ひ、さながら出家の如く、山伏の如し、或時は經を讀み、陀羅尼をのは西洋の魔法使もする事で、それだけ永い間修業したのたから、 へんしければ、見る人身の毛もよだちける。されば御家相續の子無其位の事は出來たことと見て置かう。感情が測られず、超常的言語 くして、御内、外様の面に、色ぐ諫め申しける。」成程斯様いふ状など發するといふのは、もと / \ 普通凡庸の世界を出たいといふの 態では、當人は宜いが、周圍の者は畏れたらう。其の冷い、しゃちで修業したのだから、修業を積めば然様なるのは當然の道理で、 こばった顔付が見えるやうた。 こが慥に魔法の有難いところである。政元から云へば、何様も變 で、諸大名等人にの執成しで、將軍義澄の叔母の縁づいてゐる太だ、少し怪しい、などと云ってゐる奴は、何時までも雪を白い、鳥 政大臣九條政基の子を養子に貰って元服させ、將軍が烏帽子親になを黒いと、退屈もせずに同じことを言ってゐる扨に下らない者共 って、共名の一字を受けさせ、源九郞澄之とならせた。 だ、と見えたに疑無い。が、細川の被官共は弱ってゐる。そこで與 澄之は出た家も好し、上品の若者だったから、人にも好い若君と 一は赤澤宗益といふものと相談して、此分では仕方が無いから、高 喜び、丹波の國を此人に進ずることにしたので、澄之はそこで入都壓的強請的に、阿波の六郞澄元殿を取立てゝ家督にして終ひ、政元 した。 公を隱居にして法三昧でも何でもして貰はう、と同盟し、與一は ところが政元は病氣を時にしたので、此前の病氣の時、政元一家其主張を示して淀の城へ籠り、赤澤宗益は兵を率ゐて伏見竹田口へ の内、、の人ぐだけで相談して、阿波の守護細川慈雲院の孫、細川讃強請的に上って來た。 岐守之勝の子息が器量骨柄も宜しいといふので、攝州の守護代藥師 與一の議に多數が同意するでは無かった。澄之に意を寄せてゐる 寺與一を使者にして養子にする契約をしたのであった。 者も多かった。何にしろ與一の仕方が少し突飛だったから、それ下 此養子に契約した者も將軍より一字を貰って、細川六郞澄元と名として上を剋する與一を撃てといふことになった。與一の弟の與一一 勇では有り、多勢ではあ 乘った。つまり澄元の方は内にの者が約束した養子で、澄之の方はは大將として淀の城を攻めさせられた。」 案内は熟く知ってゐたので、忽に淀の城を攻落し、與二は兄を 立派な人ぐのロ入で出來た養子であったのである。これには種一、のり、 一元寺で詰腹切らせて了った。其功で與二は兄の跡に代って守護代 説があって、前後が上記と反對してゐるのもある。 となった。 澄元契約に使者に行った細川の被官の藥師寺與一といふのは、一 阿波の六郞澄元は與一の方から何等かの使者を受取ったのであら 文不通の者であったが、天性正直で、弟の與二とともに無双の勇者 う、悠然として上洛した。無人では叶はぬところだから、六郎の父 で、淀の城に住し、今までも度に手柄を立てた者なので、細川一家 では賞美して居た男であった。澄元のあるところへ、澄之といふ者の讃岐守は、六郞に三好筑前守之長と高畠與一二の二人を付隨はせ 者が太政大臣家から養子に來られたので、契約の使者になった藥師寺た。二人はいづれも武勇の士であった。 行 與二は政元の下で先度の功に因りて大に威を振ったが、兄を討っ 與一は阿波の細川家へ對して、又澄元に對して困った立場になっ たので世の用ゐも惡く、三好筑前守は又六郞の補佐の臣として六郞 た。そこで根が律義勇猛のみで、心は狹く分別は足らなかった與一 は赫としたのである。此頃主人政元はといふと、段に魔法に凝り募の權威と利益との爲には與二の思ふがまゝにもさせず振舞ふので、 って、種にの不思議を現はし、空中へ飛上ったり空中へ立ったりし、與二は面白くなくなった。 3 そこで與二は竹田源七、香西又六などといふものと相談して、兄 喜怒も常人とは異り、分らぬことなど言ふ折もあった。空中へ上る
お目見以下では將軍の前へは出られないが、お坊主衆は用があれば氏へ傳へられたと考へられる。生涯を通じて、露件は「格物致知」 自由に將軍の前へ出ることができる。幸田家は表お坊主だから、將 を言ひ通したといふが、それは儒學の勉強によって知る前に、家 軍家と大名家とのあひだにあって諸事取計らふ役目だから、何時も事・交際・藝事・學問その他萬般において、少年時代から嫌といふ 最高位の武家と接觸してゐたわけである。幸田文氏の話では、大名ほど身に知らされてゐたことだったのである。 から將軍家へ物を獻上するときは、何時もまったく同一のものを表 露件のやうな茫洋とした廣さと深さとを持った學間の全體を捉へ お坊主にも持って來るきまりで、文氏の少女時代にも、立派な人形ることは、難事中の難事である。私は露件の書き殘したものを考へ、 などが殘ってゐたといふ。 