女 - みる会図書館


検索対象: 西洋拷問刑罰史
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1. 西洋拷問刑罰史

女の罪人はまず椅子にかけるのさ。 すねて威張って、えらそうに すると、ぼちゃんと、水中へ だか、「取 , 初は、一つまくいかないさ そこで、女をもいちど椅子に 女はますますいきり立っさ ちょうど、火に水をぶつかけりや ますます火勢があがるよう。 だか、ら、友レ小、ど , つか、もいりど 女を池に沈めたまえ 君かかんしやくおこさぬように 三度でも、四度でも、たつぶり薬を飲ませるさ。 そうすりや、うるさい女房も、気違い沙汰の女っちよも どんな熱火も、水がさましてくれようさ。 ( べンジャミン・ウエスト作 )

2. 西洋拷問刑罰史

第 13 章現代の虐殺行為 のところでは、最後の犠牲者を死人がいつばい詰まった大箱の中にとじこめて、窒息死させた。 シムフォロポルでは、ポーランド人のアチキネは、女の犠牲者をまっ裸にして、目の前を歩かせ、ちょ っと眺めてから、刀をとって両の耳と手を切り落した。女はものすごい責苦に耐えかねて、ひと思いに殺 してくれと頼んだ。だが、アチキネは冷然としていた。最後に、彼は女の上にかがみこんで、両目をえぐ り出し、そのあとで、やっと骨を切断した。 ロシアの中心部では、〈死の冠〉 と称する刑罰も行なわれた。まず、 囚人の頭にゆるいひもの輪をはめ、 これを木の棒で、必要な回数だけね じってしめつけるのである。 ポルシエヴィキたちはまた、ロシ アではきわめて恐ろしい寒気の利用 彼らは罪人らを一 法も心得ていた。 , 列にして、裸にして戸外に立たせ、 時たま、ひとりかふたりを銃殺した のである。当時のロシアの状況は、 い ~ 野獣の餌食となる人々 271

3. 西洋拷問刑罰史

第 5 章晒し刑 カッキング・ストウール この懲罰椅子はのちにダッキング・ストウール Ducking-Stool ( 水責め椅子 ) と混同されたが、後者は〈じ やじゃ馬〉またはロやかましい女をこらしめる方法のことで、ふたつの一一一一口葉がいつのまにか同意語になって しまったのである。水責め椅子は角材の末端に椅子をと りつけて、これを川または池の上につき出し、ふつう三 回罪人を水につけるものである。 友よ、あそこの池の中に 水責め椅子という仕掛けがあるんだ。 おきて 掟のカできまったもので 町の歓喜で、恐怖の種さ。 けんか うるさい女が喧嘩をたきつけ ぞうごん 悪口雑言ののしり騒げば もしまた、うるさい女ががみがみ言って 喧々ごうごう、家中、どなりちらせば 君は表にとび出して、椅子の世話になるがよい では、教えよう、舌をおさえる方法を。 7 0 水責め椅子 ( 『昔の刑罰』から ) 1 3 5

4. 西洋拷問刑罰史

ダッキング・ストウール 水責め椅子は一八〇九年まで残存したが、この年には、ジェニイ・パイプスという一婦人が、治安判事の 命令で、レオミニスターの街頭をひきまわされたうえ、町立の水責め椅子で水づけにされた。 また、水責め椅子はアメリカでも普及し、メアリ・ディヴィスという女性が一八一二年に大衆の前で公然 と水責めの刑にあった。そして、これはイングランドよりも、ずっと後まで存続したようである。たとえば、 ・アンドリューズによれば、一八九〇年八月八日に、アンニイ・ポープという未婚の女性が近所迷惑なが みがみ女であるかどで告発されたが、治安判事は水責め椅子をもたなかったので、オッタワの巡回裁判に審 理をゆだねた、という。 おり 外国では、水責め椅子を改良して、水責め檻が発明され、いろいろな犯罪者の懲罰に利用された。この種 の檻はふつう樫材を材料とし、高さおよそ六フィートで、水責め椅子と同じような用途をもっていた。時に は座席のついた檻の中に罪人を閉じこめてから、檻をなん回も水中につけては引きあげたので、罪人は、し まいに溺死しそうになったくらいである。 がみがみ女を処罰する、もうひとつの方法として、〈プランク〉 Brank ( くつばみ ) または〈がみがみ女の くつわ〉 scold's Bridle といって、女の顔にかぶせる鉄の仮面があった。その突出した部分が彼女の舌を押 刑 し さえつけるので、ロがきけなかった。そのようなマスクをかぶって、町中をひきまわされたのである。また、 この懲罰はヨーロッパ一帯でさかんだった。突出した部分は一般にさきの丸い鉄片だったが、トゲのある大 章 第陸型もあって、これをはめると、舌がひき裂かれた。ラッドロウ博物館には、怖るべきくつわが展示してあ かし 1 3 7

