彼は結局、拷問にかけられて死んだ。日本の、栄誉ある自殺形式は一八六八年 ( 明治元年ーー訳者 ) に廃止 されたが、 まだ今日でも任意的なものは残っており、〈腹切り〉と呼ばれている。もっとも、女性の場合は、 のど 腹部ではなく、咽喉をつき刺した。この切腹という形式は非常に古くから行なわれていて、強制的なものと 任意的なものの二種類がある。前者は、武士が法律を破「て、天皇から死を命じた書面をもらう場合で、そ の中には珠玉をちりばめた短刀が同封してあった ( 注 ) 。後者は、男または女が個人的な理由で〈腹切り〉を 行なう場合である。そして、前者の場合は、切腹者の財産は半分国家に没収されたが、後者の場合は没収さ れなかった。 ( 注 ) 中国では貴人の罪人に対して絹ひもが送られ、これでみずからの首をくくることが期待された。 捕虜となって責苦を加えられるのを避けるために、任意的な自殺が行なわれた事例もたくさんあった。た とえば一一八九年、五百人のユダヤ人は、キリスト教徒の慈悲を乞うのをいさぎよしとせず、ヨークの城で 全員焼死してしまった。また、自殺を罪悪と考える人々が自分の手で障害化を行なった例も三、四ある。 すなわち、八七五年に、コルディンガムの修道院の尼僧たちは、デーン人の進攻を知って、みずから鼻や 唇をそぎ落したが、激怒した敵軍は彼女らを捕えて、い「しょに焼き殺してしま「た。アクレの尼僧たちも 同様の運命をたどった。彼女たちは、一二九一年にサラセン人によ「て町が占領されたさい、みずからの顔
第 8 章水責めその他の責め方 ( 注 ) 頭皮はぎは、ヨーロッパでは太古から利用された一種の障害化である。ヘロドトウスはスキチア人のあいだでこ の慣行が行なわれていたことをうんぬんしている。また、古代ゲルマン民族は decalva 「 e の名称でこれを行ない、ア ングロ・サクソン族やフランク人も八七九年ごろまで実行していた。アフリカの黒人諸族のあいだでもまた、ありふ れていた。アメリカ史を見れば、白人種らが北米原住民との戦いで、しばしば頭皮はぎを行なったことがわかる。 われらの封建君主らが秘められた財宝についての自白を強いるため、ユダヤ人らの歯をひきぬいたという 話は、これまで小説でさかんに扱われて陳腐になっているが、この拷問がトルコ人によって比較的近世に利 ・パシャ ) は、あるときュ 用されたことを知ることは、むしろ非常に目新しく興味深い。フセイン ( カピタン ダヤ人の医師を招いて、痛む歯をぬかせた。ところが、ユダヤ人は間違えて別の歯をぬいたので、フセイン はこの不幸な歯医者を逮捕させ、ロ中の歯を一本残らずひきぬかせてしまった。 スティーヴン ( ノルマン朝最後のイギリス王ーー訳者 ) の治世中に、領主たちがどんな残虐行為を働いたかか イングラムの『サクソン年代記』に要約してあるので、つぎに引いておこう。 領主たちは、財産をもっていると思われる者どもを片つばしから捕えては言語に絶する責苦を加えた。 よろい あるものは足から逆に吊りさげられて、ひどい煙でいぶされた。なかにはまた、親指で吊るされて、鎧の 重しをのせられたものもあった。さらにまた、頭のぐるりに結び目のある縄をまきつけられたものもあっ
まえがき 精神的苦痛以外の目的で、権威のもとで、加えられる精神的、または肉体的加虐」 この定義は、筆者の見解では、当局の直接的な命令によって行なわれるハッキリした残虐行為だけでなく、 実行の方法を指示しないで残虐行為を示唆する当局の命令も含めているものといえよう。 だから、この定義にしたがうと、前 。 1 大戦 ( 一九一四ー一八年の第一次世界大戦 訳者 ) で行なわれたドイツならび にトルコ軍の残虐ぶりは、上層の軍部 当局からの指令によらないで士官や兵 ~ 笞 へ隊によって遂行された蛮行であるから、 拷問とは見られないのである。これに 【の反して、セルビア人に加えられたオー ストリア・ハンガリー軍の残虐行為は、 国際法を無視して、「非戦闘員を処罰 せよ」という明らかな軍司令部の要請 によって煽動されたものであるから、
