428 の馬子の名稱と支那象戲の馬子の名稱とを比較せよ、何ぞ共の相 のみならず、支那の俗書にすら是の如き説を載するもの無きに似た り。たゞ明の謝肇湖は、象棋は相傳へて武王紂を伐っ時に作るとな同じきや。西洋象戲に於ける最微力の馬子「ばうん」は西班牙語 す、然らざるも亦戰國兵家者流の手に出でたるなり、蓋し時猶車「びよん」より出で又、「びよん」は從卒の義なりと云へば、是支那 戰を重ずればなりと説きて、象戲の製作を甚だ古しとなせども、予象戲の卒と一致するにあらずや。西洋象戲の「るつく」は「らー は共説に服すべき理由甚だ乏しきを以て、今の支那象戯と同系に屬す」又は「ろーす」といへる印度語に出で乂共義は兵車なりといへ する象戲の支那の上古に存せしと云ふ證據は認むる能はずとするもば、是れ支那象戯の車と一致するにあらずや。西洋象戯の「ない のなり。楚辭説苑等に見えたる象棋、並びに北周の武帝の製せし象と」の馬子は騎士の義なれば、是れ支那象戲の馬に當る。西洋象戲 戲の、今の支那象戲とは別種のものに屬するならんとは、既に論じの「びしよっぷ」は倫正の義なれども、ふおるべす氏の説に據れば たれば之を復びせずして、謝氏の言を評せんに、謝氏が象戲を以て此馬子は古は波斯人に「びる」と呼ばれしものにして、「びる」は ち象の義なりとなれば、是れ支那象戲の象に相當するにあらず 武王の作れるにあらざるも亦戦國兵家者流の手に出でたるならんと するの理由は、單に象戲の馬子に一の車あるの故を以て、車戰の行や。以上は馬子の名稱の相同じきを擧げたるなるが、馬子の位置の 相同じきも一奇とせざるべからざるものあり。 はれたる時代部ち戦國時代の製に係るならんとするに過ぎず。何ぞ 西洋象戲の「ばうん」は全隊の前列にあり。西洋象戲の「ばう 共理由の薄弱にして斷定の急遽なるや。幾種の馬子中單に一の車あ るの故を以て車戰行はれたる時代の製に係るとするが如きは、谿にん」に相當するところの支那象戲の卒も、また同じく全隊の前列に 入りて一杏樹を認めて滿谿是れ杏樹なりとなすが如きのみ、共鹵莽在り。西洋象戯の「るつく」は全隊の後列部の左端及び右端に在 り。「るつく」に相當するところの支那象戲の車も、また同じく全 の判斷たる論ぜずして知るべきなり。謝の説の論ずるに足らざる是 除の後列部の左端及び右端に在り。西洋象戲の「ないと」は「るつ の如し、あるゐん氏の説の如きは度外に置きて可なり。 く」に隣りて一格だけ王に近き位置に在り。支那象戲の馬はち 是の如くなれば西洋の象戯と支那の象戲とは、共傳來上に於て年 代相當らざること明らかなれば、直接には何等の關係をも有せずと「ないと」に同じものなるが、同じく車の隣格にして王に近き方に 云ふべし。然りと雖も西洋の象戯の傅來に關する諸説を讀み、又象在り。西洋象戲の「びしよっぷ」切ち古の「びる」は、「ないと」 戲の有する所の性質を觀察し、而して支那の象戯の世に出づるに至の隣席にして愈王に近き位置にあり。之と同義の名を有する支那 りしと思考せらる時代の从勢を顧み、且共象戲の有するところの象戯の象も、また馬の隣席にして愈彊王に近き位置に在り。是の如 き馬子の名稱の一致及び共位置の一致は、西洋象戲と支那象戲との 性質を觀察して、東西の比較を試みる時は、何人と雖も意外なる新 間に何等の關係點も無きものとしては、奇に過ぎたるの事實ならず しき感を惹き起さゞるを得ざるに驚異するを免れざるべし。 ゃ。蓋し名稱の一致の如きは或は偶然に之あるを得べきも、其馬子 西洋象戲の印度より出で又所謂「ちゃっらんが」 ( 象、馬、車、 卒の四科の義 ) の變形たるは、西洋象戲の條に既に説けるところなの名稱の一致と同時に共位置の一致するが如きは、偶然の事實とし るが、今西洋象戲と支那象戲とを共性質上より觀察するに、一一者共ては寧ろ有り得べからざるの事に屬す。こゝに至りては何人も恐ら 淵源するところを同うするにあらざるより以上は、是の如く一致すくは、西洋象戲と支那象戲との間に何等かの關係あるにあらずやと べくもあらずと思はるゝまで巧みに吻合するを見る。試みに西洋象の疑を懷かざるを得ざるべし。
2 イ 0 から是の如きの婆子あるを以てなり。共三は揚雄を累するの潘巧雲 いちぢゃうせいこさんぢゃう なり。共四は雷横を苦むるの白秀英なり。共五は一丈靑扈三娘、其 ぼやしやそんじぢゃう ぼたいちゅうこたいそう 六は母大蟲顧大嫂、共七は母夜叉孫一一娘なり。此三者は或は美、或 てんかうせ は美ならざるも、共に皆梁山泊中の人なり。共八は天峯星を惱まし こひ だいはんくわい て癡思の病を成さしめ、大反魁を殺して双親の仇を報ぜる孝勇貞美 けいしぞくけいえい の瓊矢鏃瓊英なり。其九は無頼にして大臚、粗豪にして獷猛、王慶 を助けて亂を起し、村婦の身を以て楚王の妃と稱したる段三娘な うち り。此中、白秀英、顧大嫂、孫二娘の如きは、又蓋し略筆餘墨に過 きんてふ 水滸傅は支那小説の巨擘たり。