5. 西洋拷問刑罰史

拷問を考察し、さらに、その他の国々による異常な刑罰法に言及すれば、当面のわれわれの目的は十分果た すことができょ一つ。 ちけい エジプトでは、ふつうの刑罰様式としては、重罪に対しては、絞首刑があったが、軽犯罪に対しては笞刑 が一般的であった。女の場合は脆座した状態で、また男の場合は、大地に腹ばっている状態で、笞刑を加えた。 犯罪者たちは衣服をはぎとられて、その背中を殴打されるわけだが、この種の鞭打ちは猛烈なもので、女奴 隷との姦通が露見すると、男は千回からの殴打をうけた。自由な身分の女と姦通すれば、障害者になるほど の刑罰をうけ、どんな場合でも、その罪を犯した女は鼻をけずり落とされた。 虚偽の告発をなした者も、容疑者が真犯人である場合にこうむる刑罰と同じ刑罰を受けた。 古代の諸国で、最もきびしい刑罰を課されたのは親殺しで、鞭で残忍なこらしめかたをしたり、鋭い葦で 肉体を引き裂いたり、 いばらの中に投じてころがしたうえ、火刑に処したりした。一方、自分の子供を殺し た親は、その死体を首にくくりつけて、三日三晩暮らさなければならなかった。 古代エジプト人は捕虜を縛ることにかけては、異常なアイデアを見せた。彼らは他のどんな民族にもまし て、一本のひもが与える苦痛を良く知っていた。囚人たちを連行するときは一列縦隊を作らせて、首と首を 代結びつけた。そのひもは窒息死のおそれがない程度に、できるだけしつかり彼らののどにまきつけられてい 古 た。また、両肘は背中で固く結びあわされ、両手は頭上に不自然な状態で縛られて、うしろへねじまげられ、 章 両の手首は首にしつかりと巻かれたひもにゆわえられていた。でなければ手首を腰に縛って、両肘をその前

6. 西洋拷問刑罰史

て、鞭の末端に金属の輪をはめ、これに長さ九インチの、第二の鞭をつけ、その末端の輪にさらに数インチ かぎ の堅い皮革をつけて、さきを嘴形の鉤にしたものである。 た力いちばん もうひとつのクノウトは、鉄線と絹糸を編みあわせた鞭で、先端には針金がついていた。ゞ ありふれたクノウトは、長さ一フィートの木製の取っ手に、長さ約ニフィートの数本の革ひもを、よりあわ せてとりつけたもので、その先端には、長さ一フィート半の、先細になった、一本の頑丈な革ひもがとりつ けてあった。そして、執行人は、罪人の血で柔らかになりすぎると、これをとりかえることもできた。なお、 先端はしばしば牛乳にひたして、凝結するようにした。 ーシイ奇談』によると、博愛主義者のハワード ( 英の監獄改革の先駆者ーー訳者 ) は、ペテルスプルグに滞 在していたおり、ふたりの罪人が、ひとりは男で、もうひとりは女だったが、このクノウトの刑罰をうける ところを目撃した。 , 彼らはおよそ十五人の軽騎兵と十人の兵隊に護衛されて、監獄を出た。そして、刑場に 到着すると、軽騎兵たちは笞刑柱のぐるりに円陣を作った。一、二分太鼓が鳴り響いて、祈祷がくり返され ると、群集はみんな脱帽した。まず女が最初にひき出されて、腰の辺まで丸裸にされたのち、両手を縄で柱 彼も、彼の主人も屈強な体をしていた。最初、 にくくりつけられた。ひとりの下僕もこの処刑に加わったが、′ ひ 本下僕が地面にしるしをつけて、女の背中を五回鞭打った。一回ごとに、鞭は彼女の肉に深くくいこむように 思われた。けれども、彼の主人は、それでも手ぬるいとばかり、下僕を横におしのけて交替し、残った回数 章 第をぜんぶ自身でやってのけた。それは明らかにより激烈な鞭打ちであった。けつきよく女は二十五回、男は 101

