彼に「しゃべるな」と命じた。おまけに、そのこめかみに、金槌でイヤというほどの一撃を加えた。 「そんなまねをしないでも ) しいだろう、君」。アンダーヒルは弱々しく言った。それから、低い声でつけ 加えた。「おお、主よ、われに慈悲をかけたまえ、われは弱きものなれば ! 」 モウガーとナイトゴーレゞ、 ノカくるりに薪をつみあげているあいだ、熱心に祈りつづけていたが、準備万端 い「さい整うと、彼は叫んだ。「愛する父よ、なにとぞ、いまいちど、この国に神々しき平和をもたらし、 祝福の言葉を与えたまわんことを ! さようなら、親愛なる友だちょ、わたしのために祈りたまえ、わた しといっしょに祈りたまえ。」 彼がしゃべ「ているあいだに、ナイトゴールはたいまつをつかんで、薪の中〈つ「こんだ。モウガーも ウォルフィットもこれにならい、薪の山はたちまち燃えはじめた。枯れた木がばちばち鳴り、もくもくと 煙が立ちのぼ「てい「た。やがて、ば「と焔が燃えあがると、みるみる猛烈な勢いになり、見物衆の顔に も聖ペテロの礼拝堂の窓にも、白い塔の灰色の壁にも、ぎらぎらする光を投げた。だが、まだ火炎は囚人 にまでとどかなか「た。強い風が西から吹いて、炎をわき〈そらしたのである。けれども、 = 「四秒もす ると、炎は高く燃えあが 0 て、いよいよ苦悶がはじま「た。しばらくのあいだ、彼はうめき声一つたてず に我慢していた。しかし火炎がしだいにのぼってくるにつれて、 いくら必死になっても、責苦の激しさに は勝てなか「た。両手を首のうしろにまわした彼は絶望的にあがきながら、柱の上の方〈せりあがろうと だが、鉄の帯は固く彼を締めつけて離さなか「た。ついで、彼はい「さいの自制力を失「てしま「た。
一七六七年一月一一十四日土曜日。パトリック・レッドモンドという男は街頭で強盗を働いたかどで、ア イルランドのマークで絞首刑の判決をうけ、処刑された。そのあと二十八分以上吊されていたが、群衆は その死体を所定の場所〈運び去った。ところが、その死体は五、六時間経過してから、外科医の手で実際 に蘇生したのである。この外科医は気管切開という手術を行な「て、所期の結果をあげた。なお、処刑さ れた男はその後赦免をうけ、上流社会での募金が行なわれた。記録によると、同人はその日の晩には劇場 に出かけられるほど体力を回復していたと伝えられる。 一八一四年になると、イングランドでは、軍法による判決をのぞいて、絞首刑は極刑を加える唯一の手段 となった。 大逆罪で有罪となった者たちは、絞首刑の執行後に蘇生して死を免れる機会は全く与えられなかった。と いうのも、彼らの判決文はだいたいつぎのようなものであったからだ。 : おまえは刑場にひかれて、そこで、首をくくられ、生きていれば、縄を切られて、おまえの陰部は切 断され、おまえの目の前で焼かれ、おまえの頭は胴体から切り離され、その胴体は四つ切りになって、国 王のおぼし召しどおりに処分される。さらば、おまえの魂の上に慈悲深き神が恵みをたれたまわんこと 1 1 2
第 5 章晒し刑 首さえも、さしこむのである。時として、このような監禁状態においてから、故意に残虐行為が加えられた。 いろいろな時期に、すべての村落に各自の足晒し台を設けさせようとする運動も行なわれた。 この晒し刑は種々の軽犯罪に対する刑罰としても利用されたが、特に過度の飲酒に対する懲らしめとし すうきけい てさかんに利用された。ウルジ枢機卿 ( ヘンリ七、八世の宮廷に仕えた大政治家ーー訳者 ) などはその最たるもので、 一五〇〇年ごろ、イエオヴィル付近のリミントンで、節度のらちをこえたかどで足晒し刑に処された。 足晒し台は法律では禁止されたことはなかったが、十九世紀のはじめには衰微しはじめた。もっとも、ラ グビーでは、一八六七年までも利用された。 多くの村落には、頭や手の晒し台、足の晒し台、笞刑柱などをぜんぶいっしょに組み合わせた仕掛けが備 えられていた。また、足晒し台は、合衆国では、十八世紀中ニューイングランドの諸州でしばしば用いられ、 南部諸州では、奴隷を懲罰するための一般的な方法であった。 ーミンガムのジョン・コットンとか 本章をとじるにあたって、アンドリューズの『古代の刑罰』から、 いう人が作った詩を一篇引用しておこう。 かくて、時代と慣習と人間としきたりは移り変わる。 なべての掟にもまた盛時はあれど 拷責の道具のごとく、晒しの台も おきて 145
