叫びながら、われとわが胸に剣をつき刺した。 さて、つぎはローマだが、ローマの制度は、のちに全ヨーロッパの制度の根底となっただけに、すこぶる 重要であるし、また、その規定も、ギリシャのものにくらべると、はるかに精密だ「た。 ローマ法による拷問は、民事裁判でも、また刑事裁判でも、同じように利用されたが、民事では、奴隷と 解放奴隷、もしくは公民権を剥奪された人々に対してだけ適用された。犯罪の有無は、共和制時代は奴隷だ けに適用されたが、帝制になると自由人にまで拡大された。ただし、告発された場合だけで、単に証人に過 ぎない場合は、適用されなか「た。けれども、謀反や魔術の容疑があると身分のいかんを間わず、だれでも 容赦なく拷問にかけられたし、また、人妻も夫を毒殺した嫌疑がかかると、すぐさま拷問にかけてもさしつ かえなか「た。ただし、その場合は彼女の奴隷たちをさきに拷問にかけてからの話であった。 ローマ法では、ある種の人々が拷問を免除された。それは僧侶、十四歳未満の子女、妊婦などであ「た。 奴隷の場合は、告発された容疑者として、あるいは主人のための証人として、いつでも拷問にかけること ができた。また、特定の場合は ( せ、主人に不利な証人としても、拷問にかけることができた。それと同じ 。。し力なかった 原則によって、解放奴隷は、保護者に不利な証人としては拷問にかけるわナこ、 ( 注 ) 謀反、姦通、脱税など。 どのような拷問を、どれだけ加えるかは裁判官の判断に一任されていたが、生命をそこねたり四肢を傷つ
つまでは、イングランドでもかなり苛酷な刑罰がつづいた。スコットランドでは、異端者処罰令はもっと後 までつづき、一六九六年にエディンバラで十八歳の若者が絞首刑に処せられた。 異端糾問はヨーロッパのあらゆる国でさかんに行なわれ、その蛮行はスペインとスペインの属領で最高潮 に達した。属領の中での筆頭は、オランダであった ( オランダは一五八一年に独立ーー訳者 ) 。 ついでながら、バヴァリア ( ドイツの西南部 ) のアルベルト公は、カトリック教の復興をうながすために、 ホウリー・オフィス 自国のすべての主要都市に〈検邪聖省〉 ( 異端糾問所を改名した名称ーー訳者 ) を設置した。そのひとつがニュル ンベルクであった。したがって、これまで筆者がニュルンベルクで用いられたといった刑具類はすべて、異 端糾問で用いられた刑具の一覧表の中に加えて差し支えない。ただし、それらの刑具は、非宗教的な刑事犯 罪の場合にも用いられたのである。 異端糾問所の採用した審理形式は、裁判というものを愚弄していた。容疑者は秘かに逮捕されて、最高度 に専断的な審理過程も公開されなかった。糾問者たちの目的は、明確な罪状を確かめるというより、むしろ 傾向を確かめることにあった。容疑者は最初から有罪と推定され、判事が告発者であった。なるほど、容疑 問者は起訴状を見ることは許された。しかし、誹謗者たちの人名とか、不利な証言をする人々の名前を知るこ 糾 端とは許されなかった。 異 異端者、女性、子供、奴隷、市民権を剥奪された人々などは迫害のために証人となることはできても、弁 章 第護のための証人にはなれなかった。また、どんな証人も、異端の罪をきせられまいとして、証言を拒むこと 2 01
第 5 章晒し刑 手のない人々、あるいは、足や舌のない人々は、軽犯罪に伴う危険を生きながらに示した見本であり、また 不幸にして、最下層民より脱け出して高い地位にのぼれなかった、あらゆる人々に対する警告でもあった。 凌辱による懲罰の中でも最悪の形態のもので、ルイ十一世の治世中にフランスで大好評を博したのは、 おり 〈檻〉であった。 刑罰としての檻が最初に用いられた例を尋ねるのはむずかしいが、とにかく、一三〇六年に、プルース ( の ちスコットランド王となったロバ ド・プルースのことーー訳者 ) のために 猛烈に活躍して、彼の頭上に王冠を のせたバカンの伯爵夫人はエドワー ーウィック城の塔 ド王の命令で、 の中にある木製の檻にとじこめられ おうじ てしまった。この檻は王璽付の書簡 をもって製作を命ぜられたもので、 格子細工の頑丈なものであった。そ して、この檻に人った伯爵夫人は厳 重な監視をうけ、彼女の身のまわり ト既いを 溺殺刑 129
