たちま 明らかなり、と云ひ、乍ち圖を披いて久しく玩び、或は經を開いてして競はず、曾て儒棋なるものを撰す、蓋し博奕の流なり、とは魏 4 つら′、 而して熟尋ぬ、といへるが如きは、實に今の象戲と何等の交渉沒書の語るところ。儒棋格一卷は共眞僞を保すべからずといへども、 きの言にあらずや。當時の賦の文體は、多くは共題目に對して形从今猶存すれば就て見るべし。是亦世に先づ象戲なるものあって流行 指標の言をなし、舖張彫刻を究めて奇を出し態を成すを常とするもせるが故に、謙德ある君子の之を新裁して訓戒の意を寓せるものと のなれば、當時の象戲にして今の象戯の如くならば、今の象戯と何爲せりといふことを語るの消息にあらずや。 の交渉無き是の如きの言句を重疊すべき所以萬、、之ある可からず。 されば魏周の間に一種の象戲存在流行せしにはあらずやとの想像 且っ王褒の序に據りて考ふるも、また斷じて北周の象戯と今の象戲は、全く理無しとすべからざるものあるなり。然りと雖も想像は畢 との純然別系統のものに屬することは推知するに難からず。されば竟想像のみ、之を事實なりとはすべからず。況んやまた果して想像 今の支那象戲の起源を論ずるに就ては、北周の武帝が象戲を造れりの如く當時象戲あって世に行はれしとするも、共象戲と今の象戲と といふの一事は、全く反顧すべき價値無きところのものにして、たの關係は是亦寧ろ有る無きに近かるべきをや。此故に別頭に他の證 だ象戲の二字に就て彼此相關せるのみと云ふべき也。 據を得るにあらずんば、今の象戯は北周に淵源すとすべからず。 韻書の記するところによれば、象棋の二字は蔡伯階の彈棊賦に見 今の支那象戯と密接の關係ありと思考せらる乂ものの古書に見え たるは、唐の牛信孺が玄怪録を最も古しとせざるべからず。牛信孺 ゆと。伯階は漢の初平年間に死せる人 ( 耶蘇紀元百九十一一年死 ) にし て、北周の武帝に先だっこと三百餘年なり。然れども予が所蔵の蔡は耶蘇紀元八百三十年頃の人にして、共玄怪録に載せられたる象戲 中郎集には象棋の二字無きのみならず、縱ひ象棋の二字の存するあに關する岑順の談は耶蘇紀元七百六十一一年の事に屬す。不幸にして るも共義の象牙の馬子といふに過ぎざるべきこと極めて明らかなる予は所謂玄怪録に就て岑順の一條を見ずと雖も、宋人著すところの 彈棊賦中の詞に過ぎざるを以て、今の象戲と關係無きは、從って極事物紀原に之を引用せるのみならず、謝氏五雜俎、胡氏筆叢等にも めて明らかなる事なりとす。 また之を引用せるを以て之を疑はず。 北周武帝造るところの象戲の全く今の象戲と異ることは既に之を 牛信孺の玄怪録といふものは明ち後世の謂ふ所の幽怪録也。説郛卷百 論けり。たゞ武帝の象戲を造ることを試みし所以に至っては、今の 十七に牛信孺幽怪録あり。また玄怪記といふものありと雖も、此は徐炫 象戲と關係無きや否や疑ひ無き能はず。蓋し當時既に象戯なるもの といふものの著にか人れり。唐人説薈には幽怪録王憚著とあり。説郛に 收むるところの幽怪録はち古人引用せるところの玄怪録にして、玄怪 あって世に行はれ、而して武帝之に因って別に新に「武帝の象戲」 録を幽怪録と改題したるは楊用脩の爲せるところにして其事湧憧小品に を創造せし歟もまた測るべからず。如何となれば巧思奇智あるもの 見え、時の忌諱を避けたるより、幽玄の二字義相通ずる有るに本づく。 と雖も突然として一種の遊戲の法式を案出するは寧ろ難事に屬する 且又幽怪録を收むるところの説郛、龍威祕書等は、支那の叢書の通弊と のみならず、殆んど稀有の事たるを以てなり。