人 - みる会図書館


検索対象: 西洋拷問刑罰史
263件見つかりました。

1. 西洋拷問刑罰史

さつりく ために殺戮され、死体を数えるのに十二日もかかったといわれている。 あらゆる場合の大虐殺にあって、伝えられた死者の数というものは全くあてにはならないのである。聖バ ルトロメオ祭に虐殺された者の数は二千人から一万人、五万人、いや十万人にのぼるとも推定されて、人に よって区々としている ( 一五七二年の同祭日に、。、 ノリの旧教徒がユグノー派約二千人を虐殺し、同年十月三日までに、約 二万五千人が殺されたと伝えられているーー訳者 ) けれども、聖バルトロメオ祭の大虐殺は、ここで論議する必要はない。なぜなら、死者の上に侮辱の言葉 は浴びせられたが、虐殺以前に拷問は加えられなかったからである。その他の多くの大虐殺も同じ範疇に属 し、カンベル大尉が約三十人のスコットランド人を殺害したグレンコウ虐殺事件もまた同様で、故意に残虐 行為が行使されたような形跡は全くないのである。 史上に初めて記録された大虐殺のひとつは、べニヤミンの人々のそれで ( 「士師記」第一一十章参照 ) 、紀元前 の最も恐るべき大虐殺は、紀元前三 = 二年にアレキサンドロス大王が、およそ一万のテ、ルス人を殺戮した はり . つけ 時である。彼は八千人を刃にかけ、残りの二千人を磔刑に処したといわれている。 殺 イングランドの最も初期の大虐殺で、暴虐行為が行なわれたのは、一〇〇一一年十一月十三日の聖プライス 大祭のそれであった。この時、エセルレッド二世はイングランド人を殺戮させたのである。しかも、身の毛も 章よだつような蛮行が付随していて、数々の拷責のうちでも、スウェイン王の姉妹グニルダを含むデーン人の 第婦女たちは、目の前でわが子を殺害され、腰のあたりまで土中にうずめられた。それから、猛犬マスチフを 241

2. 西洋拷問刑罰史

一般の大虐殺中に犯される残虐行為が〈拷問〉の項目に入るかどうかは 疑問である。しかし、大虐殺の命令が発せられる場合、命令した当事者は 結果に対し責任をとらなければならないように思われよう。また、俗権によって指令された大虐殺中には、 めったに拷間は加えられず、宗教が争いのもとである場合に、この上なく非道な悪業が行なわれるというこ とも興味深い だが、どういう行為が虐殺であるかとなると、むずかしい問題である。わずかに六、七人の幼児が生命を 失った〈幼児大虐殺〉 ( 幼いイエスを殺すために、ユダヤのヘロデ王がべツレヘムの幼児全部を殺すように命じたこと 訳者 ) を、一六一一年の、ロシア人の大虐殺と同列におくことはまず不可能だろう。あとの事件では、十万 人の、武器なき老幼婦人がポーランド人によって虐殺されたといわれている。あるいはまた、一二六九年の ニシャプールの大虐殺とも同列におくわけにはいくまい。この事件でも、百七十四万七千人がジンギス汗の 第章大虐殺 240

3. 西洋拷問刑罰史

手交してもらう必要がある : 死刑囚の監房に足をふみいれると、そこにはすでに教戒師がいたが、 , 。 彼よしばらく則からそこに人 っているのである。死刑囚の地上最後の夜をずっと寝ないで見守っていた付添人たちもまた房内にい る。わたしが姿を見せると、死刑囚は付添人たちに別れを告げる。そして、ふつうは、よこ オ。か小さな形見 とか、記念品を渡すわけである。そこで、わたしはさっそく彼の両の腕を縛りはじめる。縛りおわると、 一同は行列を作って歩き出すが、その順序は、 だいたいつぎのとおりである。 はりつけ ( ギュスタープ・ドレ画 ) 監房から絞首台までいく途中で、教戒師は 死者の埋葬のための経文を読み、行列が静か に進むなかで、死刑囚の頭上に白い帽子をの 看守 看守 第一看守 看守 職杖持ち 看守長 教戒師 死刑囚 執行人 知事と州長官 監獄医と付添人 看守 看守 第一看守 看守 職杖持ち

