に發表した。明治一二十三年一月一日から三月を「趣味」に、六月、コ一筋川」を「文藝倶 五日まで「百千鳥」を「東京朝日」に連載。樂部」にそれぞれ書いた。明治四十二年三 三月に『聚寶盆』 ( 小説及紀行文集 ) を博文館か月、『選取聟』を春陽堂から、四月、『雀躍』 ら出版し、五月一一十八日から八月九日まで ( 江戸文學批評及び小説 ) を精華書院からそれぞれ 「新西遊記」を「東京朝日」に掲げた。明治出版した。明治四十三年九月、「油蠅」を「太 三十四年一月一日から二月十四日まで「春の陽」に掲げた。この年に牛込赤城下町八十 海」を「東京朝日」に發表し、三月に『旅一番地に轉居した。大正元年、五十八歳。 硯』を博文館から出した。明治三十五年、九月、『篁村叢書』を名家小説文庫第十二篇 四十八歳。一月一日から二月二十日まで「選として博文館から上梓した。大正二年八月、 取聟」を「東京朝日」に、同月、「近松門左「雨後の月」を「文藝倶樂部」に發表した。 衞門の虎」を「文藝倶樂部」に發表し、六大正四年、六十一歳。一月、「移轉」を「文 月、『集林子選註』を東京専門學校出版部か藝倶樂部」に發表した。大正六年、豐玉郡東 ら出した。明治一一一十六年六月、「滿地黄金」 . 大久保西四百一一番地に轉居した。赤城下の家 を「文藝倶樂部」に書いた。明治一二十七年一主といさかいがあったためという。大正八 月一日から二月十五日まで「頷下の珠」を年、六十五歳。朝日新聞瓧の客員となった。 「東京朝日」に、「十年一昔」を「文藝倶樂大正十一年、六十八歳。六月二十日、東大久 部」に發表した。七月、「火雨洞」、十一月、保の自宅で腦の障害のために歿した。大阪朝 日新聞のために「近松論」を執筆中であった 「三鱗」をともに「文藝倶樂部」に掲げた。 明治一二十八年一月一日から三月十五日までという。法名、勸文院篁村淸節居士。昭和二 「山懷」を「東京朝日」に、同月、「果報者」年十月、明治一一十二年より三十年までの劇評 を「文藝倶樂部」に發表した。六月、「排悶」を集めた『竹の屋劇評集』 ( 明治文學名著全集第 + を「新古文林」に、八月二日から十月三十日二編 ) が東京堂から出版された。昭和三年八 まで「不問語」を「東京朝日」に、九月、「武月、『饗庭篁村集』が春陽堂から出た。 實作製 畑 玉川」を「文藝倶樂部」にそれぞれ書いた。 明治三十九年一一月、『不問語』を、九月、 紀行文集『天下泰平』を、十月、小説集『竹 影集』をともに日高有倫堂より上梓した。十 一一月、「幅揃」を「文藝倶樂部」に發表し た。明治四十年、五十三歳。一月、「早起」
日から五月十八日まで「面目玉」を「讀賣新した。十月、「俳諧論」三 + 五年九月まで ) 、「集頃向島小梅町に移った。明治二十九年一月、 聞」に掲げた。五月に『掘出し物』 ( 新著百種第林子院本評釋」三 + 五年七月まで ) をともに「早「馬琴の俳諧」を「早稻田文學」に、「つり (l) を吉岡書店から出した。七月、『むら竹』稻田文學」に連載しはじめた。十一月、「八的」を「太陽」に載せた。五月、「早稻田文 第一卷を春陽堂から出版した。同書は二十三大傅評答集」三 + 五年 + 月まで ) を「早稻田文學」の近松研究に參加し、「雪女五枚羽子板」 年十二月までに二十卷を出し、篁村の著作全學」に載せ始めた。この年、妻と離婚していを同誌に掲載した。六月、「小説家の人物」、 集のようなものであった。