加之象戲の名は既に して概ね本書の舊態を存せず、本書を節略抄撮して刊に付し、共包含收 春秋戦國に存せるなれば、共數百年後の武帝の當時に在りて變遷改 容せる書史の多きを衒へるものなれば、象戯に關する岑順の一條は偶 革を積みたる象戲の戲の存在流行したらんもまた測るべからざるに 共排棄されたる部に在りしがため今は存せざるなるべし。叢書中のもの はあらずや。此は是予が想像に過ぎざることなるが、此の想像を強 ならざる完本の玄怪録若くは幽怪録を得て之を讀まば、疑惑一時に決去 すべきなり。 むるは後魏の侍中肇の儒棋といふものを撰せしこと是なり。性謙に
などと云ったといふ大きなところを見せて居るかと思ふと、主人が無理は無い。又政宗も朝命を笠に被て秀吉が命令づくに、自分とは 0 のきば 不取締だと下女が檐端の茅を引抽いて焚付けにする、などと下女が 別に恨も何も無い北條攻めに參會せよといふのには面白い感情を持 ャリテンボウな事をする小さな事にまで氣の屆いてゐる、妻じい聰たう筈は無かった。そこで北條が十二分に上方勢と對抗し得るやう 明な先生だった。が、金貸をしたといふのは蓋し虚事ではなからならば、上方勢の手並の程も知れたものだし、何も慌てゝ降伏的態 ぢおひ う。地生の者でも無し、大勢で來たのでも無し、主人に取立てられ度に出る必要は無いし、且北條が敵し得ぬにしても長く堪へ得るや さど たと云ふのでも無し、そんな事でも仕無ければ機微にも通じ難く、 うなあば、火事は然程に早く吾が廂へ來るものでは無い、と考へ カうかっ ・つきあひ 仕事の人足も得難かったらう。明治の人でも某老は同國人の借金の て、狡點には相違無いが、他人交際の間柄ではあり、戰亂の世の常 つひ 尻拭ひを仕て遣り / \ して、終におのづからなる勢力を得て顯榮の であるから、形勢襯望、二タ心抱藏と出かけて、秀吉の方の催促に こびとじま 地に逹したといふ話だ。嘘八百萬兩も貸付けたら小人島の政治界なも畏まり候とは云はずに、ニヤクヤにあしらってゐた。一ツは關東は んぞには今でも頭の出せさうに思はれる理屈がある。で、早雲は好 關東の國自慢、奧羽は奧羽の國自慢があって、北條氏が源平の先蹤 かったが、共後氏綱、氏康、これも先づ好し、氏康の子の氏政に至を思へば、奧羽は奧羽で前九年後三年の先蹤を思ひ、武家ののや た うな八幡太郎を敵にしても生やさしくは平らげられなかった事實に っては世襲財産で鼻の下の穴を埋めて居る先生で、麥の炊き方を知 たきつけ らないで信玄にお坊ッちゃんだと笑はれた。下女が亂暴に焚付を作 心強くされて居た廉もあらうし、又一ツは何と云っても鼻ッ張りの すぐ さるめんくわんじゃ ることまで知った長氏に起って、生の麥を直に炊けるものだと思っ強い盛りの二十三四であるから、噂に聞いた猿面冠者に一も二も無 てゐた氏政に至って、もう脉はあがった。麥の炊きゃうも知らないく降伏の形を取るのを忌にしくも思ったらう。 分際で、臺所奉行から出世した關白と太刀打が出來るものでは無 然し政宗は氏康のやうな己を知らず彼を知らぬお坊ッちゃんでは からいは い。關白が度に上洛を勸めたのに、悲しいことだ、お坊さん殼威張無かった。少くも己を知り又彼を知ることに注意を有って居た。 りで、弓矢でこいなぞと云ったから堪らない。待ってましたと計り 秀吉との交渉は天正十二年頃から有ったらしい。秀吉と德川氏との ながくて に關白の方では、此の大石を取れば碁は世話無しに勝になると、堂長湫一戰後の和が成立して、戦は勝ったが矢張り德川氏は秀吉に致 堂たる大軍、德川を海道より、眞田を山道より先鋒として、前田、上された形になって、秀吉の勢威隆くとなったからであらうか、後藤 かづさ もとのぶ 杉、いづれも戦にかけては恐ろしく強い者等に武藏、上野、上總、 基信をして政宗は秀吉に信書を通ぜしめてゐる。