4. 西洋拷問刑罰史

第 8 章水責めその他の責め方 ( 注 ) 頭皮はぎは、ヨーロッパでは太古から利用された一種の障害化である。ヘロドトウスはスキチア人のあいだでこ の慣行が行なわれていたことをうんぬんしている。また、古代ゲルマン民族は decalva 「 e の名称でこれを行ない、ア ングロ・サクソン族やフランク人も八七九年ごろまで実行していた。アフリカの黒人諸族のあいだでもまた、ありふ れていた。アメリカ史を見れば、白人種らが北米原住民との戦いで、しばしば頭皮はぎを行なったことがわかる。 われらの封建君主らが秘められた財宝についての自白を強いるため、ユダヤ人らの歯をひきぬいたという 話は、これまで小説でさかんに扱われて陳腐になっているが、この拷問がトルコ人によって比較的近世に利 ・パシャ ) は、あるときュ 用されたことを知ることは、むしろ非常に目新しく興味深い。フセイン ( カピタン ダヤ人の医師を招いて、痛む歯をぬかせた。ところが、ユダヤ人は間違えて別の歯をぬいたので、フセイン はこの不幸な歯医者を逮捕させ、ロ中の歯を一本残らずひきぬかせてしまった。 スティーヴン ( ノルマン朝最後のイギリス王ーー訳者 ) の治世中に、領主たちがどんな残虐行為を働いたかか イングラムの『サクソン年代記』に要約してあるので、つぎに引いておこう。 領主たちは、財産をもっていると思われる者どもを片つばしから捕えては言語に絶する責苦を加えた。 よろい あるものは足から逆に吊りさげられて、ひどい煙でいぶされた。なかにはまた、親指で吊るされて、鎧の 重しをのせられたものもあった。さらにまた、頭のぐるりに結び目のある縄をまきつけられたものもあっ

5. 西洋拷問刑罰史

いうまでもなく、拷問は古代のあらゆる王国で実行されたが、それはほ とんど常に刑罰としてであって、決して自白を強要する手段として利用さ れたのではなかった。自白を目的とする拷問は、拷問の問題をきわめて綿密に考察したローマ法のもとで、 はじめて実行に移された。 あらゆる未開国では、鞭打ちが軽犯罪を処罰する方法であったが、罪人処刑の方法は民族によって異なっ はり . つけ ていた。罪人を片づける最もありふれた形式は磔によるもので、これを刑罰として利用したのはアッシリア 人、ベルシャ人、エジプト人、ローマ人などであった。 初期の諸民族によって最も極悪なものと見なされたと思われる犯罪は、親殺しと姦通と、捕虜になること であった。親殺しと姦通は必ずといっていいほど死刑とされ、捕虜は、奴隷として売りとばされた。 初期の文明国の大部分は同じような拷問方法を用いた。したがって、最も有名な古代の諸帝国に共通した

6. 西洋拷問刑罰史

うに、太鼓がとりまいていた。それでも、彼の声は非常にかん高かったので、たえず太鼓の響きを圧して、 同門の人々にキリストの教えに忠実なれと訴える声が聞こえた。処刑台の下までくると、一同は彼に手を かして壇上までのぼらせなければならなかった。というのも、靴形刑の責苦で両脚をずたずたにされてい たので、体の重みを支えきれなかったからである。そのあいだずっと、彼は、胸もはりさけんばかりに泣 いていた新教徒たちを慰めたり、訓戒の言葉を与えたりした。いよいよ壇上にあがると、彼は自分から X 形の十字架に身を横たえたが、執行人は衣服を脱ぐように命じた。そこで、彼が微笑をうかべて立ち上が ダブレット ると、執行人の助手は上衣とズボンをとり去った。 彼は靴下をはかずに、傷ついた脚のぐるりには、ほうたいを巻きつけていたので、自分でそのほうたい をとり除いた。それから、シャツの袖をひじのところまでまくりあげると、執行人はそのままのかっこうで、 しようよ - っ もういちど十字架の上に寝るように命じた。ポエトンは前と同じように、従容として体を横たえた。する と、助手は手足の関節の部分をひもで縛り、準備が終わると、壇上からひきさがった。つづいて、執行人 が前にすすみ出たが、その手には取っ手のところが丸くなった、長さ三フィート、幅一インチ半ばかりの、 四角い鉄棒がにぎられていた。 ポエトンは鉄棒に目をとめると、急に讃美歌を歌い出したが、たちまち、かすかな叫びをあげて歌を中 断した。執行人が彼の右脚の骨を砕いたからである。けれども、彼はそのあとすぐふたたび歌いはじめた。 そして、執行人がつぎつぎに、右の腿、左の腿、左右の腕と、二か所ずつ砕いていっても、いっかな歌を 168

