの上なく激烈な苦悶が生じたのである。それでも予定の 証言が得られないと、ローソクをたばねて点火したものを、体のいちばん鋭敏な部分であるわきの下にあて た。もがくことは事実上不可能で、ただ肉体の恐ろしい伸張度を加えるばかりであった。最初は、片側を焼 き、つぎに、他の側を焼くならいだった。 オーストリア式梯子はドイツでも用いられたが、ドイツ人はマリア・テレサ女帝の「テレサ犯罪条令」に 縛られてはいなかったので、ローソクのかわりにたいまつを使ったり、脇腹や腕や爪に赤熱した鉄をあてた りすることも自由であった。 張付台は、中国では、〈深靴〉といっしょに用いられた。これはフランスの足枷によく似た責め道具だった。 プロドキン
悪い囚人らに向かって、泥や石などの飛び道具を投げつけたし、執行人自身もこのときとばかり、遠慮会釈 レジサイズ なく囚人にいやがらせを働いた。この好例は、国王殺害者たちの死刑執行のさいに見られた。ヒュー ター ( 十七世紀の英の聖職者で、王政復古と共に処刑されたーー訳者 ) はそりに乗せられて刑場へむかう途中、手す りの内側に坐らされたので、いや応なしに友人クックの処刑を眺めることができた。クックはそのあと四つ 切りになったが、そのとき、ターナー大佐は州長官の部下に命じて、切断の光景が見えるようにピーターを そばにつれてこさせた。そして、絞首役人が血まみれた両手をこすりあわせたとき、大佐は意地悪くたずね ハリソン ( ピーター こ。「ほら、ピーターさん、このやり方はお好きかね ? 」同じときに処刑されたトマス・ と同じく、議会軍に投じて、チャールズ一世の死刑執行令状に署名し、一六六〇年国王弑逆者として処刑ーー訳者 ) は腸をえ ぐり出されたのち、むつくり起きあがって、絞首役人の耳をなぐりつけたと伝えられている。 悪名高い犯罪者の処刑後には、しばしば死体を鎖で吊るして、ひとりよがりの悪党どもの見せしめとした。 これは〈絞首台さらし〉 gibbeting の名で知られ、一八三四年にようやく廃止された。死体は、腐敗をふせ ぐために、ときにはタールを塗られることもあった。また、外海で行なわれた犯罪による場合は、その船が 停泊した港の近くで、さらしものにした ( 注 ) 。 ( 注 ) イングランドで最後にさらしものとされた罪人は、一八三二年のジェイムズ・クックであった。 罪人は鎖につながれて、生きながら吊るされたまま、飢え死にした、ともよくいわれてきた。ホリンシェ
焼けた鉄でひき千切られるにおよんで、痛みにたえかねて、椅子からとびあがった。だが、彼の左の鼻孔 は千切られなかったので、血をしたたらせながら、晒し台を離れた。 晒し刑は一八三七年、ウィリアム六世の治世の末期に、イングランドでは廃止となった。最後の犠牲者は 一八一一三年六月二十二日に、刑を課されたピーター・ジェイムズ・ポッシイであった。 フランスの晒し台はカルカン carcan の名で知られ、しばしば同時に多数の人間をさらすことのできるよ うな、大規模な、恒久的な構造をしていた。時には、この台がおもむろに回転する仕掛けとなったものもあ った。・・エインズワースはフランス式の晒し台をつぎのように描写している。 その翌日、この峻厳な宣告の一部分が実行に移された。ふたりの不幸な男どもは肌着一枚にされて、首 には縄をまかれ、縛られた手には火のついたローソクをもって、運搬車にくくりつけられた。ふたりの背 中には、〈人民の盗人〉としるしたはり紙が吊りさがっていた。こんなみじめな状態で、ふたりは、野次 ビロリイ 馬連中がわいわい騒ぐなかを、街中ひきまわされて〈市場の晒し台〉へ向かった。これは石造の八角形の 小塔で、高いとがった屋根があり、美しい旧市場の片側に建っていた。建物のそれぞれの面には、ガラス のない高窓がひとつずつついていて、その内側に、一本の車軸を中心に、大きな水平動輪が回転している のがありありと見えた。この回転する車輪が実は晒し台となっていて、輪の中には、罪人の頭と両手を出 ピロリイ ピロリイ 142
