4 7 2 とは有るまいが、寧ろ一葉自らはカめて客觀的態度を取らうとしてするよりは自分の肚内に書きつけて置くといふ質の方の人と見え ゐたのであり、又然様したのである。けれども習作時代の筆くせかた。 後年に至って交際を生じた女史の妹君は、氣も能くつけば辯才も ら純客観にのみ爲り得無かったことも思遣られる。が、「濁り江」 は然樣した作品であるから、「濁り江」中の人物を直ちに一葉に押廻る人であったが、自分の観たところでは姉の一葉女史の方は、妹 被せられることは一葉に取っては隨分迷惑で有ったらう。然し「濁君と同様に氣もっき心も廻る人であっても、それを盡く外に打出し さわ り江」から丁度一葉の名が噪いで、そして世間のいたづら者から幾て終ふやうな人では無く、半分からは自己腹中に蔵してしまふやう 度も幾度も共の家の標札を剥ぎ取り去られたといふ程であったかな人と思はれた。そして其等が日記や雜筆やに現はされたことも有 らうし、小説の端になどに打って出されたことも有らうといふもの ら、自然「濁り江」中の人物を一葉に擬する傾きが當時に起って、 そして種にの噂を生んだことも有り得る事情であったのである。世で、斯様いふ人が時あって發する短い言葉には警句や試刺の面白い の中には誤解する人もある、又誤解するほど不聰明では無いが人のものが有るものである。齋藤綠雨も經は鋧く動く人であったが、 誤解を訂正したがらない人もある。世の中には出鱈目をいふ人もあ言葉少なの、外發すること乏しい代りに内蔵することの多い人で、 る、又出鱈目をいふほど不眞面目では無いが出鱈目を檢査せずに受かって自分が多人數集合の席で綠雨の例の如く默りこくってゐるの はらわた 取って之を渾搬する人もある。誤解と知りながら誤解を默認する人を見て、君は又色ぐの事を腹腸へ書きつけてゐるネと戲れたことが や、うそっきの出鱈目を正直者が正直に邀搬することによって、世あったが、一葉とは一度會ったきりだから、深くは何とも云へない が、兎に角に陽發性の人では無く、中間性よりも少し内端の方の人 間の眞僞は紛糾するのである。 一葉には自分はたゞ一度面會したきりである。初對面にしては遠であると看て取れた。音聲の調子と力と拍子とから、それと身じろ 慮無しに長座して可なり談話を交へたが、これは一つは・「西鶴文反ぎのけはひからして、盲人は他の人の如何なる人であるかの直覺を 古」のやうに書簡體を以て共の往復によりて小説を成立させて見た得るものであるが、音聲のエ合から云っても、一葉妨妹は互に表裏 ら何様なものが出來るか知らんといふ鸛外等と自分との企てに、女を爲して居て、姉は妹より外發する傾きの少い人であった。然しそ 史を一枚入れようといふ鸛外の弟の竹二の言に因って竹二に同行をれでゐて内には負けぬ氣、峻峙の氣が有り、外に對しては透竄性の 求められて訪間したところ、一葉も、役割は定めて貰ふが共他は各働きを有してゐたから、それが發して、あゝいふ文を成したのであ り、それから又あ乂いふ文の爲に兎角の嚀を招いたのである。 人隨意に事をも情をも景をも境をも發展させて宜い、決して筋書を 然し又一葉の日記などに就ては言ひ洩らしたくないことが一つあ 定めて拘束はせぬといふのに興味を感じたらしく、それからそれと 談絡がつながって斷れなかったためであった。初對面だから勿論然る。それはほかでも無い、早い頃の彼女の日記には文章の習作にカ 様でも有ったらうが、どちらかと云へばロ數の少い、辯才流るゝがめるといふやうな氣分の多いといふことである。これは誰でも若い がは 如しなどといふ側では無い、十分思ったことも五分か六分言って默人の免れ難いことで、兎角若い人は筆を執ると自らに然様いふ氣分 の生ずるもので、その爲に書かでもの事を書いたり、然程でも無い って了ふといふやうな人に見えた。然しあれだけの文才がある人で ことを面白づくに書いたり、共筆を持つまでは然様思っても居なか あるから、打解けて語り交すといふ段になったら隨分機鋒も鋧利に 面白く話すことも有らうが、大體のところは寧ろ思ふことを外に發ったことを書いたり、事實を筆拍子に乘って誇張したり或は省略し たち
だから己が切ったと云ってはいけないから、古本を得た、これが歎以前に存してゐた水滸傳では宋江といふものが忠義のものになっ 4 ち眞本だ、眞本はかくの如きものである、だら / \ 長い百二十回もてゐる、卷中の主人公は盜賊の大頭だが忠義の心があって、已むを 得ずして盜賊になった。けれども心の底には忠義の心があって、又 ある奴は俗本といふことにして、一篇の批評を成立たせてゐる。 非常に聰明な男である。聰明な男であるからして朝廷のために盡カ 併しながら問ふに落ちず語るに落つるで、自分の本を古本だ / \ しても結局どうなるかといふことを知ってゐる、そして朝廷のため と云ふにつけて、自分の本が出る前に、俗本であるか非眞本である か知らぬが、何にせよ所謂聖歎本と違ったものが存在してゐたことに死んでしまったといふことを書いて、人をして怫にとして感激せ しむるやうになってゐる。