さつりく ために殺戮され、死体を数えるのに十二日もかかったといわれている。 あらゆる場合の大虐殺にあって、伝えられた死者の数というものは全くあてにはならないのである。聖バ ルトロメオ祭に虐殺された者の数は二千人から一万人、五万人、いや十万人にのぼるとも推定されて、人に よって区々としている ( 一五七二年の同祭日に、。、 ノリの旧教徒がユグノー派約二千人を虐殺し、同年十月三日までに、約 二万五千人が殺されたと伝えられているーー訳者 ) けれども、聖バルトロメオ祭の大虐殺は、ここで論議する必要はない。なぜなら、死者の上に侮辱の言葉 は浴びせられたが、虐殺以前に拷問は加えられなかったからである。その他の多くの大虐殺も同じ範疇に属 し、カンベル大尉が約三十人のスコットランド人を殺害したグレンコウ虐殺事件もまた同様で、故意に残虐 行為が行使されたような形跡は全くないのである。 史上に初めて記録された大虐殺のひとつは、べニヤミンの人々のそれで ( 「士師記」第一一十章参照 ) 、紀元前 の最も恐るべき大虐殺は、紀元前三 = 二年にアレキサンドロス大王が、およそ一万のテ、ルス人を殺戮した はり . つけ 時である。彼は八千人を刃にかけ、残りの二千人を磔刑に処したといわれている。 殺 イングランドの最も初期の大虐殺で、暴虐行為が行なわれたのは、一〇〇一一年十一月十三日の聖プライス 大祭のそれであった。この時、エセルレッド二世はイングランド人を殺戮させたのである。しかも、身の毛も 章よだつような蛮行が付随していて、数々の拷責のうちでも、スウェイン王の姉妹グニルダを含むデーン人の 第婦女たちは、目の前でわが子を殺害され、腰のあたりまで土中にうずめられた。それから、猛犬マスチフを 241
第三は極刑で、この場合は、容疑者の首をフルカにしつかと結びつけて、死ぬまで笞刑が加えられた。 以上が西暦紀元前にローマで行なわれた数々の刑罰であるが、キリストの死後になってはじめて、拷問の 利用はさかんになり、その後長いあいだ、この状態がつづいたのである。つまり、キリストが死ぬまでは、 拷問はわずかに犯罪に対する、もしくは不本意な証人の説得のための、一種の刑罰として利用されていたに すぎない。拷問はあくまで法的限界の中で法的矯正法としての手段として使われ、意見を変えるための便法 としては、シリアのアンティオコスのような暴君以外には、用いられなかったのである。ところが、初期キ リスト教徒が断固として自分の所説を主張するにつれて、拷問の手口はますますすさまじいものとなり、そ の応用もますます不法となり、不当となっていった。そして、いったん暴虐な基盤の上に根をおろすと、し だいに巧妙さを加えて、ついには、宗教裁判の時代に残虐性の絶頂に達したわけである。 キリストの時代から、ユスティニアヌス ( 四八三ー五六五年 ) がその法典の中で拷問を具体的に表現するま でに ( この法典からヨーロッパのほとんどすべての法律体系が発生しているのだが ) 、拷問を加えるいろいろな器具は着 実にその残忍さと数を加えてきたのである。キリスト教徒に対する初期の迫害は、史上最も恐るべき時期を 画した。 の 代 最初のキリスト教徒に対する迫害は、ネロ帝の治世にはじまって、ヴェスパシアヌス帝とともに終わった 古 のだが、その間、なん千人にも及ぶキリスト教徒が世にも恐ろしい最期をとげた。十字架、鞭、張付台、煮 章 やっとこ 川えたぎった油の大がま、まっ赤に焼けた炮烙、鋼鉄の輪、鋏、貝殻でけずり生身の皮をはぐ方法などが広く 4
