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検索対象: 西洋拷問刑罰史
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1. 西洋拷問刑罰史

第 I 章古代の拷問 アッシリア帝国時代になると、戦争もやや人道的になったが、それでも、なお被征服者たちに対しては戦慄 すべき拷間が加えられた。」 殉教史学者フォックスの書から引用したつぎの一文は、西暦紀元以前のシリアで用いられた種々の拷問様 式を如実に例証している。 暴君アンティオコスは自分のまわりに助言者たちと一団の強力な衛兵たちをはべらせて、法廷に着席す ると、多数のヘブライ人を連行させて、豚肉と、偶像に供えた食事をむりやり食べさせるよう命じた。 この命令に応じて、暴君の前にひき立てられたのは、七人の息子と、ひどく年老いた彼らの母親であっ た。そこで、アンティオコスはこんなふうに言葉をかけた。 「おまえたちは、余の特別な友情を信じて、余のいいつけにそむくではないぞ。命令に服する者に恩寵 をかけ、昇進させる権限は余の掌中にあるのじゃ。命令に背く者を処罰する権限も余の掌中にあるのとち ようど同じじゃ。だから、おまえたちが祖国の慣習を放棄して、ギリシャ風の生活に満足するならば、必 ず昇進させて、余のもとで栄誉ある、有利な地位につけてやろうぞ。だが、よいか、余の命令にそむけば、 拷問台と責苦と焔と死のほか、なにも期待できんぞ。」 暴君はこう一言うやいなや、一同の恐怖心をことさらにあおり立てるため、責め道具を運んでくるように 命じた。衛兵らが兄弟たちの前に車輪、張付台、手枷、可燃物、その他の恐るべき刑具をもってきてなら

2. 西洋拷問刑罰史

の泡となり、火あぶりの責苦も四十五分とはかからず、見物人たちはひどくがっかりしたのであった。 ヴィラは、車輪にかけられて三時間も長く生きつづけ、ひとことも不平を言わずに死んだ 生きながらの火刑についての記述を終えるにあたって、一七八七年に喜望峰で起こった興味ある事件を挙 げておきたい。喜望峰は当時オランダの植民地であったが、たまたま土着民と植民者のあいだに紛争が生じ て、ついに、植民者のひとりが殺害されてしまった。そこで、殺人犯が属していた部族の酋長は加害者を探 し出して、処罰するように命じられたのである。この処刑は、つぎのようにして行なわれた。 原住民らが、まず大がかりなたき火をして、犯人を連れてくると、友だちゃ縁者もみんなっきそってきて、 彼に別れを告げた。ところが、彼らは涙を流して嘆き悲しむのではなく、祝宴をはって、踊ったり飲んだり したのである。不幸な犯人は前後不覚になるまで酒を飲まされたが、友人たちはさらに、へとへとになるま で、彼を踊らせた。そんな状態で、彼らは犯人を火中に投じて、犯人を始末してしまうと、そのとたんに身 の毛もよだつような叫喚をあげて、この恐ろしい情景の幕をとじた。 それからしばらくして、あるオランダ人が原住民の一人を殺害した。すると、酋長がやってきて、仲間の 正当な血の償いを要求した。けれども、加害者はたまたま一流の計理士で、工場になくてはならぬ人間だった。 そこで、正義の仮面のもとに、原住民を得心させる便法が案出されたのである。彼らはまず殺人犯の死刑執 行日を指定した。その当日、原住民らは、策略にのせられるとは夢にも知らず、大勢集まってきた。絞首台 0

