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検索対象: 西洋拷問刑罰史
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1. 西洋拷問刑罰史

で、最も一般的なものは前記のイギリス式に似たものであった。なかでもいちばん恐ろしいのは、両端に動 かすことのできる横桟をつけたオーストリア式梯子だが、これについてはあとでふれることにしよう ( 注 ) 。 ( 注 ) 一八三二年の『ザ・ペニー ・マガジン』誌によると、リンガード博士はイギリスの張付台を左のように説明し ているという。「地上三フィートのところに設けられた、樫材の大きな、台なしの枠。囚人はその下に、床にうつ伏 せに横たえられ、手首と足首は枠の末端の二個の柱環に二本のひもでゆわえつけられる。それから、テコで逆の方向 に動かされると、体は地を離れて枠と水平になる。そのとき、いろいろ尋問されるわけだが、もし回答が満足なもの でないと、受刑者は骨の関節がはずれるまで、しだいに引き伸ばされる。」右の説明によると、二本の動かすことの できる横桟がイギリスでも用いられたらしいが、これまでのところ、まだそうした張付台は発見されていない イングランドでは、ほかの国々と同様に、張付台は、それほど広く利用されなかった。イングランドに初 めて伝えられたのは一四四七年のことで、紹介者は第四ェクスター公のジョン・ホランドであった。ロンド ン塔内にその張付台が設けられたとき、巷間では〈ェクスター公の娘〉とあざけられ、この刑をうけた人々 も は〈ェクスター公の娘と結婚した〉といわれた。ちょうど、他の不幸な人々が、原理的に全く逆の責め道具 ひ なお、ホウキンズが公の娘と結婚したさいに最初の婚姻が行 本である〈掃除屋の娘〉と結婚したように なわれ、最後の婚姻を結んだのは、一六四〇年に死んだ、不幸なアーチャーであったといわれている。 章 第 張付台は、主として、メアリ女王とジェイムズ一世の治世のあいだに、さかんに活動を開始した。アン・

2. 西洋拷問刑罰史

苦 」郊い、責 ぶりが認められていた。というのも、この刑罰は当時絞首刑にして絞 首台にさらしものにするよりも、はるかに穏当だと考えられたからで ある。これについては、サー・ウィリアム・プラックストン ( 十八世 紀英国の法律家、『イギリス法注解』の名著があるーー訳者 ) が、つぎのよう に書いている。 女性に対する礼儀上、はだをむき出しにして、公然と大衆の前で せめさいなむようなことはできないから、その処刑は、絞首台へ連 行して、そこで生きながら火あぶりにするようなことになる。 ( 注 ) イングランドで火あぶりにされた最後の女性は、クリスチャン・マ ーフィで、一七八九年に刑死している。 宗教裁判所は、死刑を宣告する権限がなかったので、異端者の火あ ぶりは最初法的な刑罰としては認められなかった。だが、一四〇〇年 に、異端者火刑 de haeretico comburendo の制定法が通過して、異 端者の法的刑罰としての火あぶりが法律の一部として認められるよう になった。この制定法は一五三三年には廃止されたが、一五三九年に

3. 西洋拷問刑罰史

ところで、普通法のもとで、最初に火あぶりになった女性は、キングズ・リン ( イングランドの有名な海港 , ー訳者 ) の年代記によれば、一五一五年に、ある女が夫を殺害したかどで、この刑罰をうけたのが最初で あった。また、この同じ町で、マーガレット・リードが一五九〇年に魔術の件で火あぶりとなった。 一七二二年、夫殺害のかどで火あぶりの刑を言い渡されたエリナー・エリサムは、まずタールをしみこま せた布をまとわされ、手足にも同じタールを塗りたくられ、頭にはタール塗りのポンネットをかぶらされた。 そして、裸足のまま監獄からひき出され、そり形の運搬車にのせられて、絞首台の近くの刑場へひかれてい った。 刑場に到着すると、しばらくのあいだ祈祷があげられ、そのあと、執行人は火刑柱にもたせかけた、高さ 三フィートばかりのタール樽の上に女囚のからだをのせた。火刑柱の滑車に一本のロープを通し、首のまわ りに垂らすと、彼女は自分から両手でこれを締めつけた。彼女のからだは三本の鉄鎖で柱にいましめられ、 ロープが強くひかれた上、タール樽がわきにおしやられ、最後に火が点ぜられた。 『リンカーン日誌』によると、彼女はすでに火の手がとどくまでに、死んでいたとみられている。執行人が 鉄鎖を固定させているあいだに、なんどもロープをひつばったからである。薪がよく乾いており、タールの 量が多かったせいもあって、火の勢いは物凄かったが、約半時間にわたって、火焔につつまれた女体が眺め られた。 ( ウィリアム・アンドリューズ William And 「 ews 著『昔の刑罰』 0 ミ , ゴ me p ミüshments から ) もっとも火あぶりで焼かれる前に女囚を絞め殺す試みは、必ずしもうまくいかなかった。キャサリン・