さういふ作の精禪に實際はなってゐる を語ってゐる。今存在してゐる聖歎本の前には、百二十回の本が一 種ある、それから百回の本がある。そして、この聖歎といふ男が水し、又前人の評もさうなってゐる。が、その後を襲ったのでは一向 滸傅を胴切にしたのは、眞に奇拔な批評家で、しかもその腰斬にし詰らんことだし、手際の見せどころがないから、そこで所謂飜案を た乂めに自分の批評を成立たせるといふことは隨分洒落たやり方だやって、出來上ったものを引くり返した。定案を飜すのが飜案であ るから、裁判なら被告は惡いものであるとか善いものであるとか定 が、實はこれも聖歎が發明したのではない。既に明の時に百回本が まってゐる、それを引くり返せばそれは飜案である。聖歎は一の飜 ある、ち百二十回本を二十回だけ拔かしたので、隨分亂暴な話た が、さういふやり方があったので、聖歎がそれに倣って又三十回だ案をやったので、先づ忠義水滸傅といはれてゐる忠義なぞは囚はれ け減じた。辯護する方から云へば何も初めてさういふ惡いことをしてゐる奴で面白くねえ、宋江もすることはまことに穩當で、山賊の たのではなく、二代目だといふことになるが、褒める方から云へば 頭にはなったが、いかにも禮儀正しく、君子人に描けてゐる、こい わうまう 折角の大手術も、實は昔の本屋の弊に倣ったと云ふことになり、少つを徹頭徹尾悪い奴で王莽見たいな、弱いことも弱いし狡いことも し困るのである。で、この百回本及び百二十回本は今日でも存して狡いし、粉飾の非常に巧な、陰險な、煮ても燒いても喰へない厭な ゐて、それにはいづれも李卓吾の批評が附いてゐる。ところで、今奴にした。忠義水滸傅を引くり返したのだが、それには全體が現は 日ある本の中では先づ百二十回本が最も元の水滸傅に近い譯であるれて來ると都合が惡いから、い加減な所で塀を立てゝ、これから が、前に云った胡の眼にした本の最も古いものは、胡氏自身既に、先は古本には無いんだぞといふことにした。奇拔と云へば奇拔で、 りき 近頃お目に掛らんと云ってゐる位なのである。最初の水滸傅といふこんな批評家の大自由にあっては、ひとり宋江ばかりでなく李だ ものは、一體いつどこで出來たものか分らない。もと / 、前にも申って林冲だって敵ふ譯のものではない。古本で云へば國のために忠 した通り、小説は瓧會低級のもので、本屋が二十回引こ找かうが或を盡して生命を犠牲にして、なほかっ百戦の後に功を賞されるどこ ろか、毒酒をさへ賜はって、そしてその酒を毒と知りつゝ飮んで死 は批評家が五十回引こ拔かうが、兎や鷄の彫刻物の耳を半分切った り足を一本取ったりしても、原作物のために歎息する人も憤る人もんでしまふといふやうに、宋江を敍してある。さういふところが出 て來ては、聖歎の評には都合が悪い、どうぞして毒の方は子分だけ ないといったやうた譯で、何のことはない、安羽子板の押繪がデコ ジャワ 子さんの手先に處理されても叱るお母さんがないといふ理窟であにでも飮まして、自分は寶でも澤山持って爪哇國へでも逃げて行く る。 ことにしなければ始末がっかない。そのために七十回以後は切って しからばなぜ金聖歎はそんなに五十回も取去ったかと云ふに、聖しまったのである。宋江の人物をさういふやうに僞君子、僞道學、
たり、又或時は感想を幻夢的に舖張したりして書く傾向のあるもの爲に大なる力になったには疑ひ無いが、所謂習作時代に屬して、觀 である。で、一葉の日記中に妙に書かれた人があったとしても、又る可きものは乏しい。惜しい哉、一葉が卵殻を出て一葉になってか 一葉自身の事を妙に書いたところがあったとしても、それは必ずし ら、印ち一葉が一葉になってから生存した歳月は餘りに短かった。 も眞實相ばかりでは無いと看破らねば眞に能く文を看得て徹せぬも共の難治の病を得て死に臨んだ時、今死んでは口惜しい、と云った のである、といふことを自分は提説して置く。これは何も一葉日記 といふ彼女の言葉は、眞に彼女の胸中の情を語ったものだらう。何 の價値を低めようといふ意味で言ふのでは無い、却って一葉日記にといふ悲痛の叫びであらう、共の一語を傳闘した當時の默然たる自 よって一葉及び他の人が誤解さるゝのを解きほごしたく思ふからで分の思ひは今も猶共人を思ふごとに自分の胸に湧上る。 ある。 ( 昭和二年二月「改造」 ) 人ににそれん \ の異見は有ることだらうが、何といっても自分は 「たけくらべーを一葉作品中の最大珠だとおもふ。これは最初文學 界だか何だったかに載ったものであったが、當初よりして人の意を 嗚呼春廼屋主人 惹いた。完結したのを通讀した時には、女で無くては出來ない、或 る特殊の境地に居た人で無くては出來ない、此の作者の眼と此の作 者の心と此の作者の手とで無くては出來ない、と感心した。