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検索対象: 西洋拷問刑罰史
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1. 西洋拷問刑罰史

二十歳くらいのある若い女は、自分よりも貧しいカトリック教徒と婚約していたが、婚礼は新教の教会 であげることを条件としていた。その間、百か日の期間があった。そのため、情勢が変わって、若者の縁 者たちが彼に婚約を破棄するようにと説得した。若者は若い娘のところへ出かけると、婚礼をあげるなら、 カトリック教会であげるべきだと要求した。だが、女は決心を変えなかったので、婚約は解消された。そ して、彼女は街頭で捕えられたが、かっての婚約者も襲撃者らの仲間に加わっていた。彼女は噴水のある 場所へひきずっていかれた。それから一同は口々に「国王万歳 ! 」と叫びながら彼女を鞭打ち、言葉や行 為の上で、言語に絶するはずかしめを加えた : こうした蛮行が数か月もつづいた。カトリック教徒の弁護士デュラン氏は、こう言っている。「わたし はプルガド郊外で、暗殺者どもが鋭い釘を百合の花の形をしたバトアルに打ちつけているところを見た。 また、彼らが婦人たちの衣服をまくりあげて、そのバトアルで血が出ている肉体を激しく殴打しているの も見た。受難者の悲鳴ーー流れ出る血潮 , ーー恐怖におしつぶされた怒りのつぶやきも彼らの心を動かすこ とはできなかった。死んだ人々を検視した外科医たちは、その負傷のあとや、彼女らが耐えた苦悶の表情 も から、どんなに恐ろしくとも、この記述が絶対うそでないことを証言することができる。」 ひ の 本 ドイツ人もまた、責め道具として、鞭を使ったが、それは、短い木製の取っ手にひと房の鉄線をとりつけ 章 第たもので、各しもとの末端に先のとがった環があって、このため背中の肉ははがされて、骨と筋肉がむき出 105

2. 西洋拷問刑罰史

第 12 章大虐殺 謀計画は実行に移される前夜に発覚して、挫折した。しかし、オニールはすでに武装していたので、一般的 な大虐殺がおこった。また、チャールズ一世は自分の私用にかかわりすぎていたので、この虐殺は数年間も つづいて、四万から五万の人々が殺戮された。だが、クロムウエルの怖るべき虐殺によって、この小規模な しゅうそく 暴動もついに終息したのである。当時の模様を一六八〇年に刊行された『イギリス新教徒のための覚え書』 から少しひいてみよう。 アイルランド人の旧教徒た まく。 ちは異ロ同音にアイルランド 。 = りわた 、朝 ~ ずりん ( ・立き張死 中の新教徒を一掃しようと決 を杭一 だが呪うべき計画を」。 ( 、 泥ら 実行しはじめた当初は、こだ が彼飢 徒と 新教徒を戸外へ追い出して衣 = ご教あ痛 新の苦 服をはぎとる程度だった。け のそ ン図れ れども、やがて自分たちがい ラるさ ルれる たるところで優勢なことがわ ィさ吊 アわに かると、ついには男女も子供 243

3. 西洋拷問刑罰史

も、情容赦なく殺戮した : ・ コレラインの町では、なん千人もの新教徒が二日間で殺害されたので、生き残った者が死者を埋葬する こともできず、死骸を荒野に晒したり、大きな穴にほうりこんだりした。まるでにしんででもあるかのよ うに積みかさねて マグダレン・レッドマンという女の話によると、彼女もそのほかたくさんの新教徒も ( その中には二十二 わら 人の寡婦もふくまれていたが ) 、最初は盗まれ、つぎにまっ裸にされた。そして、みんなが藁で体を包むと、 りよ - つじよく 血に飢えた凌辱者たちは藁に火をつけて投げこんだ : カセルでは一味はあらゆる新教徒をいまわしい地下牢におしこんで、十二週間も、ひどく悲惨な状態で 監禁した。中には、無慈悲にも首を絞められたものもあれば : : : 一一度も三度も吊るしあげられたものもあ り、また、生き埋めになったものもあった。アルマグ州では、一味は多くの新教徒に略奪を働き、衣服をはぎ、 殺害した。あるものは刀で斬り、あるものは焼き殺し、あるものは餓死させた。ある若いスコットランド 人の女は子供を奪われ、一味の者はその子供の足をつかんで、樹木にたたきつけて脳味噌をたたきつぶし ろうぜき た。彼らはほかの多くの子供たちにも、同じような狼藉を働いた。スリゴの町では、四十人の新教徒が裸 にされて、穴蔵の中に監禁された。そして、夜半ひとりの屠畜人がまぎれこんで、斧でみんなを虐殺した。 パトリック・ダンスタンの妻を夫の目の前で強姦し、使用人たちを殺し、子供たちを蹴殺 一味はサー した。それから、主人を木に縛りつけて、両目をえぐり出し、耳や鼻を切りとり、頬をそぎ、腕や脚を切 ごうかん おの