4. 西洋拷問刑罰史

「いかん、両手を縛らなくちゃ」 そこで、ふたりの廷吏が彼女の手をひき離して、両の足と同じように、二本の柱にくくりつけた。それ が終わると、いよいよ重しがのせられた。最初彼女はそれを感じると、「イエスさま、イエスさま、イエ スさま、どうかご慈悲をかけたまえ ! 」と言った。それが、彼女がロにした最後の言葉であった。彼女は 十五分くらいでもう死にかけていた。人間のこぶしくらいの、とがった石がひとっ彼女の背中にさしこま 又、ノドレッドウェイトの重しをかけたので、肋骨が れた。そして、上から七ハンドレッドウェイトかノノ、 折れて、皮膚の外へとび出してしまった。 アイルランドの法律による処置は、やや趣きを異にしていたようである。というのも、容疑者は〈故意の 沈黙〉の罪に問われると、答弁の選択権を与えられずに、公然と圧搾刑にかけられたからである。 一七四〇年のことだが、キルケニイ巡回裁判で、マッシュウ・ライアンという男が追いはぎのかどで裁判 にかけられた。彼はつかまった時に、狂人を装った。そして、獄内では着物をぬぎ捨てて裸になり、なんと いっても着ようとしなかった。それどころか、同じかっこうで法廷にも行ったのである。つぎに、彼は唖の ふりをして、答弁しようとしなかった。そこで、裁判官たちは陪審員の選任を命じて、調査のうえ、同人が はたして唖で、天性の狂人であるか、それともわざと装っているかについて、意見を提出するように命じた。 陪審員たちはしばらくしてからもどってくると、〈故意の、偽装した唖と狂人〉という評決を提出した。裁

5. 西洋拷問刑罰史

まえがき ( 一六一〇年パリ議会の議事録から抜粋翻訳 ) 一六一〇年五月二十七日の午後ラ・ボウヴェット室にて裁判を開廷。 われわれ議長ならびに数名の弁護士が臨席した法廷に、囚人のフランソア・ラヴァヤクが連行された。 きざ 前王暗殺のかどで告発されていた彼は跪座を命ぜられて、法廷書記は彼に死刑を申しわたすと同時に、共 犯者についての自白を強いるため、当然拷問にかけるべきだと宣言した。 まず彼の誓約がとられてから、彼を扇動して最も凶悪なる行為に走らせた者たちがなにびとであり、ま た、なにびとに犯行の意図を打ちあけたかをありのまま白状して、彼自身当面の責苦から免かれるよう勧 告された。 だが、彼はきつばりと、自分自身以外のなにびとも、この行為には関与していないと答えた。 あしかせ そこで、命令により足枷刑 ( 靴形刑 ) の拷問にかけられたが、最初のクサビが打ちこまれると、彼は大 声で「神よ、わが魂に慈悲をかけ、わが犯したる罪をゆるしたまえ。わたしは決して誰にも自分の目的を もらしはしなかった。」と叫んだ。 二番めのクサビが打ちこまれると、さらにかん高い悲鳴が続いた。「わたしは罪人です。誓いを立てて 申しあげたこと以外なにも存じません。すでに申しあげましたように、わたしがしゃべったのは、あの小 ざんげ さなフランシスコ会士にだけです。懺悔にしても、なんにしても、一度も自分のたくらみを口外したこと はありません。アングレームに訪ねてきた人にもしゃべりませんでした。この町でも懺悔のときにも、も