なたはこの五人の若い女性たちをひどく大事にされ、わたしを呼び出して、よく目をかけてやるように申 されました。それで、わたしは忠実な下僕として役目をはたした次第でございます」 糾問者たちはその言葉を聞いて、吹き出さざるをえなかった : この不敬な冗談のおかげで、神父は ざんげ 懺悔を免れた。 ローレンス・カストロは市内で最も有名な、最も富裕な鍛冶屋であった。ある日のこと、彼は糾問者の ドン・ペドロ・ゲルレロのもとへ食器を一個届けに行った。すると、この主人は、勘定を払う前に、家僕 のひとりを連れて家中を見てまわるように言った。鍛冶屋は言われたとおりにした。けれども、目につく のは鉄の扉ばかりで、耳に入るのは、中に監禁された人々の嘆き悲しむ声だけであった。彼が糾問者の部 屋にひき返してくると、ドン・ペドロはたずねた 「ローレンス、どうだね、この家は気にいったか ? 」 うそ 「いえ、ちっとも気にいりません。わたしには、まるで地上の地獄そっくりなんで」この無邪気な、嘘の ない返事がローレンスにとって禍いをまねく種となった。というのは、彼は直ちに地獄に送りこまれるよ うに監房へ送りこまれ、同時にまた、大勢の配下が彼の家へ侵入して、なにもかも没収し、おまけに、そ の日のうちに法廷に引き出されて、判決を言い渡されたからである。つまり、街中引きまわされて鞭打た れたうえ、両肩に焼けた鉄の烙印をうけ、ガレー船漕ぎの終身刑を宣告されたのである。しかし、この善 206
第 12 章大虐殺 は、まず死ぬ思いの辱かしめをうけてから、窓の外に吊りさげられて、マスケット銃兵の標的となった。兵士たちの 淫欲の犠牲となった貴婦人たちも街頭にさらされて死んだ。しかも、一糸まとわぬ裸のままか、あるいは、ジュネー ヴ版の聖書からひきちぎった紙片をはりつけられて、悪鬼のような嘲笑を買ったのである。 老人も子供も、女も病人も、すべて消え去った。宗教的な狂信を記録した、極悪非道の年代記にさえその例を見ぬ 残虐行為のために死んだのである : : : 」 ( 注 2 ) 竜騎隊 Dragonnades とは、各隊に牧師の隊長をいただいた、さまざまな竜騎隊のことであった。この牧師に 服従しない人々は、竜騎兵の手にゆだねられた。竜騎隊は、とくにユグノー派の女性に対し、無慈悲であった。 彼よ、もと こうした恐るべき大虐殺のうちで、最も残忍な拷問を加えたのは、神父デュシャイラであった。 , ー シャムへ説教師として派遣され、一六八二年に捕虜となって、みずから拷責をうけた男である。 ハンコクの総督の前にひき出された、キリストの高潔な擁護者は、自己の信仰を棄てるどころか、 神の名をほめたたえた。そのため、彼は執行人にひき渡されて、拷間をうけた。だが、神父は人体の耐え うるかぎりの責苦を甘受し : : : ついに、失神した。 こうして、死んだものと思われた彼は、手首から木に吊りさげられた。けれども、ひとりの下層民がそ の縄を切って、彼を蘇生させた。神父はフランスへもどり、主席司祭としてインドへ派遣された。 2 51
が立ち、白衣をきた犯人は、ひとりの牧師につき添われて、前にひき出された。祈祷をあげ、讃美歌を歌っ たあと、にせの執行人は犯人の前に、燃えている飲みものをさし出した。それは少量のプランディーを撚や しているだけの話だったが、犯人はさも恐ろしそうな様子をして、これを受け取った。両手がふるえ、体も わなないて、まるで興奮の絶頂にあるように見えた。最後に、彼はその火酒をひと息にのみほし、しばらく 身振いしてから、ばったり倒れて死んだようになった。そのあと、すぐ彼の上に毛布が投げかけられた。原 住民はあたりをつんざくような叫びをあげて、すっかり満足してひきあげながら言った。「オランダ人はお れたちよりも厳しいな。おれたちは犯人を火の中に投げこんだのに、あいつらは犯人の中に火を投げこんだ じゃないか」 烹刑 ( わが国の釜ゆでの刑に相当ーー訳者 ) は中世紀の人気ある刑罰法であって、一五三一年に英法で毒殺者 の刑罰として実際に裁可された。そして、この条令は十六年間法令全書に記載されていたのである。いろい ろな人々が本条令を適用されたが、リチャード・ルーズは一五三一年にスミスフィールドで公然と烹刑に処 理 され、また、同じ年に、ある女中が女主人を毒殺したかどで、キングズ・リンで同じ運命をたどった。さら に、一五四二年には、マーガレット・ディヴィがスミスフィールドで同じ極刑をうけた。 ま ざ ま 一五三一年以前には、烹刑はにせ金作りや毒殺に対する刑罰として、非合法的に利用され、『老修道士ら さ の年代記』 ChronicIes ofthe Grey Friars ( 一八五二年 ) のなかには、興味深い事例があがっている。毒殺の 章 第罪を問われた犠牲者は鎖にくくられて、死ぬまで、なんべんでも沸騰する熱湯の中へつけられるわけである。
