る。桓武天皇様の御子に葛原親王と申す一品式部卿の宮がおはし集に名の見えてゐる大養んの飜であらう。淨人は奈良朝に當っ をうさくわん み。其の宮の御子に無位の高見王がおはす。高見王の御子高望王が て、下總少目を勤めた人であって、淨人以來下總の相馬に居たの 平の姓を賜はったので、從五位下、常陸大掾、上總介等に任ぜられである。此相馬郡寺田村相馬總代八幡の地方一帶は多分大養氏の蟠 たと平氏系圖に見えてゐる。桓武平氏が阪東に根を張り枝を連ねて據してゐたところで、將門が相馬小次郞と稱したのは共の因縁に疑 大勢力を植つるに至ったことは、此の高望王が上總介や常陸大掾に無い。寺田は取手驛と守谷との間で、守谷の飛地といふことであ なられたことから起るのである。高望王の御子が、國香、良兼、良 、守谷が將門據有の地であったことは人の知るところである。將 より 將、良緜、良廣、良文、良持、良茂と數多くあった。共中で國香は尸 は斯様いふ大家族の中に生れて來て、澤山の伯父や叔父を有ち、 よしもら きんまさきん 從五位上、常陸大掾、鎭守府將軍とある。此の國香本名良望は蓋し又伯父國香の子には貞盛、繁盛、兼任、伯父良兼の子には公雅、公 長子であった。これは部ち高望王亡き後の一族の長者として、勢威連、公元、叔父良廣の子には經邦、叔父良文の子には忠輔、宗平、 むねもち を有してゐたに相違無い。良兼は陸奧大掾、下總介、從五位上、常忠賴、叔父良持の子には致持、叔父良茂の子には良正、此等の澤山 陸平氏の祖である。次に良將は鎭守府將軍、從四位下或は從五位下の從兄弟を有した譯である。 より 此の中で生長した將門は不幸にして父の良將を亡った。將門が何 とある。將門は此の良將の子である。次に良緜は上總介、從五位上 とある。それから良廣には官位が見えぬが、次に良文が從五位上歳の時であったか不明だが、弟達の多いところを見ると、蓋し十何 で、村岡五郎と稱した、此の良文の後に日本將軍と號した上總介忠歳であったらしい。幼子のみ殘って、主人の亡くなった家ほど難儀 常なども出たので、千葉だの、三浦だの、源平時代に光を放った家、、 なものはない。母の里の大養老人でも丈夫ならば、差詰め世話をや をさだ の祖である。次に良持は下總介、從五位下、長田の祖である。次に くところだが、それは存亡不明であるが、多分既に物故してゐたら 良茂は常陸少掾である。 しい年頃である。そこで一族の長として伯父の國香が世話をする 扨將門は良將の子であるが、長子かといふに然様では無い。大日か、去の伯父の良兼が將門等の家の事をきりもりしたことは自然の 本史は系圖に據ったと見えて第三子としてゐるが、第二子としてゐ成行であったらう。後に至って將門が國香や良兼と仲好くないやう る人もある。長子將持、次子將弘、第三子將門、第四子將平、第五子になった原因は、蓋し此時の國香良兼等が伯父さん風を吹かせ過ぎ わたくし 將文、第六子將武、第七子將爲と系圖には見えるが、將門の兄將弘たことや、將門等の幼少なのに乘じて私をしたことに本づくと想 は將軍太郎と稱したとある。將持の事は何も分らない。將弘が將軍像しても餘り間違ふまい。さて將門が漸く加冠するやうになってか 太郞といひ、將門が相馬小次郞といひ、系圖には見えぬが、千葉系ら京上りをして、太政大臣藤原忠平に仕へた。これは將門自分の意に みくりや 門圖には將門の弟に御廚三郞將賴といふがあって、共次が大葦原四郎出たか、それとも伯父等の指揮に出たか不明であるが、何にぜよ遙に といった事を考へると、將門は次男かとも思はれる。よし三男であと下總から都へ出て、都の手振りを學び、文武の道を修め、出世の手 はや ったにしろ、將持といふものは蚤く消えてしまって、次男の如き實蔓を得ようとしたことは明らかである。勿論將門のみでは無い、此 際状態に於て生長したに相違無い。イヤそれどころでは無い、太郎頃の地方の名族の若者等は因縁によって都の貴族に身を寄せ、そし て世間をも見、要路の人にに技倆骨柄を認めて貰ひ、自然と任官敍 將弘が早世したから、將門は實際良將の相續人として生長したので むすめ ある。將門の母は大養春枝の女である。此の大養春枝は蓋し萬葉位の下地にした事は通例であったと見える。現に國香の子の常平太 つら ばん
イ 33 飛車、行、横行、仲人、各二、歩兵十二を以て一軍とし、敵を合 せて總計九十二馬なり。蓋し文明の當時特に中將棋といへるにより 四。今の普通の將棋の馬子中、歩兵、香車、桂馬等は共稱呼に於て て考ふれば、將棋の行はれしもの特に中將棋のみならざりしに似た 支那象戲の兵、車、馬と一致し、又共位置に於ても巧みに一致 。然れども他に確證なければ、鴉鷺合戦物語の文は單に中將棋の し、銀將は共實に於て支那象戯の象のロく、 汝金將は士の如くなる 當時に行はれしを證するの材とすべきのみ。中將棋の法、鳳凰は化 こと、ち今の將棋は却って支那象戲に近きこと。 りて奔王となり八方に走るを得るに至るなれば、鳳凰は化りて八方五。今の象戯の馬子は「取り棄て」ならずして甚だ支那象戯と異な を破り、といへる文辭は據るところ無き誇張にあらず、飛鷲角鷹は るが如くなれども、是は後奈良帝の改革し玉ひしによるとのロ碑 共に大威力ある馬にして、且っ我が位置を動かさずして他の馬を搏 あれば、蓋し此相違は近古に於て生ぜしにて、初は彼此の法則相 って取るのあり、これを將棋の語に居喰ひといふ。