この事件は一五二二年にスミスフィ ールドで起こった。 本書の「まえがき」で述べたフラ ンス・ラヴァヤクの話からもうかが えるように、刑執行前の予備手段と やっとこ して、フランスでは赤熱した鋏で肉 体をひき裂くことが行なわれたが、 これが行なわれたのは、フランスだ けではなかった。たとえば、アソル の伯爵は、一四三六年スコットラン ドのジェイムズ一世を殺害したかど で、エジンバラで刑死したが、体を加熱した鉄でずたずたにひきちぎられたうえ、高い柱にのせられ、〈反 逆者の王〉として、まっ赤に焼けた王冠をかぶせられたのである。 フランスでは、熱による拷責の方法は地方によってまちまちだったが、ある種の刑罰は共通していた。親 殺しとか、大逆罪の犯人は硫黄の火で焼かれ、その両目は赤熱した火皿を用いてつぶされるのが常であった。 大逆罪の拷責は生命を奪うまでにはいたらなかったが、身の毛もよだつような仕置であった。犠牲者を椅子 烹刑
くだんの八百の亡霊が天使の一群に伴なわれて出現した。さらに、一六四四年にも、同じ亡霊の軍勢が現わ れて、トルコの攻撃を阻止した。そして、この殉教者たちの軍勢が見えなかったと公言した連中はみんな異 端者として死刑に処されたー 一五〇二年、シニガグリアの城では、ケセアレ・ポジャ ( イタリアの聖職者で大司教ーー訳者 ) が、彼に反逆 したイタリアの大公達を大勢絞首刑にして、くびり殺した。 テオドラ ( 東ローマのユスティアヌス一世の妃、五四八年没ーー訳者 ) は、およそ十万人のキリスト教徒を絞首刑 や火刑、または斬首刑に処したといわれている。 しかし、以上の大虐殺も、フランス南部で、なん百年も荒れ狂った新教徒ュグノー派に対する恐るべき大 虐殺にくらべたら、児戯に等しいといえよう ( 注↓。おそらく、中でも最も凄惨をきわめたのは、一六八五年 の竜騎隊のそれ ( 注 2 ) か、一七〇三年の、小規模ながら重大なニスメの虐殺であろう。同市の新教徒の会衆は、 ひとりの少女を除いて、全員礼拝堂で射殺されるか、焼き殺されるかしたわけである。また、のがれた少女 も翌日は首をくくられたのである。 ( 注 1 ) これらの大虐殺は一五六二年の宗教的内乱中に、フランスで発生した。恐るべき虐殺は、双方の側で行なわれ た。・ < ・フロウド著『エリザベスの治世』によれば、「南部からの情報がより以上に恐ろしいものであった : 夏も終わりかけたころ、オレンジというュグノー派の町がカトリック教徒の掌中におちた。住民たちは、ずたずたに 切り刻まれたり、とろ火で焼かれたり、あるいは、むごたらしく手足を切られて死んだりした。若い人妻や乙女たち 250
そのほか、オランダで、スペイン の異端糾問者がふつうに用いた拷責 は、鍋責め、水浸し、生き埋め、足に重しをつけて親指で吊りさげる法などであった。 鍋責めというのは、まず犠牲者を腰掛に仰向けに縛りつけて、その露出した腹部の上に、大鍋をさかさに おき、その中にたくさんの二十日鼠を人れておく。それから、大鍋の上で火を燃やすと、鼠どもは恐怖と苦 痛のため、腹部を食い破って内臓にもぐりこむという寸法である ( 注 ) 。 ( 注 ) 鍋責めに似た拷問は、中央アフリカの原住民の間で行なわれたというが、恐らく今日でもまだ行なわれているの もう一種の拷問がっきものになっ ている。俗に火責めといわれてい る。つまり、炭火のいつばい人っ た大きな火鉢をもってきて、こん どは足の裏に近づけるが、そこに はラードが塗ってあるため、火熱 がすみやかに、中へ浸透してゆく わけである。 1 ゞ噎 生き埋め 224