7. 西洋拷問刑罰史

第五は吊り落し刑 squassation ( 注 ) 。 ( 注 ) スクオセイションは、次のようにして行なわれる ( この語は一般の辞典にないが、〈びしやりと落ちる〉意味の squash を名詞化したものらしいーー訳者 ) 。 囚人の両手を背中に縛り、両足に重しをくくり付けてから、頭が滑車に届くまで高く吊りあげる。この状態でしば らくそのままにしておくと、両足に吊り下げられた大きな重しのため、手足の関節はすべて恐ろしいほど引きのば される。それから、急に、ロープをゆるめて、 ぐいと下へ落し、床にはあてないようにする。このすさまじい衝撃で、 彼の腕や脚は脱臼し、この上ない責苦をなめる : : : ( ジョン・マーチャント ) スペインの異端糾問で拷問をかけられた典型的な例は、イサアク・オロビオという一ユダヤ人であった。 どんな拷問をうけたか、リンポルク Limborch の『異端糾問の歴史』から引用してみよう。 スペイン宗教裁判で現に用いられている拷責法や責苦の程度については、ユダヤ人の医学者であるイ サアク・オロビオの経歴によって十分うかがい知られるであろう。彼は召使いのムア人のために、ユダヤ しかし、オロビオは頑強にユダヤ人であることを拒否した。以下、 人として異端糾問所に告発された : わたしは彼の口からじかに聞いたまま、彼がどのような拷問をうけたかを物語ることにしよう。 彼は三年間牢獄に閉じ込められ、その間何度も取り調べをうけたが、いつも拒否しつづけたので、とう 2 10

8. 西洋拷問刑罰史

も、情容赦なく殺戮した : ・ コレラインの町では、なん千人もの新教徒が二日間で殺害されたので、生き残った者が死者を埋葬する こともできず、死骸を荒野に晒したり、大きな穴にほうりこんだりした。まるでにしんででもあるかのよ うに積みかさねて マグダレン・レッドマンという女の話によると、彼女もそのほかたくさんの新教徒も ( その中には二十二 わら 人の寡婦もふくまれていたが ) 、最初は盗まれ、つぎにまっ裸にされた。そして、みんなが藁で体を包むと、 りよ - つじよく 血に飢えた凌辱者たちは藁に火をつけて投げこんだ : カセルでは一味はあらゆる新教徒をいまわしい地下牢におしこんで、十二週間も、ひどく悲惨な状態で 監禁した。中には、無慈悲にも首を絞められたものもあれば : : : 一一度も三度も吊るしあげられたものもあ り、また、生き埋めになったものもあった。アルマグ州では、一味は多くの新教徒に略奪を働き、衣服をはぎ、 殺害した。あるものは刀で斬り、あるものは焼き殺し、あるものは餓死させた。ある若いスコットランド 人の女は子供を奪われ、一味の者はその子供の足をつかんで、樹木にたたきつけて脳味噌をたたきつぶし ろうぜき た。彼らはほかの多くの子供たちにも、同じような狼藉を働いた。スリゴの町では、四十人の新教徒が裸 にされて、穴蔵の中に監禁された。そして、夜半ひとりの屠畜人がまぎれこんで、斧でみんなを虐殺した。 パトリック・ダンスタンの妻を夫の目の前で強姦し、使用人たちを殺し、子供たちを蹴殺 一味はサー した。それから、主人を木に縛りつけて、両目をえぐり出し、耳や鼻を切りとり、頬をそぎ、腕や脚を切 ごうかん おの