3. 西洋拷問刑罰史

第 3 章一本のひも 付刑の責苦をうけた一囚人に関するすばらしい記述が見られる。 一七六五年十二月七日 : : : われわれは検察官の要請によって、モントウバンの監獄内にある拷問部屋に 参会した。そして、ピエル・デリュクという囚人をひき出して、拷問にかけたのち絞首刑に処すべしとい う臨時刑事裁判所の判決文を朗読して聞かせた。 そこで、デリュクは執行人の手で衣服をはぎとられ、張付台の上に横たえられた。彼の両足は右の台の 一方の端に固定してある鉄鉤にくくられ、両腕は反対側のローラーにとりつけられた別の鉤にゆわえられ た。このローラーの両側には歯車つきの車輪があった。われわれはデリュクに真実を語るように言い聞か せてから、くだんの執行人に向かって、その腕と脚をくくりつけたひもを強く張るように命じた。 そこで、執行人は三回歯車をまわした上、彼の断罪に関連したすべての事実について質問を行なったが、 デリュクは盗みを働いたおぼえはない、共犯者もいないと抗弁した。そこで、もう三回歯車をまわすよう に命ぜられたが、囚人はやはり真実を語ったと答弁した。さらに三回歯車の回転を命じると、囚人は解放 してくれたら、真実を語ろう、といった。そこで、執行人は囚人を解き放って、ガレー船を出て以来、ど んな盗みや犯罪を重ねたか逐一白状するようにと勧告した : 。ところが、囚人は、真実を語っただけで、 単独で盗みを働いたおぼえもなく、共犯者といっしょに盗みをしたこともないと答えた。 そこで、われわれは、ふたたび執行人に囚人を解放する前と同じ状態になるまでひもを張るように命じ、

4. 西洋拷問刑罰史

「いかん、両手を縛らなくちゃ」 そこで、ふたりの廷吏が彼女の手をひき離して、両の足と同じように、二本の柱にくくりつけた。それ が終わると、いよいよ重しがのせられた。最初彼女はそれを感じると、「イエスさま、イエスさま、イエ スさま、どうかご慈悲をかけたまえ ! 」と言った。それが、彼女がロにした最後の言葉であった。彼女は 十五分くらいでもう死にかけていた。人間のこぶしくらいの、とがった石がひとっ彼女の背中にさしこま 又、ノドレッドウェイトの重しをかけたので、肋骨が れた。そして、上から七ハンドレッドウェイトかノノ、 折れて、皮膚の外へとび出してしまった。 アイルランドの法律による処置は、やや趣きを異にしていたようである。というのも、容疑者は〈故意の 沈黙〉の罪に問われると、答弁の選択権を与えられずに、公然と圧搾刑にかけられたからである。 一七四〇年のことだが、キルケニイ巡回裁判で、マッシュウ・ライアンという男が追いはぎのかどで裁判 にかけられた。彼はつかまった時に、狂人を装った。そして、獄内では着物をぬぎ捨てて裸になり、なんと いっても着ようとしなかった。それどころか、同じかっこうで法廷にも行ったのである。つぎに、彼は唖の ふりをして、答弁しようとしなかった。そこで、裁判官たちは陪審員の選任を命じて、調査のうえ、同人が はたして唖で、天性の狂人であるか、それともわざと装っているかについて、意見を提出するように命じた。 陪審員たちはしばらくしてからもどってくると、〈故意の、偽装した唖と狂人〉という評決を提出した。裁

5. 西洋拷問刑罰史

第 3 章一本のひも 背後につっ立っていた特務曹長は、ただちに命令をくだした。 「軍馬係下士官のシンプソン、おまえの義務を果たせ」 その義務の果たし方であったが、まず、シンプソンは〈ねこ〉を二回自分の頭上でふって、一回の鞭打ち を加え、つぎに、〈ねこ〉の尾を指でしごいて皮膚か肉か血をぬぐいとってから、ふたたび、ゆっくり二回、 自分の頭上でふりまわし、それから、ほんとうの鞭打ちを加える、というぐあいだった。サマヴィルの言葉 を借りると、 シンプソンは命じられたとおり、ねこを手に取った。少なくとも、わたしはそう思うのである。わた しかし、わたしの首下の肩のあいだに恐ろしい激痛を感じ、それが一方では しは彼を見たわけではない。 足指の爪へ伝わり、もう一方では手指の爪へ伝わって、まるで短刀でグサリと肉体を切られたかのように、 わたしの心臓につきささったのである。特務曹長は高い声で「一回」と叫んだ。シンプソンは親切なやっ だから、同じ場所を二度打つまいと思った。二度目の鞭は数インチ下方だったが、打たれてみると、最初 の鞭打ちの方がずっと優しくて、快かったように思われた。特務曹長は「二回」と数えた。 ねこはふたたび下士官の頭上で二度うなり、こんどは右の肩胛骨のあたりに落ちた。記録係の甲高い声 が「三回」と数えた。肩胛骨は、身体の他の部分に劣らぬほど敏感なところだ。つぎに、左の肩に落ちて「四 回」の声が聞こえた。わたしは体中の筋肉が、頭の天辺から足指の爪先まで、ふるえるのを感じた。鞭打