如才無い家康は勿 しもふさあは もみつぶ 下總、安房の諸國の北條領の城、、六十鐱りを一月の間に揉潰させ 論それより前に使を政宗に遣はして修好して居る。家康は海道一の でんば て、小田原へ取り詰めた。 弓取として英名傅播して居り、且秀吉よりは共位置が政宗に近かっ せんしよう ゃうすあひ 最初北條方の考では源平の戦に東軍の勝となってゐる先蹤などを たから、政宗もおよそ共様子合を合點して居たことだらう。天正十 夢みて居たかも知れぬが、秀吉は平家とは違ふ。おまけに源平の時六年には秀吉の方から書信があり、又刀などを寄せて鷹を請うて居 は東軍が踏出して戰ってゐるのに、北條氏は碌に踏出しても居ず、 る。鷹は奥州の名物だが、もとより鷹は何でもない、是は秀吉の方 まるで様子が違ってゐる。勝形は少しも無く、敗兆は明らかに見えから先手を打って、政宗を引付けようといふにあったこと勿論であ かみがたぜい てゐた。然し北條も大に名だから、上方勢と關東勢との戰はどんなる。秀吉の命に出たことであらう、前田利家からも通信は來てゐ ものだらうと、上國の形勢に逹せぬ奥羽の隅に居た者の思ったのも る。が、こまでは何れにしても何でも無いことだったが、秀吉も さなだ
箚の處、最緊要の處、李師ぐをして烏有の人ならしめば、讀者をし屈を負へるを申べんとするに在り。而れども李逶の鹵莽より、事破 せま わ・つか て點頭して善と稱せしむる事難く、李師にをして實存の人たらしめれ勢逼りて、却って纔に身を脱し寨に歸る。たゞ此間に在りて、燕 そうけいびんかう 靑の人となりの聰慧敏巧、師にの識るところとなれるもの、後章の ば、看客をして抵掌して妙を叫ばしむるに足る。こ長に於て作者、 至賤の女にして而も至尊の愛を得たる李師ぐといへる者ありて、其爲に地を爲す。 はなし 第八十一回は、水滸傅全部中、異様出色の文字にして、燕靑ふた の有ること稀にして遇ふこと難き談の世に傳はれるを幸とし、これ さき たび師にが家に到り、曩に大に擾を起し、を謝し、多く金珠を贈 を借りて以て宋江が招安を受くるの一段の楔子となせるなり。李師 けんしうかすゐうち りて歡心を買ひ、次で酒間の獻駲歌吹の裏に、梁山泊の好漢の意氣 師は實存の人なり、烏有の人にあらず。師にが江の爲に言ふこと有 せう りしや否やは、本より論ずるに足らざることなり、師ぐが妓女の卑精神と、浪子の稱を得たる自己の本領技能とを示して、才を愛し信 せんしゅ を・そう を悅ぶ師にの愛を惹き、終に師にが玉を削れる纎手をして、浪子が を以て徽宗皇帝の寵を得しことは、蓋し眞に此事ありしなり。今こ いれすみ 花を繍せる美膚を撫せしむるに至る。而も燕靑が怜悧なる、師に れを語らん。 を拜して妨となして、以て其愛を遏めて共慾を制し、轉じて師にに 李師には七十回本の水滸傳に出でず。七十回本は、金聖歎稱して縁りて徽宗皇帝に親謁し、終に朝庭懽賢の奸詐を訴へ、草莽忠義の眞 みたり 以て古本と爲すと雖實に古本にあらず、聖歎の妄に改めて、七十回衷を述べ、梁山泊百八人の眞に招安を受くるに至るの因を爲す。天巧 以下を削去れるものなり。舊本第七十二回に至って、師にはじめて星君、水滸傅中最巧最妙の光景を描き成すもの、實に此の一章たり。 第百二十回は、宋江百戦勞苦の餘に、賜の毒酒を得、知って而 卷中に現はる、これ七十回本に師にの出づる無き所以なり。百二十 り寺、 さいしんしんくわきんん あら 回本に師ぐの見はるや、第七十一一回、柴進簪花禁苑に入り、李逵して飮み、飮みて而して死す、悲愴悽凉、人をして感ずる有らし さわ えんせいげつや げんや 元夜東京を鬧がすの章を始とし、第八十一回、燕靑月夜に道君に遇む。