Of serbia. Re で 0 ミ U でミ ~ the 」 4 ご・ 0 ュ es Committed By the 」 4 ~ ~ s ご・ O-H ミ ~ g ミ・ミ n 」 4rm に D ミ・ 0 the First ~ ミをミ ~ ミ・ Serbia 一九一六年 ) セルビアで遂行されたといわれる残虐行為は、ライス博士の手で丹念に図表化されているが、あまり興味 深いものではない。ただ、オーストリア・ハンガリー軍が、おそらくトルコを除いて、彼らの連合軍にくら べて、より多くの非道な犯罪を重ねたことや、ドイツ軍が、他にくらべて、肉体的拷責を利用するにあたり、 より以上に性的な加虐症を発揮したことなどは興味深い事実である。 ドイツ軍、トルコ軍、それにオーストリア・ハンガリー軍などが犯した暴虐な非行の大部分は、ただ単に 浅ましい醜行であるにすぎず、ある程度の独創性を示したものは一、二を数えるだけである。たとえば、育 児婦に早くコーヒーを用意させるために、ドイツ軍の騎兵たちは彼女のあずかっている幼児の頭をゆっくり、 煮えくり返った湯の中につけた。その結果、数日後イギリス人の医師が調べてみると、幼児の頭全体が一枚 行の大きなかさぶたになっていることが判明した。 殺 虐 オーストリア・ハンガリー軍は犠牲者を串刺しにしたり、生きながらあぶったりすることを好んだようで の 代 あるが、これはむしろ割の悪い慰み方と思われるだろう。しかし、彼らも五十三歳の男を水車の車輪に縛り 現 章つけて、車輪が一回転するごとに、銃剣でこずきまわして楽しんだというから、この点では独創的であった。 剃あらゆる戦争を通じて、残虐行為は戦争のさ中に行なわれた。そして、どんな軍隊の中にも、すすんでその 267
でくくりあわせた。そんなかっこうで囚人たちは、征服者の鞭におびやかされながら、むせんだり、せきこ んだりして、よろよろと歩いていったのである。命を全うして、無事に目的地に到着した囚人らは奴隷とし て売りとばされたが、男の囚人はふつう売る前に両眼をえぐり出されるか、舌を切りとられるかした。 アッシリア人もまた数々の蛮行を犯した。とくに、捕虜に対しては残酷で、彼らの運命は一般に生きなが ら皮をはがれることであった。ニネヴェの彫像は、この言語道断な行為を、この上なく忠実に再現している。 セース教授 ( イギリスの東洋学者ーー訳者 ) によれば、「ある町の占領後におこな われた蛮行は信じがたいほどであっ た。アッシュル・ナシル・アプリ王 の残虐行為は、とりわけひどかった。 人間の頭を山とつんで、征服者の道 しるべとした。少年も少女も、生き ながら焼かれたり、もっとひどい運 命にあわされた。生きながら皮をは がれ、目をつぶされ、手足とか耳や 鼻を切り落とされたのである。第二 第、 .3 を 4
まえがき 精神的苦痛以外の目的で、権威のもとで、加えられる精神的、または肉体的加虐」 この定義は、筆者の見解では、当局の直接的な命令によって行なわれるハッキリした残虐行為だけでなく、 実行の方法を指示しないで残虐行為を示唆する当局の命令も含めているものといえよう。 だから、この定義にしたがうと、前 。 1 大戦 ( 一九一四ー一八年の第一次世界大戦 訳者 ) で行なわれたドイツならび にトルコ軍の残虐ぶりは、上層の軍部 当局からの指令によらないで士官や兵 ~ 笞 へ隊によって遂行された蛮行であるから、 拷問とは見られないのである。これに 【の反して、セルビア人に加えられたオー ストリア・ハンガリー軍の残虐行為は、 国際法を無視して、「非戦闘員を処罰 せよ」という明らかな軍司令部の要請 によって煽動されたものであるから、