共の筆墨の妙、描寫の巧、多く言ぎず。この九女子以外に本篇人物に直接緊貼せずして、而して實に ふをゐず。たゞし章を累ぬる百一一十の繁きに及びて、而も綠林豪百八豪傑をして運命の大轉灣をなさしめ、宋江等、身を水泊に潜め すくな 傑の談を叙するに富み、紅粉兒女の情を傅ふる寡し。これ本より山しものをして、忠を國家に盡すに至らしむるの機を得路を開かしむ かうしゅ とんきん 東の大盜を取って全篇の主人となす、勢おのづから是の如くならざるものを、水滸傅中第一の美人、東京上の行首李師にとなす。李 師には實に共家の牌上に寫せし五字一聯の如く、正に是、歌舞仙 る能はざるなり。然れども水滸傳また女子を叙せざるにはあ、わず。 くわげつのくわい ろていくわっ 魯提轄をして鎭關西を打つに至らしめしは、金輩蓮ありしを以てな女、風流花月魁なり。 李師には如何なる女ぞ。前掲の九婦人は、水滸傳中に共の姓名を り。豹子頭林冲をして滄州道に配せらるゝに至らしめしは、其の夫 しゅび くんさ 人の美ありしを以てなり。およそ裙釵の英雄に禍輻を送り、鬚眉の儼存し、實世間上に其の型模を確見すと雖、蓋し皆鳥有の人なり。 かひか 尤物に左右せらるゝところの是の如きの談、未だ必ずし乏しから李師ぐもまた烏有の人耶非耶 日く、水滸傅一百二十回の大文字、大抵皆是空中より結選し來 ザ。たゞ共の女子、多くは是枝葉の人、作者輕に、一筆に描き去り て、點墨に寫し了り、深く意を留むること無し。こ長を以て幾干のる、これ共の幻奇靈怪、愛す可く賞すべき所以なり。然れども未だ ふんめんいうとう 必ずしも本づくところ無きにあらず。宋江等の名は既に宋史に見 粉面油頭あり、星眼月眉ありと雖、風キ性格の、瞭然として讀者の 前に現じ、事情光景の、炳焉として文段の間に彰はるゝもの稀なえ、臘等の亂賊の事もまた史上に顯著なり。およそ稗史小説は、 しん り。中に就きて、作者のや乂意を致してを傳ふる者數人、實に水これを作るもの能を馳せ才を逞しくするを欲す、乃ち實を離れ虚を えんばしやく 滸傳裏の妖花奇珠たり。すなはち共一は閻婆惜なり。婆惜は浮薄の捏するを免れず。然れども又人をして共の妄なるを忘れ眞なるを信 女子、多く論ずるに足らず。然れども全篇の主人公たる宋公明をしぜしむるを欲す、乃ち實を假り虚を掩ふを須つあり。こ、を以て演 とうそうりうそんあと て怒って之を殺し、引いて以て身を危くせしむるに至る。共の嬌縱義三國応は董曹劉孫の蹟に本づき、女仙外史は建文帝の遯、唐賽兒 の態、尖利の辯、一種の婦人の、惡むべく厭ふべきものの型模たの亂を藉る。水滸傅中、蔡、楊、童、高の奸、張叔夜、侯蒙の忠を はきんれん り。共二は潘金蓮および王婆なり。潘は淫にして悍なるもの、支那叙するが如き、大旨皆僞らず、讀者をして點頭して、是の如き人あ くわっ り是の如きの事あるを思はしむ。李師にが皇帝に對して宋江等の爲 の史上、實に是の如きの婦人少からず。王は猾にして貪るもの、支 ゑん さんころくば に其の忠を抱きて冤に屈せるを奏する一段は、實に是本傳中の大關 那の俗諺に、三姑六婆を近づくる勿れといへるもの、實に世おのづ いうぶつ 師師 でつ
しづく そも の當ってゐるか、ゐぬかは、誰にでも檢討さることであるが、評の土は焦がる、飲まんとすれど滴水も得ぬ共苦しさや抑如何ばかりぞ 8 ゐんち 幻當否よりも、評の仕方の如何にも韵致があって、仙禽おのづから幽鳴や、牛目づかひと云ひて人の疎む目づかひのみに得知らぬ意を動か を爲せる趣があるのは、保胤共人を見るやうで面白いと云ひたい。 して何をか訴ふるや、鳴呼、牛、汝何ぞ拙くも牛とは生れしぞ、汝 さち 慾を捨て道に志すに至る人といふものは、多くは人生の蹉躓にあ今抑何の罪ありて共苦を受くるや、と觀ずる途端に發矢と復笞の かう・ヘめぐ ったり、失敗窮困に陥ったりして、そして一旦開悟して頭を回らし音すれば、保胤はハ一フ / 、と涙を流して、南無、救はせたまへ、諸 て今まで歩を進めた路とは反對の路へ歩むものであるが、保胤には佛菩薩、南無佛、にくに、と念じたといふのである。かういふこと 然様した機縁があって、それから轉向したとは見えない。自然に和が一度や二度では無く、又或は直接方便の有った場合には牛馬其他 易の性、慈仁の心が普通人より長けた人で、そして儒敎の仁、佛道の當面の苦を救ってやったことも度にあったので、共嚀は遂に今日 の慈といふことを、素直に受入れて、人は然様あるべきだと信じ、 にまで遺り傅はったのであらう。服牛乘馬は太古からの事で、世法 然様ありたいと念じ、學間修證の漸く進むに連れて、愈日に月にから云へば保胤の所爲の如きはおろかなことであるが、是の如くに 共傾向を募らせ、又共傾向の愈募らんことを祈求して已まぬのを感ずるのが、いつはりでも何でもなく、又是の如くに感じ是の如く これしんしつだう しゃうじゃうだう ば、是眞實道、是無上道、是淸淨道、是安樂道と信じてゐたに疑に念ずるのを以て正である善であると信じてゐる人に對しては、世 無い。