されば、あた 遠からざりしものなるべきこと。 かな りを居喰ひする、といへるも實際に協へる巧みなる筆致にして、勇六。支那の今の象戲は唐の象戲と聊か相違あるに似たれど、我邦の 士の奮鬪して而も餘裕ある態を形はぜりといふべき也。 今の象戲は却って玄怪録の文に相當るものあること。ち天馬斜 中將棋は今廣く行はれずと雖も亡びて傳はらざるにはあらず、京 飛度 = 三疆一といへるは桂馬の如く、上將横行撃 = 四方一といへるは 都には或は猶之を知りて玩ぶ人なきにあらざらん。今の棋聖小野氏 飛車の如く、輜車直入無ニ廻翔一といへるは香車の如くなること。 の如きも之を玩びしことありしと云へり。 七。唐と我邦との交通は甚だ繁くして、彈棊の如き支那の後人の知 今の普通に行はるゝ將棋は共初めて世に傅はりし時明らかなら る能はざる遊戲をすら當時我邦に傅へたれば、象戲もまた當時唐 ず。人多くは謂へらく、今の將棋は中將棋より出で、中將棋は大將 より傳へずといふべからざること。 棋より出づと。然れども決して共確證あるにあらず。たまノ古書 是の如くにして予は今の日本象棋の傅來に前掲の臆説を存するも に先づ大將棋の散見し、次に中將棋の記せられ、最も後れて今の將のなり。 棋の見えたるによりて、強て小兒解事の態を粧ふのみ。予は今の將 今の日本象棋の最も古く知られたるは大橋宗慶 ( 後に宗桂とい 棋の傅來の必ずしも大將棋中將棋の後にあらざるべきを想ふものなふ ) の技を以て信長に謁せし時にありといふ。宗桂また秀吉に謁せ 。然れども是亦一家の推測のみ、須らく證を擧ぐるを得るの日を し事あり。秀次また將棋を好みて、水無瀬一齋 ( 大納言歟 ) をして 待つべき也。たゞ予が推測の順序を擧ぐれば左の如し。 馬の銘を書せしめたりといふ。宗桂德川氏の容るところとなりし 一。我邦の象棋は支那より ( 直接或は間接に ) 傅來せしものならざ後の事は人多く之を知り、且っ慶長の頃宗桂と本因坊との技を鬪は 考るべからざること。 せし記録の如きは今猶儼存すれば復之を記すを要せず。 雑二。大將棋共他の煩雜なる將棋は支那人の製作としては其馬子の名 ( 明治三十三年九・十・十一月「太陽」 ) 目等も無雅に過ぐるの疑ひありて、邦人の加意によりて成りしも 將 のにあらずやと考へらるゝこと。 三古書に大將棋中將棋等と記して、特に大中等の字を冠せるは、 却って當時に別の象戯ありしを示すにあ、いずやと考へらる曳こ あら
の大掾で、そのま長常陸の東石田に居たのである。東石田は筑波の惡いために打殺すといふのでは、何様も情理が桂馬筋に働いて居る 西に當るところで、國香もこれに居たのである。護は世系が明らかやうである。 たすく でないが、共の子の扶、隆、繁と共に皆一字名であるところを見る 故蹟考ではかう考へてゐる。將門が迎へた妻は、源護の子の扶、 と、嵯峨源氏でゞもあるらしく思はれる。何にせよ護も名家であっ隆、繁の中で、懸想して之を得んとしたものであった。然るに共の婦 て、護の女を將門の伯父上總介良兼は妻にしてゐる。國香も亦共一 人は源家へ嫁すことをせずして相馬小郞將門の妻となった。そこ 人を嫁にして貞盛の妻にしてゐる。常陸六郎良正もまた共一人を妻で娼嫉の念禁じ難く、兄弟妨妹の縁に連なる良兼貞盛良正等の力を にしてゐる。此の良正は系圖では良茂の子になってゐるが、おそら併せて將門を殺さうとし、一面國香良正等は之を好機とし、將門を滅 くは誤りで、國香の同胞で一番季なのであらう。 して相馬の夥しい田産を押收せんとしたのである。と云って居る。 將門と護とは別に相敵視するに至る譯は無い筈であるが、此の護成程源家の子のために大勢が骨折って貰ひ得て呉れようとした美人 ひごろ の一族と將門と私闘を起したのが最初で、將門の伯叔父の多いにか を貰ひ得損じて、面目を失はせられ、しかも日比から彼が居らなく かはらず、護の家と縁組をしてゐる國香の家、良兼の家、良正の家がばと願って居た將門に共の婦人を得られたとしては、要撃して恨を 特に將門を惡んで之を攻撃してゐるところを見ると、何でも源護の散じ利を得んとするといふことも出て來さうなことである。然しこ 家を中心とし、之に關聯して紛糾した事情が有っての大火事と考へ れも確據があってでは無い想像らしい。たゞ共中の將門を滅せば田 むすめ られる。將門始末では、將門が護の女を得て妻としようとしたが護産押收の利のあるといふことは、據るところの無い想像では無い。 が輿へなかったので、將門が怒ったのが原因だと云って居る。して 要するに委曲の事は徴知することが出來ない。耳目の及ぶところ 見れば將門は戀の叶はぬ焦燥から、車を横に推出したことになる。 之を知るに足らないから、安倍睛明なら識禪を使って委細を悟るの さすれば良正か貞盛か二人の中の一人が、將門の望んだ女を得て妻であるが、今何とも明解することは我等には不能だ。天慶年間、部ち としてしまった爲に起った事のやうに思はれるが、如何に將門が亂將門死してから何程の間も無い頃に出來たといふ將門記の完本が有 ざんけっ 暴者でも、人の妻になってしまった者を何としようといふこともあったら譯も分かるのであらうが、今存するものは殘闕であって、生憎 るまい。