ーパーは一七二六年十一月三日、タイバーン ( ロンドンの刑場で、今はない、ー訳者 ) で処刑された。そのとき、 彼女は例によって事前に締め殺されようとしたが、物凄い火焔のため執行人が両手に火傷を負ったので、ま だ女が意識を失わないうちに、ロープを離してしまった。彼女は、このため、かなり長いあいだ苦しんだ。 イングランドでは、異端者の刑罰として、生きながら火あぶりにすることは、非合法的に、三〇四年のオ ルバンの火刑から始まり、同様にして一六一〇年の、スミスフィールドにおけるバーソロミュー遣外使節と、 リッチフィールドにおけるエドワード・ワイトマンの火刑とともに終わった。 一四〇〇年以前には、異端者を火あぶりにする例は単発的にみられたが、いったん法的に裁可されると、 イングランドでは、業火のように勢いよく燃えはじめたのである。 メアリ女王の治世中には、火あぶりにする前に、男女の犠牲者の体に火薬袋を結びつけて、死期を一段と 早めるのが一般的な慣例であった。当時、生きながら火あぶりの刑に処された人々の数はあまりに多くて、 適当な実例を選び出すことさえ、むしろ困難なくらいである。だが、エインズワース ( 十九世紀のイギリスの 理 料歴史小説家・ー・訳者 ) は、歴史的には不正確ではあるが、『ロンドン塔』ゞ erof ト ondon の中で、この種の 処刑をみごとに描写している。また、これと比較する意味で、フルード ( イギリスの歴史家ーー訳者 ) の『メア ま ざ ま リ・チュードル』からも抜粋してみよう。史実からみれば、むろんこの方が正確さがあるといえる。 さ 章 第 夜半の時刻を告げる鐘がなりやむと、悲しげな行列がコールハー ・ゲイトの暗鬱なアーチ道の下か
第 9 章異端糾問 ヴァルドリッドにおける火刑宣告 拝啓さる十日付の閣下のご用命を拝して、 オウト・ダ・フェ 生ここに先般の火刑宣告に関する印刷物を凡てお 送りいたしました。わたしは一部始終を見物いた しましたが、その情景はリンポルクその他の人々 が、この題目について公にされた文章と全く合致 していました。宣告をうけた五名のうち、焼かれ たのは四人だけで、アントニオ・トラヴァネスは、 異例の執行延期で、行列行進 ( 刑場までの ) が終わ ったあとに、救われました。 ヘイトル・ディアスとマリア・ペンテイラは生 きながら焼かれ、他のふたりは初めに絞殺されま した。処刑はまことに残忍でした。女は火焔に包 まれて一時間半、男は一時間以上、生きながら えていました。現国王とその兄弟も窓のところに 座していましたが、刑場にたいへん近かったので、 227
の泡となり、火あぶりの責苦も四十五分とはかからず、見物人たちはひどくがっかりしたのであった。 ヴィラは、車輪にかけられて三時間も長く生きつづけ、ひとことも不平を言わずに死んだ 生きながらの火刑についての記述を終えるにあたって、一七八七年に喜望峰で起こった興味ある事件を挙 げておきたい。喜望峰は当時オランダの植民地であったが、たまたま土着民と植民者のあいだに紛争が生じ て、ついに、植民者のひとりが殺害されてしまった。そこで、殺人犯が属していた部族の酋長は加害者を探 し出して、処罰するように命じられたのである。この処刑は、つぎのようにして行なわれた。 原住民らが、まず大がかりなたき火をして、犯人を連れてくると、友だちゃ縁者もみんなっきそってきて、 彼に別れを告げた。ところが、彼らは涙を流して嘆き悲しむのではなく、祝宴をはって、踊ったり飲んだり したのである。不幸な犯人は前後不覚になるまで酒を飲まされたが、友人たちはさらに、へとへとになるま で、彼を踊らせた。そんな状態で、彼らは犯人を火中に投じて、犯人を始末してしまうと、そのとたんに身 の毛もよだつような叫喚をあげて、この恐ろしい情景の幕をとじた。 それからしばらくして、あるオランダ人が原住民の一人を殺害した。すると、酋長がやってきて、仲間の 正当な血の償いを要求した。けれども、加害者はたまたま一流の計理士で、工場になくてはならぬ人間だった。 そこで、正義の仮面のもとに、原住民を得心させる便法が案出されたのである。彼らはまず殺人犯の死刑執 行日を指定した。その当日、原住民らは、策略にのせられるとは夢にも知らず、大勢集まってきた。絞首台 0