それで保胤は性來慈悲心の強い上に、自ら強ひてさへも慈悲法からの智愚の判斷の如きは本より何ともすることの出來ぬ、カ無 かうちゃう 心に住してゐたいと策勵してゐたことであらうか、かういふことが いものである。又佛法から云っても是の如く慈悲の念のみの亢張す 語り傅へられてゐる。如何なる折であったか、保胤は或時往來繁き るのが必ずしも可なるのでは無く、場合によっては是の如きは釁境 都の大路の辻に立った。大路の事であるから、き人も行き、賤きに墜ちたものとして彈呵してある經文もあるが、保胤のは慈念や たか 者行き、職人も行き、物賣りも行き、老人も行けば婦人も行き、 悲念が亢ぶって、それによって非違に趨るに至ったのでも何でもな らうさう 小兒当行けば壯夫当行く、亢、、然と行くものもあれば、踉蹌として いから、本より非難すべくも無いのである。 行くものもある。何も大路であるから不思議なことは無い。たまた たゞし世法は慈仁のみでは成立たぬ、仁の向側と云っては少しを くびき くわ ま又非常に重げな嵩高の荷を負ふて喘ぎノ \ 大車の軛につながれてかしいが、義といふものが立てられてゐて、義は利の和なりとあ 涎を垂れ脚を踏張って行く牛もあった。これもまた牛馬が用ゐられる。仁のみ過ぎて、利の和を失っては、不埓不都合になって、や た世の事で何の不思議もないことであった。牛はカの限りを盡して無苹苦茶になって終ふ。で、保胤の慈仁一遍の調子では、保胤自身 むち 歩いてゐる。しかも牛使ひはカむること猶足らずとして、これを笞を累することの起るのも自然のことである。しかしそれも純情で押 とうすみ うってゐる。笞の音は起って消え、消えて復起る。これも世の常、 切る保胤の如き人に取っては、世法の如きは、燈芯の繩張同様だと 何の不思議も無いことである。しかし保胤は佛教の所謂六道の辻に 云って終はればそれまでである。或時保胤は大内記の官のおも も似た此辻の景色を見て居る間に、揚ぐたる人、ぐたる人、營ぐ て、催されて御所へ參入しかけた。衞門府といふのが御門警衞の府 汲ぐ戚、、たる人、嗚呼ぐ、、、世法は亦復是の如きのみと思ったで であって、左右ある。共の左衞門の陣あたりに、女が實に苦しげに しもと もあったらう後に、老牛が死力を盡して猶笞を受くるのを見ては、 泣いて立ってゐた。牛にさへ馬にさへ悲憐の涙を惜まぬ保胤であ あゝ、疲れたる牛、嚴しき笞、荷は重く途は遠くして、日は熾りにる、若い女の苦しみ泣いてゐるのを見て、よそめに過さうやうは無 いか っと をんきん かいど ひく こ、ろ
362 さっしゃうな いかでか 五十一一上光陰急なり、 爭奈せん渾身察詳を做す。 こっし すなは 活きて七十に到るも幾日か有らん。 忽爾一朝便ち心破れ、 變じて風害となり風狂に任す。 はいだっ と。五十二の時は、重陽自ら墓中に在り、一切を擺脱して、共心や 懼れず人にの長へに恥笑するを、 くら 箭の如し、只進んで道を得んと欲するのみ。自責の言の痛毒なる 一心三光の照を昧ますを恐る。 あや し も、異しむに足らず。人應に斟酌して言を聽き、此に依って生活の 慮を靜にし思を澄まして己身を省み、 だんか すなは 概状を窺ふ可きのみ、此に依って彈呵の論議を爲す可からざるな 悟り來って便ち妻兒を把って掉つ。 ( 下略 ) . れよノ′、、か 重陽の遇ふところの道人の呂仙人と爲すものは、重陽が了に歌に 此歌に據って知る、重陽が九歳にして祖父を失ひ、二十三にして 伯父を失ひ、三十三にして父を失へることを。又知る重陽は父の四 漢の正陽を分的祖と爲し、 十歳の時の子なることを。又知る三十六にして兄に需むるに資産を 唐の純陽を分師父と做す。 分ち與へんことを以てし、既に資産を得て後は任意任情に生活し て、酒を喫して日を送り、心に滿たざる有れば兄嫂を誣罵し、勢に の句有るに據る。正陽は部ち鍾離雲房にして、呂純陽に道を傳へし 乘じては人を侮り他を壓し、勤勉して産を治むることを敢てせず、 もの。傅へて云ふ、今の終南山の凝陽洞傅道觀は即ち正陽の東華帝 徒らに他に富貴を羨み、自己の財産を蕩盡し、妻子をして怨恨せし め、終に家を賣り田を賣り、又之を酒肉に費し去り、妻子の困窮を君に遇ひて道を傅へられしの處、又成陽の周曲灣の正陽宮はち正 省みず、四十八歳に至りて猶ほ意氣を負へども、既に如何ともする陽の故居なりと。成陽と云ひ、南山と云ふ、皆重陽の生地居處に因 をくちよく 能はざるに及び、忽爾として道心を發し、驀直に入道して、妻子を縁あり。況んや正陽の弟子呂純陽は、昇天を願はずして長く人間に 在りて道を傳へ人を度せんと欲したるの眞仙なるをや。重陽の純陽 棄つるに至れるを。 に遇へりと云ふも、因縁甚だ深しといふべし。 