徽宗本より宋江を殺すの意無し、こゝに於て異夢を得、髣髴の がくくわ たいそうはかりごと 間に悟るところあり、師、、も亦傍より宋江等の爲に奏するところあ ひ、戴宗計を定めて樂和を出すの章に中し、第一百二十回、宋公 まつり しんりくしあ 宋江等終に國家の祀を受くるに至るを記し、水滸傅こ又に畢る。 明禪蓼兒淫に聚まり、徽宗帝夢に梁山泊に遊ぶの章に終る。水滸のり、 かいかふ 豪傑、一百八人完聚の後は、李師に實にこれが開闔を爲す。一婦人知る可し壹百八人完聚の後、水滸の豪傑をして始終せしむるもの は、實に是李師ぐなることを。師にの水滸傅に於けるの地位關信 の微といへども、全局面の大なるに關す、他の金蓮の武松に關し、 婆惜の宋江に關し、巧雲の揚雄石秀に關し、瓊英の張淸に關し、賈重くして且大なり矣。 氏の盧俊義に關し、一丈靑、母大蟲等のたゞ是一員の女將たるに止 李師にの水滸傳に於けるや是の如し。其の水滸諸豪傑に於けるの まるが如きにはあらざる也。師ぐの水滸傅に於ける、また偉なりと はた あひましは 事、眞耶、假耶、將眞假相錯る耶、抑又悉皆捕風捉影の談耶。宋江 いふべし。 等の事は宋史、宋鑑等に出で、本づくところ無きにあらず。又共の せんな 三十六人の名は、小異無きにあらずと雖、宣和遺事に見えたり。宣 第七十一一回に於ては、宋江、柴進、燕靑と共に、金帛を齎らして 有師にを其家に訪ふ。李逡これに隨ふ。宋江の意、師にが天子の寵を和遺事は、本是小説にして、史籍を以て目す可からずと雖、水滸傅 得るを以て、師ぐによりて自己等が心に忠義を懷きながら、身にの宣和遺事に淵源せるは、前人既に焉を言ふ。宣和遺事に於ける李 せっし きんばく くっ しんか さい ろまう
は發せぬ。片倉小十郎は默然として居る。すると原田左馬介宗時といた。北條攻は今共最中であるが、關白は悠然たるもので、急に攻め 4 むねと ふ一老臣、これも伊逹家の宗徒の士だが成實の言に反對した。伊逹騷て兵を損ずるやうなことはせず、ゆる / 、と心長閑に大兵で取卷い ひど しくわん 動の講釋や芝居で、むやみに甚い惡者にされて居る原田顰は、共て、城中の兵氣の弛緩して共變の起るのを待ってゐる。何の事は無 の實兇惡な者では無い、どちらかと云へばカッとするやうな直情の い勝利に定まってゐる碁だから煙草をふかして笑ってゐるといふ有 男だったらうと思はれるが、共の甲斐は部ち此の宗時の末だ。宗時様だ。茶の湯の先生の千利休などを相手にして悠にと秀吉は遊んで も十分に勇武の士で、思慮もあれば身分もあった者だが、藤五郞の ゐるのであった。政宗參候の事が通ぜられると、あの卒直な秀吉も 言を聞くと、イヤ / 、、共御言葉は一應御尤には存ずるが、關白も流石に直には對面をゆるさなかった。箱根の底倉に居て、追って何 中、、世の常ならぬ人、匹夫下郞より起って天下の旗頭となり、德川 分の沙汰を待て、といふ命令だ。今更政宗は仕方が無い、底倉の温 殿の弓箭に長けたるだに、これに從ひ居らる又といふものは畢竟朝泉の烟のもや / \ した中に欝陶しい身を埋めて居るよりほか無かっ 威を負うて事を執らるゝが故でござる、今若しこれに從はずば、勝た。日は少し立った。直に引見されぬのは勿論上首尾で無い證據 しば 敗利害は姑らく擱き、上は朝庭に背くことになりて朝敵の汚命を蒙だ。從って來た者の中で譜代で無い者は主人に見限りを付け出し り、從って北條の如くに、あらゆる諸大名の箭の的となり鐵砲の的た。