七月九日から九月たので坪内逍遙の媒妁で梅津しげ ( 當時一一 + 三九月、「近松が世話物の由來」 ( 近松研究 ) を 四日まで「擬博多」を「讀賣新聞」に、八月、歳 ) と再婚した。明治一一十五年、三十八歳。「早稻田文學」に發表した。九月から「めさ 「良夜」を「國民之友」に、十月一日から十一月、「霜柱」を「國民之友」に、五日からまし草」の「雲中語」に加わった。十月、 一月一日まで「作り菊」を「讀賣新聞」に、二月十七日まで「凧の糸目」を「東京朝日」「槍權三重帷子」の研究に逍遙・抱月らと加 十一月、「蜀山人の盆燈籠」を「國民之友」に掲載した。四月、『雪逹摩』 ( 聚芳 + 種 + 卷 ) をわり「早稻田文學」に發表した。明治三十年 にそれぞれ發表した。本野瓧長との間に行違春陽堂から上梓した。九月七日から十月十五四十三歳。一月、「今仙人」を「新小説」に、 いが生じて日就瓧を退いた。十二月、「新方日まで「鸚鵡石」を「東京朝日」に發表した。「山又山」を「太陽」に、「近松の三傑作につ 萬金丹」三 + 三年一月まで連載 ) を「新小説」に出同月、『凧の糸目』を春陽堂から出版した。いて」を「早稻田文學」にそれぞれ發表し した。高橋建三の紹介で東京朝日新聞に入瓧この年に東京専門學校の講師になって江戸文た。『つり的』 ( 袖珍小設第一編 ) を博文館から出 した。朝日に招かれたのは劇評家としての才學を講じた。、明治一一十六年一月三日から三月した。三月に「種彦の『國姓爺』」を「早稻 を買われたためという。入瓧後すぐ朝日紙上十八日まで「如意寶珠」を、十二月十五日か田文學」に發表し、『笠の露』を春陽堂から に劇評を掲げ、大正十一年までに及んだ。明ら翌二十七年二月十一日まで「帳中説法」を上梓した。八月十四日から十一月三十日まで 治二十三年一月、「近松門左衞門と竹田出雲」「東京朝日」に掲載した。明治一一十七年一月、「當世金の鞋」を「東京朝日」に掲載した。 を「國民之友」に、三日より二月一日まで小説集『有馬筆』を春陽堂から出した。十一明治三十一年一月一日から一一一月十一日まで 「對扇」を「東京朝日」に、三月十八日より月、「種彦が作の蘭譯につきて」を「早稻田「い〈物語」を「東京朝日」に連載した。六 四月十二日まで「小町娘」を「東京朝日」文學」に載せた。明治一一十八年一月、「從軍月、『い〈物語』を春陽文庫第十編として春 に、三月、「八文字屋自笑消滅せんとす」を人夫」を「太陽」に、三日から四月九日まで陽堂から出した。九月九日から十月十四日ま 「國民之友」に掲載した。四月、『勝鬨』 ( 新作「輪柳」を「東京朝日」に發表した。一一月かで「張拔岩」を「東京朝日」に、十月、「ま + = 番之内 ) を春陽堂から出した。十月三日から五月まで「上田秋成」を「早稻田文學」にた上田秋成につきて」を「早稻田文學」に、 ら二十一 = 日まで「富貴自在」を、十一月二日連載した。十一一月に創作集『きせわた』を春十一月十一日から十一一月一 = 十一日まで「時雨 から二十五日まで最太田道灌」を「東京朝陽堂から出した。この年、幸堂得知が「東京の松」を「東京朝日」にそれぞれ發表した。 日」に書いた。明治一一十四年四、五月、「曲亭朝日」の劇評を退いた。以後劇評の中心とな明治三十一一年二月、『曲亭馬琴』 ( 少年讀本第五編 ) 5 馬琴の日記」 ' を「國民之友」に、七月、「蜀り歌舞伎座などの劇評を擔當、三十年代からを博文館から出した。十一月二十八日から十 4 山人の日記」を「國民之友」にそれぞれ發表四十年代にわたってその全盛であった。この二月一一十六日まで「霧の海」を「東京朝日」