6. 西洋拷問刑罰史

スペイン宗教裁判所による審判が完了すると、演劇の中の最後の段が演じられた。これはオウト・ダ・フェ autodafe で、つまり、罪人に火刑を宣告して、俗権にひき渡すことだった。 犠牲者の中には、火刑以前に絞殺されたものもあるが、比較的頑固な異端者は、すでに述べたように、 つものやり方で生きながら火あぶりにされたのである。あらゆる国の異端糾問所を通じて、火刑は最後を飾 る終幕であったから、本章も、ウイルコックス氏 ( あとにグロスターの司祭となる ) から、当時ソールズベリの 司祭だったギルバー ・バーネットにあてた、リスポン発信、一七九六年一月十五日付の書簡を引用して、 最後を飾ることにしょ一つ。 いることがすぐにわかった。さらに仔細に吟味してみると、鋭くとがった釘や短剣や小刀の刃などが尖端 を外に向けて、身体の前面をくまなく覆っているようだった。腕や手には関節があって、その動きはカー テンの背後におかれた機械装置で操作された。 たまたまその場に異端糾問の雇人がいたので、将軍はこの機械装置の操作を命じた。女人像は、まる で誰かを抱擁して、胸に抱きしめるかのように、その両腕をさしのばして、ゆっくりひきこめた。そこで、 こんどは中味のいつばいつまったナップサックを犠牲者のかわりに抱かせると、女人像はしだいに強く抱 きしめた。将軍の命令で、操作者はその両腕をひらかせて、もとの位置にもどしたが、ナップサックの方 は深さ二、三インチもえぐられて、殺人機の釘や刃先に吊りさがっていた。 226

7. 西洋拷問刑罰史

ナャトウラーは王位をしりぞけられて、反逆者のバチャ・サチャオに纂奪されたが、その彼もこんどはナデ イレハンのため王位を追われて、最後には、彼の命令で射殺されてしまった。 ハビブラーの称号をとった暴君バチャ・サチャオの治世中には、いろいろ恐ろしい拷責が実行さ 中でもいちばんありふれていたのは、大砲の銃口から犠牲者を吹きとばす方法であった。彼は疑い れたが、 なく、イギリスのインド統治史を読んで、そのやり方を知ったのである。また、彼はジェラハバッドの太守 はりつけ アリ・アーメッド・ジャンを地面に磔にし、耳から脳髄の中へ釘をうちこんで殺害した。しかも、この処刑 はカプールの目ぬきの通りで公然と行なわれたのである。 バチャのもうひとりの犠牲者は貨物自動車の後部に鎖でつながれ、時速二十マイルのスピードでカプール の町中をひきずりまわされた。両脚はひどく傷つき、顔も体もたたきつぶされ、両腕はいたるところうち砕 かれていた。そのあと、彼は投獄され、左の腕も切り落されてしまった。けれども、この犠牲者が暴君自身 の処刑の場にいあわせたことは、せめてもの慰めであった。すなわち、バチャは城塞から頭髪をつかんでひ きずり出されると、銃剣をつきつけられながら、刑場へ追い立てられたが、道々、群衆はごみや石を投げつ けた。そして、刑場につくと、五分間首をくくられて、生きているうちに、ふたたび地上に落とされて、銃 殺刑に処された。この間、バチャは終始平然自若として、驚くべき胆力を示したと伝えられている。 今世紀は、これまでのところ、まだトルケマーダ Torquemada ( 峻厳冷酷なことで有名な、スペイン最初の異端 糾問所長、一四二〇ー九八年ーー訳者 ) を生み出してはいないようであるが、もし悪名高きチェーカーに関する 274

8. 西洋拷問刑罰史

でない〉ことの抗弁と見なされるようになった。 一七七一一年以前は、もし容疑者が答弁を拒否すると、陪審員たちは、彼が〈故意に沈黙している〉か、そ れとも〈天の配剤によって沈黙している〉 ( 注 1 ) かどうかを決定しなければならなかった。そして、〈故意の沈黙〉 であれば、彼に答弁を強いるために、いろいろな説得手段がとられた。一四〇六年以前は、承諾するか、死 ぬかするまで、容疑者を飢えさせた。そこで、〈苛酷な監禁〉 prison 「 0 ュ e et du 「 e という名称が与えられた ( 注 2 ) 。しかし、同年以後は、いろいろな説得手段が実行された。時には、親指をひもでしばってひんまげたり、 たる木からひもで吊りさげたりした。しかし、より一般的で、尋常なやり方は圧搾刑 pe 一 ne 「 0 ュ e et dure ( 原 意は苛酷な責苦 ) であった。 ( 注 1 ) 陪審員たちの考えは必ずしも正しくはなかった。一七三五年のノッティンガム巡回裁判では、幼時から聾唖だ ったある男が圧搾刑をうけて死亡した。当時の記録によると、〈最後まで頑強にだまりつづけた〉という。 ( 注 2 ) エドワード三世の治世に、ある囚人は〈圧搾刑〉の下で四十日間の飢餓に耐えぬいて、放免された。 容疑者が答弁を拒否する例は、きわめて少なかった。が、拒絶者の中で圧搾刑を免かれたものはごく少数 であった。一般に拒否の理由は、有罪者として絞首刑になるかわりに、この拷責で死亡すれば、容疑者は財 産の没収を免れて、家族を文無しにしないですんだからである。国に財産を没収されたのは、有罪となった 凶悪犯だけであった。