情無いものだ、蚤や蝨は自分がたかって居た共人の壽命が怪し おぼっか となるべく、行末の安泰覺束無きことにござる、と説いた。片倉小 くなると逃げ出すのを常とする。蚤は逃げた、蝨は逃げた。貧乏す 十郞も此宗時の言に同じて、朝命に從はぬといふ名を負はされるこれば新らしい女は逃腰になると聞いたが、政宗に從ってゐた新らし との容易ならぬことを説いた、といふ詭も有るが、また小十郎は共い武士は逃げて退いた。共中でも矢田野伊豆などいふ奴は逃出して 場に於ては一言も發せずに居たといふ説もある。共讒に據ると小十故鄕の大里域に據って伊逹家に對して反旗を飜へした位だ。そこで ひそ 郞は何等の言をも發せずに終ったので、政宗は共夜竊かに小十郞の政宗の從士は百騎あったものが三十人ばかりになって終った。 ぜんしゃうばう 家を訪うた。小十郎は主人の成りを悅び迎へた。政宗は小十郎の意 ところへ潮加減を量って法印玄以、施藥院全宗、宮部善祚坊、幅 見を質すと、小十郞は、天下の兵はたとへば蠅のやうなもので、こ原直高、淺野長政諸人が關白の命を含んで糺問に遣って來た。淺野 かしらふん れを撲って逐うても、散じては復聚まってまゐりまする、と丁度手彌兵衞が頭分で、いづれも口利であり、外交駈引接衝應對の小手の にして居た團扇を揮って蠅を撲っ从をした。そこで政宗も大に感悟利いた者共である。然し彌兵衞等も政宗に會って見て驚いたらう、 み・つより して天下を敵に取らぬことにしたといふのである。いづれにしても先づ第一に年は僅に二十四五だ、短い髮を水引部ち水捻にした紙線 で卷き立て、むづかしい眼を一ト筋繩でも二タ筋繩でも縛りきれぬ 原田宗時や片倉小十郎のを用ゐたのである。 そこで政宗は小田原へ趨くべく出發した。時が既に機を失したか面魂に光らせて居たのだから、異相といふ言葉で昔から形容してゐ ら兵を率ゐてでは無く、云はゞ歸服を表示して不參の罪を謝するた るが、全く異相に見えたに相違無い。彌兵衞等もたゞ者で無いとは めといふ形である。藤五郞成實は留守の役、片倉小十郞、高野壹見て取ったらうが、關白の威光を背中に背負って居るのであるか 岐、白石駿河以下百騎餘り、兵卒若干を從へて出た。上野を通らうと ら、先づ第一に朝命を輕んじて早く北條攻に出陣しなかったこと、 したが上野が北條領で新關が處にに設けられてゐたから、會津からそれから蘆名義廣を逐拂って私に會津を奪ったこと、二本松を攻略 よねざは 米澤の方へ出て、越後路から信州甲州を大廻りして小田原へ着い し、須賀川を屠り、勝手に四隣を蠶食した廉、、を詰問した。勿論こ まね ほふ のどか こより
字を以て連ねたる一語の存在せざるに近きこと是なり。將棋の二字 に解すべし。されば、梟を成して而して牟て五白を呼ぶ、とあるも 2 は蓋し邦谷通用の文字にして、支那には用ゐられたること無きが如 今の象棋の事としては毫髮も通ずる事を得ず。梟は梟の形を刻せる しゅ し。我邦の戯には玉將、金將、銀將等の馬子ありて、特に一局の輪ものにして、博の子に梟、盧、雉、犢、塞の五あるが中、梟は最も えい 贏は玉將の死活に係ることなれば、之を將棋と云ふも甚だ共理あ有力のものなる由、鮑宏の博經に見えたれば、已に梟を得たるもの 、古より將棋と書し來りたるも然るべく思はるれど、支那にてはから欲するところの五白を得んとして、五白を呼びながら箸を投す 共戲また同じく將の一馬子の死活を爭ふに在るに關らず、象戲、象ると云ふが句の意なるべし。晋の制せる犀比とは、晋の國のエの博 てうしよく 棋と書して將棋とは書さゞるものに似たり。惟ふに我邦に在ても最棋を作るもの犀角を比集して以て鵰飾を爲すと註の文に見えたり。 