4. 西洋拷問刑罰史

第 12 章大虐殺 1642 年のむごたらしいアイルランド虐殺で演じられた殺伐な風景 ( 約 4 万人の新教徒が旧教徒の手で血祭りにあげられた ) 〔 / いヾこ第 245

5. 西洋拷問刑罰史

彼女たちにけしかけたので、みんな噛み殺されてしまった。その返報として、スウェイン王はイングランド を攻撃して成功をおさめ、一〇一三年に国王の位についた。 グ . ッド・フ一フィデー エドワード一世は一二九六年の受苦日にべリック ( スコットランドの都市ーー訳者 ) を占領して、その住民お よそ八千人を虐殺し、町会堂で彼に反抗したフランダースの貿易業者たちを生きながら焼き殺した。この大 虐殺の結果、べリックは北部の主要な商業都市から、とるに足らぬ海港の地位に転落してしまった。 また、一六四九年八月十一二日、ドローエダでは、オリヴァ・クロムウエルがエドワード一世の手本になら って、約二千人の男女子供を虐殺した。多数の者は教会へ逃げこんだが、クロムウエルは教会に火を放つよ うに命じたので、彼らはみんな焼き殺されてしまった。また、剣や焔を免れた住民はバルバドス ( 英領西イン ド諸島に属する島ーー訳者 ) へ追放された。この大虐殺のため、オリヴァ・クロムウエルの名は常にはずかしめ むほん られてきた。いや、それどころか、グレンコウの謀反家大虐殺を除いて、イギリスの歴史家たちの怒りをこ れほどかき立てた事件はほかになかった。だが、ドローエダ大虐殺を恐れるあまり、歴史家たちは一六四二 年のアイルランドの小規模な虐殺事件を忘れているように思われる。これはクロムウエルの虐殺を正当化す る事件でもあったわけだ。 つまり、一六四一年のことだが、圧制的な取締り条令のために、財産を没収されて虐殺されたアルスター のカトリック教徒たちは、アイルランドに定住したイングランド人たちを根絶しようという陰謀をめぐらし しゆかい た。ロジャー・ムアが反乱者の首魁となり、リシュー枢機卿がフランス軍の援助を約束した。だが、この陰 242

6. 西洋拷問刑罰史

第 3 章一本のひも 事でも自分でしなければならなかった。 ( 注 ) もちろん、絶対に潔白な人々が拷責にあって自白する事例は多い クノウト ニコラス皇帝は、この笞刑を廃止し、そのかわりに、三本の皮ひもっきの鞭〈プレティ〉 p 一 e ( 一を採用した。 ローマでは、軽犯罪の刑罰として、特殊な型の笞刑が行なわれるならいだった。それは〈カヴァレット〉 cavalette と呼ばれた。まず罪人をテープルにうつ伏せに縛りつけて、衣服を固く体に密着させてから、判 決文で命ぜられただけの回数の鞭打ちを加えたわけである。だが、相当頑強な罪人どもは、この程度の懲罰 では少しもへこたれず、一回打たれるごとに、違った聖人の名を口にしたという。 フランスでは、一八一六年に、女性の新教徒に対して、特殊な形態の鞭打ちが加えられた。その恐るべき 情景描写が、マーク・ウイルクス MarkWilks 著『フランス南部の新教徒がこうむった迫害の歴史』 ( 一八二一 年 ) のなかに見られる。 フランス中どこでも同じだが、ニスムでも、住民は噴水のあるところとか、河のほとりとかで衣服を洗 濯するならいで : : : 毎日、大勢の女たちが水辺にひざまずいて、羽子板の形をした重い木片でリンネルを たたいている光景が見かけられる。この洗濯場が、この上なく残忍で、みだらな慣行の舞台となったので ある。カトリック教徒たちは、新教徒の妻や寡婦や娘などに対し、新たに発明した責め道具を使って、狂 103