第 5 章晒し刑 イングランドやスコットランドでは、教会での礼拝を怠った者とか、礼拝中に騒ぎをおこした者とかの懲 罰として最も頻繁に用いられた。 初期には、捕虜をも、よく征服者たちの主要な町々を意気揚々とひきまわしたものである。また、中世紀 になると、軽い犯罪で有罪となった者も、自称悪人どもに対する見せしめとして、同じような取扱いをうけ た。ときには、絞首刑吏が罪人の首に縄をつけてひつばりまわしたこともあり、また、ときには、鼓手が行 列の先頭に立って、わざと人目につくようにした。さらに、町中罪人を鞭打ちながらひきまわすとか、椅子 に乗せたり ( 注 ) 、ロバにうしろ向きに乗せたりして、町中をひきまわすとかの晒し刑も行なわれた ( 注 ) いわゆる〈木馬〉またぎの刑で、ふつう男女関係の犯罪に適用された。 木馬またぎの例は、一八八七年三月十五日付の『マーキュリ』誌 ( リヴァプール刊 ) に掲載されている。 今日ではすたれたが、英語流にいうと〈木馬〉またがりの刑として知られ、元来は、不貞な妻や夫に 対するありふれたいましめとして行なわれた、かの古代ウェールズの慣習が土曜日の夜、ランゲフニから 約三マイル離れたアングルシイ村で復活した。近隣の人々の憎悪の的となった男はすでに妻と別れていて、 他の女をしつこく追いまわしていたといわれる。土曜日の夜、一団の人々はその家をとりまきその男をむ 1 3 3
うとまれて、忘れさられ かの樹木のもとにありし 人々もまた朽ちてはてなん。 水責めの椅子もはやなく じやじゃ馬用に作られし仮面もまた滅びぬ。 頭をさらすピロリイもこの世から消え もはや肉体の懲罰は栄えることなからん ただひとつ、いまに残るは鞭のみ。 いずれの刑もその使命はたし よかれ、あしかれ、ひと役演じぬ。 されど、乱酔泥酔の弊は民族の心を毒し 当世の恥辱なれば、せめて 足晒しの刑なりと復活させたきかな。 こうべ 146
で、最も一般的なものは前記のイギリス式に似たものであった。なかでもいちばん恐ろしいのは、両端に動 かすことのできる横桟をつけたオーストリア式梯子だが、これについてはあとでふれることにしよう ( 注 ) 。 ( 注 ) 一八三二年の『ザ・ペニー ・マガジン』誌によると、リンガード博士はイギリスの張付台を左のように説明し ているという。「地上三フィートのところに設けられた、樫材の大きな、台なしの枠。囚人はその下に、床にうつ伏 せに横たえられ、手首と足首は枠の末端の二個の柱環に二本のひもでゆわえつけられる。それから、テコで逆の方向 に動かされると、体は地を離れて枠と水平になる。そのとき、いろいろ尋問されるわけだが、もし回答が満足なもの でないと、受刑者は骨の関節がはずれるまで、しだいに引き伸ばされる。」右の説明によると、二本の動かすことの できる横桟がイギリスでも用いられたらしいが、これまでのところ、まだそうした張付台は発見されていない イングランドでは、ほかの国々と同様に、張付台は、それほど広く利用されなかった。イングランドに初 めて伝えられたのは一四四七年のことで、紹介者は第四ェクスター公のジョン・ホランドであった。ロンド ン塔内にその張付台が設けられたとき、巷間では〈ェクスター公の娘〉とあざけられ、この刑をうけた人々 も は〈ェクスター公の娘と結婚した〉といわれた。ちょうど、他の不幸な人々が、原理的に全く逆の責め道具 ひ なお、ホウキンズが公の娘と結婚したさいに最初の婚姻が行 本である〈掃除屋の娘〉と結婚したように なわれ、最後の婚姻を結んだのは、一六四〇年に死んだ、不幸なアーチャーであったといわれている。 章 第 張付台は、主として、メアリ女王とジェイムズ一世の治世のあいだに、さかんに活動を開始した。アン・
古代には、軽犯罪の処罰として、犯人を衆人の笑いものにさせる方法も 2 少なくなかった。 フルカ さきにのべたように、ローマ人は二叉の絞首台 ( 第一章参照 ) を、まず最初に、不名誉な罰として利用した。 また、ヨーロッパの法律による焼印も、より恒久的ではあったにしても、同じような目的にかなうものであ った。 これらの懲罰様式は、罪人をはずかしめて、他人のみせしめにすることであった。そのはずかしめは、と きには一生涯のあいだつづいた これを証明する最もはっきりしたものは、ピロリイとストックス ( 両者とも〈晒し台〉だが、前者は頭と手を、 後者は両足を、穴にさしこんで抜けないようにしたものーー・訳者 ) であるが、焼印や、手足などの切断も同様な目的 を果たすに十分なものであった。パイクはその著『イングランドの犯罪史』のなかで、額に烙印のある人々、 ・。つル・び叩 第 5 章晒し刑 1 2 8