是の如くなれば是れ凡常愚劣の輩、氣を負ひ酒を使ふ者の經歴に 重陽が呂仙に遇へりといふの翌年、印ち正隆五年の一月夜、重陽 して、世おのづから是の如き人多し、山村水郭、いづくにか此類の そんらうげいいん 徒無からん、東坡の所謂瘴死の牛肉を啖ひて村醪を鯨飮して氣を吐また一道者に遇ひ、同じく月下に談論しけるに、道者謂って日く、 やから くの輩、に譿るに堪〈ざるの輩たらずんばあらず。重陽自ら述ぶ吾は西北の大山の中に居る、 ( 西北の大山は當に是れ終南山なるべ ること既に是の如し、蓋し詐らざるの自白なり。然りと雖も歌中前し ) 彼の間に人有りて、談論するを善くし、陰符道德は尤も精通す へいせき 半は盡く是れ自ら責むるの辭のみにして、絶えて自ら護るの語無る所なり、聞く君が平昔此の二經を好むことを、なんぞ相從ひて試 こ。、ろ し。人の自ら責むるの辭に依って、其人是の如きのみと爲さば、竟みに往いて聽せざるやと。重陽意動きしかども、躊躇して未だ之 ちゅうぢゃう とうせき を能く決せざりしに、道者忽ち柱杖を抛って、風に乘じて去り、 に是れ鄧析の徒の苛論たるを免れざらむ。重陽が此歌を作るの時、 えう 行くところを知らず。重陽驚きて、左右に之を求むるに、杏として 年五十二なり。故に歌中の後の句に曰く、 んかう 音耗無く、茫然として失ふ所有るが如し。これは正宗記に出づると 0
三千里外知友を尋ね、 切なるを知り、丹陽が強項不屈なるを知る。丹陽の未だ歸道せざる あした 引いて入る長生不死の門 や、夢に重陽に從って山に入る。旦に及んで重陽呼んで日く、山伺 くぜん と。從義瞿然として、重陽が吾が夢を知るに驚く。丹陽の時に自ら せきじ 共他蔵頭析字の詩詞多し。篇章亦常人に取りて興味必ずしも饒か山伺と稱し、重陽の時に山伺を以て丹陽を呼ぶもの、是より起る。 ものう らず、これを擧ぐるに懶し、之を讀むも亦懶からん。 又嘗て重陽一日人に謂って日く、馬公道を破ると。人日く、師何を くら 重陽また梨一枚を與〈て從義をして啖はしめ、第十一日に至って以て之を知るや。曰く、昨日馬公飮酒すること多しと。人これを 一梨を分って二と爲して從義夫婦をして食はしめ、十日を經るごと ふに、從義曰く、昨日藥を得て酒を用ゐて引とし、因って覺えず量 に一分を加へ、第三十日には三分し、第四十日目には四分して食はを過すと。重陽の丹陽に於ける凡べて是の如し。丹陽の遂に道に入 しむ。百日に至って、五十五塊を食はしむ。分梨十化といふもの印 るを致す所以なり。丹陽の妻孫氏、道を尚ぶと雖も、猶ほ家業を捨 そんこ ち是なり。當時贈答の詩詞、收めて分梨十化集に在り。集傅へて今つるを肯んぜず。當時重陽の孫姑に贈る詩に曰く、 に存す。百日に至って、大定八年正月十有一日、從義遂に資産を以 しんくわん 二婆猶ほ自ら家業を戀ふ、 て子の廷珍輩に付し、休書を妻の孫氏に付し、服を易へ簪冠を受 くわいれう 家業誰か知らん錢を壞了するを。 け、寧海一市の鉅萬の富者、忽然として乞食の道士となりぬ。當時 若し是れ家に居りて常に舊に似たらば、 の從義の心中の消息、道行碑、正宗記、仙源像傅等、並に之を記せ 馬公は分の神仙と做る無からん。 ず。十化集卷末に重陽が從義に贈るの詩を載す。日く、 酒初めて醒め、夢初めて驚き、月初めて明らかに、性初めて 二婆は孫姑をいふ。共の馬氏の家の第二子從義の妻たるの俗の稱 平らかなり。若し覺悟せば、是れ前程あらん。 呼なり。又曰く、 從義次韵して曰く、 一一婆は只識る世間の居を、 ぎよくこ ほうえい 識らず蓬瀛に玉壺有るを。 醉中に醒め、睡中に驚き、暗中に明らかに、箇中に平らかな 若し肯て廻頭して覺悟を修めば、 り。心開悟して、前程を得たり。 名は傳へて永にに仙姑と喚ばれむ。 孫富春もまた遂に廻頭して世を棄て、夫の從義が道に入るの翌、 從義が夢中歌に、燒き得て白く、煉り得て黄、便ち是れ長生不死 はう ちょうご いた 漑の方、の句ありしに因って、重陽命じて、名を、字を玄寳と更大定九年重午の日、金蓮堂に詣りて出家し、名を不二と改め、淸淨 め、丹陽子と號せしむ。 散人と號するに至る。重陽の道を傳ふる者の唯一の女仙なり。共の まさ 馬丹陽、馬丹陽、此は是れ一豪傑、重陽の之を化する容易なら著はす所の孫不一一元君法語傳へて今に至る。詞氣淸温、的に是れ女 ず、重陽の全眞集、敎化集、十化集等を見れば、重陽の老婆心甚だ 仙の語なり。別に丹道祕書三卷あり。法語と同じく數葉の小册、多 こちゅう おに さんとう