第 7 章破砕刑 やめなかった。つぎに、執行人は、まだ生きていて、神の頒歌をやめない、形を失い、ずたずたにされた 肉塊を十字架からはずして、車輪の上においた。かわいそうに、その両脚は肉体の下で折れ曲がって、か かとが後頭部に達していた。そして、この言語道断な処刑が行なわれているあいだ、ずっと、ポエトンは 一瞬も体まずに、主の讃歌をうたいつづけていたのである。 おそらく、これまで刑の執行が群衆にこんなに深い感銘を与えたことはなかったであろう。マッシラ神 父は、群衆の気持ちを察知すると、ド・バヴィル氏に向かって、この光景は新教徒たちを畏怖させるどこ ろか、むしろ彼らの信仰を強めることになる、と進言した。事実また、彼らが流している涙を見、彼らが 死にかけた男にあびせている賞賛の言葉を聞けば、そうした事情はすぐに察知できたのである。 ド・バヴィル氏は、そこで犠牲者の息の根をとめて、すぐにみじめな状態から救い出すように命じた。 この指令はただちに執行人に伝達され、執行人はポエトンの胸に最後の一撃を加えるべく、そばに近づい た。ところが、その時、処刑台の上にのぼっていた射手が執行人と受難者のあいだに割りこんで、この異 と言い出した。ポエトンは、このいまわしい 端者はまだ存分に苦しんでいないから、殺すべきではない、 抗弁を耳にすると、ちょっとの間祈りをやめて、車輪の上に横たえていた頭をもちあげた。「わたしの友 よ」彼は言った。「君はわたしが苦しんでいると思っているね。そのとおりだよ。わたしは苦しんでいるよ。 しかし、わたしとともにいます神さまは、わたしが苦悶を喜んで耐えるだけの力を授けてくださるのだ」。 その瞬間に、ド・バヴィル氏の命令がふたたびくり返されたので、射手は、もはやあえて処刑に反対し 169
囚人は牧師の祝福をうけてから、所定の場所にひざまずいた。少佐は近くにたたずんで、兄が死の銃 に弾丸をこめているのを見ていたが、弾丸をこめ終わると、自分の杖の三度目の合図で発射し、囚人を片 づけてしまえと命令した。ところが、なんと ! 少佐が最後の合図をして、杖をあげた瞬間に、兄の兵卒 は急にくるりと銃身の向きを変えて、あっというまに暴君の頭をぶちぬいてしまったのである。それか ら、銃を投げすてて、彼は叫んだ。「慈悲をかけることのできない男には、慈悲をかけてやるものか。さあ、 僕は降参したぞ。たった今、死んでやるぞ。」 この予想外の出来事に、だれひとり悲しむ様子はなかった。やがて処刑を見物しに来て、一部始終を目 撃していた数人の、主だった市民が次位の指揮官を相手に、兄弟ふたりを監獄へつれもどし、あとの指令 が出るまで当初の囚人の処刑も行なわないように説いた。この要望が認められると、市政機関はすぐその 晩、女王にあてて、故人の残虐行為を暴露し、ふたりの囚人に対する恩赦を祈って、このうえなく感動的 な書面を起草した。女王はこの請願書を通読すると、自分でもう少し事件を調べてみようと約束した。そ して、調査の結果、請願書の内容が一字一句まちがいのない真実であることが判明した。そこで、かたじ けなくも、兄弟ふたりの罪人に恩赦を与え、両名の軍務を解くように命令されたのである : 砕 破 スパイダー 〈蜘蛛〉という道具は、宗教裁判所でさかんに用いられた、恐ろしい拷責用の刑具だった。けれども、そ 章 第れだけでなく、欧州大陸では俗間の死罪に対する刑罰としても、広く利用されたから、ここにとりあげて紹 175
のど バルノアンの家におもむいて、まず耳を切りおとし、つぎに咽喉を切り、まるで豚を殺すように殺してし まった。その帰り道、彼らは街でジャック・クラスに出会うと、その腹部にまともに一発撃ちこんだので、 内臓がとび出して、地にたれさがった。どが、 , 。 ナ彼よこれを自分で拾いあげて、わが家へもどった。 さんじよく 彼の妻は産褥まぎわで、しかもふたりの幼児をかかえていたが、その有様を見て仰天し、すぐさま夫の 手当てにかかった。すると、殺人者たちが戸口に姿を現わして : : : やにわに傷ついた夫の最後の息の根を とめ、妻が彼を守ろうとすると、妻の脳天をピストルで撃ち抜いた。それから、彼女の子宮の中で嬰児が うごめいているのを知ると、さっそく子宮を切り開いて、嬰児をとり出した。