又それが遺恨の本になるといふことも、成程野暮な人の間に發端のところが無いのだから如何とも致方は無い。然し試みに考へ むすめ 有り得るにしても、皆が一致して手甚く將門を包圍攻撃するに至るて見ると、將門が源家の女を得んとしたことから事が起ったのでは のは、何だか逆なやうである。思ふ女をば奪はれ、そして共女の縁無いらしい、部ち將門始末の説は受取り兼ねるのであって、むしろ將 に連る一族總體から、此の失戀漢、死んでしまへと攻立てられたと 門の得た妻の事から私鬪は起ったのらしい。何故といへば將門記の くだり 門いふのは、何と無く奇異な事態に思へる。又たとへ將門の方から手中の、將門が勝を得て良兼を圍んだところの條の文に、「斯の如く を出しをしたにせよ、戀の叶はぬ忌ぐしさから、共女の家をはじめ、 將門思惟す、凡そ當夜の敵にあらずといへども ( 良兼は ) 脈を尋ぬ 平共姉妹の夫たちの家まで、撫斬りにしようといふのも何となく奇異るに疎からず、氏を建つる骨肉なり、云はゆる夫婦は親しけれども ひとすぢ たと に過ぎ酷毒に過ぎる。何にせよ決してたゞ一條の事ではあるまい、 而も瓦に等しく、親戚は疎くしても而も葦に喩ふ、若し終に ( 伯父 そしをちこち 9 可なり錯綜した事情が無ければならぬ。貞盛が將門を殺したがった 9 を ) 殺害を致さば、物の諟り遠近に在らんか」とあって、取籠めた 2 事も、戀の叶った者の方が戀の叶はぬ者を生かして置いては寢覺が 伯父良兼を助けて逃れしめてやるところがある。その文氣を考へる こと てひど
を越え、盤上いづれのところにも行くを得るに至るが如し。大、、將兼成禿齡七十九、とありとなれば、恐らくは妄人の妄りに是の如き 2 棋の馬もまた化らざるにあらず、然れども摩訶大、、象棋の甚しきに圖説を作れるにもあらざらん。 今の將棋に角行と名づくる馬子ありて人共名の奇なるを疑へるが は及ばず。共馬子は玉將一、變じて自在天王となり、無明一、變じ て法性となり、金將、銀將、銅將、鐵將、瓦將、石將、土將、各如きも、古に横行竪行等の馬子ありしに照らし考ふれば異とすべく 二、變じて奔金、奔銀、奔銅、奔鐵、奔瓦、奔石、奔土となり、提もあらず解せらる。又大將棋以下の諸將棋の馬の名に虎豹熊狼等あ 婆一、變じて敎王となり、醉象一、王子と化り、香車、反車、驢るは、晁無咎の、象戲ぐ兵也、黄帝之戦驅 = 猛獸一以爲レ陣、象獸之 馬、桂馬、牛、飛龍、各二、及び夜叉一、羅刹一、金剛一、力士雄也、故戲兵而以 = 象戲一名レ之、と云へるも思合はさる。特に大象 戯の醉象は變じて太子となるべき權を有し、摩訶大に象棋の醉象も 一、狛大一、皆變じて金將となり、盲虎二、監豹二、蟠蛇一、臥龍 一、古猿一、淮鷄一、猫刃二は變じて奔虎、奔豹、奔蛇、奔龍、山王子となりて、玉將死するも太子あれば猶戦ふを得るが如きは、象 母、仙鶴、奔猫となり、獅子一は變ぜず、鳳凰一、變じて奔王となの重ぜられたる徴として注意すべき價値無しとせず。但し泰將棋、 搴詞大に將棋、大、、象棋等の世に行はれたることは之無きに近かり 、麒麟一、變じて獅子となり、惡狼二、變じて奔狼となり、盲能【 二、嗔猪二、老鼠二は變じて奔熊、奔猪、蝙蝠となり、奔王一は變しならん。如何となれば是の如き多種の馬子を廣き盤上に運用して ぜず、釣行一、摩竭一、龍王二、龍馬二、角行二、竪行二、横飛勝負を爭ふが如きは、消閑の遊戲としては人の智力を勞すること甚 二、横行一一、右車一、左車一、歩兵十九は金將となり、仲人二は奔だ多きに過ぐればなり。 花鳥餘情の作者、足利氏時代の文學者として名高き一條兼良の文 人となり、一軍の馬の數九十六、兩軍合せて百九十二枚なり。共馬 の名目既に多きに過ぎて共變化の名目また甚だ多ければ、仲房なら明八年 ( 耶蘇紀元一千四百七十八年 ) の作にかゝる鴉鷺合戦物語卷四、 にはとりろうこく博士禪法、九月二十六日合戦、あろう發心の事と ざるも之を記するに堪へざらんとす。 いへる條の中に、上略、知時こゝこそ逃れぬ死所よと云ふま、に手 然るに泰將棋といふものありて、共局は縱横各一一十五格、其馬の 總數は三百五十四、愈人をして其煩はしきを厭はしむ。されども勢三百騎ばかり一歩も退かず、靑鷺信濃守が手にかけあはす、勇士 と勇士の出あひなれば、よのつねに打あふて火花を散らして戰ひた 今共馬子の名の、上に掲げたる諸種の將棋の馬子以外のものを擧ぐ り、端武者は落ちっ打たれつ、僅に一騎當千のつはものばかり戦ひ れば、鯨鯢、玄武、猛鷲、飛鷲、横龍、羊兵、銀鬼、金鬼、角鷹、 孔雀、行馬、朱雀等に過ぎず。此中、飛鷲角鷹等は中將棋に其馬ありたる共ありさまは、かちまけせめたる中將棋の盤の上、ところ 冷じく駒のあしなみ入り亂れて、鳳凰はなりて八方を破り、飛鷲角 りて、大將棋、大、、象棋、詞大、、象棋等に其馬無きものなるが、 是は聊か注意すべきことなりとす。左大臣賴長の試みたる象棋を上鷹は威を奮ひて、 ( 飛鷲を飛車とせる本あり、わろし ) あたりを居 に掲げたる大象戯とすれば、大象棋の世に玩ばれたることは知るべ喰ひする共働きにも似たり、破りつ破られつ、まくりつ、まくられ きなれども、大、、將棋、摩訶大に將棋、泰將棋等は、何人の何の時つ、ひとりも殘らじと戦ひたり、とあるは中將棋の既に當時に行は に於て之を玩びしや、更に聞くところ無し。たゞ傅ふる所の將棋書れて一般の人に知られたりしを證するものなり。中將棋は其局縱横 奧書に、嘉吉三稔卯十五寫レ焉加 = 一校「云ミ右象戯種、、之圖、曼各十一一格、其馬は、玉將、醉象、麒麟、鳳凰、奔王、師子、各一、 殊院之宮所持之本申請所記置也、龍集天正壬辰淸和下澣、權中納一言金將、銀將、銅將、猛豹、香車、反車、角行、盲虎、龍王、龍馬、