6. 西洋拷問刑罰史

罪の軽重に応じて、ある一定期間は常にこれをはめていなければならなかった。この木枠には封印がほどこ されていたから、こじあけることはできなかった。また、」 用期の満了のさいも、判事の面前でなければ、と り除くわナこ ) ゝ 。 ( し力なかったのである。 支払い不能の債務者も時として、債権者の得心がいくまで、この〈カンゲ〉をつけることを命じられた。なお、 この拷責の特徴のひとっとして、罪人は自分の両手がロにはとどかなかったから、人に手伝ってもらわぬか ぎり、飲食物を口にすることができなかったことがある。したがって、評判の悪い罪人は、しばしば飢えと 渇きのために死亡した。 ビロリイ 晒し台、または〈首のばし〉 st 「 etch Neck も最もありふれた、不名誉千万な懲罰であった。これは木柱と、 地上から数フィートの高さの台にとりつけた枠組とから成り、罪人はその後ろに立って、頭と両手を枠組の なかの穴につつこんで、晒しものにされたのである。もっと複雑なものになると、この枠組は穴のあいた鉄 の輪から成り、数名の罪人の頭と両手を同時にさらすことができた。 この懲罰のきびしさは、その犯罪者に人気があるかないかに左右された。ある場合には、群衆が犠牲者に 瓦礫を投げつけて、殺してしまうこともあった。 一三六四年の話だが、、 ション・デ ・ハックフォードという者が一か年の入牢と、三か月ごとに三時間の首 のばし刑を言い渡された。「帽子も帯も着用せず、裸足のまま、首から胸の辺に〈うそっき〉と刻んだ砥石 を鎖でぶらさげ、道々彼のさきに立って一対のラッパを吹きならすこと」。その罪名は、彼が友だちに、 140

7. 西洋拷問刑罰史

悪い囚人らに向かって、泥や石などの飛び道具を投げつけたし、執行人自身もこのときとばかり、遠慮会釈 レジサイズ なく囚人にいやがらせを働いた。この好例は、国王殺害者たちの死刑執行のさいに見られた。ヒュー ター ( 十七世紀の英の聖職者で、王政復古と共に処刑されたーー訳者 ) はそりに乗せられて刑場へむかう途中、手す りの内側に坐らされたので、いや応なしに友人クックの処刑を眺めることができた。クックはそのあと四つ 切りになったが、そのとき、ターナー大佐は州長官の部下に命じて、切断の光景が見えるようにピーターを そばにつれてこさせた。そして、絞首役人が血まみれた両手をこすりあわせたとき、大佐は意地悪くたずね ハリソン ( ピーター こ。「ほら、ピーターさん、このやり方はお好きかね ? 」同じときに処刑されたトマス・ と同じく、議会軍に投じて、チャールズ一世の死刑執行令状に署名し、一六六〇年国王弑逆者として処刑ーー訳者 ) は腸をえ ぐり出されたのち、むつくり起きあがって、絞首役人の耳をなぐりつけたと伝えられている。 悪名高い犯罪者の処刑後には、しばしば死体を鎖で吊るして、ひとりよがりの悪党どもの見せしめとした。 これは〈絞首台さらし〉 gibbeting の名で知られ、一八三四年にようやく廃止された。死体は、腐敗をふせ ぐために、ときにはタールを塗られることもあった。また、外海で行なわれた犯罪による場合は、その船が 停泊した港の近くで、さらしものにした ( 注 ) 。 ( 注 ) イングランドで最後にさらしものとされた罪人は、一八三二年のジェイムズ・クックであった。 罪人は鎖につながれて、生きながら吊るされたまま、飢え死にした、ともよくいわれてきた。ホリンシェ