第 13 章現代の虐殺行為 ら、ロシア人は、前記の中欧諸国に欠けていたように思われる知性をいかんなく発揮したことになる。メー トル・オペールの著書『ポルシエヴィズムの怖るべき記録』と、戦時の残虐行為に関する公刊物とを比べて みれば、大胆不敵な悪鬼のように見せたいと思いながら、現代科学が最新の発見によって与えた原理をこと ごとく忘れていた中欧諸国の軍隊を気の毒に感じることだろう。 つぎの一文は、オペールの手になるロシアの恐るべき記録から抜粋したものだが、その正確さをどの程度 信頼したらよいかは、確証がないので、断言しがたいわけである。たしかに、鬼畜のような暴虐ぶりが発揮 されたにはちがいないが、その仔細を確認する証拠はどこにもないのである。 プラゴヴェチェンスクでは、彼らは、士官や兵士の爪の下に蓄音機の針をつきさして、両目をえぐり出 ヴォロネジでは、彼らは犠牲者たちの目玉をぶちぬき、鼻と耳をそぎ落し、関節をはずし、爪をはぎ、 士官の肩に肩章をほりつけ、額にはソビエトの星じるしを刻んだ。その他の犠牲者たちは、チェーカー ( 注 ) の部屋に特別に設けられた湯槽の、煮えくり返った熱湯の中へほうりこまれた。そのあと、ゆでられた部 分の皮膚が少しずつはげ落ちて死にかかった犠牲者を屋外へ投げすてた。また、溶けた鉛を咽喉に流しこ むこともあった。ほかのいろいろな所で、ちぎられた手、指、足、折れた骨、歯、そぎ落された耳、鼻、 ひきちぎられた耳、人肉などが発見された。 2 69
報復や警告として、加えられたのであろうか。 現代の疑問は、将来に回答を見つけだすかもしれない。 を感じないでは、それらの疑問にとり組むことはできない バルカン戦争をのぞいては、ヨーロッパは十四年間の平和を楽しみ、残虐行為も、肥沃な土壌がなかった がため、育たなかった。ところが、大戦 ( 第一次のーー訳者 ) は、ふたたび拷問の問題を大きくクローズアッ プしたのである。 プロシア ( もとドイツ連邦の強力な一国ーー・訳者 ) の歴史は、あとに当然予期されるものを、はっきりと示し ている。というのも、ナポレオンの時代に、プロシア軍はフランスとオランダを侵略して、数々の残虐行為 を働いたからである。当時は、彼らはわれわれの味方であったから、われわれもプロシア兵の非行を大目に 見ていた。一八七〇年にも、プロシア兵の悪ふざけがくり返された。その時は、われわれは中立だったから、 為 行多くの犯罪が〈戦争は戦争だ〉の表現で隠蔽されるのではないか、というような議論が行なわれた。ところ 虐 が、一九一四年になると、事態はひどく異なってきた。ドイツはわれわれの敵国だった。したがって、われ の 現われはドイツ軍の悪魔の所業について、非常にはっきりした意見をいだくようになった。 章 ドイツ軍が犯した残虐行為に関する多くの報告は誇張されていたか、さもなければ、少なくとも、戦争熱 第 につかれているあいだだけ事実として認められた、当てにならない証拠にもとづいていた。侵略地域の非戦 しかし、目下のところは、最大の気おくれと疑惑 265
第 8 章水責めその他の責め方 ( 注 ) 頭皮はぎは、ヨーロッパでは太古から利用された一種の障害化である。ヘロドトウスはスキチア人のあいだでこ の慣行が行なわれていたことをうんぬんしている。また、古代ゲルマン民族は decalva 「 e の名称でこれを行ない、ア ングロ・サクソン族やフランク人も八七九年ごろまで実行していた。アフリカの黒人諸族のあいだでもまた、ありふ れていた。アメリカ史を見れば、白人種らが北米原住民との戦いで、しばしば頭皮はぎを行なったことがわかる。 われらの封建君主らが秘められた財宝についての自白を強いるため、ユダヤ人らの歯をひきぬいたという 話は、これまで小説でさかんに扱われて陳腐になっているが、この拷問がトルコ人によって比較的近世に利 ・パシャ ) は、あるときュ 用されたことを知ることは、むしろ非常に目新しく興味深い。フセイン ( カピタン ダヤ人の医師を招いて、痛む歯をぬかせた。ところが、ユダヤ人は間違えて別の歯をぬいたので、フセイン はこの不幸な歯医者を逮捕させ、ロ中の歯を一本残らずひきぬかせてしまった。 スティーヴン ( ノルマン朝最後のイギリス王ーー訳者 ) の治世中に、領主たちがどんな残虐行為を働いたかか イングラムの『サクソン年代記』に要約してあるので、つぎに引いておこう。 領主たちは、財産をもっていると思われる者どもを片つばしから捕えては言語に絶する責苦を加えた。 よろい あるものは足から逆に吊りさげられて、ひどい煙でいぶされた。なかにはまた、親指で吊るされて、鎧の 重しをのせられたものもあった。さらにまた、頭のぐるりに結び目のある縄をまきつけられたものもあっ