正直を 云へば自分も共頃はまだ年も若いし、たかゞアクの強いので自分の 逍遙坪内氏の計が新聞瓧の人によってもたらされたのは近頃での 身體を保たせてゐる位の者であったから、大抵のものを見ても感服暖かい好い日の正午少し過ぎたばかりの時であった。病んで居らる などしたことは無かったが、「たけくらべ」を讀んだ時だけは、思 るとは聞いてゐたが、昨年の大患にさへ耐へられたのだからと、さ はず知らずニコリとさせられた。今日は大分共時分とは異ってゐるほど氣にもかけずにゐたところ、突然のその知らせには少からず胸 し、寫眞の世界だけはドギッイのより。ヒントを少し的確にしないでを衝きたてられたやうな心がして、晴れやかな靑い空も忽ち曇り、 味のあるのを賞美するが、共他の世界はすべてキチ / 、したやうな春めいて來かゝった四圍の風物も霜を帶びた陰風に一ト吹さっと吹 のを喜ぶ時代だから、今の人逹には何と受取られるか知らないが、 きかへされたやうな感がした。黠然といふ語が實にその時の心持を 自分は今でも「たけくらべ」を愛し、そして今日「たけくらべ」を掩ひ盡して、たゞ / 、黠然となった。 讀んで別に面白くもないと云ふ人があっても、明日になり明後日に 新聞瓧の人はその職責からして、予に逍遙氏についてその平生を 屋なっては共人が、あ長面白い、といふ時の有らうことを信じて疑は語るの文を寄せよと需めた。それはもっともな要求ではあるが、た にはか だこの黯然たる中から今遽に何が取出せよう。しかし辭退しきるこ 春ないものである。 一葉の作は、西鶴を彼女が讀んで、西鶴の自由大膽さの影響を受とも此の黠然たる心持の中の何物かが許さない、この新圓寂の人の 鳴 け彼女の平安朝文學以來の文學の殻から釋放された時から共光りを ために、出來ることならば、おぼろげになりと、又おほよその輪廓 放ち出したのである。共の以前、印ち學校敎育、和歌和文の先生のだけなりと、知ってゐるほどで宜いから傅へるべきであるといふ氣 4 敎育の桎梏の内に在った間のものは、それ等の敎養が矢張り一葉の持もするので、みづから強ひて聊か記すのである。
へびくち 類。さうして蛇ロの處を見るといふと、素人細工に違ひないが、ま氏の池といふ今日まで名の殘る位の釣堀さへ有った位ですから竿、 4 あ上手に出來てゐる。それから一番太い手元の處を見ると一寸細工屋だとて澤山有りましたらうに、當時持囃された詩人の身で、自分 がある。細工といったって何でもないが、一寸した穴を明けて、そで藪くゞりなんぞをしてまでも氣に入った竿を得たがったのも、好 しってなは なからゐにくやう の中に何か入れでもしたのか又塞いである。尻手繩が付いてゐた跡の道なら身をやっす道理でございます。半井ト養といふ狂歌師の狂 かは でもない。何か解らない。そのほかには何の異ったこともない。 歌に、浦島が釣の竿とて呉竹の節はろく / \ 伸びず縮まず、といふ 「隨分稀らしい良い竿だな、そしてこんな具合の好い輕い野布袋はのがありまするが、呉竹の竿など餘り感心出來ぬものですが、三十 見たことが無い。」 六節あったとかで大に節のことを褒めてゐまする、そんなやうなも 「さうですな、野布袋といふ奴は元來重いんでございます。そいっ のです。それで趣味が高じて來るといふと、良いのを探すのに浮身 を重くちゃいやだから、それで工夫をして、竹がまだ野に生きてゐをやっすのも自然の勢です。 二人はだん / 、と竿を見入ってゐる中に、あの老人が死んでも放 る中に少し切目なんか入れましたり、痛めたりしまして、十分に育 たないやうに片っ方をさういふやうに痛める、右なら右、左なら左さずにゐた心持が次第に分って來ました。 もろ の片方をさうしたのを片うきす、兩方から攻めるやつを、諸うきす「どうもこんな竹は此處らに見かけねえですから、よその國の物か といひます。さうして拵へると竹が熟した時に養ひが十分でないか知れませんネ。それにしろ二間の餘もあるものを持って來るのも大 ら輕い竹になるのです。」 變な話だし。浪人の樂な人だか何だか知らないけれども、勝手なこ 「それはお前俺も知ってゐるが、うきすの竹はそれだから萎びたやとをやって遊んでゐる中に中氣が起ったのでせうが、何にしろ良い うになって面白くない顔つきをしてゐるぢゃないか。これはさうち竿だ」と吉は云ひました。 「時にお前、蛇口を見てゐた時に、なんちゃないか、先についてゐ ゃない。どういふことをして出來たのだらう、自然にかういふ竹が 有ったのかなア。」 た絲をくる / 、つと蜷いて腹掛のどんぶりに入れちゃったぢゃねえ 竿といふものの良いのを欲しいと思ふと、釣師は竹の生えてゐるか。」 藪に行って自分で以てさがしたり撰んだりして、買約束をして、自分「エ、邪嚴つけでしたから。それに、今朝それを見まして、それで の心の儘に育てたりしますものです。