堂十上南 冂日島 島明初郎 ↑「幻阿竹 聞書」編上・ ・下表紙明 治十四年一月 ←「蓆群馬嘶」第一編上・中・下表紙 明治十四年橋掌甲 →「各楓月タ榮」初編上紙明治十四年松堂冂 ←「花岡奇縁譚」三編日繪明治十五年島堂
う、新舊出版瓧・新舊作家の火花を散らす對語』榮泉堂刊。小西義敬が今日新聞を京橋彌刊。昭和六年一月、『安愚樂鍋』 ( 現代日本文學全 抗ぶりがあざやかにみられた。七月、『格蘭氏左衞門町におこしたさい、魯文は主筆とし集①「明治開化期文學集」」收載、改造社刊 ) 。四月、 傳倭文賞』永濯國政畫、金松堂刊。この作て、六、七月頃に人瓧。『西洋道中膝栗毛』「西洋道中膝栗毛」 ( 明治大正文學全集囘に收載、春陽 品も、前アメリカ大統領グラ , ドの來朝を記一册本、飯田町日月堂刊。明治十九年七月、堂刊 ) 。昭和三十三年十月、小林智賀平校訂 念した際物。明治十 = 一年一月二十一日ーー・一一『夢物語高野實傳』翠松堂刊。今日新聞を退『西洋道中膝栗毛』岩波文庫刊、昭和四十一 月五日、「火高川珍 ~ 鬼聞」 ( ろは新聞」 ) 、 = 一瓧し、東京繪人新聞に人社したが、小笠原島年一月、興津要校訂「明治開化期文學集曰」 月十九日ーー四月一一十九日、「金花胡蝶幻」に渡航中の一子熊太郞が、十月一一十一日に同筑摩書房刊。昭和四十二年六月、興津要校訂 ( 魯文原稿、京文舍文京綴「」ろは新聞」 ) 、五月二十八島において死去したことで落膽して同瓧から「明治開化期文學集」筑摩書房刊。七月、 日 , ーー七月十三日、『相模灘沖の雲霧』 ( 「」ろ身をひいた。明治二十二年三月、向島木母寺小林智賀平校訂『安愚樂鍋』岩波文庫刊。 興津要作製 は新聞」 ) 、五月ーー・七月、『新浮世床』 ( 「芳譚雜に花笠文京の碑を建てた ( 如電大槻修撰文。香遠益 誌」 ) 、六月、『戀相場花王夜嵐』 ( 「火高川珍《鬼田書とある ) 。五月、『〕ぎ妖狐のお樂』文勢堂 聞」改題 ) 金松堂刊 ( 至 + 四年八月 ) 。七月、『金花刊。六月、京都・大阪に遊ぶ。明治一一十三年 胡蝶幻』魯文原稿、京文舍文京綴、靑盛堂刊三月、文壇引退を決意し、名納め會を兩國中 ( 至同年 + 月 ) 。十月、京橋區竹川町十四番地に村樓に開催し、書畫、書籍または名家の書 移轉。明治十四年一月、高橋お傳の三回忌に翰、短册などを來會者にわかち、その後は、 世話人をつとめた。明治十五年二月、『滑稽都々逸の選者をし、また、いろは連を組織し 殘菜嚢』 ( 『安愚樂鍋』の改題本 ) 誠文堂刊。志んて遊戲文藝にふけった。明治二十五年、この 場の侠客子安之と大阪を經て、奈良・京ころから腦充血症は重きを加えた。明治二十 都に遊んだが、大阪笠屋町の俳優市川右團次六年一月二十一日、默阿彌の葬儀に行って卒 方に滯在中火災にあい、四、五日在阪の後、倒。明治二十七年 ( 一八九四 ) 八、九月頃か 伊勢・名古屋を經て、三月下旬に歸京。十月、ら床につき、十一月八日午前九時、新富町の 『滑稽道中膝車』 ( 『滑富士詣』の改題本 ) 萬笈閣自完で歿した。同月十日、その菩提寺の谷中 譜刊。多病を理由にして、いろは新聞の瓧長の三崎町の永久寺に葬ったが、會葬者はおよそ 年 職を瓧主内藤次郞吉にゆずり、自らは編集五百名で盛況をきわめた。法名は、佛骨庵獨 魯 局において〈長老〉の名のもとに執筆を續け魯草文というだけで、〈居士〉のつかないか 名た。明治十六年一月、『鋸山玉石異訓』魯文原わったものだった。 稿、岡丈紀綴、勸文堂刊。十一月、『鰕 ~ 大正十五年三月、野崎左文校訂・解説『西洋 當世藝者歌舞伎』魯文原稿、孤蝶園若菜編、道中膝栗毛』聚芳閣刊。五月、野崎左文・本 松江堂刊。明治十七年四月、畆隱顯曾我物間久雄校訂・解説『高橋於傳夜刄譚』東京堂