そして、かわりにひと束の まぐさおけ 乾草をいれて、戸口につないであった馬に、この血だらけの秣桶から乾草を喰わせたのである : 彼らは町を出て野原に向かい : ・ : 三人の若い娘が桑の木の林へ歩いていくのを見つけた。彼女たちは家 で蚕を飼っていたのである。一味の者はそのあとをつけて林の中に人ると、すぐに追いついた。白昼だっ たので、彼女たちは少しも身辺の危険を感じてはいなかったのだ。一味は三人の娘を強姦すると、両手を 縛り、二本の木に頭を下にし、両股を開いて、逆さに吊りさげた。そうしておいて、こんどは彼女らの体 を切り開き、角製の火薬人れを中につつこむと、火薬に火をつけて、五体をちりぢりにふっとばしてしま った ( デューマ著の前掲書 ) 。 なおまた、一連のヴァルド派 ( フランスに起こったキリスト教の一派で、カトリック教に反対し、十六、七世紀に猛烈 254
第三は極刑で、この場合は、容疑者の首をフルカにしつかと結びつけて、死ぬまで笞刑が加えられた。 以上が西暦紀元前にローマで行なわれた数々の刑罰であるが、キリストの死後になってはじめて、拷問の 利用はさかんになり、その後長いあいだ、この状態がつづいたのである。つまり、キリストが死ぬまでは、 拷問はわずかに犯罪に対する、もしくは不本意な証人の説得のための、一種の刑罰として利用されていたに すぎない。拷問はあくまで法的限界の中で法的矯正法としての手段として使われ、意見を変えるための便法 としては、シリアのアンティオコスのような暴君以外には、用いられなかったのである。ところが、初期キ リスト教徒が断固として自分の所説を主張するにつれて、拷問の手口はますますすさまじいものとなり、そ の応用もますます不法となり、不当となっていった。そして、いったん暴虐な基盤の上に根をおろすと、し だいに巧妙さを加えて、ついには、宗教裁判の時代に残虐性の絶頂に達したわけである。 キリストの時代から、ユスティニアヌス ( 四八三ー五六五年 ) がその法典の中で拷問を具体的に表現するま でに ( この法典からヨーロッパのほとんどすべての法律体系が発生しているのだが ) 、拷問を加えるいろいろな器具は着 実にその残忍さと数を加えてきたのである。キリスト教徒に対する初期の迫害は、史上最も恐るべき時期を 画した。 の 代 最初のキリスト教徒に対する迫害は、ネロ帝の治世にはじまって、ヴェスパシアヌス帝とともに終わった 古 のだが、その間、なん千人にも及ぶキリスト教徒が世にも恐ろしい最期をとげた。十字架、鞭、張付台、煮 章 やっとこ 川えたぎった油の大がま、まっ赤に焼けた炮烙、鋼鉄の輪、鋏、貝殻でけずり生身の皮をはぐ方法などが広く 4
が立ち、白衣をきた犯人は、ひとりの牧師につき添われて、前にひき出された。祈祷をあげ、讃美歌を歌っ たあと、にせの執行人は犯人の前に、燃えている飲みものをさし出した。それは少量のプランディーを撚や しているだけの話だったが、犯人はさも恐ろしそうな様子をして、これを受け取った。両手がふるえ、体も わなないて、まるで興奮の絶頂にあるように見えた。最後に、彼はその火酒をひと息にのみほし、しばらく 身振いしてから、ばったり倒れて死んだようになった。そのあと、すぐ彼の上に毛布が投げかけられた。原 住民はあたりをつんざくような叫びをあげて、すっかり満足してひきあげながら言った。「オランダ人はお れたちよりも厳しいな。おれたちは犯人を火の中に投げこんだのに、あいつらは犯人の中に火を投げこんだ じゃないか」 烹刑 ( わが国の釜ゆでの刑に相当ーー訳者 ) は中世紀の人気ある刑罰法であって、一五三一年に英法で毒殺者 の刑罰として実際に裁可された。そして、この条令は十六年間法令全書に記載されていたのである。いろい ろな人々が本条令を適用されたが、リチャード・ルーズは一五三一年にスミスフィールドで公然と烹刑に処 理 され、また、同じ年に、ある女中が女主人を毒殺したかどで、キングズ・リンで同じ運命をたどった。さら に、一五四二年には、マーガレット・ディヴィがスミスフィールドで同じ極刑をうけた。 ま ざ ま 一五三一年以前には、烹刑はにせ金作りや毒殺に対する刑罰として、非合法的に利用され、『老修道士ら さ の年代記』 ChronicIes ofthe Grey Friars ( 一八五二年 ) のなかには、興味深い事例があがっている。毒殺の 章 第罪を問われた犠牲者は鎖にくくられて、死ぬまで、なんべんでも沸騰する熱湯の中へつけられるわけである。