7. 西洋拷問刑罰史

くだんの八百の亡霊が天使の一群に伴なわれて出現した。さらに、一六四四年にも、同じ亡霊の軍勢が現わ れて、トルコの攻撃を阻止した。そして、この殉教者たちの軍勢が見えなかったと公言した連中はみんな異 端者として死刑に処されたー 一五〇二年、シニガグリアの城では、ケセアレ・ポジャ ( イタリアの聖職者で大司教ーー訳者 ) が、彼に反逆 したイタリアの大公達を大勢絞首刑にして、くびり殺した。 テオドラ ( 東ローマのユスティアヌス一世の妃、五四八年没ーー訳者 ) は、およそ十万人のキリスト教徒を絞首刑 や火刑、または斬首刑に処したといわれている。 しかし、以上の大虐殺も、フランス南部で、なん百年も荒れ狂った新教徒ュグノー派に対する恐るべき大 虐殺にくらべたら、児戯に等しいといえよう ( 注↓。おそらく、中でも最も凄惨をきわめたのは、一六八五年 の竜騎隊のそれ ( 注 2 ) か、一七〇三年の、小規模ながら重大なニスメの虐殺であろう。同市の新教徒の会衆は、 ひとりの少女を除いて、全員礼拝堂で射殺されるか、焼き殺されるかしたわけである。また、のがれた少女 も翌日は首をくくられたのである。 ( 注 1 ) これらの大虐殺は一五六二年の宗教的内乱中に、フランスで発生した。恐るべき虐殺は、双方の側で行なわれ た。・ < ・フロウド著『エリザベスの治世』によれば、「南部からの情報がより以上に恐ろしいものであった : 夏も終わりかけたころ、オレンジというュグノー派の町がカトリック教徒の掌中におちた。住民たちは、ずたずたに 切り刻まれたり、とろ火で焼かれたり、あるいは、むごたらしく手足を切られて死んだりした。若い人妻や乙女たち 250

8. 西洋拷問刑罰史

おいをを第を 英の新教徒迫害 ( ヘンリ 4 世の治世にロンドン付近で )

9. 西洋拷問刑罰史

うに、太鼓がとりまいていた。それでも、彼の声は非常にかん高かったので、たえず太鼓の響きを圧して、 同門の人々にキリストの教えに忠実なれと訴える声が聞こえた。処刑台の下までくると、一同は彼に手を かして壇上までのぼらせなければならなかった。というのも、靴形刑の責苦で両脚をずたずたにされてい たので、体の重みを支えきれなかったからである。そのあいだずっと、彼は、胸もはりさけんばかりに泣 いていた新教徒たちを慰めたり、訓戒の言葉を与えたりした。いよいよ壇上にあがると、彼は自分から X 形の十字架に身を横たえたが、執行人は衣服を脱ぐように命じた。そこで、彼が微笑をうかべて立ち上が ダブレット ると、執行人の助手は上衣とズボンをとり去った。 彼は靴下をはかずに、傷ついた脚のぐるりには、ほうたいを巻きつけていたので、自分でそのほうたい をとり除いた。それから、シャツの袖をひじのところまでまくりあげると、執行人はそのままのかっこうで、 しようよ - っ もういちど十字架の上に寝るように命じた。ポエトンは前と同じように、従容として体を横たえた。する と、助手は手足の関節の部分をひもで縛り、準備が終わると、壇上からひきさがった。つづいて、執行人 が前にすすみ出たが、その手には取っ手のところが丸くなった、長さ三フィート、幅一インチ半ばかりの、 四角い鉄棒がにぎられていた。 ポエトンは鉄棒に目をとめると、急に讃美歌を歌い出したが、たちまち、かすかな叫びをあげて歌を中 断した。執行人が彼の右脚の骨を砕いたからである。けれども、彼はそのあとすぐふたたび歌いはじめた。 そして、執行人がつぎつぎに、右の腿、左の腿、左右の腕と、二か所ずつ砕いていっても、いっかな歌を 168

10. 西洋拷問刑罰史

闘員を拷問にかけよ、というような一般的な指令は、ぜんぜん出ていなかったようで、数々の残虐行為は、 すべて士官か兵による個人的な蛮行だった。その中でも、いちばんありふれていた犯罪は、殺人だった。も しくは、女性の場合は、殺害以前に凌辱することであった。 オーストリア・ハンガリー軍のセルビア侵略になると、また事態が異なり、・ < ・ライス博士によると、 同国の軍隊はセルビアの非戦闘員に凶行を加えるように、はっきりと激励されていたのである。そのさい侵 入軍の宗教的な感情も利用されたが、こ れは蛮行をすすめるための常套手段であ った ( 注 ) 。 ( 注 ) たとえば、セルビア生まれのオース トリア・ハンガリー軍の兵隊は、回教徒 かローマ・カトリック教徒の戦友からも らわないかぎり、水を手に人れることは できなかった。 (x ・ < ・ライス Reiss 博 士著『セルビア王国。第一次のセルビア侵 人当時のオーストリア・ハンガリー軍によ る残虐行為に関する報告』 The Kingdom 一 J 266