貞盛もまた都上りをして、何人の奏薦によったか、微官ではあるが左ば打殺してましものをと言ふのは、餘りに從兄弟同士として貴人の 8 まのすけ 幻馬允となってゐたのである。今日で云へば田舍の豪家の若者が從兄前に口外するには太甚しいことである。親王様に貞盛がこれだけの 弟同士一一人、共に大學に遊んで、卒業後東京の有力者間に交際を求事を申したとすれば、もう此時貞盛と將門とは心中に刃を研ぎあっ め、出世の緒を得ようとしてゐるやうなものである。此處で考へらてゐたとしなければならぬ。未だ父の國香が殺された譯でも無し、 る、ことは、將門も鎭守府將軍の子であるから、まさかに後の世の將門が何を企てゝ居たにせよ、貞盛が牒者をして知ってゐるといふ 曾我の兄弟のやうに貧窮して居たのではあるまいが、一方は親無し譯も無いのに、たゞ悪い者でござる、御近づけなさらぬが宜しいと いき の、伯父の氣息のかゝってゐるために世に立ってゐる者であり、一 でも云ふのならば、後世の由井正雪熊澤蕃山出會の談のやうな事 で、まだしも聞えてゐるが、打殺さぬが口惜しいとまで申したとは 方は一族の長者常陸大掾國香の總領として、常平太とさへ名乘っ て、仕送りも豐かに受けてゐたものである貞盛の方が光って居たら餘り奇怪である。然すれば貞盛の家と將門とが、もう此時は火をす をか うといふことは、誰にも想像されることである。ところが異しいこ った中であって、貞盛が共事を知ってゐたために、行く / 、は無事 ともあればあるもので、將門の方で貞盛を悪く思ふとか惡く噂するで濟むまいとの豫想から、そんな事を云ったものだと想像して始め ばうしっさいき て解釋のつく事である。こ乂へ眼を着けて見ると、古事談の記事が とかならば、川嫉猜忌の念、俗にいふ「やっかみ」で自然に然様い ふ事も有りさうに思へるが、別に將門が貞盛を何様の斯様のしたと事實であったとすると、國香が將門に殺されぬ前に、國香の忰は將 いふことは無くて、却って貞盛の方で將門を悪く言ったことの有る 門を殺さうとしてゐたといふ事を認め、そして殺さぬを殘念と思っ たほどの葛藤が既に存在して居たと睨まねばならぬことになるので といふ事實である。 勿論事實といったところで古事談に出て居るに過ぎない。古事談ある。戲曲的の筋は夙く此の邊から始まってゐるのである。 あきかね 將門は京に居て瀧ロの衞士になったか知らぬが、系圖に瀧ロの小 は顯兼の撰で、餘り確實のものとも爲しかねるが、大日本史も貞盛 傳に之を引いてゐる。それは斯様である。將門の在京中に、貞盛が次郎とも記してあるに據れば、其のくらゐなものにはなったのかも いた あっざね 嘗て式部卿敦實親王のところに詣った。丁度其時に將門もまた親王知れぬ。が、共の詮議は擱いて、將門と貞盛の家とは、中睦じく無 くなったには相違無い。それは今昔物語に見えてゐる如くに、將門の の御許へ伺候して歸るところで、從兄弟同士はハタと御門で行逢ふ かなた 父の良將の遺産を將門が成長しても國香等が返さなかったことで、 た。彼方がジロリと見れば、此方もギロリと見てぎたのであら う。貞盛は親王様に御目にかゝって、殘念なることには今日郎等無く 此の様な事情は古も今もやゝもすれば起り易いことで、曾我の殺傷 きやっ して將門を殺し得ざりし、郞等ありせば今日殺してまし、彼奴は天も此から起ってゐる。今昔物語が信じ難い書であることは無論だが、 下に大事を引出すべき者なり、と申したといふ事である。これは甚此の事實は有勝の事で、大日本史も將門始末も皆採ってゐる。將門 だ不思議なことで、貞盛が呂公や許子の術を得て居たか何様かは知在京中に既に此事があって、貞盛と將門とは心中互におもしろく無 く思ってゐたところから、貞盛の言も出たとすれば合點が出來るの らないが、人相見でも無くて思ひ切ったことを貴人の前で言ったも のである。此時は將門純友叡山で相談した後であるとでも云は無けである。 今一つは將門と源護一族との間の事である。これは共原因が不明 れば理屈の立たぬことで、將門はまだ國へも歸らず刀も拔かず、謀 さき 反どころか喧嘩さへ始めぬ時である。それを突然に、郞等だにあらではあるが、因縁のもつれであるだけは明白である。護は常陸の前 はなはだ