まえがき まえがき 本書の執筆にかかったさい、はじめ筆者は刑罰の手段として、または自白を強いる目的で、利用されるさ まざまな責め道具や責め方を扱う百科事典にするつもりであった。ところが、筆者がこれまで収集した資料 だけでも数巻の書物になるほどの分量があり、そうなると、あまり興味のない事柄まで包含される恐れがで てきた。そこで、筆者は最初の意図をまげて、われわれの祖先が用いた、比較的知られている拷問を紹介し てみることにした。どが、 オ本書に新鮮味を加えるため、二十世紀にも行なわれた拷問に関する一章も忘れな かった。 ところで、まず第一に、〈拷問〉という言葉のほんとうの意義を理解することが大切だと思われるので、 マレイ博士が『新英語辞典』 Z=Q と『エンサイクロペディア・プリタニカ』の中で与えた定義を左に引用 してみた。 拷問劇痛を加えること。たとえば、残忍な暴君、野蛮人、盗賊その他によって、犠牲者の苦悶を見 まもる喜びから、憎悪もしくは復讐のため、あるいはまた強要の手段として、行なわれる。とくに、法的
〈圧搾〉という項目に属する拷問の様式はたくさんあるけれども、つい 近年までイングランドで行なわれていた圧搾法ほど凄惨なものは他にない 英法では容疑者に自白を強いるための拷責は認められていなかったにもかかわらず、しばしば自供を強い るために利用され、やっと一七七二年になって、本人の明白な承諾がなくとも、陪審によって審理をうける ことかできるよ , つになった。 初期の裁判は保証誓言 ( 友人や隣人などのーー・訳者 ) と試罪法 ( 火や熱湯に手をいれて害をうけない者は無罪とされた 訳者 ) によるものであったが、後者はラテラノ宮殿評議会によって禁止され、糾問による裁判が出現した。 これは現今でも行なわれている裁判形式である。糾問は国王の認可を必要とした。そして、もし容疑者が起 訴状に答弁して国王の認可を放棄しないかぎり、この措置をとる権限は法律にはなかった。一七七二年に通 第過した一条令によって、答弁を拒否する者は有罪と認められたが、一八二七年にやっと、彼の拒否は〈有罪 第 6 章しめつけの刑 147
概説 イギリスの絞首刑 せる。そして、絞首台に達したとたんに、その帽子を相手の目 の上まで深くかぶせてしまう。それから死刑囚をはり材の下に 立たせ、ひざのちょっと下で両脚を縛るが、その皮ひもは肘を 縛るときに用いたのと同じものである。そして絞首索をきちん と直し、鉄棒をひつばると、落し戸が落ちる。死は瞬間的であ るが、死体は一時間宙に吊りさがったまま放置され、それから 獄内で作られた棺の中へおろされ、墓地に運んで、検死を待っ のである。検死はふつう十時に行なわれるが、場所によっては、 そんな場所はいくらもないけれども、正午に行なわれる。検死 がおわると、死体は石灰につつまれて、刑務所の構内に埋葬さ れる。 ( ジェイムズ・べリイ James Berry 著『執行人体験記』 M Experience as an Executioner) アメリカの州によっては、滑車にかけた縄に囚人をくくり つけ、他の先には重しをつける。この重しをはなせば、囚人 は急に上方へ吊りあげられて、同じ結果になるのである。ま た、ユタ州では、絞首刑か、銃殺刑かを死刑囚自身に選ばせ ることになっている。
ふを 棒を、胸の高さのところに隠しておいたこともあ「た。火が燃えあが「たとたんに、鉄棒が倒れて囚人の胸 もとにあたり、致命的な一撃を加えるわけであった。字義どおりに判決文に従うとすれば、囚人の遺灰は、 なるべくすみやかにたきぎ積みの中心に近づいて、風に吹きとばすことになっていたので、シャベルでいく らかすくって、空中にふりまかれた。なおまた、ある人間の罪状が死後に明るみに出た場合は、その死体を 発掘して、火刑柱へ運んで、焼き捨てられた。 フランスで行なわれた生きながらの火あぶりの情景をつぎ に掲げるが、これはアレキサンドル・デューマの『南部の虐殺』 し教 Massacres the SO ミ h から引用したものである。この火刑 対司 は十八世紀の初めに行なわれ、犠牲者は新教徒たちで、カミ 体タ 死ス サル暴動に参加したために断罪の宣告をうけたのである ( こ 第 ( 澱ま、鬘のエ の暴動は一六八五年の新教徒の自由を認めたナントの勅令廃止後に勃 法プを ア上 発したーー訳者 ) 。 フみ と読 アを ま ッ文 ざ 一告 ま さ 章 ワ」 第 カティナは、そこで王宮へ送り返されて、まもなく彼の 裁判が開始され、たちまち終わった。ほかの三人はすでに 告発されていて、いまは判決を待つばかりであった。ほか