さういふ竹を誰でも探しに行わっちがこっちの人ぢゃねえだらうと思ったんです。」 く。少し釣が劫を經て來るとさういふことにもなりまする。唐の時「どうして。」 をんていゐん 「どうしてったって、段に細につないでありました。段に細につな に温庭といふ詩人、これがどうも道樂者で高慢で、品行が悪くて ぐといふのは、はじまりの處が太い、それから次第に細いの又それ 仕様がない人でしたが、釣にかけては小兒同様、自分で以て釣竿を はいし 得ようと思って裴氏といふ人の林に這入り込んで良い竹を探した詩より細いのと段ぐ細くして行く。この面倒な法は加州やなんぞのや うちよく げうぎよくまたすで かばり がありまする。一徑互に紆直し、茅棘亦已に繁し、といふ句があり うな國に行くと、鮎を釣るのに蚊鉤など使って釣る、その時蚊鉤が まするから、曲りくねった細徑の茅や棘を分けて、むぐり込むのでうまく水の上に落ちなければまづいんで、絲が先に落ちて後から蚊 れきじんせんえん せんばさうらうこん す。尋す嬋娟の節、翦破す蒼莨根、とありまするから、一に此鉤が落ちてはいけない、それぢや魚が寄らない、そこで段ぐ細の絲 竹、彼竹と調べまはった譯です。唐の時は釣が非常に行はれて、薛を拵へるんです。どうして拵へますかといふと、鋏を持って行って こふ をつ こ、い
する安定固着を害されてゐた。そこへ雨をこそ件なはぬが、可なり 長い葉も亦下垂する柳とは異なった一種の面白い風致を猛風の中に 8 強い風に見舞はれたのである。 現じたのであった。 そこで檜類の如きは、平常から相互にマセ竹を與へて置いて共傾 あ彼の樹が共の樹であったに違ひ無い。と思ふと、今までウッ 倒を防ぐ手當は十分にしてあったに關はらず、哀い哉根入が淺いの カリ氣が注かずに過したのを不思議に感じもし、又何と無く懷かし ゆら で二本搖ぎ三本搖ぎ出して、恰も宗敎心の無い人物が少しの悲境に いーー・深山幽谷の旅の宿で一つ火から煙草を吸った名も知らず鄕貫 立っと忽ちにしてぐらっき出すやうに、暴風の中に慘苦の態を呈し も知らぬ人の立派な風条をして通るのに丸の内で出會ったやうな、 はじめた。はかない抵抗は長くは續かなかった。或者は倒れか乂っ甚だ淡いけれども惡くは無い感じもした。そこで、更に注意して共 て半は其白根を露はし、或者は歪められて捻られて共頭を地に着け樹を見ると、楢の如く櫪の如き葉形をして居て、細い枝は靑味をも た。孤立してゐた赤松は自分が倒れたのみならず、他の榧や小さなってゐる。別に取立てゝ言ふほどの奇趣も妙致もあるのでは無い 檜までを累して死せる大蛇の如く共の屈曲せる幹を大地に蜿蜒たら が、たゞ他の諸樹の猶一昨年の創痍いまだ殘れるに比して勢好く、 しめた。共他の樹木も各第痛手を負うて、濶葉樹は葉をむしられ、 そして芽出の少し早いだけが大に人の目を惹いて、共の新翠鮓綠が 坊主になって降を乞ふ姿になるもあれば、椎の如き丈夫な樹は小枝如何にも野趣を帶びてのび / 、としてゐるところから、自分をして と小枝とを併せて恰も拜むやうな態をして哀憐を風禪に乞ふかと見爽快の感を起さしむるのであった。 は、そ えた。此等の有様を見て、或は支柱を與へ、或は控へ綱を與へて、 ハテ何といふ樹だらう。楢といふものは甚だ種類が多くて、柞も 成るべく慘害を少くしようとした自分は、可なり小さな庭の中にま楢も櫪も皆楢の群の中だが、これも或はナラの類だらうか。たゞ樹 ご / \ してゐたが、後には如何ともするなきに至って、たゞ自然が膚の様子が少し異ってゐるやうである。などと思ったけれども、隣 いけがき 權威を振ふありさまを打眺めてゐた。 庭とは小溝一つ隔てゝはゐるし、彼此共に破れては居るが生籬が共 隣家の庭もまた慘澹たるものであった。庭が廣く樹が多いだけの名殘を留めて居るので、樹下に就て仔細に視ようともせずに終っ に、倒れる者根こぎにされる者も多く、銀杏や椎の如く悲叫しながてしまった。 あくるひ らも踏堪へてゐる者も見えて、一分間の靜止も無い千状萬態の動搖 共日はそれきりの事で濟んでしまった。が翌日また小庭をぶらっ は、ゴーツといふ風の音の中に紛亂の限りを盡してゐた。共中でフ くと、また共樹が眼に入った。そこで自然に一種の感を懷いた。共 ト眼についたのは彼の樹であった。今美しく若葉を張って、いかに感は若い時フトした事の拍子から眼に留まった女に、又次の日も遇 も爽やかな氣分を見せてゐる彼の樹であった。共時彼の樹は、彼の ひ、又其次の日も遇ふと、たゞそれは何んでも無い感じではある 綠葉をも殘り少なに吹もぎられて、他の諸樹と同じく風に揉まれた が、まんざら初めて行遇った人を見るやうな心持もせぬ、何者であ 漂ふやうな姿を空中にあらはして居た。たゞ共の風に對して自から らうか、と位は思ふものである、それと同じゃうに、何といふ樹だ 衞る妙巧の態度が著しく予の意を注めしめたのであった。丈の高いらうか、とはおのづからにして懷いた感じであった。幸にして自分 割合には太くない樹幹のスラリと伸びたエ合、ズヰ / 、と上向いては曾て京都の知人から齋田博士の著の植物書の便利なことを敎へら にそ あがな ゑんやくでうだ 出た枝の間伸をして纎く長い態、そして共の姿から生ずる婉約娜れて購ひ藏してゐる。共書によって自分は自分が初めて遇った植物 けんじん たる中に堅靱なところのある有様は、枝條が皆下垂して而して狹くの名を知ったことは一二度では無い。流石に科學の書であるから、 いかん くぬぎ