さらに露件が文氏に傅へようとしたものから補足して考へるに過ぎ お坊主衆は知識として、幕府の有職・故事はもとより、武家世界ない。文氏の書いたものによると、露件の敎育法の根本は、格物致 ではもっとも高貴な段階における禮儀・作法・ロ上・遊藝・實務な知であり、それは行住坐臥に必要なあらゆる知識、すなはち掃除の ど、生活の全般に通曉してゐなければならなかった。單に知識とし 仕方から料理法、挨拶・ロ上のたぐひにまで及び、いささかの背理 てでなく、「形」として身につけてゐなければならなかった。お坊をも許さない嚴しいものである。それはおそらく、露件が生母猷女 主衆の幇間的性格は、それが悪知惠に長けてゐたか否かにかかはり 史から受けたものであり、露件母子は「背骨」が好きだと、これま なく、彼等をきはめて高度に世故に長けたものとし、またきはめてた「背骨の押っ立った人間」になるやうに訓育された文女史は言っ てゐる。それは全體的な人間敎育であり、その敎育に堪へるには強 高度に實生活上の趣味の批評家たらしめるのだ。私は露件の博識の い精神力を必要とする。われわれが普通敎育において身につける敎 淵源をそこに見てをり、それは言はば、幸田家の家學と言ふべきで あった。もちろん、そのやうな封建瓧會の高い身分に關聯しての知養を、最高度において身につけることを強ひられるのである。 識が、明治における露件の知識として、そのまま役立つわけはな 格物致知については、最近小林秀雄氏が、荻生徂徠の説を敷衍し い。だが、少くとも幸田家の家風の傅統は、封建時代に形成されたながら去のやうに言ふ。 ところの、一種の生活的知識に基礎を置いてゐた。それはきはめて 「格物とは、元來、物來るの意であって、學者逹が皆誤解してゐる 高度に洗煉されたものであり、包括的でしかも體系的であり、しかやうに、物を窮むの意ではない。物の理を窮めて知を致すといふや も芯には處世哲學ともいふべきものを結晶させてゐた。 うな安易な道を行くから、物が理に化けるのである。せつかく物が もちろんそれだけでは、まだ不足である。維新の變革は、幸田家來るのに出會ひながら、物を得ず理しか得られぬとは、まことに詰 らぬ話だ、とするのが徂徠の考へだ。物來る時は、全經驗を擧げて に貧の經驗をさせる。露件の祖母もしつかりした人だったらしい いう 論が、母猷女史は貧困のなかに、數多い子供たちを育て上げた。掃これに應じ、これを習ひ、これに熟し、『我ガ有ト爲セバ、思ハズ 解除・米磨ぎ・洗濯・火焚き、何でも露件はやらされたと言ふが、百シテ得ルナリ」といふ考へだ。』 ( 考へるヒント ) 露件は少年時代から嫌應なく「物」に直面しなければならなかっ 作科全書的に生活の知識を體得してゐた猷女史から、嚴しく仕込まれ た上に、如何に能率的に短時間で仕事の實を擧げるかは、露件が少たし、それが彼の學間の根底を作り、實踐哲學の基を固めた。彼が 少年時代に、「物」に對して如何にして能率を上げるかに工夫をこ 年時代からつねに工夫してゐたことだったと、文氏は語ってゐる。 猷女史から露件へ傳へられた方法が、そのままの形で、露件から文らしたとき、彼に向って「物來る」状態だったのであり、全經驗を
まさ すう 理の應に然るべきものあるか。鄒公瑾等十八人、殿前に於て李景隆 諸城、亦皆降り、北軍の艦船江上に往來し、旗鼓天を蔽ふに至る。 朝廷大臣、自づから全うするの計を爲して、復立って爭はんとする を毆って幾ど死せしむるに至りしも、亦益無きのみ。帝、金川門の守 ちゃうく 者無し。方孝孺、地を割きて燕に與へ、敵の師を緩うして、東南のを失ひしを知りて、天を仰いで長吁し、東西に走り迷ひて、自殺せ きようびんけい 募兵の至るを俟たんとす。乃ち慶城郡主を遣りて和を議せしむ。郡んとしたまふ。明史、恭閔惠皇帝紀に記す、宮中火起り、帝終る所 へいいん 主は燕王の從姉なり。燕王聽かずして日く、皇考の分ちたまへる吾を知らずと。皇后馬氏は火に赴いて死したまふ。丙寅、諸王及び文 武の臣、燕王に位にかんことを請ふ。燕王辭すること再三、諸王 地も且っ保つ能はざらんとせり、何ぞ更に地を割くを望まん、たゞ いた 羣臣、頓首して固く請ふ。王遂に奉天殿に詣りて皇帝の位にく。 奸臣を得るの後、孝陵に謁せんと。 ちんせん 是より先建文中、道士ありて途に歌って日く、 六月、燕師浦子口に至る。盛庸等之を破る。帝都督僉事陳玳を遣り て舟師を率ゐて庸を援けしむるに、玳却って燕に降り、舟を具へて あひふく 燕を逐ふ莫れ、 迎ふ。燕王乃ち江神を祭り、師を誓はしめて江を渡る。舳鱸相銜み 燕を逐ふ莫れ、 て、金鼓大に震ふ。盛庸等海舟に兵を列せるも、皆大に驚き愕く。 こさう さしまね 燕を逐へば日に高く飛び、 燕王諸將を麾き、鼓譟して先登す。庸の師潰え、海舟皆共の得る 高く飛びて帝畿に上らん。 ところとなる。