9. 西洋拷問刑罰史

圧力が加わり、最後には、膝の上に重しがつみかさねられた ( わが国の石抱き責めに似た拷責であるーー訳者 ) 。苦 しまぎれに体をねじったり、動かしたりすれば、かえって新しい傷を作るのが関の山だった。といって、じ っと坐っていても、恐ろしい釘がだんだん深く肉にくいこんでいくのは避けられなかった。 脱走、反抗または略奪などに対するスペインの軍事刑罰は、〈ろば〉 Donkey と呼ばれたが、その名残は ドイツのいくつかの城塞のなかに今日でも見うけられる。これは頂部が < 型になっている床に罪人をまたが らせて、その上から重しを加えて、ついには肉体をまつぶたつにひき裂く刑である。 くしイ」し 生体の串刺刑は古代ローマ人が好んで行なったもので、その後東洋人たちがこの手本にならった。 一八七六年のプルガリア人虐殺事件では、トルコ人が主としてこの拷責を加えた。 ジャン・バブチスト・クレベル ( フランスの将軍で、一八〇〇年六月十四日カイロで殺害された、ー、訳者 ) の暗殺者 はソリマン・イレッピという名のトルコ人の農夫であった。 , 。 彼よ逮捕されると、右手の肉を焼かれて、串刺 しにされたが、その状態で、一時間と四十分も生きながらえた。 書物にもいちばんよくとりあげられて、一般に最もよく知られた責め道具は、ニュルンベルクの〈アイゼ ルネ・ユングフラウ〉 EiserneJungfrau である。著述家のなかには、これを〈鉄の処女〉とか、〈鉄の乙女〉 砕と訳したものもある。けれども、混乱を避けるためには、後者を採用した方がよい。なぜなら、トレドの宗 破 教裁判で用いられた〈鉄の処女〉と称する別の刑具があるからで、これについては、後にふれるつもりであ 章 第る。また、右のふたっと、〈バ ーデンの処女〉 Virgin of Barden-Barden とを混同してはいけな 177

10. 西洋拷問刑罰史

の衣服をきせて、左右から、ほとんど締め殺さんばかりに強く引き締めた。彼が今にも死にそうになると、 彼らはすぐに衣服をゆるめたが、息を吹き返したあとで、急激な変化のため、言語に絶するほどの苦悶が よみがえってきた。彼がこの責苦に耐えると、ふたたびこれ以上の拷問にかからぬように、真実を自白せ よという同じ警告がくり返された。 彼はやはり拒みつづけた。すると、彼らは彼の親指を細いひもで非常にきつく縛ったので、指先がひ どくふくらんで、爪の下から血潮がふき出した。それから、壁を背にして、小さな腰掛の上にすえられた。 壁には小さな滑車がいくつも固定してあって、何本ものひもが通してあったが、このひもで彼の体はなん 箇所も、特に腕や脚がゆわえられた。執行人はこの数本のひもをものすごい勢いで引っ張り、彼の体を壁 に釘づけにしたので、手足は、とりわけきつくゆわえられた手足の指は、この上ない苦痛を感じ、まるで 焔の中で溶けるような思いだった。こうした責苦の最中に、執行人は彼の足もとの腰掛を急に取り除いた そのため、かわいそうに、オロビオはなんの支えもなく、ひもに吊り下がり、自分の体の重みで、結び目 をますますきつく引き締めることになった。 このあと、新種の拷責がつづいた。小さな梯子のような刑具があって、真っ直ぐな二本の柱材に、先 ずね の尖った十文字の木片が五個ずつ付いていた。執行人は、これで彼のむこう脛をカ一杯なぐりつけたので、 同時に両方の脛に五つの猛打撃をうけ、その耐えがたい痛みに、とうとう彼は悶絶してしまった。しばら くして、彼が正気に返ると、こんどは最後の拷責が加えられた。 214