9. 西洋拷問刑罰史

第 3 章一本のひも 付刑の責苦をうけた一囚人に関するすばらしい記述が見られる。 一七六五年十二月七日 : : : われわれは検察官の要請によって、モントウバンの監獄内にある拷問部屋に 参会した。そして、ピエル・デリュクという囚人をひき出して、拷問にかけたのち絞首刑に処すべしとい う臨時刑事裁判所の判決文を朗読して聞かせた。 そこで、デリュクは執行人の手で衣服をはぎとられ、張付台の上に横たえられた。彼の両足は右の台の 一方の端に固定してある鉄鉤にくくられ、両腕は反対側のローラーにとりつけられた別の鉤にゆわえられ た。このローラーの両側には歯車つきの車輪があった。われわれはデリュクに真実を語るように言い聞か せてから、くだんの執行人に向かって、その腕と脚をくくりつけたひもを強く張るように命じた。 そこで、執行人は三回歯車をまわした上、彼の断罪に関連したすべての事実について質問を行なったが、 デリュクは盗みを働いたおぼえはない、共犯者もいないと抗弁した。そこで、もう三回歯車をまわすよう に命ぜられたが、囚人はやはり真実を語ったと答弁した。さらに三回歯車の回転を命じると、囚人は解放 してくれたら、真実を語ろう、といった。そこで、執行人は囚人を解き放って、ガレー船を出て以来、ど んな盗みや犯罪を重ねたか逐一白状するようにと勧告した : 。ところが、囚人は、真実を語っただけで、 単独で盗みを働いたおぼえもなく、共犯者といっしょに盗みをしたこともないと答えた。 そこで、われわれは、ふたたび執行人に囚人を解放する前と同じ状態になるまでひもを張るように命じ、

10. 西洋拷問刑罰史

圧力が加わり、最後には、膝の上に重しがつみかさねられた ( わが国の石抱き責めに似た拷責であるーー訳者 ) 。苦 しまぎれに体をねじったり、動かしたりすれば、かえって新しい傷を作るのが関の山だった。といって、じ っと坐っていても、恐ろしい釘がだんだん深く肉にくいこんでいくのは避けられなかった。 脱走、反抗または略奪などに対するスペインの軍事刑罰は、〈ろば〉 Donkey と呼ばれたが、その名残は ドイツのいくつかの城塞のなかに今日でも見うけられる。これは頂部が < 型になっている床に罪人をまたが らせて、その上から重しを加えて、ついには肉体をまつぶたつにひき裂く刑である。 くしイ」し 生体の串刺刑は古代ローマ人が好んで行なったもので、その後東洋人たちがこの手本にならった。 一八七六年のプルガリア人虐殺事件では、トルコ人が主としてこの拷責を加えた。 ジャン・バブチスト・クレベル ( フランスの将軍で、一八〇〇年六月十四日カイロで殺害された、ー、訳者 ) の暗殺者 はソリマン・イレッピという名のトルコ人の農夫であった。 , 。 彼よ逮捕されると、右手の肉を焼かれて、串刺 しにされたが、その状態で、一時間と四十分も生きながらえた。 書物にもいちばんよくとりあげられて、一般に最もよく知られた責め道具は、ニュルンベルクの〈アイゼ ルネ・ユングフラウ〉 EiserneJungfrau である。著述家のなかには、これを〈鉄の処女〉とか、〈鉄の乙女〉 砕と訳したものもある。けれども、混乱を避けるためには、後者を採用した方がよい。なぜなら、トレドの宗 破 教裁判で用いられた〈鉄の処女〉と称する別の刑具があるからで、これについては、後にふれるつもりであ 章 第る。また、右のふたっと、〈バ ーデンの処女〉 Virgin of Barden-Barden とを混同してはいけな 177