イ 37 將棋雜考 將棋盤にや知るべからず、蓋し亦大將棋の盤歟、文簡なれば考ふるの將棋は世に出づるに至れりとなす、是れ理に於ては通ぜざるに似 ところ無し。たゞ此等の古書の記すところに因って、源平氏以前よ たりといふべし。又或は宋に遊べるものの偶然先づ晁氏の廣象戯を り一種の將棋の我邦上流に行はれたるを知る。村上天皇御代の頃に俾へたるなりとすれば、共説は部ち通ずべきも過巧の嫌無きにあら は將棋無くして崇徳天皇以前に既に行はれたるものとすれば、恰もず。又明月記に載せたるは必ずしも大將棋にあらずして、台記に載 いづ 支那の宋初より南宋の高宗の立てる頃までの間に、我邦の將棋は那せたるのみ大將棋なるやも測り知るべからず。是皆遽に決すべから 邦よりか齎らされたるものとぜざるべからず、然らずんば支那象戲ざるの疑案なり。 に本づきて邦人之を造れりとせざるべからず。醍醐天皇以後は遣唐 今傅ふるところの大將棋といふものは、縱横各十五格の局にし 使の事止みて朝廷と對岸大陸諸國との修好の往來漸く疏なるに至るて、共馬は、玉將一、金將二、銀將二、銅將二、鐵將二、石將二、 の傾きありしと雖も、信侶商賈の往來は全く絶えたるにあらずし 桂馬二、香車一一、醉象一、盲虎二、猛豹一一、猫刃二、反車二、獅子 て、當時支那に於て象戯の既に世に行はれ居たることは、我邦象戯一、鳳凰一、麒麟一、悪狼二、嗔猪二、猛牛二、奔王一、龍王一一、 の淵源に就きて有理有力なる想像を起さしむるに足れり。 龍馬一一、角行二、竪行二、横行二、飛龍二、飛車一一、歩兵十五、仲 又按ずるに、和名類聚抄は能く庶物を類纂網羅すと雖も、未だ必ずし人二、一軍計六十五、敵を合せて總計百三十個なり。されば之を晁 も善を盡せりとはすべからず。類聚抄に載せざるものと雖も當時に存せ氏の廣象戲に比するに、共路は少く共馬は多し。知らず惡左府の戦 し事物もとより多くなるべければ、偶類聚抄に載せざるの故を以て象 って敗れしといふもの此將棋なりしや否や。 戲を當時に存せざりしならんとするは輕率の判斷に近し。況や類聚抄の 又別に大に象戲といふものあり。縱横各十七格、共馬は一軍にて 今存するものは脱文誤字の少からずして盡く從ふべからざるものなるこ 玉將一、左將一、右將一、奔一、奔王一、龍王一、奔鬼一、方行 と人の知るところなるをや。想ふに村上帝以前、唐との交通頻繁にして 一、龍馬一、走車一、飛車一、鳩槃一、夜叉一、天狗一、釣行一、 邦人の彼土に遊學するものの碁を傅へ琵琶を傅へし頃、象戯もまた齎し 歸るところとなって傅へられしにあらずや。此は是れ予が眞の想像に止香車二、近王一、金將二、麒麟一、鳳凰一、猫刃一、踊鹿一、老鼠 まりて之を信ずべき證あるにあらず。 一、獅子一、古鵄一、行馬一、飛龍一、盲猿一、狛大一、毒蛇一、 明月記は予は帝國圖書館の藏本に就きて之を讀みたり。然るに此記の反車二、長龍一、銀將二、馬麟一、變狸一、角行一、水牛一、變狐 佳本少きことは人の知るところにして、圖書館所蔵の六十一卷本は承元 一、竪行一、金翅一、銅將二、鐵將二、石將二、木將二、東夷一、 二年より建元年に至るの一一年缺け、又建脣三年より元仁元年に至るの 西戎一、北狄一、南蠻一、白象一、香象一、靑龍一、白虎一、前旗 十一年缺くるを以て、建保四年の條は予之を目にせず、雜書の引くとこ 一、猛虎二、猛豹一一、猛熊二、悪狼二、嗔猪二、猛牛二、横行一一、 ろに從ふのみ。他日若し佳本と稱せらる人ところの九十六卷本に寓目す るを得ば之を對校せん。台記も亦世に佳本少し、圖書館本は台記別記を右車一、左車一、歩兵十七、時大二、 ( の字疑ふべし ) 計九十六 混入したるものにして、康治元年九月の部缺く。 枚、二軍の總計百九十二枚なり。馬の名によりて考ふるに邦人信侶 宋の晁氏の廣象戲は、象あって而して後に出でたるものなるの製作にか乂るが如し。 が、我邦の大將棋もまた先づ將棋なるもの有って而して後に出でた 又、摩訶大に象棋といふものあり。共格縱横各十九、ち晁氏廣 るにや。然らずんば特に大の一語を冠すること甚だ唐突なるに似た象戲に同じ。此象棋の特色は馬子の化りて勢力を增すこと甚だしき り。然るに世人多くは先づ大將棋中將棋等のものあって而して後今にあり。例へば玉將は化りて自在天王となり、不正行度して他の馬
宜ではないか。して見れば將門始末の記するが如きことは先づ起り と、妻の故の事を以て伯父を殺すに至るは愚なことであるといふの 0 さうもない。もし反對に、護の女を國香が口をきいて將門に娶らせ であるから、將門が妻となし得なかった者から事が起ったのでは無 くて、將門が妻となし得たものがあってそれから伯父と弓箭をとつようとして、そして將門が強く之を拒否した場合には、國香は源家 に對しても、自己の企に於ても償ひ難き失敗をした譯になって、貞 て相見ゆるやうにもなったのであるらしい。それから又同記に據る と、將門を告訴したものは源護である。記に「然る間前の大掾源護盛や良兼や良正と共に非常な嫌な思ひをしたことであらうし、護や くだん の告状に依りて、件の護並びに犯人平將門及び眞樹等召進ずべきの共子等は不面目を得て憤恨したであらう。將門の妻は如何なる人 の女であったか知らぬが、千葉系圖や相馬系圖を見れば、將門の子 由の官符、去る承平五年十一一月一一十九日符、同六年九月七日到來」 よしな羝 とあるから、原告となった者は護である。眞樹は佗田眞樹で、國香は良兌、將國、景遠、千世丸等があり、又十一一人の實子があったな の屬僚中の錚、、たるものである。