を重陽子と爲せるものは、此時二道人の命ずるところに出づと爲人にあらざる無き歟、是れ亦尋常の見を以て概論す可からざるもの 0 部す。言既にして畢り、道人東方を指して日く、汝何ぞ之を觀ざるあるなり。重陽遇師の詩を讀むに、共の傅受するところの者、金丹 しらだ やと。重陽首を回らして望めば、空中に七朶の金蓮の子を結ぶをの道なるが如し。金丹の道は漢よりして傅へて今に至る。共道幽渺 見る。道人日く、何をか見ると。答へて日く、七朶の金蓮の子を結知り難しと雖も、歴代の眞仙、皆之を修め之を證して、而して後に かく ぶを見ると。道人笑って曰く、豈たゞ是の如きのみならんや、將に生死を超え、玄妙に入る。淺俗の士、箇中の消息を窺知する無く、 いひをは 萬朶の玉蓮有って芳ばしからんと。言訖って忽ち所在を失ひたり。 妄りに意を以て測りて、世豈に錬丹の術有らんやと云ふ。然りと雖 これより重陽いよ / 、狂顛して、復世間の是非、人事の價値ある も其道の頭絡有りて執る可きを覺え、符驗有りて信ず可きを思ふに ふきちよくわうはいたん あ ~ を思はず、動靜語默、皆己の欲する所に從ひ、不羈直往、破衣短あらずんば、歴代の高明にして學有り識有るの士の、肯て世を謝し わす ていろえんこう 簔、飄ぐとして雲行し、齣にとして露宿し、漸く眞の害風漢となり 家を棄て、妻を遣り子を遺れて、鼎爐鉛汞の事に苦心すること有ら ぬ。當時重陽の作るところの詩、遇師と題するもの一絶、全眞集に んや。金丹の道は、予將に別に論ずる有らんとす、今急に之を詳 載す。日く、 に言ひ難しと雖も、要するに一道潛傅して、亡びざること千有餘 年、今猶ほ考ふ可く徴す可きもの有る也。重陽の遇へるところの一一 四句八上遭逢を得たり、 道人の果して呂仙人なると呂仙人ならざるとに論無く、又たゞ是れ ロ訣傅〈來って功有り。 重陽の主觀中の事たると否とに論無く、蓋し重陽四十八歳、正隆四 一粒の丹砂色愈第好く、 年六月望日に於て始めて感發悟得するところ有りしなり。但し重陽 いんこう 玉華山上殷紅を現ず。 が披氈の道人を目して呂純陽と爲し乂は掩ふ可からず。重陽の全眞 集中に、王道人に贈ると題せる詩あり、日く、 重陽二道人に遇ふの事、畢竟是れ何を語るものぞや。李道謙日 く、共の遇ふ所の者は、純陽呂眞君なりと。呂純陽は予嘗て之を論 ロ來り月往き愈要身輕し、 しようりけん たいらか ず。世相傅ふ、純陽は唐の人、道を鍾離權に學んで仙を成し、永く ロ是れ雲車隱にして又平なり。 しばど、 いか 世間に遊行して人を度すと。宋の時に於て純陽數第世に現はる乂の ロ目怎でか知らん雲水の貴きを、 みんしん ロ仙相聚まり氣禪榮ゅ。 談有り、明淸の世に於ても、猶ほ時に世に降顯すとせらる。重陽に現 はれしもの、果して呂仙人なるか非耶。蓋し別に人有って披の二 ロ牛の運用人し難く、 道人の害風に現はれしを見る有るにあらず、誰か二道人の果して呂 ロ虎の咆吼我に聲有り。 ロ遠ニ是夛一 仙人なると呂仙人ならざるとを辨ぜんや。又誰か果して二道人の重 ド心道を樂み、 陽に現はれしを併せて共の實事なると假談なるとを辨ぜんや。抑又 口先勝地淸明を賞す。 異人の重陽に現はれしの事の、たゞ是れ重陽の主觀中の事なるか非 : っしャっ せんい なる耶を知らんや。然も亦世おのづから雋異の道を傳へて、光を和し 此は是れ藏頭の格といふものにして、七言の詩の毎句の頭一字を さいは 塵に同ずるの隱士無きにあらず、重陽の遇ひしところの者、此等の示さず、人の猜破に任すもの。第五句第六句は正に此れ丹道の語に つまびらか
くら あや 疾を得て、幾んど救はれざるに至り、夢に仙家の境に入り、已にし よりこれを食ふ。異しみて共故を詢ふ。答へて曰く、甘は苦中より いづく て平復するを得たり。遂に幻化の理を悟り、存心得道せんとす。 來ると。人また奚よりすると間ふ。日く、終南山より特に來りて、 偶要重陽の囃哩唆を唱へて掖城を過ぐるに遇ひ、共の情爽邁にし醉人を扶くと。是に於て馬從義心甚だ之を異とす。こ・れより前數 うんせう たけなは て、雲霄に飛擧ぜんとするの態有るを望見し、驚いて就いて之と與日、馬また高戦等と此亭に飮める時、酒酣にして詩を賦して曰 に談る。機縁契合して、禮拜して弟子と爲る。重陽乃ち修眞の祕旨 を授け、内功を積ましむ。是に於て慨然として家を棄てゝ長往し、 かたはらいはり 杖策して西のかた關中に入り、終南の甘水の側に廬を結んで、獨 元を抱き一を守る是れ工夫、 らんかんによこん り靜かに眞を煉る。後に明昌の初、金の昌宗に召されて、金丹の道 懶漢如今一も也無し。 ふく を間はる。乃ち答ふるに、此は山林の道人の肖ぶ所なり、陛下は四 終日杯を啣みて禪思を暢ぶ、 いづれ 海生民の主たり、必ずしも意を此に留めたまはざれ、といふを以て 醉中却って有らんや那の人の扶くる。 たヾこた し、但對ふるに黄老の淸靜治國の道を以てして、大に帝の悅び敬す るところとなりしもの、ち是れ此人にして、著はすところの全道と。馬と道人ともと相識らず、復共詩を得て知る可きの理無し。然 集、世に行はるといふ。 るに今卒爾として言を出して、三千里を遠しとせずして特に來って だるま 少林の逹磨、面壁九年、慧可を得るに及んで、共道大に輝く。王醉人を扶くといふ。馬の密に異とする所以なり。馬乃ち間ふ。何を 重陽、得に地に函谷の西より東海の濱に到り、馬丹陽を得るに及ん か名づけて道と日ふやと。答へて日く、五行到らざる處、父母未生 で、全眞の敎、はじめて其勢を發す。東海に馬を提ふるは、もとよの時と。これより主客玄を談じて、席上に風を生ず。