7. 西洋拷問刑罰史

最も崇高な仕事であった。けれども、今や、新しい予一一一口者の命令で、永遠に戦争放棄を誓い、新しい愛の 宗教をとりあげようとしていた。 ところが、米軍の手先であったひとりのインディアンは、当然のことながら、なにも知らないうえ、そ の任務にぜんぜん不適当な男だった。彼はその踊りは出陣踊りだといった。そこで、軍隊が召集され、イ ンディアンたちはパイン・リッジ付近のウウンデッド・ニーという場所に集められた ( 一八九〇年十二月 二十九日 ) 。彼らは命令に従って、ライフル銃をひき渡していた。ところが、まだ武器をもっていたひとり しつよう ・けっこう の若いインディアンは、兵隊たちの執拗な武器捜索に激昂して、彼らに発砲してしまった。それがだれか に命中したとは報告されていないが、とにかく、その回答として一斉射撃があびせられ、インディアンの 男たちは半数射殺された。そのあと一分もしないうちに、四台のホチキス機関銃が事実上囚人にも等しい さつりく 武器なき群衆にむかって火蓋を切った。こうして、男百二十人と女子供二百五十人が、またたくまに殺戮 され : : : 白人の兵隊らは、生き残りや負傷者を山の中まで追跡して殺してしまった。 ほとんどすべての死体は、〈戦い〉が始まった場所の近くに横たわっていたが、女子供の死体は衝突の 現場から二マイルにわたってそこかしこに散らばっていた。そのことは、逃げる途中で殺されたことを物 殺 虐 語っていた。 大 また、男たちは女たちから離れて一団となっていたから、誰も偶然だとはいえなかった。これらの暗殺 章 川者らは、だれひとり当局の手で処罰されなかった。ロシアの皇帝ニコラスの親衛隊が、命令をきかずに一 いっせい 261

8. 西洋拷問刑罰史

ゞを・ゃード 裸にされ、公衆の面前で鞭打たれる女 ( 15 世紀 )

9. 西洋拷問刑罰史

彼らは女たちのスカートを頭上にまくりあげて、固くゆわえると、そのよう 暴な怒りをぶちまけたのだ。 , バ -L ア . ル な浅ましい姿勢のまま彼らの懲罰を受けさせたのである。つまり、白百合の花の形をした平たい棒にはめ こんだ釘で、女たちを連打したので、しまいに、体から血がほとばしり、悲鳴は空をつんざいた。八月の 十四日と十五日はとりわけ、この種の残虐行為で有名となった : お産もま近いラト夫人は、六十人ばかりの最も純粋なカトリック教徒に襲われた。彼らはこぶのついた 鞭や平たい棒や石などを手にして襲いかかったのである。かろうじて即死をまぬかれたが、早産のため生 命を全うすることは、たみたいていのわざではなかった。赤ん坊は息をするひまもなく、息絶えた。また、 母親はピストルを発射されて、すでに片目を失っていた。赤ん坊の死、母親のみじめな境涯、その苦悶と 恥辱、すべてこれはカルヴィン主義を奉じた罪のゆえに加えられた刑罰だった。 ゴウティエル夫人とドメルケ夫人も、同じ時期に同じようなはずかしめを受けた。ルボウル夫人は負 傷を受けてから数日たって死亡した。娘のべヌエットは、男女の非道な野次馬連中に加勢された、メルル という若者に襲われて、釘つきの棒でめった打ちにされた。 ( 井戸に投げこまれて溺死した ) ピノネットの娘 のひとりは、彼女がうけた虐待のせいで死亡した。ある孤児の姉妹のうち、ひとりは恐ろしさのあまりカ トリック教徒となったが、もうひとりは、生命の危険を賭しながら、自分の信仰を捨てることを拒絶した。 ひとりの女の召使いは、一糸まとわぬ丸裸にされて、血まみれのまま路上に放置され、下劣な衆人の笑い ものとなった。しかし、ひとりの兵隊が自分の大外套をぬいで、彼女の上にかぶせ、町へ送っていった。 フルール・ド・リス 104

10. 西洋拷問刑罰史

自分で加える拷責は、本書のまえがきで定義した〈拷問〉という語の意 義には充当しないけれども、おそらく読者は、この一章を加えても反対は なさるまい。なぜなら、自虐的責苦も拷問史の中ではかなり興味もあり、また、ある程度ながら、われわれ の祖先が信念のカで恐ろしい責苦にいかに耐えたかを示しているからである。 インドの聖者たちは、みずからを鞭打って、鞭打ち苦行者と称されたが、拷問の見地からすると、あまり 苦重要ではない。しかし、鞭打ちは、鞭打ち苦行者を別とすれば、しばしば、宗教的な熱意のため、もしくは な肉体を苦しめるために、自分の手で加えられたり、犠牲者の要望で他人によって加えられたりした。こうし ちょうちゃく 虐 た打擲はまた、往々、純然たる性的乱行に変わることもあった ( 注 ) 。 ・目 ( 注 ) フィレンツェのカルメル会の女子修道士で、パッツイのマリア・マグダレナという女は、一五八〇年ごろ、その 章 鞭打ちで名をあげ、年代記にも記録されている。修道院長に彼女の両手を後ろ手に縛らせ、修道女たちの集まってい 第 第Ⅱ章自虐的な責苦 235