750 負ふ役目を致して居ります。御氣をつけなすって松戸あたり彼の邊いませんか。いやなことですナア、向島もとねりこの世界になるな んて、冗談にもそんな事を仰しやるのは。」 の田を御覽なさいますれば、いくらも房楊枝を押立てたやうなをか しな風をして田の畔に立って居ます樹がございます。あれが皆彼の おもふにお爺さんは大分苦勞をして來てゐる。世の中といふもの は何んなものだといふことを知ってゐるのである。歎息を發したの 樹でございます。何の事は無い生机に生れついて居るやうな奴で、 。ですから此の屋敷に も日頃胸中に慨然たるものがあるからであるかも知れない。 隨分ふびんな馬鹿ッ樹でございます。 そんな それでも自分はとねりこを共様に詰らぬものとも感じないので、 在りますいろ / \ の樹は、一昨年の空ッ風以來、おまけに水は近 し、煤烟は有るので、どれもこれも勢の好いものは有りはしませ逆らふ譯ではないが、 ん。其中で彼樹ばかりは平氣で居ります。」 「ほんとに然様いへばそんなものだネ。しかし世間には、好いもの かた と、斯様一氣に談った譯では無いが、自分が段、、と談話を手繰った は弱くて惡い者は強い、とは云は無いで、強いものが好いもので弱 い者が惡いものだ、といふやうに云ふ人もあるから、して見ればと ので、お爺さんは詳しく講釋をして呉れた。 ねりこなんぞも好い者かも知れない。」 で、いろ / 、とねりこの話を聞いた後に自分は笑ひながら、 「へ工 1 ツ。」 「そんなに強い樹なら矢張り好い樹ぢゃあ無いですか。」 と譯が分ったか分らないかは知らないが、お爺さんは大に共意を得 といふと、お爺さんは、 「それでも強くさへ有れば好いといふ譯なら、草では寛 ( ひょーとぬといふ調子で答へた。心中平らかなる能はざるものがあったに相 發音する ) が好いやうなことになりますが、寛には旦那様も閉ロな違無い。けれども流石に世に老いて居るので、直に心機を一回轉し すっていらっしゃいますではありませんか。」 て、これは自分が今とねりこに好奇心を動かして居るか、或は輕い 愛着をもってゐる爲にそんなことを云ふのだらうと考へたと見え 、覧には旦那様も大閉口さ、もうそろノ、出て來て威張り て、 はじめるだらうが、全く彼には恐入る。しかしとねりこは田の畔で 「兎に角感心した樹ちゃあ無いと思ひますが、強いことは強い樹で 生机にされるなんて、役にも立っし、樹ぶりも悪くは無いやうに思 たら ふ。いろ / \ の樹が弱って行くから、私はとねりこでも植ゑようかす。何んな性のものか御覽になりたいとでも御思ひならば、ひとり と思ふ。」 でに殖えた細っこいのがありますから引こ抽いて差上げませう、裏 いくら風雅な方でも、とねりこを庭へ御植ゑになったと庭へでも御植ゑになって御覽じませ。」 と云って呉れた。 いふことは聞いたことがございません。併し松も杉も、梅も檜も、 「ハ、、、そんなにとねりこに執心といふ譯でも無いが。」 好い樹は何でも育たなくなりましたから、向島で榮えるのはとねり と笑った。お爺さんも、 こ位になったかも知れません。の樹さへも此頃はどちらのも梢が くだり ノ、、、ま、御免下さいまし。」 枯れて衰勢になってゐる位ですから。」 と、一寸會釋して、老人は老人自身の仕事を働き出した。 「それぢゃいよノ \ とねりこの天下になる譯だネ。」 共日はそれだけの事であったが、夕方になって心長閑な晩食の膳 「何でも好いものは弱くて、悪い者は強うございます。お宅の菊で も好いのは弱くて、薔薇でも牡丹でも好いものは消え易いではござに對った時、フト復共樹のことを思出した。先づとねりこといふ言