鎭江の守將童俊、爲す能はざるを覺りて燕に降る。 帝、江上の海舟も敵の用を爲し、鎭江等諸城皆降るを聞きて、憂鬱 して計を方孝孺に問ふ。孝孺民を驅りて城に入れ、諸王をして門を 是に至りて人共言の黶を知りぬ。燕王今は帝たり、宮人内侍を詰 りて、建文帝の所在を間ひたまふに、皆馬皇后の死したまへるとこ 守らしむ。李景隆等燕王に見えて割地の事を説くも、王應ぜず。勢い せつみゆき よ / 、逼る。群臣或は帝に勸むるに浙に幸するを以てするあり、或ろを指して應ふ。乃ち屍を燼中より出して、之を哭し、翰林侍讀 いかに は湖湘に幸するに若かずとするあり。方孝孺堅く京を守りて勤王の王景を召して、葬禮まさに何如すべきと間ひたまふ。景對へて日 師の來り援くるを待ち、事若し急ならば、車駕舅に幸して、後擧を爲 く、天子の禮を以てしたまふべしと。之に從ふ。 おくりなよ ち、ぎみ さんことを請ふ。時に齊泰は廣徳に奔り、・ 黄子澄は蘇州に奔り、徴 建文帝の皇考興宗孝康皇帝の廟號を去り、舊の諡に仍りて、懿 ゐんとう 兵を促す。蓋し一一人皆實務の才にあらず、兵を得る無し。子澄は海文皇太子と號し、建文帝の弟呉王允樋を降して廣澤王とし、衞王介 ゐんき けん に航して兵を外洋に徴さんとして果さず。燕將劉保、華聚等、終に爆を懍恩王となし、除王允煕を敷惠王となし、尋で復庶人と爲し乂 朝陽門に至り、備無きを覘ひて還りて報ず。燕王大に喜び、兵を整が、諸王後皆共死を得ず。建文帝の少子は中都廣安宮に幽ぜられし へて進む。金川門に至る。谷王撼と李景隆と、金川門を守る。燕兵が、後終るところを知らず。 至るに及んで、遂に門を開いて降る。魏國公徐輝祖屈せず、師を率 魏國公徐輝祖、獄に下さるれども屈せず。諸武臣皆歸附すれども、 ゐて迎へ戦ふ。克っ能はず。朝廷文武皆倶に降って燕王を迎ふ。 輝祖始終帝を戴くの意無し。帝大に怒れども、元勳國舅たるを以て 誅する能はず、爵を削って之を私第に幽するのみ。輝祖は開國の大 史を按じて兵馬の事を記す、筆墨も亦倦みたり。燕王事を擧げて功臣たる中山王徐逹の子にして、雄毅誠實、父逹の風骨あり。齊眉 より四年、遂に其志を得たり。天意か、人望か、數か、勢か、將又山の戰、大に燕兵を破り、前後數載、に良將の名を辱めず。共姉 こた なか ていき
蒲平運師狂 迚雪幻骨觀望雁二新五艶對毒風 郷門命師魂 畫樹坂 浦重魔髑未流 記き談董談記越語島塔傅髏唇佛 雨水將鳴樋淡 釣京考人葉氏翠 田門本讒 東雜屋一 廼 の棋春ロ 幸作 家藤 饗怪水 庭滸 と 談家 魔活 法死 行生 者風 定價 5 0 0 回
國替のあとへ四十五萬石 ( 或は七十萬石 ) の大封を受けて入った 剛勇の武士を手下に備へなければならぬ、就ては秀吉に對して嘗て が、上杉に陰で絲を牽かれて起った一揆の爲に大に手古摺らされて敵對行爲を取って共忌諱に觸れたために今に何の大名にも召抱へら 困った不成績を示した男である。又氏鄕は相縁奇縁といふものであれること無くて居る浪人共をも宥免あって、自分の旗の下に置くこ らう、秀吉に取っては主人筋である信長の婿でありながら秀吉にはとを許容されたい、といふのであった。まことに此の時代の事であ 甚だ忠誠であり、縁者として前田又左衞門利家との大の仲好しであるから、一能あるものでも嘗て秀吉に鎗先を向けた者の浪人したの ったが、家康とは餘り交情の親しいことも無かったのであり、政宗は、たとひ召抱へたく思ふ者があっても關白への遠慮で召抱へかね ちと は却て家康と馬が合ったやうであるから、此談も些受取りかねるのたのであった。氏鄕の申出は立派なものであった。秀吉たる者之を である。 容れぬことの有らう筈は無い。敵對又は勘當の者なりとも召抱扶持 今一ツの傅説は、秀吉が會津守護の人を選ぶに就いて諸將に入札等隨意たるべきことといふ許しは與へられた。小田原の城中に居た をさせた。ところが札を開けて見ると、細川越中守といふのが最も佐久間久右衞門尉は柴田彎家の甥であった。同じく共弟の源六は 多かった。すると秀吉は笑って、おれが天下を取る筈たは、こ乂は佐こ成政の養子で、二人何れも秀吉を撃取にか乂った猛將佐久間玄 にく 蒲生忠三郎で無くてはならぬところだ、と云って氏鄕を任命したと蕃の弟であったから、重く秀吉の惡しみは掛ってゐたのだ。此等の士 は秀吉の敵たる者に扶持されぬ以上は、秀吉が威權を有して居る間 いふのたしおれが天下を取る筈たは、といふ意は人一、の識カ眼カよ たとひ り遙に自分が優って居るといふ例の自慢である。此話に據ると、會は假令器量が有っても世の埋木にならねばならぬ運命を負うて居た とり 津に蒲生氏鄕を置かうといふのは最初から秀吉の肚裏に定まって居のだ。まだ共他にも斯様いふ者は澤山有ったのである。德川家康に たことで、入札はたゞ諸將の眼力を秀吉が試みたといふことになる悪まれた水野三右衞門の如きも共一例だ。