これに依って考へれば、良正良兼どと云ふ事も見えるから、桔梗の前の物語こそは、藥品の桔梗の上 品が相馬から出たに本づく戲曲家の作意ではあらうが、妻妾共に存 は記の本文記事の通り、源家が敗戦したによって婦の縁に引かれて したことは言ふまでも無い。で、將門が源家の女を蔑視して顧み 戰を開いたのだが、最初はたゞ源護一家と將門との間に事は起った のである。して見れば將門が妻としたものに關聯して源護及び共子ず、他より妻を迎へたとすると、面目を重んずる此時代の事とし て、國香も護の子等も、殊に源家の者は默って居られないことにな 等と將門とは鬪ひはじめたのである。 戯曲はこに何程でも書き出される。かって同じ千葉縣下に起っる。そこで談判論爭の末は双方後へ退らぬことになり、武士の意氣 地上、護の子の扶、隆、繁の三人は將門を敵に取って鬪ふに至った た事實で斯ういふのがあった。將門ほど強い男でも何でも無いが、 らうと想像しても非常な無理はあるまい。 可なりの田邑を有してゐる片孤があった。其の兒の米だ成長せぬ間 鬪は何にせよ將門が京より歸って後數年にして發したので、共の 親戚の或る者は共の田邑を自由にして居たが、共の兒の成人した に至って當然之を返附しなければならなくなった。ところで共の親場所は下總の結城郡と常陸の眞壁郡の接壤地方であり、時は承平五 年の二月である。どちらから戦をしかけたのだか明記はないが、源 戚は自分の娘を共の男に娶らせて、自己は親として其の家に臨む可 く計畫した。娘は醜くも無く愚でもなかったが、男は自己が拘束さの扶、隆等が住地で起ったのでも無く、將門の田園所在地から起っ たのでも無い。將門の方から攻掛けたやうに、歴史が書いてゐるの れるやうになることを厭ふ餘りに共の娘を強く嫌って、共の婚儀を 勸めた一族逹と烈しく衝突してしまった。悲劇はそこから生じて男は確實で無い。將門と源氏等と、どちらが共の本領まで戦場から近 いかと云へば、將門の方が近いくらゐである。相馬から出たなら遠 は放蕩者となり、家は亂脈となり、紛爭は轉輾增大して、終に可な いが、本鄕や鎌庭からなら近いところから考へると、將門が結城あ りの舊家が村にも落着いて居られぬゃうになった。これを知ってゐ いっしやく る自分の眼からは、一齣の曲が觀えてならない。眞に夢の如き想像たりへ行かうとして出た途中を要撃したものらしい。左も無くては ではあるが、國香と護とは同國の大掾であって、二重にも一二重にも 釣合が取れない。若し將門が攻めて行ったのを禦いだものとして わた の縁合となって居り、居處も同じ地で、極めて親しかったに違ひ無は、子飼川を渉ったり鬼怒川を渡ったりして居て、地理上合點が行 むすめ い。若し將門が護の女を欲したならば、國香は出來かぬる縁をも纏かぬ。將門記に共の鬪の時の記事中見ゆる地名は、野本、大串、取 めようとしたことであらう。共の方が將門を我が意の下に置くに便木等で、皆常陸の下妻附近であるが、野本は下總の野爪、大串は眞 でんいふ
ふなばし んな氣味は少しも無い。むしろ、亂暴はしましたが同情なすってもで、今の葛飾の柳橋か否か疑はしいが機橋といふところを京の山崎 なぞ 宜いではありませんか、あなたには御氣の毒だが、男兒として仕方に擬らへ、相馬の大井津、今の大井村を京の大津に比し、こゝに新 が無いちゃありませんか、といふ調子で、將門が我武者一方で無い都が阪東に出來ることになったから、景氣の好いことは夥しい。浮 ことを現はしてゐて愛す可きである。 いろ / \ の奴が大臣にされた 浪人や配流人、なま學者や落魄公卿、 將門は厭な浮世繪に描かれた如き我武者一方の男では無い。將門 り、參議にされたり、雜穀屋の主人が大納言金時などと納まりかへ くみやす の弟の將平は將門よりも又やさしい。將門が新皇と立てられるのをれば、掃除屋が右大辨汲安などと威張り出す、出入の大工が木工 ぬひのかみ いはずともあて 諫めて、帝王の業は智慧力量の致すべきでは無い、蒼天もし與みせ鵐、お針の亭主が縫殿頭、山井庸仙老が典薬頭、賣トの岩洲友當が ずんば智カまた何をか爲さん、と云ったとある。至言である。好人陰陽博士になるといふ騷ぎ、たゞ唇日博士だけにはなれる者が無か である。斯様いふ弟が有っては、日本ではだめだが國柄によってはったと、京童が云ったらしい珍談が殘ってゐる。 ゅげのだうきゃう げんびん 將門も眞實の天子となれたかも知れない。弓削道鏡の一類には玄賓 上總安房は早くも將門に降ったらう。武蔵相模は新皇親征とあっ そうづ 僻都があり、淸盛の子に重盛があり、將門の弟に將平の有ったのはて、馬蹄戞、、大軍南に向って發した。武藏も論無く、相模も論無く 何といふ面白い造物の脚色だらう。何様も戲曲には眞の寮史は無い降伏したらしく別に抵抗をした者の談も殘って居ない。諸國が弱い いわのかすつね が、養史には却って好い戲曲がある。將門の家隷の伊和員經といふ者ばかりといふ譯ではあるまいが、一つには官の平生の處置に悅服 者も、物靜かに將門を諫めたといふ。然し將門は將平を迂誕たとい して居なかったといふ事情があって、むしろ民庶は何様な新政が頭 ひ、員經を心無き者だといって容れなかった由だが、火事もこゝま上に輝くかと思ったために、將門の方が勝って見たら何様だらうぐ で燃えほこっては、救はんとするも焦頭爛頭あるのみだ。