しゃうたい 月に三度易へるとは、平生から恐ろしい細かい細工を仕たものだ。 宗を請待して太閤の思はくを徹することにした。氏鄕は承知した。 政宗は是の如く證據書類を全然否定して剛情に自分の罪を認めな政宗も太閤内意とあり、利家の扱ひとあり、理の當然で押へられて ゐるのであるから戻くことは出來ぬ。然し主人の利家は氏鄕と大の かった。溝の底の汚泥を掴み出すのは世態に通じたもののすること さんとうきゃうでん では無い、と天明度の洒落者の山東京傅は日ったが、秀吉も流石に仲良しで、且又免れぬ中の縁者である、又左衞門が氏鄕贔負なのは こと 洒落者だ。馬でも牛でも熊でも狼でも自分の腹の内を通り拔けさせ知れきった事である、特に前年自分が氏鄕を招いた前野の茶席の一 さなだ てやる氣がある。人の腹の中が好いの悪いのと注文を云って居る絛件がある。如何に剛膿な政宗でも、コリヤ迂濶には、と思ったこと かたき で有らう。けれども我儘に出席をことわる譯にはならぬ、虚病も卑 蟲や蛔蟲のやうなケチなものではない。三百代言氣質に煩はしいこ とを以て政宗を責めは仕無かった。却って政宗に、一手を以って葛怯である。是非が無い。有難き仕合、當日罷出で、御芳情御禮申上 西大崎の一揆を平げよと命じた。或は是れは政宗が自ら請うたのだ ぐるでござらう、と挨拶せねばならなかった。餘り御禮など申上度 どしう とも云ふが、孰れへ廻っても惡い役目は葛西大崎の土酋で、政宗の いことは無かったらう。然し流石は政宗である、シャ、何事も有ら こっぴど 爲に小苛い目に逢って終った。 ばあれ、と參會を約諾した。 此年の夏、南部の九戸左近政實といふ者が葛西大崎などのより規 其日は來た。前田利家も可なり心遣ひをしたことであらうが、こ 模の大きい反亂を起したが、秀夫の總大將、氏郷の先鋒、諸將出陣れは又人物が大きい、ゆったりと肉つきの豐かなところが有って、 はれもの そして實は中に骨太であり、諸大名の受けも宜くて徳川か前田かと といふので論無く對治されて終ひ、それで奧羽は腫物の根が拔けた たんい ゃうに全く平定した。氏鄕は此時も功が有ったので、前後勳功少か 思はれたほどであるから、か、る場合にも坦夷の表面の底に行屆い らずとて七郡を加増せられ、百萬石を領するに至った。 た用意を存して居たことであらう。相客には淺野長政、前田德善 多分九戸亂の濟んだ後、天正十九年か二十年の事であったらう。 院、細川越中守、金森法印、有馬法印、佐竹備後守、共他五六人の 前年の行掛りから何様も氏鄕政宗の間が惡い。自分の腹の中で二人大名達を招いた。場處は勿論主人利家の邸で、高樓の大廣間であっ に喧嘩されては困るから、秀吉は加賀大納言前田利家へ聚樂での内た。座席の順位、人にの配り合せは、斯様いふ時に於て非常に主人 證話に、大納言方にて仲を直さするやうにとの依賴をした。」 不家もの心づかひの要せらるものだ無論氏鄕を一方の首席に、政宗を一 いはゆるりゃうだて 一迷惑で無いことも無かったらう。仲の悪い二人を一室に會はせ方の首席に、所謂兩立といふところの、双方に甲乙上下の付かぬや しゃう て仲が直れば宜いが、却て何かの間違から角立った日には、兩虎一うに請じて坐せしめた事だらう。それから自然と相客の贔負ににが にんじゃう 澗に會ふので、相搏たずんば已まざるの勢である。刃傷でもすれば有るから、右方贔負の人にをば右方へ揃へ、左方贔負の人にを左方 へ揃へて坐らせる仕方もあれば、これを左右錯綜させて坐らせる坐 郷喧嘩兩成敗、氏鄕も政宗も取潰されて終ふし、自分も大きな越度で 氏ある。二桃三士を殺すの計とも異なるが、一席の會合が三人の身のらせ方も有る譯で、共時共人共事情に因って主人の用意は一様に定 った事では有るまいが、利家が此日人にを何様組合せて坐らせたか 蒲上である。秀吉に取っては然様いふことが起っても差支は有るまい は分らない。但し此日の相客の中で、佐竹の家は伊逹の家と爭ひ戦 か知らぬが、自分等に取っては大變である。そこで辭し度いは山ぐ った事はあるが元來が親類合だから、伊逹が蒲生に對する場合は無 だったらうが、兩人の仲悪きは天下にも不爲であるといふ秀吉の言 おもみ 3 には、重量が有って避けることが出來ぬ。是非が無いから、氏鄕政論備後守は伊逹贔負の隨一だ。德善院は早くから政宗と懇親であ
しゃうと仕掛けた時、自分の氣息が切れたと見えて叔母は突き放っ振り返って自分等が住んで居た甲斐の國の笛吹川に添ふ一帶の地を くら うつ て免した。そこで源一二は抵抗もせずに、我を忘れて退いて平伏した望んでは、黯然として心も昧くなるやうな氣持が仕て、しかも共薄 が、もう死んだ氣どころでは無い、殆ど全く死んで居て、眼には涙すりと霞んだ霞の底から、 も持たずにゐた。 あかつを一がた みやこ 共夜源三は眠り兼ねたが、それでも少年の罪の無さには曉天方に 桑を摘めノ \ 、爪紅さした花洛女郎衆も、桑を摘め。 まどろ なってトロリと仕た。さて目睫む間も無く朝早く目が覺めると、平 あさめし ひま 7 、 生の通り朝食の仕度にと掛ったが、共間ににそろり / 、と雁坂越の と淸い / \ 澄み徹るやうな聲で唱ひ出されたのが聞えた。もとより ようい は 準備をはじめて、重たいほどに腫れた我が顔の心地惡しさをも苦に聞える筈が有らう譯は無いのであるが。 むすび すっかり せず、團飯から脚ごしらへの仕度まで悉皆仕て後、叔母にも朝食を ( 明治三十六年五月「新小説」臨時增刊「夏木立」 ) ふい さぜ、自分も十分に喫し、それから隙を見て飄然と出て仕舞った。 