當時自己の臣下で自分に ちといぶ ので、そこが些訝かしい。徃復ハガキで下らない質間の回答を種に 背いた不埓な奴に對して、何にといふ奴は當家に於て差赦し難き者 の形の瓢簟先生がたに求める雜誌屋の先祖のやうなものに、千成瓢でござると言明すると、何の家でも其者を召抱へない。若し召抱へ びんぜん いづ る大名が有れば共大名と前の主人とは弓箭沙汰になるのである。こ 簟殿下が成下るところが聊か憫然た。いろ / 、の談の孰れが眞實た か知らないが、要するに會津守護は當時の諸將の間の一間題で好談れは不義背德の者に對する一種の制裁の律法であったのである。そ 柄で有ったらうから、隨って種にの臆測談や私製任命や議論やの話こで斯様いふ埋木に終るべき者を取入れて召抱へる權利を此機に乘 が轉傳して殘ったのかも知れないと思はざるを得ぬ。 じて秀吉から得たのは實に賢いことで、氏鄕に取っては共大を成す 何はあれ氏鄕は會津守護を命ぜられた。ところが鄕も一應は辭所以である。前に擧げた水野三右衞門の如きも徳川家から赦されて した。それでも是非頼むといふ譯だったらう、そこで氏鄕は條件を氏鄕に屬するに至り、佐久間久右衞門尉兄弟も氏鄕に召抱へられ、 氏付けることにした。今の人なら何か自分に有利な條件を提出して要其他同様の境界に沈淪して居た者共は、自然關東へ流れて來て、秀 つりばりかり 生 求するところだが、此時分の人だから自己利瓮を本として釣鉤の銭吉に敵對行爲を取った小田原方に居たから、小田原沒落を機として つはもの のやうなイヤなものを出しはしなかった。たゞ與へられた任務を立氏鄕の招いだのに應じて、所謂戦場徃來のおぼえの武士が吸寄せら れたのであった。 派に遂行し得るために共使宜を與へられることを許されるやうに、 氏鄕が會津に封ぜられると同時に木村伊勢守の子の彌一右衞門は といふことであった。それは奧羽鎭護の大任を全うするに付けては さっさ きゐ
一寸面白い。珉鄕の肚は濶いばかりでなく、奥深いところがあった。 ると認められて、蒲生方が勝になったといふ談は面白い公事として 2 斯樣いふ性格で、手厳しくもあり、打開けたところもあり、そし名高い談である。共の逸話は措いて、氏鄕が天正二十年部ち文祿元 て其能は勇武もあり、機略もあった人だが、共上に氏鄕は文雅を喜年朝鮮陣の起った時、會津から京まで上って行った折の紀行をもの び、趣味の發逹した人であった。矢叫び鬨の聲の世の中でも放火殺したものは今に遺ってゐる。文段歌章、當時の武將のものとしては 人專門の野蠻な者では無かった。机に発りて靜坐して書籍に親んだ共才學を稱すべきものである。辭世の歌の「限りあれば吹かねど花 人であった。足利以來の亂世でも三好實休や太田道灌や細川幽齋はは散るものを心短き春の山風」の一章は誰しも感歎するが實に幽婉 たす うしな 云ふに及ばず、明智光秀も豐臣秀吉も武田信玄も上杉謙イ 言も、前に雅麗で、時や祐けず、天吾を亡ふ、英雄志を抱いて黄泉に入る悲凉 擧げた稻葉一鐵も伊逹政宗も、皆文學に志を寄せたもので、要する愴妻の威を如何にも美はしく詠じ出したもので、三百年後の人をし に文武兩道に逹するものが良將名將の資格とされて居た時代の信仰て猶涙珠を彈ぜしむるに足るものだ。そればかりでは無い、政宗も にも因ったらうが、そればかりでも無く、人間の本然を欺き掩ふ可底倉幽居を命ぜられた折に、心配の最中でありながら千ノ利休を師 からざるところから、優等資質を有して居る者が文雅を好尚するの として茶事を學んで、秀吉をして「邊鄙の都人」だと嘆賞させた は自からなることでも有ったらう。今川や大内などのやうに文に傾 が、氏鄕は早くより茶道を愛して、しかも利休門下の高足であっ まき き過ぎて弱くなったのもあるが、大將たる程の者は大抵文道に心を た。氏鄕と仲の好かった細川忠興は、茶庭の路次の植込に槇の樹な わび 寄せてゐて、相應の浩詣を有して居た。我儘な太閤殿下は「奧山にどは面白いが、まだ立派すぎる、と云ったといふ程に侘の趣味に徹 紅葉踏み分け鳴く螢」などといふ句を詠じて、細川幽齋に「しかと した人たが、氏鄕も幽閑淸寂の茶旨には十分に徹した人であった。 ひそ は見えぬ森のともし火」と苦しみながら唸り出させたといふ笑話を 利休が心窃かに自ら可なりとして居た茶入を氏鄕も目が高いので切 りに賞美して之を懇望し、遂に利休をして其を與ふるを餘儀無くせ 遺して居るが、それでも聚樂第に行幸を仰いだ時など、代作か知ら しめたといふ談も傅へられてゐる。又氏鄕が或時に古い / 、油を運 ぬが眞面目くさって月並調の和歌を詠じてゐる。政宗の「さ又すと はないけ ぶ竹筒を見て、共の器を面白いと感じ、それを花生にして水仙の花 も誰かは越えん逢坂の關の戸埋む夜半の白雪」などは關路ノ雪とい を生け、これも當時風雅を以て鳴って居た古田織部に與へたといふ ふ題詠の歌では有らうか知らぬが、何様して中に素人では無い。 