から刊行。五月、敎部省から各界の藝人がよから江戸にでて、つとめ奉公から身を起し、年、コレフ流行のために寄席不況となり、圓 びだしを受けて、「三條ノ敎憲」の趣旨普及生涯節儉を守り、本所きっての富豪になった朝は、全財産を兩國立花家に質物としてあず のために協力を要請され、落語界からは、三が、後にその家が怪談のために瓦解したといけ、三遊派の困窮者を救った。明治十四年一 代目麗々亭柳橋が出席。後に、柳橋を代表者うはなしをした。圓朝はこれに創作意欲をそ月、『三遊春の風俗』刊。六月、父圓太郞の に、六代目桂文治・圓朝が輔佐になり、敎部そられ、太助の菩提寺や子孫の家を訪問し、十三回忌および母すみの三回忌をあわせて法 省に落語界の由來書を提出。この年、弟子圓また太助の出身地沼田調査のために、出入り要を營んだ。八月十六日、門下の俊秀三代目 樂に三遊派最高の名跡圓生を襲名させ、自分の車夫を供につれて、八月二十九日から九月圓生が歿した。明治十七年、春、速記法研究 が賣り物にしてきた芝居噺の道具をすべてゆ十四日にかけての十七日間旅行をした。十月會の若林坩藏が圓朝を訪問し、速記法の宣傳 ずりわたした。これ以後の圓朝の進むべき道二十二日、「朝野新聞」に漢學者信夫恕軒の漢普及のために圓朝の噺を速記刊行させてほし は、扇子一本、舌三寸の素噺の人情噺あるの文體の「三遊亭圓朝傳」掲載。この年、本所いと要請したので、「怪談牡丹燈籠」の速記 みだった。この年、後の名人圓喬が入門して二葉町に移轉。明治十年、陸奧宗光の父伊逹を許可。この年、七月から十二月にかけて、 朝太を名のった。明治六年、大代地から濱町自得居士に禪を敎えられ、その關係から高橋『怪談牡丹燈籠』全十三編が、年參畫、若林 の梅屋敷へ移った ( 一設に七年とも ) 。ひいきの泥舟・山岡鐵舟とも知りあった。明治十一琳藏速記として、東京稗史出版社から刊行。 畫家飯島光峨夫人から上州の侠客「籐名の梅年、「鹽原多助一代記」が完成したが、圓朝明治十八年、一月から三月にかけて、『鹽原 が柴田是眞にきいた怪談のくだりは切りすて多助一代記』全十八編が、ロ繪月岡芳年、落 吉」のはなしをきいて創作にとりかかった。 合芳幾畫、若林坩藏速記として、速記法研究 明治七年、藝界のよき先輩の二代目松林伯圓られ、田舍出の靑年が一代で財を成すストー の實録講談やニ = ース講談に刺戟され、ニュリーに焦點がしぼられた。この作品が歡迎さ會から刊行。一月、『鏡池操松影』が、落合 ース性のある噺を高座にかけた。明治八年四れたのは、無一物の靑年が、義理や忠孝を守芳幾畫、若林坩藏速記として、牡丹屋から刊 く、ー國峯畫、 月、落語家を中心とした寄席藝人の統一團體りながら、勤勞と節約との結果に成功すると行。七月、『英國孝子之傅』カ歌Ⅱ 「睦連」が結成され、三代目麗々亭柳橋が頭取いう新時代の聽衆の共感をうる内容のゆえだ若林琳藏速記として、速記法研究會から刊 に、六代目桂文治・圓生が相談役になった。八つた。明治十一一年四月、圓朝作「業平文治漂行。七月、『業平文治漂流奇談』が、楊州周延 月、飯島光峨夫人のはなしにヒントをえた「安流奇談」が、春木座で初演された。本名題畫、若林琳速記として、速記法研究會から刊 なりひらふんしみさおのたてひき 譜中草三」のモデル榛名の梅吉の調査のために、は業平文辭松逹攝」で、片岡我童・市川新十行。