道人の言ふと せん′ \ こくあた り懸記有り。重陽の東に行くもの、後より之を論ずれば、全く馬譚 ころ、箭に皆鵠に中り的を破る。是に於て從義これを邀へて私第に らかんしよう 劉邱の徒を得るを期する者の如し、奇といふべし。重陽大定七年四居き、間答往來論談す。自ら作るところの羅漢頌十六首を出して示 かうわ ゑん 月を以て自ら茅庵を焚き、直ちに東海を指して發し、同年秋七月十すに、道人筆を執りて飃和し、宛として宿構に出づるが如し。從義 いた 八日、寧海州に抵る。七月十八日、七月十八日。嗚呼是れ王馬始め遂に心服して師事す。詩は是れ翰林直學士王利用の撰する所の、馬 て相見するの日、全眞の敎の天下に光被するに至るもの是れより起宗師道行碑に據る。 馬從義は抑第如何なる人ぞや。從義は寧海の人なり。寧海は今猶 其日寧海の人馬從義、友とする所の高巨才、戦法師と偕に、范明ほ寧海と稱す、威海衞の西、十里餘 ( 日本里 ) の地なり。馬氏世系 いらうてい しんぢっ ふくはしゃうぐんゑん 叔の怡老亭に飮む。范明叔も亦馬從義の親眤する所なり。時に一道遠く漢の伏波將軍援に出づ。祖の名は覺、字は華叟、學五經に通 しゅせん おこなひ 人あり、鬚髯甚だ美はしく、面は蓮花の如く鮮やかに、眼は大にし じ、人となり信義なり。繪を販して業と爲し、時に慈仁の行有 て口に過ぎ、身長六尺に餘り、豪氣堂に、は亘鐘の如し。鐵鑵を 。父名は揚、字は希賢、五子を生む、從義は共の第一一子なり。馬 ていてつ 手にして、突として共席に至る。戰法師間うて曰く、布袍竹笠、暑氏の坊、甚だ貲に富む、故に人稱して馬半州といひ、弟姪三人、皆 ぬきん を冒して來る、何ぞ勤むるやと。道人曰く、宿縁仙契あり、徑ちに 進士に擢でらる長を以て、故に餘慶堂有り。從義の未た生れざる 來りて訪謁するなりと。從義等相視て、之に瓜を與ふ。道人ち蔕や、義の八月淸旦、客有りて蒼皇として紬複を案上に攤って去 と そっじ また ひそか むか
34 叶はじと、急ぐ程に沼のほとりに來たり、嬉しやと思ふほどなく日はって覗へば、女も我をつく 2 「と見て、傷ましやお前様の風情、御 あし 谷の沒り易く、雪は最早無けれど沓の底は切れて足痛む折ふし、プ足のあちこち怪我なされしか紅き者も見ゆるに、御袖も草木に障え ツリと紐さへ斷れぬ。悲しやと道の邊に坐りて夫を繕ひ繋がんとすられてか綻び切れ、御顔色もいたく ~ 表へ苦し氣に居らせらるゝに、 るに、燈の光り遙彼方に幽に動ぐを見付たり。嬉しゃ嬉しやとたど成程是より小川まで僅の道なれど行き惱み玉ふべし、お留め申し難 り行けば、丸木の掘立柱笹葺の屋根したる小家、尚蕾の堅き山櫻のき所なれども世捨人にもあらぬ御方に、假の宿りに心止むなとも申 まげ ことわり 大木の根方に立り。所がらとて時候のかくも變る者ぞと驚かれぬ。 し難ければ枉て一夜を明させ申すべし、強くお斷絶申すもつらし、 おす、ぎ 萩の垣結ふ丈の事もせざるは枝折戸の面倒も嫌へるにや、家の橫手いざ爰に御腰かけられよ、御洗足の湯持て參らん、と云はれて氣味 かけひ に幅一間計りの小河流るれば、筧して水呼ぶ世話も要らぬと見へたの惡さ、今さら逃出さんも流石なれば、よしやわざくれ何とするも のぞと腰打掛て、有難しと禮いふ中、小桶に熱き湯汲み來りて甲斐 此樣にしても世は渡らるゝ者と有り難く、尚近く寄て火の洩るゝ甲斐しく洗ひくれんとするを、是は恐れ入り升、ナニ自分で濯ぎま おみあし 戸の際に立ち、中禪寺の湯元より峠越して道に迷ひし者、盡く疲れす。イヱ / 、御遠慮なしに、サア御足をお伸しあそばせ、と間答す みちのり 果て夜道に難義いたしまするが、小川村まではまだどれ程の道法でる暇に指の股の泥まで奇麗になりぬ。 ・こざりますか、且は雪沓を切らして歩み難く困りますに草鞋一足御 疊の上にあがり丁寧に挨拶すれば、女莞爾と笑ひながら、山中な 讓り下さるまいか、と云へば、それは / 、お氣の毒な事、小川までれば御馳走も出來ねど幸ひ小川村と同じ脈の温泉の背戸の方に湧き つかれ はもう二十町ばかり、川に添ふて行かれさへすれば間違なし、お履居れば、一風呂御這入りあって一日の疲勞をお休めなされ、サア此 物をお切らしなされては眞に御難義ならんが、生憎草鞋一足もない方へござれ、御背中を流しませうか。ハテ狐にでも誑さる乂ではな 事恥かし、然し私しのはき捨の草履にても宜しくば參らせませう、 いかと内に危ぶみ居る我手を取る様にして、湯殿へと申しても片庇 と云は不思議、なまめかしき女の聲。か又る山中に似合はしからず、廂、雨露を凌ぐばかり、いぶせけれど湯は天然の靈泉まことに能く されど是も獵師か何ぞの娘ならん、唯弱りたるは足の裏痛み惱み暖まります、といふ口上嘘らしくなく底まで見え透く淸き湯槽、大 とても て、右の小指左りの拇指は生爪まで剥したれば、是より二十町到底事なかろうと這入れば、無類の心持は湯元より結構なり。