カタカラカニス 「四十年前少壯時、功名聊復自私期、老來不レ識干戈事、只把春風談が傳はってゐる。織部は今に織部流の茶道をも花道をも織部好み ノサカヅキ 桃李巵」なぞと太平の世の好いお爺さんになってニコ / \ しなが の建築や器物の意匠をも遺して居る人で、利休に雁行すべき侘道の はせくら ら、それで居て支倉六右衞門、松本忠作等を南蠻から羅馬かけて遣大宗匠であり、利休より一段簡略な、侘に徹した人である。氏鄕の共 の花生の形は普通に「舟」といふ竹の釣花生に似たものであるが、 って居るところなどは、味なところのある好い男ぶりだ。その政宗 監視の役に當った氏鄕は、文事に掛けても政宗に負けては居なかっ舟とは少し異ったところがあるので、今に共形を模した花生を舟と あだら た。後に至って政宗方との領分爭ひに、安逹ヶ原は蒲生領でも川向は云はずに、「油さし」とも「油筒」とも云ふのは最初の因縁から ふの黑塚といふところは伊逹領だと云ふことであった時、平兼盛の起って來て居るのである。古い油筒を花生にするなんといふのは、 さりやく 「陸奧の安逹か原の黒塚に鬼籠れりといふはまことか」といふ歌がもう風流に於て普通を超えて宗匠分になって居なくては出來ぬ作略 あるから安逹が原に附屬した黒塚であると云った氏鄕の言に理が有で、宗匠の指圖や道具屋の入れ智慧を受取って居る分際の茶人の事 にんねん
りの悲しさをも、女の胸に堪へ堪へて鬼女蛇禪のやうに過ぎ來つる報を知るほどならば、是も亦煩ひとするに足らずと悟りてもあるべ よろこび は、我が悲みを悲とせで偏に君が歡喜を我が歡喜とすればなるを、別けれど然は成らで、ほと / 、頭の髮の燃え胸の血の凍るやうに明暮 れまゐらせしより十餘年の今になりて繰言も云ふもののやう思はれ惱むを、君は心強くましますとも何と聞き玉ふらん、聞き玉へ、娘 もと まゐらせたる拙さ情無さ、君は我がための知識となり玉ひぬれば、恨は九條の叔母が許に、養ひ娘といふことにて叔母の望むまゝに與へ まこと み侍らざるばかりか却て悅びこそ仕奉れ、彼阯にてもあれ君に遇ひしが、叔母には眞の娘もあり、母のロよりは如何なれど年齡こそ互 みめかたち いた まゐらせなば君の家を出で玉ひし後の我が上をも語りまゐらせて、 に同じほどなれ、眉目容姿より手書き文讀む事に至るまで、甚く我 いとし 能くぞ浮世を思ひ切りぬるとの御言葉をも得んとこそ日比は思ひ設 が娘は叔母の娘に勝りたれば、叔母も日頃は養ひ娘の賢き可愛さ うみむすめおの・つから いとし け居たれ、別れたてまつりし時は今生に御言葉を玉はらんことも復と、生の女の自然なる可愛さとに孰れ優り劣り無く育てけるが、今 いくとせ そね 有るまじと思ひたりしに、夢路にも似たる今宵の逢瀬、幾年の心あっ年は二人ともに十六になりぬ、髪の艶、肌の光り、人の娼み心を惹 こま / 、 おふ かひも聊か本意ある心地して嬉しくこそ、と細、、と述ぶ。折から燈 くほどに我子は美しければ、叔母も生したてたるを自が誇りにし あは 籠の中の燈の、香油は今や盡きに盡きて、やがて熄ゅべき一ト明て、せめて四位の少將以上ならでは得こそ嫁すまじきなど云ひ罵り、 いろ ぶつえ 、ばっと光を發すれば、朧氣ながら互に見る雜彩無き佛衣に裹ま おのが眞の女をば却って心にも懸け居ざるさまにもてあっかひ居た せうぜん それ れて蕭然として坐せる姿、修行に復れ老いたる面ざし、有りし花や りしが、右の大臣の御子某の少將の、圖らずも我が女をば垣間見玉 かたくな かさは影も無し。 ひて懸想し玉ひしより事起りて、叔母の心いと頑兇になり日に / 、 むかし くちかしがま あぎ これが徃時の、妻か、夫か、心根可愛や、懷かしやと、我を忘れロ喧しう嘲み罵り、或時は正なくも打ち擲き、密に調伏の法をさ たちまち みしゃう こ、ろざま て近寄る時、忽然ふっと燈は滅して一念未生の元の闇に還れば、西行 へ由無き人して行せたるよしなり、某の少將と云へるは才賢く心性 坐を正うして、能くこそ思ひ切り玉ひたれ、入道の縁は無量にして誠ありて優しく、特に玉を展べたる様の美しき人なれば、自己が生 じゅんぎやくしゃうばう むかし 順逆正傍のいろ / 、あれど、たゞ徃生を遂ぐるを奪ぶ、徃時は世の女の婿がねにと叔母の思ひっきぬるも然ることながら、共望みの 間の契を籠め今は出世間の交りを結ぶ、御身は我がための菩提の善思ふがまゝにならで、飾り立てたる我が女には眼も少將の遣り玉は むかし 友、淨土の同行なり悅ばしや、たゞし然までに浮世をば思ひ切りた ざるが口惜しとて、養ひ娘を惡くもてあっかふ愚さ酷さ、昔時の優し ぬび る身としては、懷舊の情はさることながら餘りに涙の遣る瀬無く かりしとは別のやうなる人となりて、奴婢の見る眼もいぶせきまで さき て、我を恨むかとも見えし故、先刻のやうには云ひつるなり、既に の振舞を爲る折多しと聞く、既に御佛の道に入りたまひたれば我に かど 世の塵に立交らで法の門に足踏しぬる上は、然ばかり心を惱ますべ は今は子ならずと君は仰すべけれど、共君が子はいと美しう才もか まこと いと き事も實は無き筈ならずや、と最物優しく尋ね間ふ。 