一二一六年 ) の治世になってからであった。インノケンチウスは一一九八年に、諸王国の国王にあてて、異 しようよう 端者を迫害するよう慫慂した。こうして、異端者の弾圧は、まだ俗界の支配者によって実施されていたが、 教会の行政部門の一部となったのである。グレゴリウス九世はさらに修道士による糾問を加えて、弾圧令を 修正した。つまり、托鉢修道会士に、ことにドミニコ会士に、異端審問の義務をゆだねたのである。そして、 二三一年には、この職権はフリーザックのドミニコ会士と、マルプルグのコンラッドに与えられた。さら に、一年後には、ドミニコ会士アルべリックが〈秘密異端糾問者〉 lnquisito 「 hae 「 eticae P 「 avitatis をもっ てロンバルディアを旅行し、一二三三年には、教皇みずからフランスの司教たちにあてて書簡を送り、将来 は異端者の発見と弾圧のために、托鉢僧を雇用するつもりであると公言した。 したがって、異端糾問、または宗教裁判は十三世紀に誕生し、それ以後、全ヨーロッパに波及して、今日 でもまだローマに現存しているといってよかろう。 イングランドでは、十三世紀以前には、異端者の裁判はほとんどなかった。わずかに、ヘンリ二世 ( 一一五四 ー一一八九年 ) が数名の異端者に対し、鞭打ちを加え、顔にカギのしるしの焼印を押してから、国外に追放し たくらいのものであった。最初に異端糾問の動きが感じられたのは、クレメンス五世が聖堂騎士の逮捕を命 じ、エドワード二世 ( 一三〇七ー一三二七年 ) がこれを応諾したころである。けれども、教皇の任命にかかる 糾問者たちがイングランドに到着したさい、とてもひどい歓迎をうけたので、教皇はついに拷責の利用を禁 ナ一六七六年にチャールズ二世が事実上宗教裁判所の権限を制約して、異端糾間に終止符を打 止した。。こが、 テンプラ 200
第 6 章しめつけの刑 こんだが、くさびの数はふつうの拷責には四個、特別な拷責には八個となっていた。八個もくさびを打っと、 しばしば骨と脚が文字どおり炸裂し、骨髄までとび出した。 あまり一般的ではなかったが、囚人の両脚に羊皮製の長靴下をはかせる責め方も行なわれた。この靴下が 湿っている場合は、楽に足をつつこむことができたが、火を近づけると、かなり縮んで、耐えがたい苦痛を 与えた。また、フランス人はオウトウンで、別種の靴形刑具を使用した。まず囚人を大きな腰掛かテープル に縛りつけて、小孔の多い皮革で作った大長靴の中に両脚をいれた。そして、その上から、大量の熱湯をふ り注いだので、靴の中へ浸透して、肉をちぎり、骨まで溶かしたといわれている。 靴形刑はスコットランドでは一五七九年に、牧師と公証人に、一五八三年にはウォルシンガムの命令でウ べイに、加えられた。 ィリアム・ホルトに、一五八四年には、、 興味深い事例は、ソールトパンズの男教師フィアンのそれで、彼は一五九一年に魔法使いの嫌疑で告発さ れた。容疑はいろいろあったが、なかでも、ジェイムズ ( 後に即位してジェイムズ一世となる ) が未来の妃を訪 ねて船でデンマークに向かう途中、暴風雨を起こして船を難破させたと想像されたのである。そのため、深 サムスクリューズ 靴刑や親指ねじりの刑、あるいは、額に縄を固くまきつけてねじる刑などを加えられて、最後には火刑に処 された。〈モントゴメリイ陰謀事件〉の扇動者であるヘンリ・ネヴィル・ペインも、一六九〇年にウィリア ム三世のじきじきの命令で、靴形 ( 注 ) と親指ねじりの刑で責められたが、効果はあまりなかった。 ( 注 ) スコットランドの特殊な形式の深靴はクッシロウズ cu , h 一 e 一 ow , と呼ばれた。これは鉄の深靴のことで、足を 159