まえがき 精神的苦痛以外の目的で、権威のもとで、加えられる精神的、または肉体的加虐」 この定義は、筆者の見解では、当局の直接的な命令によって行なわれるハッキリした残虐行為だけでなく、 実行の方法を指示しないで残虐行為を示唆する当局の命令も含めているものといえよう。 だから、この定義にしたがうと、前 。 1 大戦 ( 一九一四ー一八年の第一次世界大戦 訳者 ) で行なわれたドイツならび にトルコ軍の残虐ぶりは、上層の軍部 当局からの指令によらないで士官や兵 ~ 笞 へ隊によって遂行された蛮行であるから、 拷問とは見られないのである。これに 【の反して、セルビア人に加えられたオー ストリア・ハンガリー軍の残虐行為は、 国際法を無視して、「非戦闘員を処罰 せよ」という明らかな軍司令部の要請 によって煽動されたものであるから、
ヴィッセンデ に応じない者は、上級の自由判事の手にかかって、樹木に吊るされて絞殺された。結社の会員は、十万人以 上にのぼると伝えられた。だが、ついに、ジェローム・ポナバルト王 ( 一八〇七ー一三年にヴストファリアの王 となるーー訳者 ) の命令で、一八一一年に弾圧された。 以上、本章では首吊りを論じてきたわけだが、より以上に苦痛を与えるやり方で ( 危険性は少ないにしても ) 罪人を吊るす法は、まだほかにもあった。 杭刑については、すでにのべたが、それと同じような拷責法はロンドン塔でも利用された。それは、籠手 gauntlet といって、地上九フィートないし十フィートばかりの柱から吊りさげられた二個の鉄製の手袋のこ とである。これを囚人の両手にはめてから、螺子で締めつけ、激烈な苦痛を与えた。また、そのとき囚人の 足はなん段かの木片の上において、籠手に届くようになっているが、木片を一段ずっとり払うと、囚人は手 ガンパウダー・プロット と指で吊りさがらざるをえなかった。火薬陰謀事件で有名なジェラード神父は、この拷問を二回うけたとい う。最初は、五時間も吊りさげられ、二回めは、途中で失神したが、のどに酢を流しこまれて息をふき返し た。神父が自分の手足を完全に使えるようになったのは、二十日後であった。 この責苦を、エインズワースは、その『ガイ・フォウクス』 ( 火薬陰謀事件の張本人ーー訳者 ) で、つぎのよ うに描写している。ここでの犠牲者は、ヴィヴィアナ・ラッドクリフという女性である。 「あなたがヤス パー・イプグレーヴ ? 」ヴィヴィアナは、起きあがって言った。 ビケット フライショフェン 1 2 0
まえがき まえがき 本書の執筆にかかったさい、はじめ筆者は刑罰の手段として、または自白を強いる目的で、利用されるさ まざまな責め道具や責め方を扱う百科事典にするつもりであった。ところが、筆者がこれまで収集した資料 だけでも数巻の書物になるほどの分量があり、そうなると、あまり興味のない事柄まで包含される恐れがで てきた。そこで、筆者は最初の意図をまげて、われわれの祖先が用いた、比較的知られている拷問を紹介し てみることにした。どが、 オ本書に新鮮味を加えるため、二十世紀にも行なわれた拷問に関する一章も忘れな かった。 ところで、まず第一に、〈拷問〉という言葉のほんとうの意義を理解することが大切だと思われるので、 マレイ博士が『新英語辞典』 Z=Q と『エンサイクロペディア・プリタニカ』の中で与えた定義を左に引用 してみた。 拷問劇痛を加えること。たとえば、残忍な暴君、野蛮人、盗賊その他によって、犠牲者の苦悶を見 まもる喜びから、憎悪もしくは復讐のため、あるいはまた強要の手段として、行なわれる。とくに、法的
されば、次週火曜日に、一一 時間のあいだ、ウエストミンスタ さらし ーのパレス・ヤードにて、晒台に 首をはめて、ウエストミンスタ ーより口ンドンの旧取引所まで、 ち 街々をひきまわし、絞首刑執行人 の手で鞭打ちを加えらるべし。ま た、同様にして、旧取引所では、 次週土曜日に、十一時ー一時の二 時間にわたり、晒台に首をはめ : ・ : 焼けた鉄で舌に穴をうがち、額 プラスフェミー にはの字 ( 漬神の頭文字ーー訳者 ) の焼印をおすべし。しかるのち、プリストルへ送り、うしろむきに馬 に乗せ、市中をひきまわすべし。また、同地に到着後、つぎの市の日に、笞刑を加えるべし。その後は、 ロンドンのプライドウエルにて投獄し、いっさい人々との交渉を遮断し、議会により釈放されるまで、苦 役につかせるべし。その間、ペン、インキならびに紙の使用を禁じ、自ら月々の労働にて得たるもの以外 は、なんら救済の手段を与えざるものとす」 朝に 0