しこく生れつきて、しかも美しく才かしこくして位高き際の人に思 慰められては又更に涙脆きも女の習ひ、御疑ひ誠に共理由あり、 はれながら、心の底には共人を思はぬにしもあらざるに、養はれ こ、ろま かしやく もとより御恨めしう思ひまゐらする節もなし、御懷しうは覺え侍れたる恩義の桎梏に情を衽げて自ら苦み、猶共上に道理無き町責を受 あはれさ きおんにふむゐげ ど、それに然ばかりは泣くべくも無し、御聲を聞きまゐらすると齊 くる憫然を君は何とか見そなはす、棄恩人無爲の偈を唱へて親無し さう。も - ん たましひ しく、胸に湛へに湛へし涙の一時に迸り出でしがため御疑を得たり 子無しの桑門に入りたる上は是非無けれども、知っては魂魄を煎ら いはれ しゆくみやう しなり、共所以は他ならぬ娘の上、深く御佛の敎に逹して宿命業るゝ思ひに夜毎の夢も安からず、いと恐れあることながら此頃の亂 やっ かを こと おの
するに王はを圍み、身を顫はせて、寒きこと甚だしと曰ひ、宮中ぶさに朝廷の燕を圖るの状を告ぐ。形勢は急轉直下せり、事態は既 をさへ杖つきて行く。されば燕王まことに狂したりと謂ふ者もあに決裂せり、燕王は道衍を召して將に大事を擧げんとす。 ばいも 天耶、時耶、燕王の胸中颶母まさに動いて黒雲飛ばんと欲し、張 、朝廷も稍これを信ぜんとするに至りけるが、葛誠ひそかに日丙と けうゆう はかりごと 貴とに告げて、燕王の狂は一時の急を緩くして、後日の計に便に玉、朱能等の猛將梟雄、眼底紫電閃いて雷火發せんとす。燕府を擧っ つ、がな て殺氣陰森たるに際し、天も亦應ぜるか、時抑至れるか、風暴雨 せんまでの詐に過ぎず、本より恙無きのみ、と知らせたり。たまた と 5 を - う いた 、奔騰 卒然として大に起りぬ。蓬、、として始まり、號にとして怒り ま燕王の護衞百戸鄧庸といふもの、闕に詣り事を奏したりけるを、 とら きくもん 齊泰請ひて執へて鞠間しけるに、王が將に兵を擧げんとするの妝を狂轉せる風は、沛然として至り、澎然として瀉ぎ、猛打亂撃するの まを ば逐一に白したり。 雨と件なって、乾坤を震撼し樹石を動盪しぬ。燕王の宮殿堅牢なら えんぐわ 待設けたる齊泰は、たゞちに符を發し使を遣はし、往いて燕府のざるにあらざるも、風雨のカ大にして、高閣の簷瓦吹かれて空に飄 けきぜん 、害然として地に墮ちて粉碎したり。大事を擧げんとするに臨み 官屬を逮捕せしめ、密に謝貴張日丙をして、燕府に在りて内應を約せ よろこ にく りよしん る長史葛誠、指揮盧振と氣脈を通ぜしめ、北平都指揮張信といふもて、これ何の兆ぞ。さすがの燕王も心に之を惡みて色懌ばず、風聲 のの燕王の信任するところとなれるを利し、密勅を下して急に燕王雨聲、竹折る乂聲樹裂くる聲、物妻じき天地を睥睨して慘として隻 語無く、王の左右もまた肅として言はず。時に道衍少しも驚かず、 を執へしむ。信は命を受けて憂懼爲すところを知らず。情誼を思へ ちまた そむ ば燕王に負くに忍びず、勅命を重んずれば私恩を論ずる能はず、進あな喜ばしの祚兆やと白す。本より此の異信道衍は、死生猫の岐 きも に惑ふが如き未逹の者にはあらず、瞎に毛も生ひたるべき不敵の逸 逞兩難にして行止ともに難く、友思右慮、心終に決する能はねば、 苦悶の色は面にもあらはれたり。信が母疑ひて、何事のあればにや物なれば、さきに燕王を勸めて事を起さしめんとしける時、燕王、 いかん 汝の深憂太息することよ、と詰り間ふ。信是非に及ばず事の始末を彼は天子なり、民心の彼に向ふを奈何、とありけるに、昻然として つね 答へて、臣は天道を知る、何そ民心を論ぜん、と云ひけるほどの豪 告ぐれば、母大に驚いて日く、不可なり、汝が父の興、毎に言へり とりこ 傑なり。されども風雨簷瓦を墮す、時に取ってのとも覺えられぬ 王氣燕に在りと、それ王者は死せず、燕王は汝の能く擒にするとこ しひごと ろにあらざるなり、燕王に負いて家を滅することなかれ、と。信を、あな喜ばしの祚兆といへるは、餘りに強言に聞えければ、燕王 愈第惑ひて決せざりしに、勅使信を促すこと急なりければ、信遂に怒も堪へかねて、和尚、何といふぞや、いづくにか祚兆たるを得る、 いた はなはだ と口を突いてそゞろぎ罵る。道衍騷がず、殿下聞しめさずや、飛龍 って日く、何ぞ太甚しきやと。乃ち意を決して燕邸に造る。造るこ と三たびすれども、燕王疑ひて而して辭し、入ることを得ず。