家を出て二三町歩いてから持って出た脚絆を締め、團飯の風呂敷 包みをおのが手作りの穿替への草鞋と共に頸にかけて背負ひ、腰の まはり 周園を輕くして、一ト筋の手拭は頬かぶり、一ト筋は左の手首に縛 春の品川灣 しつけ、内懷にはお浪に曾て貰った木綿財布に、いろ′の交り錢 まるあき の一圓少し餘を入れたのを確と納め、兩の手は全空にして置て、さ て柴刈鎌の柄の小長い奴を右手に持ったり左手に持ったりしなが ら、段にと川上へ登り詰めた。 さき ことば やがて前の日叔父の言を聞いて引返したところへかゝると、源三 の歩みはまた遲くなった。しかし今度は、前の日自分が腰掛けた岩 しばらく と少時隱れた大な岩とをや長久しく見て居たが、共の揚句に突然と 聲張り上げて、些をかしな調子で、「我は官軍、我が敵は」と叫び いづく 出して山手へと進んだ。山鳴り谷答へて、何處にか潛んで居る惡 でも唱ひ返したやうに、「我は官軍我敵は」といふ歌の聲は、笛吹 川の水音にも紛れずに聞えた。 それから源三はいよ / 、分り難い山又山の中に入って行ったが、 坂 流石は山里で人となっただけに何様やら斯様やら「勘」を付けて 上って、とう / \ 雁坂峠の絶頂へ出て、そして遙に遠く武藏一國が あしもと そら 我が脚下に開けて居るのを見ながら、蓬ぐと吹く天の風が頬被りし た手拭に當るのを味った時は、躍り上り躍り上って悅んだ。併し又 いき ひれふ いっ うしに 未明 まだきの海の雲鈍くして、 こち 潮吁東風力無し。 孤長夜の闇を佗びしみ、 みよぐひ 鳴いて羽た乂く 澪標の上。 日出 かもめ ね 空飛ぶ鳴く音淸らに、 あさあらし 物もなき海朝嵐吹く。 むらさき ひんがし 雲紫に流れ流る東、 くれなゐ のぼ 日は紅に燃えて燃えて昇る。 にふ ( 明治三十九年六月 )
集は何様いふことだらうと考へたが、何の考へつきも無かった。夫ら、妹の家で庭を造った時四五株を贈ったおぼえがあるが、矢張り りゃうふ 木抄には令法だの、つま曳だのといふのが有ったが、とねりこも有とねりこには何の關係も無い。もう他の同覯らしい字は思出し得な しん ったか知らん、どうも無かったやうだナと思った。貝原や小野の本いか知らんと考へて居ると、の字が頭に浮んだが、何様いふ義だ 草で、一度出會ったことが有るには有るのかも知れないが、それはったか朦朧として分らない。授が山木といふところから、山を想っ しん しん 巡査が戸籍調べをした格で、年月立った今になって何も覺えては居て、岑からといふ字を考へ出した。すると同時に此字も何の義だ 無いし、それらの本も今は持ってゐない。ハ、ア、して見れば自分か忘れてゐるが、何でも此字には自分は突當った、つまり惱ませら はとねりこに對しては全く空虚で、自分の世界には彼樹は無かったれたおぼえがあると想起した。そこで、それは何様いふ事だったら か知らんと思った。が、それでも猶とねりこ、とねりこと、とねり うかと思ふと、それつきり考が膠着してしまって、他の方面へは心 こを心の齒で嚼みながら食事をしてゐると、秦皮といふ字を何時誰が走らなくなり、何の事は無い、悪い手筋へ考込んだ將棋のやう に敎へられたか何の書で覺えてたか知らぬが知って居て、それがと に、いくら目を糶っても無駄な霧の中で見えぬものを見出さうとす ちたい ねりこであったと思ひ出した。皮は橙皮陳皮の皮の如きところの皮る癡態に陷って終った。 しんきつれらしん に違無い。秦は何様いふ義だらう。秦の國、秦の始皇、秦吉了、秦 食事は濟み、雜談も一トしきり濟んで、例の如く寢に就き、とね せういデしんれいしんくわい 少游、秦嶺、秦檜、奏鏡、などとやたらに秦の字のあるものを考へ りこも何も無くなって、先づ今日はこれきりと眠に落ちてしまっ ( 0 出しても、何の考への付けどころも無い。それから秦の字の意義を りんね 考へて見たが、得るところも無い。何にしろ秦皮といふのは、藥用 輪廻といふことも應報といふことも、有ることと考へた方が事實 か雑用になるところから彼樹の皮を呼んだ名で、樹の名ではあるま に近い。翌日になって朝食に對ふまでは、隣のとねりこの姿も眼に いと想像したが、さてそれならば樹の名は秦でなければならぬ。と入らなかったし、との字も思出しもしなかったが、膳に對ふと、昨 ころが秦では合點が行かぬ。で、秦の字に木偏をつけて見ると榛の 日自分の世界にはとねりこは無かったと想った。けれども偶然に 字になる。榛ははりの木で、似ては居るが異った樹である。艸冠を も、イヤ然様ではございませんでした、こ又に居りましたとばかり つけて見ると蓁の字で、蓁には葉の勢よく茂る貌であることは、桃躍り出したとねりこがあった。一つは何でも西洋ものの飜譯でお目 ・てくわ の蓁にで思ひ出された。彼樹の葉の様子から來た名か知らんなぞ にか乂ったとねりこ、一つは自分が何の書かで自分から出會したと と、據りどころも無い想像をしたが、自分でも愚だと笑った。