初は象戯と書し、將棋とは書せざりしならむ。 此等の詞句を熟讀玩味し、且っ古來の戲法を傅へたる五木經、博經 象戲の二字の支那に在りて最も夙く見えたるは、宋玉が招魂の一等を參照すれば、招魂に云へる戯は今の象棋の戲とは共性質を異に 節なるべし。 ( 楚辭全集卷七第十六葉 ) 箆霰象棋有 = 六博一些、分レ曹並したるものにして、圍碁の戲とも類を同じうせず、鳥曹氏の創造せ 進遒相迫些、成レ梟而牟呼ニ五白一些、晋制犀比費 = 白日一些、鏗鐘搖しと云ふところの博にして、寧ろ我が邦の双六、西洋の「がんぶり レ簾楔 = 梓瑟一些、とあり。宋玉は楚の懷王が臣屈原の弟子なれば、 んぐ」の類と共性質に於ては近似せるものなること分明にして爭ふ 二千四五百年前既に象棋なるもの有りしと云ふべし。其辭の意は宴べからず。且共象棋の二字は、象牙を以て作れる博奕の子を指せる 安歌舞の悅ぶべきを述べて魂を招くの次に、象棋の樂しみ玩ぶべき こと疑ひ無きを覺ゅ。されば象棋の二字は楚辭に見えたれども、楚 をも述べて、魂をして歸り來らしめんとするに在り。當時既に象棋辭に見えたる象棋と今の支那象棋との關係は、たまノ \ 存せし共文 の戯の世に行はれて子女の玩賞するところとなり居たるは、極めて 字上の關係のみと云ふべき也。 明白にして爭ふべからざることと云ふべし。然りと雖も共文に依っ 楚辭以後の載籍に見えたる象棋の二字は、漢の劉向が説苑の一章、 て考ふるに、招魂に見えたる象棋の戯は決して今の支那象棋にもあ ( 卷十一善説篇第十葉 ) 雍門子周といふもの孟嘗君に對して説く段に見 らず、又今の支那象棋の祖先にもあらず、何等の關係も無き別種のえたるを以て古しとなすべし。今若 = 足下一千乘之君也、居則廣廈邃 ものに屬すること疑ふべからず。云ふ所の象棋は乃ち是象牙を以て房、下 = 羅帷一來 = 淸風「們優侏篇處レ前、迭進臣詔諛、燕則鬪 = 象棋一 棋子を爲せるものにして、蓋しち圍碁の鼓、後世の象棋に非るな而舞 = 鄭女「とあり。象棋に對して語を費すこと甚だ簡なれば共象棋 りとは、前人も既に道破せるところにして、實に招魂に見えたる象の如何なるものなるやは知るべからざれど、孟嘗君はルの君にして 棋は決して後世の象棋にあらず。たゞ圍碁の戯とするは共説肯んず宋玉と相前後せる人なれば、蓋し共象棋の鼓も招魂に見えたる象棋 べからざるに似たり。宋玉時代の象棋は如何なる方法を以て勝敗をの戲と同じかりしなるべし。招魂に據りて考ふるも、雍門子周が言 たんしけっち 爭ひしものなりしや、今急に詳しく知る能はずと雖も、宋玉が詞をに據りて考ふるも、當時の象棋は今の象棋の如く覃思竭智して以て 味はひて之を考ふるに、共の指せるところの戲は後世の所謂六博五勝敗を爭ふものならず、燕樂の間に笑語しつ又玩びたるものなるこ 木の戲の類にして、六箸十一一棋を以て勝敗を爭へるものならん。六 と、詞章の前後の从に照らして明らかなれば、決して今の象棋にあ や 箸を投じて六棋を行る、故に六博とたすと云へる註の文に據れば、 らざること知りぬべき也。されば説苑に見えたる象棋も今の象棋と たぐひ 曹を分って並び進んで遒って相迫る、と云へる第一一句も甚だ明らかは殆ど關係なきに近き也。 せま ついで 0 0 こま かっ