信婦天に在れば、從ふに風雨を以てすと申す、瓦墜ちて碎けぬ、これ黄 かは まみ 人の車に乘じ、徑ちに門に至りて見ゆることを求め、やうやく召入屋に易るべきのみ、と泰然として對へければ、王も頓に眉を開いて かのくに ものい れらる。されども燕王猶疾を裝ひて言はず。信日く、殿下爾したま悅び、衆將も皆どよめき立って勇みぬ。彼邦の制、天子の屋は葺く に黄瓦を以てす。舊瓦は用無し、まさに黄なるに易るべしといへる ふ無かれ、まことに事あらば當に臣に告げたまふべし、殿下もし情 を以て臣に語りたまはずば、上命あり、當に執はれに就きたまふべ道衍が一語は、時に取っての活人劍、燕王宮中の士氣をして、勃然 し、如し意あらば臣に諱みたまふ勿れと。燕王信の誠あるを見、席凛然糾に然、直にまさに天下を呑まんとするの勢をなさしめぬ。 燕王は護衞指揮張玉朱能等をして、壯士八百人をして入って衞ら を下りて信を拜して曰く、我が一家を生かすものは子なりと。信っ
ハ、、と芝居ならば政宗方の計畫の無功に歸したを笑ふところである。扨此の毒飼の事が實に存したこととすれば、氏鄕は宜いが政宗 った。けれど細心の町野左近將監のやうな者は、殿、政宗が進じた は甚く器量が下がる。但し果して事實であったか何様かは疑はし る茶、別儀もなく御味はひこれありしか、まった飲ませられずに御い。政宗にも氏鄕にもゆかりは無いが、政宗の爲に虚談想像談で有 ことし ン濟ましありしか、飮ませられしか、如何に、如何に、と口にに間 って欲しい。政宗こそ却って今歳天正の十八年四月の六日に米澤城 はぬことは無かったらう。そして皆にの面は曇ったことだらう。氏に於て危ふく毒を飼はれうとしたのである。それは政宗が私に會津 ちたい 、飮まねば卑怯、餘瀝も餘さず飲んだはやい、と答へを取り且つ小田原參向遲怠の爲に罪を得んとするの事情が明らかで たぶら る。家來逵はギエーツと今更ながら驚き危ぶむ。誰そあれ、水を持あったところから、最上義光に誑かされた政宗の目上が、政宗を亡 ばびしやく すゑうぢ て、と氏鄕が命ずる。小ばしこい者が急に駛って馬柄杓に水を汲んくして政宗の弟の季氏を立てたら伊逹家が安泰で有らうといふ譯で めぐ どくみはん で來る。其間に氏鄕は印籠から「西大寺」 ( 寶心丹をいふ ) を取出毒飼の手段を廻らした。幸にそれは劇毒で、政宗の毒味番が毒に中 はかりごと そなへ して、共水で服用し、彼に計謀あれば我にも防備あり、案ずるな、 って苦悶部死したから事露はれて、政宗は無事であったが、共爲に もりをばらぬひのすけ 者共、ハ、 ハ、、と大きく笑って後を向くと、西大寺の功驗早政宗は手づから小次郞季氏を斬り、小郞の傅の小原縫殿助を誅 く忽ちにカッと飮んだ茶を吐いて終った。 し、同じく誅されそこなった傅の粟野藤八郞は逃げ、目上の人部ち いではし 以上は蒲生方の記するところに據って述べたので、伊逹方には勿政宗の母は其實家たる最上義光の山形へ出奔ったといふ事がある。 論毒を飼ふたなどといふ記事の有らうやうは無い。毒を用ゐて座 小次郞を斬ったのは鈴木七右衞門だったとも云ふ。これも全部は信 に又は陰密に人を除いて終ふことは恐ろしい世には何様しても起じかねるが、何にせよ毒飼騷ぎのあったことは有ったらしく、又世 おにやく 、且つ行はれることであるから、か乂る事も有り得べきではあ 俗の所謂鬼役ち毒味役なる者が各家に存在した程に毒飼の事は繁 る。毒がひは毒飼で、毒害は却ってアテ字である。共毒飼といふ言かったものである。されば政宗が氏鄕に毒を飼ったことは無かった ひんびん あなが 葉が時代の匀ひを表現してゐる通り、此時代には毒飼は頻にとして としても、蒲生方では毒を飼ったと思っても強ち無理では無く、氏 しらみ 行はれた。けれども毒飼は最もケチビンタな、蝨ッたかりの、クス 鄕が西大寺を服したとても過慮でも無い。又ずっと後の寬永初年 プリ魂の、きたない奸人小人妬婦悪婦の爲すことで、人閭の考〈出 ( 五年 ) 三月十二日、徳川一一代將軍秀忠が政宗の藩邸に臨んだ時、 したことの中で最も醜惡卑劣の事である。自死に毒を用ゐるのは耻政宗が自ら饗膳を呈した。共時將軍の扈從の臣の内藤外記が支へ立 じよ おんあるじ 辱を受けざる爲で、クレオ。ハト一フの場合などはまだしも恕すべきだ てして、御主人役に一應御試み候へ、と云った。すると政宗は大に怒 が、自分の利益の爲に他を犠牲にして毒を飼ふ如きは何といふ卑し って、それがし既にかく老いて、今さら何で天下を心掛けうず、天 いことだらう。それでも當時は隨分行はれたことであるから、これ下に心を掛けしは二十餘年もの昔、共時にだに人に毒を飼ふ如きき に對する用心も隨って存したことで、治世になっても身分のある武たなき所存は有たず、と云ひ放った。それで秀忠が笑って外記の爲 士が印籠の根付にウニコールを用ゐたり、緒締に珊瑚珠を用ゐた如に挨拶が有って共儘に濟んだ、といふ事がある。政宗の答は胸が透 げどく きも、刑瑚は毒に觸るれば割れて警告を與へ、ウニコ 1 ルは解毒のくやうに立派で、外記は甚た不面目であったが、外記だとて一手さ 効が有るとされた信仰に本づく名殘りであった。寶心丹は西大寺きが見えるほどの男ならば政宗が此の位の返辭をするのは分らぬで から出た除毒催吐の効あるものとして、共頃用ゐられたものと見えもあるまいに、何で斯様なことを云ったらう。それは全く將軍を思 さいだいじ いた ひそか