苦 」郊い、責 ぶりが認められていた。というのも、この刑罰は当時絞首刑にして絞 首台にさらしものにするよりも、はるかに穏当だと考えられたからで ある。これについては、サー・ウィリアム・プラックストン ( 十八世 紀英国の法律家、『イギリス法注解』の名著があるーー訳者 ) が、つぎのよう に書いている。 女性に対する礼儀上、はだをむき出しにして、公然と大衆の前で せめさいなむようなことはできないから、その処刑は、絞首台へ連 行して、そこで生きながら火あぶりにするようなことになる。 ( 注 ) イングランドで火あぶりにされた最後の女性は、クリスチャン・マ ーフィで、一七八九年に刑死している。 宗教裁判所は、死刑を宣告する権限がなかったので、異端者の火あ ぶりは最初法的な刑罰としては認められなかった。だが、一四〇〇年 に、異端者火刑 de haeretico comburendo の制定法が通過して、異 端者の法的刑罰としての火あぶりが法律の一部として認められるよう になった。この制定法は一五三三年には廃止されたが、一五三九年に
囚人をあらかじめふつうの拷問にかけてから、とくに執行 のために選ばれた地点に火刑柱を立て、その周囲にわらとた きぎを交互につみ重ねて、人間の背丈に達するくらいまで積 みあげる。そのさい注意して、火刑柱の周辺に囚人のための 空間を設け、また、中にはいるための入口もあけておかなけ ればならない 用意ができると、囚人は衣服をはがれ、硫黄をぬったシャ ツをきせられて、狭い人口を通ってたきぎ積みの中心へ歩い それから、縄と鎖でその体をしつかと柱にくくりつ ける。それがすむと、彼が通っていった空間へたきぎとわら が投げこまれ、その空間がすっかり埋まってしまうと、四方 から同時にたきぎ積みに火をつけるのである。 ときには、絞殺後に囚人を火刑にすべしという判決がくだる場合もあって、その場合は、死体を柱にくく りつけながら、この刑罰の残虐性は大いに減殺されたわけである。この慣行の実例として、一七三三年にデ ショウフルは、火刑になる前に絞首刑に処された。 また、しばしば、執行人が死刑囚の苦悶を短縮するために、たきぎのあいだに大きな、尖端のとがった鉄 ・い気第 こ
や》 1 を身ィ み 0.1 第、 ツツ 3 、 第 2 章さまざまな、、料理法、 ものであった。風はかなりの勢いで吹いていたから、火炎は斜めにあがって、徐々にカティナの脚を焼い ていった。彼は、『カミサル暴動史』の著者によると、この責苦を耐えにくそうに耐えていたといわれる。 だが、ラヴァネルは、最後まで英雄だった。見えないながら、死地にある仲間たちを鼓舞するために、 途中で賛美歌をとぎらせはしたが、すぐまた歌いつづけて、火炎に声がふさがれるまで、歌をやめなかった。 せつな 彼がちょうど最後の息をひきとった刹那、ジョンケは車輪からはずされたが四肢は粉々に砕かれて、かろ うじてぶらさがっている程度だった。こ の形のくずれた、だが、まだ生きている 塊が半分燃えっきたたきぎ積みの上にほ うり出された。火炎のただ中から、彼は 一鼾絶叫した。「がんばれ、カティナ ! 天 る国であおうぜ ! 」 一 J 数秒もたたないうちに、火刑柱は根も : 輪 とを焼かれて倒れ、カティナは後ろ向き に、まっ赤なかまどの中へひき倒された。 そして、すぐに窒息してしまったのであ る。このため、彼らがしくんだ工夫も水
文明の黎明期から十九世紀に至るまで、あらゆる文明国によって事実上法的に公認されていたことがうかが えるであろう。 先に本書の枠から〈生命の人道的な絶滅〉を除いたことを申し上げたが、本文に人るに先立って、現に実 行されている種々の処刑方法を考察してみることも興味があろう。 絞首刑は最もありふれた死刑のやり方であり、英国諸島、英領自治領、植民地および属領、合衆国 ( ただし、 極刑が廃止されている諸州や、ニューヨーク、マサチューセッツ、ニュージャージー、ノースカロライナ、ミシシッピー、ヴァー ジニア、オハイオなどを除く ) 、日本、オーストリア、ハンガリーなどで広く実施されている。 ( 一九三一年の時点ーー訳者 ) イギリス流の絞首刑は、まず落下距離にあわせた絞首索を罪人の首にとりつけて、顔を白い帽子でおおい かくし、絞首台の下の落し戸の上に立たせる。それから、梃子を使って、機械仕掛で落し戸を落とすと、囚 人は穴の中へ転落する。その落下距離は身長や体重で調整されているが、とにかく、これで頸部の椎骨が折 れて死亡するわけである ( 注 ) 執行の時刻はふたつの監獄を除いて、午前八時である。もちろん、絞首台も縄も用意され、落下距離も前もって 決めてあるわけだ。死刑囚の監房にはいる時刻から、この囚人にとっての人生の最大悲劇の結末までは、わたしの計 算では、わずか三分しかかからない。そこで、わたしはきっかり八時三分前に監房に人っていく。人間を絞殺するわ たしの行為を合法的にするためには、いわゆる〈絞首許可〉という、州長官が作成して署名した書類を処刑の直前に