象、馬、車、卒の四馬子のみならず、東西象戲の關係は「くゐー 支那象戲と西洋象戲との一致點として列擧せるところのものは、實 ん」の馬子の上にも存するを見る。「くゐーん」は女王の義にして、 はち支那象戯と印度象戲との一致點なり。されば此事實は直ち 支那象戲には女王の義を有する名稱の馬子あること無ければ、二者に、支那の象戲が必ず印度より入り來れるものならんとの推斷の爲 相關せざるが如くなれども、「くゐーん」の馬子は古は「ふあるつ」 に有力なる證據となるものなり。是れ支那象戯は印度に淵源すとの 又は「ふあるざん」等と呼ばれて、共稱は輔翼者、大臣、將軍等の説を爲さしむる一證なり。若し又今の支那象戯の支那に起りしもの 義を有せるものなりしと云へば、支那象戲に於ける士の馬子と相同ならんには、共馬子中、象の列せらる乂は甚だ異なりとせざる能は じと云ふべく、而して士の位置及び「くゐーん」の位置の同じく共ず。如何となれば馬軍、車軍、歩軍は支那の實戦に於て數用ゐら に王に密接せるが如きは、愈よ東西の象戲の何等かの關係を有するれたりと雖も ( 此中、兵車は多くは古代に用ゐられし也 ) 象の戰闘 ものなる事を證する者といふべき也。 に用ゐられしことは稀有の事に屬するを以て、戦闘の从を摸したる 是の如くに西洋象戲と支那象戲との一致點甚だ多きは、人をして象戲の馬子に、特に象といへる一馬子を加へんことは、支那人の創 三様の想像を懷かざるを得ざらしむ。共第一は、支那象戯は西洋象意に成れるものとしては寧ろ此有るべからざるのことなりとせざる 戲に淵源せるものにあらずやとの想像是なり。共第一一は、西洋象戲能はず。之に反して印度にては實際の戰鬪にも所謂戦象なるものを は支那象戯の子孫にはあらずやとの想像是なり。而して共第三の想使用すること共常習にして、特に共象戲「ちゃっらんが」は象、 像は、西洋象戯も支那象戯も共に或他の古き國の一種の象戯より出馬、車、歩の四科を摸せるものなりと云へば、支那象戲に象馬車卒 でしものにあらずやとの疑なり。然るに第二の想像は、西洋の諸家の四馬子の共存することは明らかに、支那象戲は支那人の手に成り の詳密なる象戲史の考察によりて容易に碎破せられ、一毫の疑ひも しものならずして印度人の手に成りしものなることを證するにあら 無く排除せらる。又第一の想像は、西洋象戲史共通の説なる、象戲ずや。是亦支那象戯は印度に淵源すとの説を爲さしむる一證なり。 は東方より來れりとの有力なる主張に反し、且っ西洋象戲の歐羅巴握槊雙陸の類、及び音樂の或種類の胡に出でしことは支那人も亦自 に初めて行はれたる時期と年代上に矛盾し、また歐羅巴と支那とのら認むるところなるが、象戯もまた西方より支那に入りしこと猶是 交通の事情上に相副はざるを以て容易に雲消霧散せらる。たゞ第三 の如くなりしや否や知るべからず。 にはか の想像に至りては急に排斥すべき理山を見ず、寧ろ之を精細に稽査 支那と印度との境域相接せる地理上の關係は、象戲の印度より支 すべき價値あるに似たり。 那に傅はれりとの事實をして、有り得べきことなりと想像せしむる 西洋の象戯の印度より出でしことは既に西洋象戲の條下に説けるの力あり。又晋以來支那と印度との交通は漸く滋く、佛法流布の目 考 を以て復び説くの要無きも、試みに西洋象戲の壓史を尋ねて印度の的を抱ける印度人の支那に入れるものの如きも踵を接し、秦には鳩 雜象戲に溯り、而して眼を轉じて印度の象戲と支那の象戲との關係を摩羅什、佛駄耶舍等を首とし、宋には求那跋陀羅等を首として、齊 將 一暼するの傍、支那と印度との地理上及び人文上の近接せる状態を梁の際にも來者を絶たず、魏には吉迦夜、菩提流支、般若流支の 考へんには、蓋し何人と雖も直覺的に若くは推理的に、支那の象戯輩、隋には沙那堀多の輩の來れるあり。此等の僭徒は支那の宗敎史 幻なるものは印度より入りしものにして西洋象戯と共に共の父母を一及び文學史上に沒すべからざるの功績を留めたるの故を以て共名今 にせる兄弟なり、との斷案を有するに至るを免れざるならん。前に に至りて滅せざるなれども、當時支那に入りしものの中の平凡にし