『鹽原多助一代記』は十二萬部という驚 おくれざきはる 上州を二十日あまり旅行し、歸京後、「後開榛郞・岩井紫若らが出演。六月四日、母すみ死異的な賣れゆきだった。明治十九年一月、圓 名梅ケ香」を完成。明治九年七月、圓朝は、去、淺草森下の金龍寺に葬った。明治十三年朝作「英國孝子之傅」が新富座で初演され 、八月十三日の「東京曙新聞」に一子朝太郞のた。本名題は「西洋噺日本寫繪」で、市川團 遊創作をめざす怪談百物語の題材をえようと 非行が掲載された。九月二十四日、山岡鐵舟十郞・市川左團次らが出演。八月五日、内務 淺草石切河岸の畫家柴田是眞を訪問すると、 是眞は、昔、本所の炭商人に鹽原太助寒助がの侍醫千葉立造邸で滴水和尚と知りあって參大臣山縣有朋、外務大臣井上馨などの北海道 本名 ) という者があり、彼は上州沼田下新田禪し、無舌の悟りを開くにいたった。この視察旅行の隨員として圓朝も加えられて出發
第 10 ゝ : 当」 : 」 000 物・ 0 を 「教育 ←ト設稚兄櫻」ロ繪 野草戔抃 「教育 →「春野草紙」第一號表紙明治十四年三月九舂社刊 →ト設稚兄櫻」表紙明治二十年六月成美堂刊 ←「夜嵐阿衣花迺仇夢」初編上表紙明治十一年六月金松堂刊 「名も高・橋 毒掃のト専東京奇聞」四編上・ 二年島鮮堂刊 島堂壽獰 下表紙明治十 0000 、第
かじか 上で改名。この圓朝のもとへ圓三 ( のち榮朝、 ( 後の「眞景累ケ淵」 ) を創作。五月、深川門前仲プ一フスが多かった。彼の三題噺の代表作「鰍 4 二代目圓太郞を經て五代目司馬龍生となった ) と小勇と町の侠客源太の經營する寄席に出演し、「お澤」、その續編「晦日の月の輪」 ( 河竹新七作 ) いう二人の弟子が入門したので、長安寺の門みよ新助」を自作自演して好評を博した。こも創作。この年、「粹狂迚」「興笑連」のメン 番所は手ぜまになり、ここに母を殘したままの興行では、圓生にかわって、父圓太郞の情 バーの略傅、肖像、自作の三題噺を掲載した 圓朝は二人の弟子とともに下谷池の端七軒町愛こもる援助出演があって、圓朝の人氣は急『粹興奇人傳』が刊行され、初めて圓朝の略傳 うらたな の裏店へ轉居。この年の夏 ( 一説に初秋 ) に眞上昇した。これをみて嫉妬した圓生は、圓朝が出た。また、この年刊行の『三題樂話・作 打昇進を許されたが、一流の寄席へ出演でを冷遇した。圓生との交渉を斷たれた圓朝で者評判記』で、圓朝は、「大上上吉」と賞讃 こりば きず、二人の弟子に音曲師の桂文歌に援助出はあったが、話術の上逹に加えて、歌川國芳された。元治元年、由絡ある兩國垢離場の書 にうろく 演をたのみ、駒込炮碌地藏前、下谷廣德寺前じこみの繪筆をふるっての道具や背景の作成席で眞を打つにいたり、大いに好評を博し などの二、三流の寄席で不本意な興行を續けや萬事派手ごのみの演出で人氣は高まるばかた。元治一一年 ( 慶應元年 ) 三月二十一日、師圓 た。十月二日、安政大地震のために長安寺にりだった。萬延元年 ( 安政七年 ) 、圓生が病床生の遺言に從い、その三周忌にあたって本葬 歸った。安政三年、地震の復興景氣で寄席もに臥すにいたって大いに援助。この年、「菊を營んだ。慶應二年、母の希望によって淺草 繁昌するようになり、池の端七軒町の表店に模様皿山奇談」を自作自演。文久元年、淺草裏門代地に移った。慶應四年 ( 明治元年 ) 一一 移り、父母をひきとった。