晝間のつ あるけず、出來る事なら一夜の宿を頼まんと、眞に申し兼たれど小 らかりしも忘れ悠ぐと揚って來るを待ち付て女、御召憎うはござり しょ 川まで二十町と承はりては疲れたる身の中にに歩み難く、痛み所さ ませうが御着物の綻びを縫ふてあげます間是を、と後より引かけて へあれば憫然と思し召て一夜の宿りを許したまへ。それは思ひも寄呉れるは、ぼてつかぬフ一フネルの浴衣に重ねし黒出八丈の綿入れ、 らぬ事、女子許りなれば、と云ひ乍ら板戸引き開け身體を半分出す女物なれば丈ありてユキ無く、兩手のぬっと出るは可笑けれど、親 うしろひ 女、年は二十四五なるべし、後面に燈を負ひたれば後光さす天女の切かたじけなし、餘程ふしぎな取り扱ひ、どうした運命だろうと怪 しろ おみおび 、共色の皎さ、共眼のばっちりとしたる、其眉つきの長く柔和みながら少し煙にまかれて、ハイ是はどうも恐縮。御帶にも岩 なる、共口元の小さく締りたる、共髪の今日洗ひたる乎と覺えて結角の苔が付て居りますれば、可笑とも之を、と笑ひながら出すは緋 もせず後に投掛て末の方を引裂き紙にて一寸纏めたる毛のふさ / \ 縮緬のしごき。ハイ / \ と帶にして、是も大方藤蔓か知れぬと顴念 しさ としてくねらざる、美しさ人にあらず。おのれ妖怪かと三足ほど退し、座敷へ來て居爐裏の傍に坐る肩へ羽折り呉るゝは八反の鼠辨慶 ふびん ばか おみ
か又った。徐六岳を最初から廷珸は好い鳥だと狙って居たのであら りですか」と云った。そこで趙は堪へかねて笑ひ出して、「何と仰 かうぎつ う。ところが徐はあまり廷珸が狡譎なのを悪んで、横を向いて了つあります、唐氏の定鼎は方鼎ではございませぬ、圓鼎で、足は三つ た。廷珸はアテがはづれて困ったが仕方が無かった。もとよりャリ で、方鼎と仰あるが、それは何で」と答へた。季因是はこれを聽く こすから あて クリをして、狡辛く世を送ってゐるものだから、嵌め込む目的が無と怫然として奥へ入って了って久しく出て來なかった。趙再思は仕 い時は質に入れたり、色氣の見える客が出た時は急に質受けした方無しに俟ってゐると、暮方になって漸く季は出て來て、餘怒猶ほ 、十餘年の間といふものは、まるで碁を打つやうなカ一フクリを仕色に在るばかりで、「自分に方鼎を賣付けた王廷珸といふ奴めは人 てゐた共の間に、同じゃうな族類系統の曾たものをいろ / 、求めを馬鹿にした憎い奴、南科の屈靜源は自分が取立てたのですから、 きいんぜ て、何様かして甘い汁を吸らうとして居た。共中に泰興の季因是と今書面を靜源に遣はしました。靜源は自分の爲に此の一埓を明けて いふ、相當の位地のある者が廷珸に引か乂った。 呉れませう」といふことであった。果して屈靜源は有司に屬して追 季因是もかねて唐家の定窯鼎の事を耳にしてゐた。勿論見た事も理しようとしたから、王廷珸は大しくじりで、一目散に姿を匿して 無ければ、詳しい談を聞いてゐたのでも無い。たゞ其の名に憧れ仕舞って、人をたのんで詫を入れ、別に僞物などを贈って、やっと らうや て、大した名物だといふことを知って居たに過ぎない。廷珸は因是 牢獄へ打込まれるのを免れた。 の甘いお客だといふことを見拔いて、「これが共の寶器でございま 談はこれだけで濟んでも、可なり可笑味も有り憎味も有って澤山 して、これ / 、の譯で出たものでございまする」と宜い加減な傳來なのであるが、まだ續くから愈變なものだ。廷珸の知合に黄一、 きしう のいきさつを談して、一つの窯鼎を賣りつけた。それも自分が社生石、名は正賓といふものがあった。廷珸と同じ徽州のもので、親類 しんしん から得た物を賣ったのならまだしもであって、贋鼎にせよ周丹泉の っゞきだなど云ってゐたが、此男は摺紳の間にも遊び、少しは鼎彝 立派な模品であるから宜いが、似ても似つかぬ物で、しかも形さへ書畫の類をも蓄へ、又少しは眼もあって、本業といふのでは無い 異ってゐる方鼎であった。然し季因是はまるで知らなかったのだか が、半黒人で賣ったり買ったりも仕ようといふ男だ。期様いふ男は ら、廷珸の言に瞞着されて、大名物を得る悅びに五百金といふ高慢隨分世間にも有るもので、雅のやうで俗で、俗のやうで物好でも有 りこう って、愚のやうで怜悧で、怜悧のやうで畢竟は愚のやうでもある。 税を拂って、大ニコど、で居た。 てうさいし 然るに毘陵の趙再思といふ者が、偶然泰興を過ぎたので、知合で不才の才子である。此の正賓はいつも廷珸と互に所有の骨董を取易 有ったから季因是の家をおとづれた。毘陵はち唐家の在るところへごとをしたり、賣買の世話をしたりさせたりして、そして面白が の地で、同じ毘陵の者であるから、趙再思も唐家に遊んだことも有ってゐた。此男が自分の倪雲林の山水一幅、すばらしい上出來なの 董って、彼の大名物の定鼎を見たことも有ったのである。共の毘陵のを廷珸に託して賣って貰はうとしてゐた。價は百二十金で、一寸は 人が來たので、季因是は大天狗で、「近ごろ大した物を手に入れま無い程のものだった。で、廷珸の手へ託しては置いたが、金高もの どひやうかん 骨したが、それは乃ち唐氏の舊蔵の名物で、わざとにも御評鑒を得たでもあり、ロが遠くて長くなる間に、何様な事が起らぬとも限らぬ いと思って居りましたところを、丁度御光來を得ましたのは誠に仕と思ったので、そこで中ぐウッカリして居ぬ男なので、共幅の知れ くわあふ 【 / 合せで」と云ふ談だ。趙再思はたゞハイ / 、と云ってゐると、季はないところへ豫じめ自分の花押を記して置いて、勿論廷珸にも其事 重ねて、「唐家の定窯の方鼎は、君も曾て御覽になったことが御有は祕して居ったのである。廷珸は共の雲林を見ると素敵に好いので、 ていい