ところで、普通法のもとで、最初に火あぶりになった女性は、キングズ・リン ( イングランドの有名な海港 , ー訳者 ) の年代記によれば、一五一五年に、ある女が夫を殺害したかどで、この刑罰をうけたのが最初で あった。また、この同じ町で、マーガレット・リードが一五九〇年に魔術の件で火あぶりとなった。 一七二二年、夫殺害のかどで火あぶりの刑を言い渡されたエリナー・エリサムは、まずタールをしみこま せた布をまとわされ、手足にも同じタールを塗りたくられ、頭にはタール塗りのポンネットをかぶらされた。 そして、裸足のまま監獄からひき出され、そり形の運搬車にのせられて、絞首台の近くの刑場へひかれてい った。 刑場に到着すると、しばらくのあいだ祈祷があげられ、そのあと、執行人は火刑柱にもたせかけた、高さ 三フィートばかりのタール樽の上に女囚のからだをのせた。火刑柱の滑車に一本のロープを通し、首のまわ りに垂らすと、彼女は自分から両手でこれを締めつけた。彼女のからだは三本の鉄鎖で柱にいましめられ、 ロープが強くひかれた上、タール樽がわきにおしやられ、最後に火が点ぜられた。 『リンカーン日誌』によると、彼女はすでに火の手がとどくまでに、死んでいたとみられている。執行人が 鉄鎖を固定させているあいだに、なんどもロープをひつばったからである。薪がよく乾いており、タールの 量が多かったせいもあって、火の勢いは物凄かったが、約半時間にわたって、火焔につつまれた女体が眺め られた。 ( ウィリアム・アンドリューズ William And 「 ews 著『昔の刑罰』 0 ミ , ゴ me p ミüshments から ) もっとも火あぶりで焼かれる前に女囚を絞め殺す試みは、必ずしもうまくいかなかった。キャサリン・
アスキュウ夫人はヘンリ八世の治下 でこの拷問をうけ、あとで火刑に処 された。詩人の息子であるサー・ト マス・ワイアットは、メアリ女王に 拷 〃をす反旗を翻したかどで、ロンドン塔で の張付けの刑にあった。新教を放棄し ひ てイエズス会士になった助祭のキャ を ンピアン神父は、一五八一年に、エ リザベス女王の命令で、自白を強要 するため張付台にかけられ、のちタ イバーンで処刑された。火薬陰謀事 ズン 件の中でも、この種の結婚をしたものがあり、たとえば、オールドコーン神父などは、五回も張付刑をうけ、 そのうち一度は数時間ものあいだしぼり責めにあった。彼はのちウスターで絞首刑になったが、まだ生きて いるうちに、索を切り落とされ、腸をぬかれたうえ、四つ切りにされた。張本人のガイ・フォウクス自身も 張付刑をはじめ、いろいろな拷問にあった。 ンク・ド・トルチェル ラック 張付台はフランスで非常に普及し、〈拷問椅子〉と呼ばれた。フランスのモントウバンの古記録には、張 なわ ガンパウダー・トリー
みの上におかれた手足に一撃を加えた。この鉄棒はふつう四角で、幅は約二インチくらい、取っ手のところ だけ丸くなっていた。そんなぐあいにして、手足は一本ずつ二か所で打ち砕かれた。それには八回の打撃が 必要だったが、執行人はたいてい胸部におまけの一撃か二撃を加えて刑を完了した。そこから、フランス語 の coups de grace ( とどめの一撃 ) が由来したといわれる。 そして、とどめの一撃が加えられるとすぐ、めちゃくちゃになった肉体を十字架からはずして、車輪の上 にのせたが、この車は、見物人によく見えるように、車軸で回転するようなしくみになっていた。ときには、 火あぶりの刑の場合と同様に、処刑の前に罪人を絞殺することもあったが、火刑の場合ほど頻繁には行なわ れなかったようである。 車輪上の破砕刑についての左の記述は、アレキサンドル・デューマの『南部の虐殺』から引用した。 穏健ながら不動の、敬虔な所説を持った新教徒のポエトンはクエーカー教徒の教義にやや似た教義を奉 じて、剣をぬくことに反対したが、他のあらゆる面では大義を援助した。彼はいつものように神を信じて、 計画遂行の予定日を待ちかまえていた。おりから、国王の軍隊が夜間に乗じて不意に彼の家に侵人した。 日ごろの平和の信条に忠実であった彼は少しも抵抗せず、両手をさし出して捕縛された。それから、一同 は意気揚々と彼をニメへ連行し、そこからモンペリエの城塞に移した。 だがその途中、彼の妻と息子が一行に追いついた。ふたりは夫の赦免を乞うため、一頭の馬にふたり しやめん 166