「とゞのらゐに心を持ってゐたのであらう。それで上野下野武藏相模たち まちにして舊官は逐落され、新軍は勢を得たのかと想像される。相 詰りは眞白な灰」になって何も浮世の埓が明くのである。「上戸も うす 死ねば下戸も死ぬ風邪」で、毒酒の美さに跡引上戸となった將門も模よりさきへは行かなかったらしいが、これは古の事で上野は碓 大醉淋漓で島廣山に打倒れ乂ば、「番茶に笑んで世を輕う視る」と氷、相模は箱根足柄が自然の境をなしてゐて、將門の方も先づそこ いった調子の洒落れた將平も何様なったか分らない。四角な蟹、圓らまで片づけて置けば一段落といふ譯だったからだらう。相州奏野 なり すな い蟹、「生きて居る間のおの / 、の形」を果敢なく浪の來ぬ間の沙あたりに、將門が都しようかとしたといふ傅説の殘ってゐるのも、 將門軍がしばらくの間彷徨したり駐屯したりしてゐた爲に生じたこ に痕つけたまでだ。 將平員經のみではあるまい、群衆心理に攝收されない者は、或はとであらう。燎原の勢、八ケ國は瞬間にして馬蹄の下になってしま 口に出して誄め、或は心に祕めて非としたらうが、興世王や玄茂が った。實際平安朝は表面は衣冠束帶華奢風流で文明くさかったが、 ぢもく 事を用ゐて、除目が行はれた。將門の弟の將頼は下野守に、上野守伊勢物語や源氏物語が裏面をあらはしてゐる通り、十二單衣でぞべ ひばりぼね 平に常羽御廐別當多治經明を、常陸守に藤原玄茂を、上總守に興世王ら / 、した女どもと、戀歌や遊藝に身の膏を燃して居た雲雀骨の弱 を、安房守に文室好立を、相模守に平將文を、伊豆守に平將武を、 公卿共との天下であって、日本各時代の中でも餘り宜しく無く、美 なること冠玉の如くにして中空しきのみの世であり、や長もすれば 下總守に平將爲を、それ / 、の受領が定められた。毒酒の宴は愈 ていなみ くにふ 3 はづんで來た。下總の亭南、今の岡田の國生村あたりが都になる譯暗黒時代のやうに外面のみを見て評する人の多い鎌倉時代などより けらい あぶら
3 プ 2 共の由を糺さるべきに、而もかへって理を得るの官符を給はる 此状で見ると將門が申譯の爲に京に上った後、鄕に還っておとな すけときのあそん とは、是尤も矯飾せらる又也。」又右少辨源相職朝臣仰せの旨 しくしてゐた様子は、「兵事を忘却し、弓弦を緩くして安居す」と あら を引いて書状を送れり、詞に云はく、武藏介經基の告从によいふ語に明らかに見はれてゐる。そこを突然に良兼に襲はれて酷い 、定めて將門を推間すべきの後符あり了んぬと。」詔使到來目に遇ったことも事實だ。で、共時に將門は正式の訴从を出して其 ころ を待つの比ほひ、常陸介藤原維幾朝臣の息男爲憲、偏に公威を事を告げたから、朝廷からは良兼を追捕すべきの符が下ったのだ。 然るに將門は公の手の廻るのを待たずに、良兼に復難言戦を試みたの 假りて、たゞ寃枉を好む。爰に將門の從兵藤原玄明の愁訴によ 、將門共事を聞かんが爲に彼國に發向せり。而るに爲憲と貞か、或は良兼は常陸國から正式に解文を出して辯解したため追捕の 盛等と心を同じうし、三千餘の精兵を率ゐて、恣に兵庫の器仗事が已んだのを見て、勘忍ならずと常陸へ押寄せたのであったら こ、 う。共時良兼が應じ戰は無いで筑波山へ籠ったのは、丁度將門が前 戎具並びに楯等を出して戰を挑む。是に於て將門士卒を勵まし 意氣を起し、爲憲の軍兵を討伏せ了んぬ。時に州を領するの間に良兼に襲はれた時應戰し無かったやうなもので、公邊に對して自 れいしょ 分を理に敵を非に置かうとしたのであった。將門は腹立紛れに亂暴 滅亡する者其數幾許なるを知らず、況んや存命の黎庶は、盡く して歸ったから、今度は常陸方から解文を上して將門を訴へた。 將門の爲に虜獲せらるゝ也。」介の維幾、息男爲憲を敎へずし で、將門の方へ官符が來て召間はるべきことになったのだ。事情が て、兵亂に及ばしめしの由は、伏して過状を辨じ了んぬ。將門 本意にあらずと雖も、一國を討滅↓ぬれば、罪科輕からず、百紛糾して分らないから、官使純行等三人は共時東國へ下向したので うカゞ 縣に及ぶべし。之によりて朝議を候ふの間、しばらく坂東の諸ある。將門は辯解した、上京はしなかった。そこへ又後から貞盛は せうぼく 國を掠し了んぬ。」伏して昭穆を案ずるに、將門は已に栢原將門の横暴を直訴して頂戴した將門追捕の官符を持って歸って來た のである。これで極めて鮮やかに前後の事情は分る。貞盛は將門追 帝王五代之孫なり、たとひ永く半國を領するとも、豈非運と謂 捕の符を持って歸ったが、將門の方から云へば貞盛は良兼追捕の符 はんや。昔兵威を振ひて天下を取る者は、皆史書に見るところ の下った時、良兼同罪であって同じく配符の廻って居た者だから、 也。將門天の與ふるところ既に武藝に在り、等輩を思惟するに およ 追捕を逃れ上京した時、公に於て取押へて糺間さるべき者であるに 誰か將門に比ばんや。而るに公家褒賞の由无く、犀譴責の符を 下さるゝは、身を省みるに恥多し、面目何ぞ施さん。推して之かゝはらず、其者に取って理屈の好い將門追捕の符を下さる乂とは を察したまはば、甚だ以て幸なり。」抑將門少年の日、名簿を怪しからぬ矯飾であると突撥ねてゐるのである。