彼は、若手ながら茅町の家がせまくなったので、淺草中代地の月、大聖寺へ歸國する本家出淵幾之進と親交 音曲で人氣のあった二代目桂文樂の出演する表店に移り、池の端七軒町に住む兩親をひきをあたためつつ見送った。秋、父の知人で、 寄席において、中人り前に出演して收入もふとった。義兄玄昌は僧位がすすんで永泉と改茶船乘の親分武藏屋德松のすすめで大代地へ えていた。安政五年、和解させた兩親を池の名して小石川是照院の住職になった。この移轉。近所に山々亭有人・假名垣魯文・一惠 端に殘した圓朝は、ひとり淺草茅町の關ロと年、「牡丹燈籠」を創作。文久二年正月、師齋芳幾らが住んでいたので、その仲間入りを いう小間物屋の路地を入った裏店へ移轉。十匠圓生は、いったん病氣全快したが、再び倒して親密さを加えた。この年、お里との仲に 一月、鳴物噺を始めた圓朝は、好評に氣をよれた。八月十一一日、圓生死去、その遺言通り朝太郞が生まれた。明治一一年、茅場町の寄席 くして精進を續けた。安政六年春、二十一歳に假葬をおこない、菩提寺の下谷池の端七軒宮松亭に出演して好評を博した。柳橋の藝者 になった圓朝は、下谷御數寄屋町の寄席「吹町の大正寺に葬った。十一月二十一日、義兄お幸を妻にむかえた。明治三年、後の人氣者 ぬき」に、經營者のわ組のが好意で出演の死去、是照院に葬った。文久 = 一年、金座役人圓遊が入門。明治四年、「菊模様皿山奇談」 すいおうけん 機會をえたので、三升屋勝藏を助演に、師圓高野醉櫻軒や大傳馬町の豪商勝田某 ( 號、春のが、三遊亭圓朝作話、山々亭有人補綴、錦朝 生を中入り前に援助出演をたのんだが、毎屋幾久 ) などの通人や、假名垣魯文・山々亭有樓芳虎畫として、若榮堂から刊行。十月十五 しょこう 晩、圓生は、圓朝の用意する道具噺を素噺で人などの戲作者、瀬川如皐・河竹新七 ( のち日、父圓太郞死去、橘圓新聲信士と法名し、 さきに演じて妨害した。そのために、圓朝默阿彌 ) などの劇作家たちが組織する三題噺の初代圓生の菩提所淺草金龍寺に葬った。明治 すいきようれんきようしようれん は、道具にあうような噺を自作自演すること自作自演グループ「粹狂連」「興笑連」に五年、「今朝春三組盃」が、三遊亭圓朝作、 を餘儀なくされ、怪談噺「累ケ淵後日怪談」參加し、多數の知友をえて、創作上、演出上に山々亭有人綴、錦朝樓芳虎晝として、靑盛堂 ざわ
438 家定に讀書を授ける。父祖の業をついで『東し、侍講の職を免ぜられた。閉居の閑暇を利 照宮後實記』『後鑑』等の編纂、訂正に携わ用して「蘭文典」を學びはじめる。 る。冬、布衣に列する。 元治元年、柳河春三・田孝平・箕作秋坪・ 成島柳北年譜 安政四年三月一一十五日、前年娶った妻狩野氏桂川甫周ら洋學者を下谷の自宅に招き、英學 を離別、四月一一十四日、旗本永井氏の女と再の疑義を質す。 天保八年 ( 一八三七 ) 一一月十六日、淺草御厩婚。このころから醫學館敎授杉本忠逹らとと慶應元年一月、柳河春三・桂川甫周・禪田孝 いつまてぐさ 河岸の賜邸に成島稼堂の三男として生まれるもに、柳橋の川口樓、向島の平岩樓に遊び、平らと戲文集「伊都滿底草」を編む。六月、 もとなお ( 祖父司直は將軍侍講、天保十一一年八月、御廣敷用人格五百妓を携えて隅田川の舟遊を樂しんだ。 輻澤論吉を下谷の自宅に招く。九月二十八 はた 石に任じて、圖書頭と名をあらため、同 + 四年 + 一月稼堂安政五年七月七日、長女機生まれる。 日、栗本鋤雲の推擧により、歩兵頭並に登用 よしまっ に家督を讓った。なお稼堂は恒之助良讓といい、奧醫師杉安政六年九月一日、『柳橋新誌』初編の稿をされる。