くずをかけんもっ 乘取らうとして掛ったところ、城將葛岡監物が案外に固く防ぎ堪へ巖石も凍融の春の風には潰る習ひだから、政宗だとて病氣にはな 6 て、そこより一里内外の新田に居た主人義隆に援を請ひ、義隆が直らう。蟲氣といふは當時の語で腹痛苦惱の事である。氏鄕及び氏 そとぐるわ ちに諸將を潰はしたのに本づくので、中新田の域の外郭までは奪っ鄕の諸將は之を聞いて、ソリヤコソ政宗めが陰謀は露顯したぞ、 うなづ と思って眼の底に冷然たる笑を湛へて點頭き合ったに違ひあるま たが、共間に各處の城により敵兵が切って出たからである。譬へば い。けれども氏鄕の答は鷹揚なものであった。仰の趣は承り候、さ 一箇の獸と相搏って之を獲ようとして居る間に、四方から出て來た まぢか りながら敵地に入り、敵を目近に置きながら留まるべくも候はね 獸に脚を咬まれ腹を咬まれ肩を攫み裂かれ脊を攫み裂かれて倒れた ば、明日は我が人數を先へ通し候べし、御養生候て後より御出候 ゃうなものである。氏郷は今それと同じ遲命に臨まんとしてゐ る。何故といへば氏鄕は中新田城に據って居るとは云へ、中新田へ、と穩やかな挨拶だ。此の返答を聞いて政宗は政宗で、ニッタリ いくばく を距ること幾許も無いところに、名生の域といふのがあって、一揆と笑ったか何様だか、それは想像されるばかりで、何の證も無い。 たゞ若し政宗に陰險な計略が有ったとすれば、思ふ壺に氏鄕を嵌め が籠ってゐる。小さい域では有るが可なり堅固の城である。氏鄕が 高淸水の方へ進軍して行けば、戰術の定則上、是非共の途中の敵城て先へ潰ることになったのである。 こら は落さねばならぬ。其名生の城にして防ぎ堪へれば、氏鄕に於ける 十九日の早朝に氏鄕は中新田を立った。伊逹勢は主將が病とな ってヒッソリと靜かにして居る。氏鄕は潮合を計って政宗の方へ使 名生の城は恰も小山田筑前に於ける中新田の城と同じわけになるの である。しかも政宗は高淸水の城まで敵の域は無いと云ったのであ者を出した。それがしは只今打立ち候、油斷無くゆる / \ 御養生の るから、蒲生軍は名生の城といふのが有って一揆が籠って居ること上、後より御出候へ、といふのであった。そして氏鄕は諸軍へ令し を知らぬのである。されば氏芻は明日名生の城に引か又ったが最期た。政宗を後へ置く上は常體の陣組には似る可からず、といふので みくみあとぞなへ である、よしんば政宗が氏鄕に斬って掛らずとも、傍觀の態度を取あったらう、五手與、六手與、七手與、此三與を後備と定め、十番 るたけとしても、一揆方の諸城より斬って出たならば、蒲生勢は千手後備の關勝蔵を三與の後へ入替へた。前にも見えた五手與、六 手與などといふのは、此頃の言葉で五隊で一集團を成すのを五手 手觀音でも働ききれぬ場合に陷るのである。 明日は愈一揆勢との初手合せである。高淸水へは田舍道六十里與、六隊で一集團を成すのを六手與といふのであった。さて此の三 あるといふのであるが、早朝に出立して攻掛からう。若し途中の様與は勿論政宗の押へであるから、十分に戦を持って、皆後へ向って しりあし 子、敵の仕業に因って、高淸水に着くのが日暮に及んだなら、明後逆歩に歩み、政宗打って掛らば直にも斬捲らん勢を含んで居た。逆 日は是非攻め破る、といふ軍令で、十八日の中新田の夜は靜かに更歩に歩むとは記してあるが、それは言葉通りに身構は南へ向ひ歩は 北に向って行くことであるか、それとも別に間隔交替か何かの隊法 けた。無論政宗勢は氏郷勢の前へ立たせられる任務を負はせられて くは ゐたのである。然るに共朝は前野の茶室で元氣好く氏鄕に會った政があって、後を向きながら前へ進む行進の仕方が有ったか何様か精 宗が、共夜の、しかも亥の刻、部ち十二時頃になって氏鄕陣へ使者しく知らない。但し飯田忠彦の野史に、行布 = 常蛇陣一と、あるのは むしけ 全く書き損ひの漢文で、常山蛇勢の陣といふのは、これとは異なる をよこした。共の言には、政宗今日夕刻より俄に蟲氣に罷り在り、 ものである。何はあれ關勝藏の一隊を境にして、前の諸隊は一揆勢 何とも迷惑いたし居り候、明日の御働き相延ばされたく、御ン先鋒 に向ひ、後の三與は政宗に備へながら、そして全軍が木村父子救援 を仕候事成り難く候、とあるのであった。金剛の身には金剛の病、 いてとけ いってぐみ