第 12 章大虐殺 は、まず死ぬ思いの辱かしめをうけてから、窓の外に吊りさげられて、マスケット銃兵の標的となった。兵士たちの 淫欲の犠牲となった貴婦人たちも街頭にさらされて死んだ。しかも、一糸まとわぬ裸のままか、あるいは、ジュネー ヴ版の聖書からひきちぎった紙片をはりつけられて、悪鬼のような嘲笑を買ったのである。 老人も子供も、女も病人も、すべて消え去った。宗教的な狂信を記録した、極悪非道の年代記にさえその例を見ぬ 残虐行為のために死んだのである : : : 」 ( 注 2 ) 竜騎隊 Dragonnades とは、各隊に牧師の隊長をいただいた、さまざまな竜騎隊のことであった。この牧師に 服従しない人々は、竜騎兵の手にゆだねられた。竜騎隊は、とくにユグノー派の女性に対し、無慈悲であった。 彼よ、もと こうした恐るべき大虐殺のうちで、最も残忍な拷問を加えたのは、神父デュシャイラであった。 , ー シャムへ説教師として派遣され、一六八二年に捕虜となって、みずから拷責をうけた男である。 ハンコクの総督の前にひき出された、キリストの高潔な擁護者は、自己の信仰を棄てるどころか、 神の名をほめたたえた。そのため、彼は執行人にひき渡されて、拷間をうけた。だが、神父は人体の耐え うるかぎりの責苦を甘受し : : : ついに、失神した。 こうして、死んだものと思われた彼は、手首から木に吊りさげられた。けれども、ひとりの下層民がそ の縄を切って、彼を蘇生させた。神父はフランスへもどり、主席司祭としてインドへ派遣された。 2 51
情況を利用したがる野獣のような人非人がいるものである。軍隊が、とくにドイツ軍の場合のように、戦争 の刺激によって影響をうけていない地区で、厳重な規律の下におかれているさいに、非戦闘員に暴行をはた らくとすれば、その犯罪は拷責と見なしても差し支えない。だが、ドイツを占領した連合軍側の兵隊による、 同じ性質の犯罪はきわめて少なく、一方、敵国側の犯罪は、彼ら自身の、または中立国側の印刷物から見て も、すこぶるおびただしく、優に一巻の書を満たすくらいである。 だが、ドイツ軍の残虐行為は、指令によって行なわれたもののようには思われていないから「まえがき」 で定義づけた〈拷問〉の項目には、まず入らないわけである。これに反して、オーストリア軍から出た指令 は彼らの軍隊が犯したかずかずの蛮行を十分に包括しているように思われる。 われわれとしては、この種の犯罪は、単に戦争によって生み出された血に飢えた欲望の結果であり、世界 の平和宣言以後、文明開化した二十世紀には、なんの拷責の兆候もあらわさないように望むばかりである。 だが、この希望もまもなくうち砕かれてしまった。なぜなら、人類が熱望してやまない自由も、鮮血の旗 に〈自由〉という、聖なる文字をしるさなくては、達成されないように思われるからである。レーニンの赤軍も、 デーニキンの白軍も、いずれも、自由を獲得する道は、敵に対して最大限に残酷野蛮であることを発見した。 しかし、ポルシエヴィキたちが拷問の利用価値を悟ったのは、主として戦後のことであった。われわれは ここで、ある種の独創性につきあたるのである。トルコ軍も、ドイツ軍も、オーストリア・ハンガリー軍 も、とるに足りない、滑稽な素人として後退せざるをえないのである。もし報告書の半分が真実だとするな 268