十二月十九日、騎兵頭並に任じ、フ 本宗春院良敬の次男で、文化十三年十二月成島家の養子と起し、十月にいたって成る。このころから大ランス騎兵傳習の事を建言する。 えと なった ) 。生まれた日の干支にちなんで幼名を沼枕山・關雪江・植村盧州らの詩友と交わり慶應二年七月、横濱太田の兵營に居を移し、 フランス式騎兵訓練を督する。フランス軍事 甲子呂といい、後甲子太郞、ついで二十一一を深める。 歳のとき惟弘とあらためる。字は保民、確堂萬延元年一月十九日、祖成島錦江百年忌の詩敎官シャノアンと親交を結ぶ。 と號する。別に家が柳原の北にあったところ歌會を自宅に開く。枕山・雪江ら來會。七月慶應三年五月六日、騎兵頭に昇進、二千石を から柳北と號し、後にこれを通稱とした。ほ五日、『柳橋新誌』初編の追補成る。十月、賜わる。九月、騎兵奉行に任じ、橫濱から江 かに誰園・我樂多堂・澤上隱士・何有仙史な『德川實記』五百餘卷、『後鑑』三百七十五戸に歸る。十二月九日、病いのため騎兵奉行 卷完成、黄金と時服を賜わる。「進後鑒牋」の職を辭す。 どの別號がある。 明治元年一月十一日、外國奉行に就任、從五 天保十一一年、このころ一家は下谷練塀小路西を草する。 文久元年六月、柳原の北に有待舍を建て、側位下大隅守となる。祿高三千石。ついで二十 側 ( 現在の御徒町驛付近 ) の賜邸に移った。 八日、會計副總裁に任じ、總裁大久保一翁を 弘化元年、このころから父稼堂の薫陶のもと室お蝶を置く。「有待舍記」をつくる 文久一一年三月十五日、大沼枕山・鷲津毅堂・扶けて幕政の橿機に參畫。一一月、前將軍慶喜 に和歌を學び、「詠草」二册をまとめる。 嘉永六年八月一日、日記をつけはじめる。十植村盧州らと隅田川に舟遊、たまたま大槻磐が上野寬永寺内大慈院に入って謹愼の意を表 溪・桂川甫周らも來り會し、詩を唱和した。せんとするや、單身上洛して罪を謝すべきで 一月十五日、父稼堂が五十一歳で歿した。 嘉永七年一月十一一日、家督をついで侍講見習夏、柳河春三と柳橋藝者の評判記「柳橋一一十あると直諫。四月十日、江戸城開城を目前に のぶかね となり、三百石を賜わる。 四番花信評」を戲作する。閏八月一一日、祖父養子信包に家督を讓り、一一十五日、向島須崎 安政一一年十月、大地震の後、長詩「地震行」司直が八十五歳の高齡で歿する。秋、廱疹を村の松菊莊に隱棲、「天地間無用の人」と稱 をつくる。 した。九月、「澤上隱士傳」「松菊莊記」をつ 患らう。 安政三年十一月十九日、奧儒者となり、將軍文久三年八月、狂詩によって幕閣の因循を諷くる。十一月、德川龜之助にしたがって靜岡
イ 50 が歿した。 六日まで「深山水」を、九月十七日から十月 明治七年、二十歳。日就社に入社した。文選十二日まで「走馬燈」をそれぞれ「讀賣新聞」 や校正などをやった。明治九年十一月十六日に掲載した。十一月三日、九日、ポーの飜案 饗庭篁村年譜 から一一十五日にかけて「暴動記」を「讀賣新「黑猫」を「讀賣新聞」に出した。坪内逍 聞」に掲げた。禪風連の事件を扱ったもので遙・高田半峰などに接して刺戟を受けた結果 安政二年 ( 一八五五 ) 八月十五日に江戸下谷ある。明治十五年、二十八歳。この頃、京橋であるという。十一月十日から十二月十日ま 大音寺前の質屋、饗場 ( 戸籍面 ) 與之吉の五男南傳馬町一丁目に一戸を構えた。明治十六年で「蓮葉娘」を、十二月十四、一一十三、三十 として生まれた。本名は與三郞。