れども、帝は敬の疏を受けたまひしのみにて、報じたまはず、事竟位明らかに定まりて太祖未だ崩ぜざるの時たに、是の如きの怪信あ ひそか りて、燕王が爲に白帽を奉らんとし、而して燕王是の如きの怪信を に寢みぬ。敬の言、蓋し故無くして發せず、必らず竊に聞くところ ゐばく さうかふ あた ありしなり。二十餘年前の葉居升が言は、是に於て共の中れるを示延いて帷蟆の中に居く。燕王の心胸もとより淸からず、道衍の爪甲 さんとし、七國の難は今將に發せんとす。燕王、周王、齊王、湘も毒ありといふべし。 きん ゑんこう 道衍燕邸に至るに及んで、袁垬を王に薦む。袁垬は字は廷玉、 王、代王、岷王等、祕信相通じ密使互に動き、穩やかならぬ流言あ の人にして、此亦一種の異人なり。嘗て海外に遊んで、人を相する りて朝に聞えたり。諸王と帝との間、帝は共の末だ位に部かざりし より諸王を忌憚し、諸王は其の米だ位に印かざるに當って儲君を侮の術を別古崖といふものに受く。仰いで皎日を視て、目盡く眩して 、の奪を挾んで不遜の事多かりしなり。入京會葬を止むる後、赤豆黑豆を暗室中に布いて之を辨じ、又五色の縷を窓外に懸 あやま の事、遺詔に出づと云ふと雖、諸王責を讒臣に托して、而して其のけ、月に映じて共色を別って訛っこと無く、然して後に人を相す。 奸惡を除かんと云ひ、香を孝陵に進めて、而して吾が誠實を致さん共法は夜中を以て兩炬を燃し、人の形状氣色を視て、參するに生年 と云ふに至っては、蓋し辭柄無きにあらず。諸王は合同の勢あり、 月日を以てするに、百に一謬無く、元末より既に名を天下に馳せた けり 帝は孤立の状あり。鳴呼、諸王も疑ひ帝も疑ふ、相疑ふや何ぞ猤離 り。共の道衍と識るに及びたるは、道衍が嵩山寺に在りし時にあ せざらん。帝も戒め諸王も戒む、相戒むるや何ぞ疏隔せざらん。疏 。袁垬道衍が相をつくえ \ と欟て、是何ぞ異信なるや、目は三角 りうへちゅう 隔し猤離す、而して帝の爲に密に圖るものあり、諸王の爲に私に謀なり、形は病虎の如し、性必らず殺を嗜まん、劉秉忠の流なりと。 るものあり、況んや藩主を以て天子たらんとするものあり、王を以 劉秉忠は學内外を兼ね識三才を綜ぶ、釋氏より起って元主を助け、 て皇となさんとするあるものに於てをや。事遂に決裂せずんば止ま九州を混一し四海を併合す。元の天下を得る、もとより共の兵力に きかくよろしき ざるものある也。 賴ると雖、成功の速疾なるもの、劉の揮摧の宜を得るに因るもの すくな たくらく 帝の爲に密に圖る者をば誰となす。日く、黄子澄となし、齊泰と亦鮮からず。秉忠は實に奇偉卓犖の信なり。道衍秉忠の流なりとな ゃうしょはちゃく なす。子澄は既に記しぬ。齊泰は漂水の人、洪武十七年より漸く世さる、まさに是癢處に爬着するもの。是より二人、友とし善し。道 に出づ。建文帝位にきたまふに及び、子澄と與に帝の信賴すると 衍の垬を燕王に薦むるに當りてや、燕王先づ使者をして垬と與に酒 ころとなりて、國政に參す。諸王の入京會葬を遏めたる時の如き、 肆に飮ましめ、王みづから衞士の儀表堂にたるもの九人に雜はり、 おも へた みことのりた 諸王は皆謂へらく、泰皇考の詔を矯めて骨肉を間っと。泰の諸王おのれ亦衞士の服を服し弓矢を執りて、肆中に飲む。垬一見して印 の憎むところとなれる、知る可し。 ち趨って、燕王の前に拜して日く、殿下何ぞ身を輕んじて此に至り 命諸王の爲に私に謀る者を誰となす。日く、諸王の雄を燕王となたま〈ると。燕王等笑って曰く、吾輩皆護衞の士なりと。璞豌お掉 だうえん つばら す、燕王の傅に信道衍あり。道衍は信たりと雖灰心滅智の羅漢にあって是とせず。こゝに於て王起って入り、垬を宮中に延きて詳に相 ていし 邏らずして、却って是好謀善算の人なり。洪武一一十八年、初めて諸王せしむ。璞諦視すること良久しうして日く、殿下は龍行虎歩したま さしはさ の封國に就く時、道衍躬づから薦めて燕王の傅とならんとし、謂っ ひ、日角天を插む、まことに異日太平の天子にておはします、御 て曰く、大王臣をして侍するを得せしめたまはば、一白帽を奉りて年四十にして御獺臍を過ぎさせたまふに及ばせたまはば、大寶位に 大王がために戴かしめんと。王上に白を冠すれば其文は皇なり。登らせたまはんこと疑あるべからず、と白す。又燕府の將校官屬を これ りゃうきょ