8. 西洋拷問刑罰史

そのうえ、さらに三回歯車を回転させた。しかし、それでも頑として犯行を否定するので、さらに三回の 回転を命じて、尋問を行なったが、囚人は一言も答弁をしなかった。 すると親子の監獄医が : : : 事故の発生を防止するため、囚人の状態を検査してから、呼吸がとまってい るから、しばらく解放しないと、窒息してしまうおそれがあると報告した。 この報告のため、われわれは囚人の解放を命じ、ふたりの監獄医の強心剤のおかげで意識を回復すると、 さらに前述の事実について糾問した。しかし、囚人は依然として盗みに加担したおぼえはないと言って、 否認した。 そこで、われわれはふたたびひもをもとの線まで張るように命じ、囚人に糾問をつづけたが、彼は悲鳴 をあげるだけで、なにも答えなかった。さらに歯車を二回転させるように命じて、もういちど訊問したが、 囚人はやはりなにも答えなかった。監獄医はふたたび囚人の状態を調べて、横隔膜の動きが神経のねじれ で止まったことや、右手の親指がひきちぎれたこと、さらに、すっかり解放してしまわなければ、死亡す るおそれがあることなどを報告した。 そこで、われわれは執行人に囚人を釈放するよう命令した : ドイツ人は張付台の拷責に種々の変化をとりいれた。初期には、犠牲者を伸ばし責めにしたうえ、自白す るか、死ぬまで、鞭打ったが、その後ドイツ人は拷間を加えるにあたって、つぎのような新機軸をあみ出した。 4

9. 西洋拷問刑罰史

第 7 章破砕刑 串刺し刑 ( ローマ ) いろいろな犯罪に適用されたが、わけても、国事犯と か、親殺しとか、異端とかの重罪犯に適用された。 ワイリ博士はニュンベルクを訪問して、その著『新 教の歴史』の中で、〈鉄の乙女〉をつぎのように描写 している。 糾問室の恐ろしい試練を経て、なお邪教の取消 しに応じない者は : : この地下室へ案内されるの だ。そして、まず彼の目に映るのは、ほのかなラン プの灯に照らされた〈鉄の乙女〉であろう。彼はそ の乙女の像のまん前に立つように命令される。そし て、執行人がばね仕掛けに手をふれると、乙女は両 の腕をばっと開いて、かわいそうな犠牲者をまっす ぐ、なかへひきずりこんでい ついで、もうひと つのばねにふれると、乙女は両腕をとじて、すっか り中にかかえこんでしまうのだ : : : それから、乙女 179

10. 西洋拷問刑罰史

第 1 章古代の拷問 えでメトラをつれ出したと同じ郊外へつれ出して、同じようにして殺してしまった ( 注 ) 。 ( 注 ) ここで市内というのはアレキサンドリア市のこと。 ペテルもまた同じ運命にあった : まず衣服をはがされて、吊りさげられると、ひどく鞭打たれたの で、肌は裂け、骨が見えるくらいになった。そのあと、彼らは酢に塩をまぜて、これを体のいちばん柔ら かい部分にふりかけ、しまいには、食肉をあぶるように、とろ火にかけて焼き殺してしまった。 トラヤヌス帝のこの ( 第三次 ) 迫害では、前記の人々のほか、ポントウスの司教フォカスもまた受難者 の一人に入れられた。彼は改宗に応じなかったため、トラヤヌス帝の命で、熱い石炭焼きがまの中へ投げ 込まれ、そのあと、刺すような熱湯の中へぶちこまれて、ついに殉教者とし てその生涯をとじたのであった : 記ル加ル・ル・ ル 0 ′′み′ー′ 4 イな′よ