長男與平、三月十一日から十五日まで「蓄財の要訣」を日、ポーの飜案「ル 1 モルグの人殺し」を 次男與三郞 ( ともに早世 ) 、三男與之吉、四男「讀賣新聞」に發表した。この年に長男の與「讀賣新聞」にそれぞれ發表した。明治二十 某、長女に次いだ第六子で、夭折した次男と之助 ( のち嫡となる ) が生まれた。明治十九年一年一月三日から二十日まで「目鏡」を、一一 容貌が似ていたので、同じ名の與一二郞と名付一月二十四日に坪内逍遙を知った。逍遙など月九日から二十六日まで「闇の梅」を、二月 けられた。別號に竹の屋主人・龍泉居士・大に接して外國の新文學の話を聞き、大いに啓二十八日から三月十五日まで「軒の垂水」 阿居士などを用いた。饗場家の祖は新田義貞發された。この頃京橋から根岸御隱殿に居をを、三月十六日から四月三日まで「川ぞひ だといい、代々近江で醫を業としていたが、移した。三月二十三日から五月二十日まで柳」をそれぞれ「讀賣新聞」に書いた。四月 父が文化年間に江戸に出て呉服屋を開業、の「當世商人氣質」を「讀賣新聞」に掲載した。五日から十九日まで「殺生石」を、六月十六 ち下谷で質屋を開いたという。同年十一月十七月六日から同月一二十一日まで「人の噂」を日から七月二十一日まで「今年竹」を、八月 一日の安政大地震の時、母 ( 當時二 + 歳 ) は梁の「讀賣新聞」に載せた。十月、『當世商人氣十八日から九月六日まで「水の流れ」を、九 下になって死亡。その節、庭にほうり出され質』を駸々堂から出した。同月二十三日から月七日から十月六日まで「影法師」をそれぞ た與三郞は近くの竹村氏に拾われて一命をと十一月十四日まで「婦人の怨」上を、十一月れ「讀賣新聞」に掲げた。十一月、雜誌「小 りとめたので、のちに篁村・竹の屋の號を付二十五日から十二月八日まで「婦人の怨」下詭萃錦」 ( 明治二 + 二年六月發刊 ) を主宰した。十 けたという。慶應二年、十一歳の時、父の懇を「讀賣新聞」に發表した。十二月十九日か六日、長女節 ( 山田淸作に嫁す ) が生まれた。十 意にしていた日本橋新材木町の質屋箱崎屋へら三十日まで「雪の下萌」を「讀賣新聞」に二月五日から三十日まで「魂膽」を「讀賣新 見習に住み込んだ。しかし客分待遇であった出した。明治一一十年、三十一二歳。この年に次聞」に書いた。 ので比較的自由がきき、店の二階が貸本屋で男英二郞 ( 東大法科卒。朝鮮總督府に勤める ) が生まれ明治二十二年一月、「大鼠」三月に連載 ) を「新 あったので、その本を自由に讀み、雜學の基た。三月五日から四月十日まで「藪の椿」を小説」に掲げた。三月から七月まで「苦樂」 礎をこの際に築いた。また、主人の供で「讀賣新聞」に出した。五月二十四日から六を「新小説」に書いた。この頃すでに根岸派 劇、遊藝の稽古場への出入などをしたのでそ月二十六日まで「玉簾」を「讀賣新聞」に發の重鎭として、先に「小説萃錦」を主宰した の方面の知識も得た。明治一一年、十四歳の時表した。八月、「春色梅ごよみ」 ( 九月に連載 ) を他に、三月から森田思軒、須藤南翠と三人で に箱崎屋を辭して實家に歸った。この年に父出版月評」に發表。八月三十一日から九月十「新小説」の編集主任となった。四月二十一
→饗 ←「當世商人氣質」明治一一十二年八月金港堂刊 第第 転い ←「むら竹」第二・三卷祚十 - 一 表紙明治二十二年 之均 春陽堂刊 ー庭射 を発行 →罩村筆蹟 え例 ~ ト吶地ーけイ、イ 広第ー、なてす ) がり 3 裃の →「勝鬨」明治二十三年四月舂陽堂刊 ←「勝鬨」ロ繪