同韻ねりこであった。是がとねりこだから宜しいが、人の怨念なんぞで しん かつら らしい字を考へて、林たの森だの椹だの檎だの桜だのといふ字に移あったら何様であらう。昨日と今朝との間の自分は熟睡して何も知 して考へて見ても何も考へられぬ。どうも榛の字が氣になって、又ら無かったが、過去に於てたゞ僅に心境に觸れたのみのとねりこが、 樹考へて見ると榛蕪などといふ字面が思ひ出されたので、つゞいて榛我も求めず彼も來らぬのに、時節因縁で忽然として躍り出して來る はりはら といふには、もしゃ / 、と樹の生えた从のあることを思ひ、榛原と のである。千疊敷へ落した針の音の微かなのも滅するものでは無 望 いふ和歌の詞をおもひ、そこで蓁、、の蓁の字と通ずる意のあること い。輪廻應報の道理で、共者に跳り出されて、共の因は共の果を生 を考へ得たが、それよりしても何の得るところも無い。椹は桑の實じ、共の業は共の報を受けるであらう。自分がたゞ何かの書で遭遇 で、何の關係も無い。は山木で、樹ぶり葉ぶり花ぶりが好いか しただけのとねりこさへ、今朝はおのづからにして其とねりこが現 きん さうかう
プ 38 すゐし れゝば、巧妙に其人の出自を、調・ヘ出すのだか構へ成すのだか知ら ぬが、何にしろ立派な系圖を纏めたといふ事を聞いて居るが、 ( 多分 誣言妄説であらう ) 此言葉だとて然様いふ調子に調べたらば、おあ りがたい御本奪樣より絲をひいてゐるでもあらう。が、さういふこと しか & 、 をして、何に曰く云に、何に日く云、、、と似っこらしいものを列べ 立て又、證據裁判より云へば成立ちさうな案文をこしらへたところ で、をかしくも變哲でもない。うそには證據が必要だが、事實は自 然が語る。何でも此事の眞の事實は勿體らしい書を讀んだりなんぞ 「年をとるとケチになる。」 して、其中の辭句から、「年をとるとケチになる」といふ現語譯を 此言葉は誰から聞いたのか、また何時おぼえたのか、共由來が甚して、そしてそれを記臆したのでは無い。今になると多少想像を加 だ不明であるが、何でも共由來が忘れられたほど遠い過去に、そし入しないでは思ひ取り得られないが、おほよそは次のやうなのが事 て其由來が思ひ出されぬほど不注意に受取った言葉に相違無い。そ實であるらしい。自分がだ年の若い頃、部ち死にさへしなければ れが何様したものか此一二年來、時として頭を擡げて來る。丁度石老といふことは必ず自分の身を攝取して捨て無いといふことも氣が ころ はうしよう 塊や瓦片の下になった雜草が、そこに物有りとしも見えずに長い日 付かないで、活渡に放縱に今日を過し得ることを幸輻とも意識せぬ 數を經た曉、何様かした雨露風日の樣子によって至ってかすかな靑ほど幸輻に暮してゐた時分、自分等と同じ年頃のむだロ友達ーーむ あら みを見はすことがあるやうに、何處かで至ってかすかに、 だロ友逹といふのはをかしいが、漢學者風に云へば印ち談敵で、實 「年をとるとケチになる。」 際若い者は自己の爲にも他人の爲にも學間の爲にも藝術の爲にも、 と囁やくことがある。無論舊い記臆が新しい機會に際して、「此處職業や利益生活や又は瓧會の爲にも何にもならぬ談話、ちむだロ にかういふものが控へて居りました」と名乘るに過ぎないので、 を交換するのを悅ぶもので、談話の爲の談話、強ひて辯護すれば趣 「さうか」と答へればそれだけで濟んでしまふことなのである。 味興味の爲の談話を交換する友團を有ってゐない者は無い。が、共 或時何ぞの拍子に、また此「年をとるとケチになる」といふ言葉等の談話より好い事の生ずる場合は勿論希有で、大抵は山の樹の葉 が聞えた。そこで寸時を我知らずに割いて一應共一「ロ葉と自分との交が風に動くやうに彼等の舌が動くのみで、そして山の樹の葉の風に 渉を考へて見た。しかし誰から何時聞いたのか分らなかった。もっ動いたのが何等の結果をも齎らすに至らないで終る如く終るのを常 とも餘り立派でない生活をしてゐる佐藤さん加藤さんも、系圖をた とするから、公平に共實質に適ふ名稱を撰めばむだロ友逹として然 じよだんるだん だして見れば天之兒屋根命の裔であったり、邊鄙の土民で儼然と る可きであるーー共むだロ友逹と會談して、その絮談、縷談、連綿 くわういん して皇胤に出づるものがあったりするやうに、此一「「葉でも、濁り 語、突發語、奇句、警句、罵倒之辭、叱咜之辭、或は慷慨憤怫、或 とってい 、共の水上をたゞして見れば萩の下露篠の露、岩下淸水苔淸水のは滑稽突梯、種一、様にのむだロ興味ともいふ可き無邪氣な而もあさ 淸い流で、多くの人が偉大である高明であると奪崇してゐる人の言はかな、えらさうな而もくだらない、超脱的で實は平凡な、気鏃の 葉から系圖をひいてゐるものかも知れない。栗原柳庵は人に依賴さ 強い且足元のおぼっかない、つまり世間の誰でも、三蔵五助どもが 望樹記 げんぜん