第 13 章現代の虐殺行為 情報を信じてもよければ、この秘密機関が今世紀の立役者だといえるわけである。 前述のエカトリノスラヴの石塊は新しい工夫である。しかし、大体のところ、現代の科学的進歩にもかか わらず、これまでは新しい刑具の発明は非常に少なかった ( アメリカの諸州で行なわれている〈ガス殺〉は、死刑囚 をガス室に密閉して殺す方法であるが、これなどは〈電殺〉とともに、最も斬新な刑罰具といえようーーー訳者 ) 。 車輪に縛って回転させながら、つき刺すオーストリア・ハンガリー軍の拷責も、より風雅な〈アラゴンの 車輪〉刑の順序を逆にしただけにすぎない。 ローサ・シュヴァルツは責め道具の目録にタバコを加えた点で は独創的であるが、同じ成果は、過去にも、焼けた鉄棒でもっと効果的に達成されているわけだ。 たしかに、新しい責め道具の発見に関するかぎりでは、二十世紀の前半は案 外つまらなかった。どうか後半もそれ以上につまらなくあってほしいものであ る。 C 耘。ノゞ加磊ょ , 市イ 275
断したのち、舌を切って、まっ赤に焼けた鉄を体につきさした : 一六二三年、インドネシアのアンポイナでフォン・スプウルト総督は、オランダ軍要塞略奪の陰謀嫌疑で、 数名の日本人と、九名の英人に拷問を加えて死にいたらしめた。これなどは大虐殺とはいえないだろうが、 それでも歴史上〈アンポイナの大虐殺〉として知られている ( 注 ) 。 ( 注 ) いろいろな拷責が加えられたが、中でも「手首にひもをかけられて、両手で大きな戸の上に吊りさげられた。し かも、戸柱の天辺の左右にとりつけられた二本の鉄柱に、両手をできるだけひき離してひ「ばられた」。水責めも用 いられたし、また、肉を深く傷つけて、火薬を挿人し、これを爆発させたりした。 一六三一年の三十年戦争でマグデブルク ( ドイツの都市 , ー訳者 ) が占領されたさいも、恐るべき大虐殺が 行なわれた。町は略奪され、およそ六千四百人の死体がエルべ河に投げこまれ、住民は鬼畜のような残虐行 為をうけた。 オトラントの大虐殺には異様な後続事件があった。トルコのメフメット二世は一四八〇年に八百人の聖職 者を殺し、その死骸は十三か月間も埋葬しないでうち捨てられていたが、腐敗のきざしを示さないばかりか、 鳥獣さえこれをけがさなかったといわれる。最後にその死骸はナポリに埋葬された。ところが、一五 = 一七年 に、〈壮麗者〉シ、レイマン皇帝が ( 彼の治世はオス「ン王朝の黄金時代を現出ーー訳者 ) オトラントを威嚇したとき、 248
しになった。ドイツの執行人のなかには、犠牲者に鞭を加える前に、これを毒液の中にひたしたものもある といわれる。 スペインの占領下にあった当時のフィリピン群島の原住民に対しても、牧師や修道士によって、数ある刑 罰のなかでも、一般に鞭打ちの刑が実行された。ホルへ・グラシア・デル・フィエルロは、合衆国委員の 尋間書面 ( 一九〇〇年九月十一日付 ) に対する回答のなかでつぎのように言っている。「小生はドミニコ会、ア ウグスチノ修道会、レコレット会、フランシスコ会などの多くの修道士を知っています。おそらくその数 は二百名に達し、そのなかの数人とは、 かなり親しく交際していますので、彼らのなかで最も優秀な者でも、 暴君であって、フィリピン人には片手でパンを、もう一方の手では籐の鞭を、与えなくてはならないといっ て悦に入っている、と断言することができます。」 本書の研究範囲には、まず入らないとはいえ、みずから進んで自分の体に鞭打ちを加える任意的な自虐に ついて、ひとこと触れておいてもさしつかえあるまし ) 。ほとんどすべての古代宗教は、犠牲または懺悔とし フラジラント て、つまり儀式の一部として、任意的な鞭打ちをとりいれた。なかでもいちばん有名なのは鞭打苦行者とい って、一二六〇年ごろベルーズで一派を興した。彼らは鞭打ちなくして罪の赦免はないと主張し、十字架を 先頭に行列を作って歩きながら裸の背中から、血潮が流れるまで、公然とみずからを鞭打った。だが、つい に弾圧されて、その指導者コンラッド・シュミットは、一四一四年に火刑に処された。 とう 106