こゝまでは將門の おも 太政大殿に奉じ、數十年にして今に至りぬ。相國攝政の世に意言ふところに點頭の出來る情状と理路とがある。玄明の事に就ては はざりき此事を擧げんとは。歎念の至り、言ふに勝ゅ可から少し無理があり、信じ難い情从がある。玄明を從兵といふのが奇異 だ。行方河内兩郡の食糧を奪ったものを執へんとするものを、寃枉 ず。將門傾國のを萌すと雖、何ぞ舊主を忘れんや。貴閣且っ 之を察するを賜はらば甚だ幸なり。一を以て萬を貫く。將門謹を好むとは云ひ難い。爲憲貞盛合體して兵を動かしたといふのは、 蓋し事實であらうが、要するに維幾と墅談に出かけたところから こん 天慶二年十二月十五 は、將門のむしやくしや腹の決裂である。此書の末の方には憤怨恨 謹ぐ上太政大殿少將閣賀恩下 怫と自暴の氣味とがあるが、然し天位を何様しようの何のといふそ ゑんわう
てうへい ちゅうぐうせうしんたぢまびとすけざね で無禮千萬であると、兵力づくで強ひて入部し、國内を凋弊し、人平から、中宮少進多治眞人助眞に事の實否を擧ぐべき由の敎書を哥 そんみう 民を損耗せしめんとした。武芝は敵せないから逃げ匿れると、武芝ぜ、將門を責めた。將門も謀反とあっては驚いたことであらうが、た の私物まで檢封してしまった。で、武芝は返還を逼ると、却って干とひ驕傲にせよ實際まだ謀反をしたのでは無いから、常陸下總下毛 げもん 戈の備をして頑として聽かず、暴を以て傲った。是によって國書生武蔵上毛五箇國の解文を取って、謀反の事の無實の由を、五月二日 等は不治悔過の一卷を作って廳前に遺し、興世王等を謗り、國郡にを以て申出た。餘國は知らず、常陸から此の解文は出しさうも無いこ 共非違を分明にしたから、武藏一國は大に不隱を呈した。そして經とであった。少くとも常陸では、將門謀反の由の言を幸ひとして、虚 をばむこ 基と興世王ともまた必らずしも睦まじくは無く、様になことが隣國妄にせよ將門を誣ひて陷れさうなところである。貞盛の姑夫たる藤 下總に聽えた。將門は國の守でも何でも無いが、今は勢威おのづか原維幾が、將門に好感情を有してゐる筈は無いが、まさか未だ嘗て ら生じて、大親分のやうな調子で世に立って居た。武藏の騷がしい謀反もして居らぬ者に謀反の大罪を與へることは出來兼ねて解文を ことを聞くと、武芝は近親では無いが、一つ扱ってやらう、といふ好出したか、それとも短兵急に將門から攻められることを恐れて、責め したが 意で郎等を率へて武藏へ赴いた。武芝は喜んで本末を語り、將門と逼らるゝま乂に已むを得ず出したか、一寸奇異に思はれる。然し五箇 共に府に向った。興世王と經基とは恰も狹服山に在ったが、興世王國の解文が出て見れば、經基の言はあっても、差當り將門を責むべ だけは既に府に在るに會ひ、將門は興世王と武芝とを和解せしめ、 くも無く、實際また經基の言は未然を察して中ってゐるとは云へ、 府衙で各數杯を傾けて居ったが、經基は米だ山北に在った。共中興世王武芝等の間の和解を勸めに來た者を、目前の形勢を自分が誤 武芝の從兵等は丁度經基の營所を圍んだやうになった。經基は仲惡解して、盃中の蛇影に驚き、恨みを二人に含んで、誣ひるに謀反を以 くして敵の如き思ひをなしてゐる武芝の從兵等が自分の營所を圍ん てしたのではあるから、「虚言を心中に巧みにし」と將門記の文に だのを見て、たゞちに逃れ去ってしまって、將門の言によりて武芝ある通りで、將門の罪せらる可き理據は無い。又若し實際將門が謀 興世王等が和して自分一人を殺さうとするのであると合點した。そ反を敢てしようとして居たならば、不軌を圖るほどの者が、打解け こで將門興世王を大に恨んで、京に馳せ上って、將門興世王謀反の て語らったことも無い興世王や經基の處へわざ / 、出掛けて、半日 へんし 企を致し居る由を太政官に訴へた。六孫王の言であるから忽ち信ぜ片時の間に經基に見破らるべき間找さをあらはす筈も無いから、此 られた。將門が兵を動かして威を奮ってゐることは、既に源護、平時は未だ叛を圖ったとは云へない。むしろ種にの事情が分って見れ 良兼、平貞盛等の訴によりて、かねて知れて居るところへ、經基が ば、東國に於ける將門の勢威を致した共の材幹力量は多とすべきで 此言によって、今までのさまみ、の事は濃い陰影をなして、新らしあるから、是の如き才を草莢に埋めて置かないで、下總守になり鎭 い非常事態をクッキリと浮みあらはした。 守府將軍になりして共父の後を襲がせ、朝廷の爲に用を爲させた方 將門の方は和解の事畫餅に屬して、おもしろくも無く石井に歸っ が、才に任じ能を擧ぐる所以の道である、それで或は將門を薦むる者 ざんそう たが、三月九日の經基の讒奏は、自分に取って一方ならぬ運命の轉 もあり、或は將門の爲に功果ある可きの由が廷に議せられたことも 換を齎らして居るとも知る由無くて居た。都ではかねてより阪東が有ったか知れない。記に「諸國の告从に依り、將門の爲に功果有る 騷がしかった上に愈謀反といふことであるから、容易ならぬ事と べきの由宮中に議せらるゝ」と記されて居るのも、虚妄で無くて、 たねたか これもと 公諸司の詮議に上ったことであらう。同月二十五日、太政大臣忠有り得べきことである。備前介藤原子高を殺し播磨介島田惟幹を殺