りも、たゞ新しく今までに無き氏にならうまでぢや」と云った。そ氏」とたゞ一言。紹巴がまた「めでたき歌書は何でござりませう 0 か」と問うた。答へは簡單だった。「源氏」。それきりだった。また こで闌亭殿が姓氏録を檢めて、はじめて豐臣秀吉となった。 紹巴が「誰か參りて御閑居を御慰め申しまするぞ」と間うた。公の これも植通は宜かった。信長秀吉の鼻の頭を一寸彈いたところ、 お公卿様にも斯様いふ人の一人ぐらゐ有った方が慥に好かった。秀返事は實に好かった。「源氏」。 三度が三度同じ返答で、紹巴は「ウヘー」と引退った。成程此公 吉が藤原にならなかったのも勿論好かった。此のところ兩天狗大 の歩くさきには旋風が立ってゐるばかりでは無く、言葉の前にも旋 出來大出來。 秀吉は遂に關白になった。ついで秀次も關白になった。飯綱成就風が立ってゐた。 源氏物語にも一一一口辭事物の注のほかに深き觀念あるを説いて止觀の の植通は毎に言った。「關白になって、禪罰を受けやうに」と言っ た。果して秀次關白が罪を得るに及んで、それに坐して近衞殿は九説といふ。此公の源語の注の孟津抄は、法華經の釋に玄義、文句と 州の坊の津へ流され、菊亭殿は信濃へ流され、共の女の一臺殿は車ありて扨、止観十卷のあるが如く、源氏についての止觀の意にて論 にて渡された。恐ろしいことだ、飯綱成就の人の言葉には目に見えかれたといふことである。非常な源氏の愛讀者で、「これを見れば 延喜の御代に住む心地する」と云って、明暮に源氏を見てゐたとい ぬ權威があった。 ふが、きまりきった源氏を六十年も共様に見てゐて倦まなかったと 和歌は勿論堪能の人であった。連歌はさまで心を入れたでも無か にふけう亡うは らうが、それでも絡餘として共道を得て居た。法橋紹巴は當時の連ころは、政元が二十年も飯綱修法を行じてゐたところと同じゃうで おもしろい。 歌の大宗匠であった。然し長頭丸が植通公を訪うた時、此頃何かの 長頭丸が時ぐ敎を請うた頃は、公は京の東幅寺の門前の乾亨院と 世間話があったかと尋ねられたのに答へて、「聚落の安藝の毛利殿 いふ藪の中の朽ちかけた坊に物寂びた朝夕を送ってゐて、毎朝に輪 の亭にて連歌の折、庭の紅梅につけて、梅の花禪代もきかぬ色香か な、と紹巴法橋がいたされたのを人ぐ褒め申す」と答へたのにつけ袈裟を掛け、印を結び、行法怠らず、朝廷長久、天下太平、家門隆 て、禪代もきかぬとの業平の歌は、龍田川に水の紅にくることは昌を祈って、それから食事の後には、たゞもう机に児って源氏を讀 寄特不思議の多い可代にも聞かずと精を入れたのであるのに、珍らんでゐたといふが、如何にも寂びた、細にとした、すっきりとし しからぬ梅を取出して代も聞かぬといふべきいはれは無い。昔伊た、塵雜の氣の無い、平らな、落ついた、空室に日の光が白く射し たやうな生活のさまが思はれて、飯綱も成就したらうが、自己も成 勢の國で冬咲の櫻を見て夢庵が、冬咲くは禪代も聞かぬ櫻かな、と 作ったのは、伊勢であったればこそで、斯様に本歌を取るが本意で就した人と見える。天文から文祿の間の世に生きて居て、しかも延 ある、毛利大膳が主ではあるまいし、と笑ったといふことであ喜の世に住んで居たところは、實に面白い。 或時長頭丸ち貞徳が公を訪うた時、公は閑栖の韵事であるが、 る。紹巴も此人には敵はない。光秀は紹巴に「天が下しる五月哉」 の「し」の字は「な」の字歟と云はれたが、紹巴はた此公には敵和らかな日のさす庭に出て、唐松の實生を釣瓶に手づから植ゑて居 た。五葉の松でもあらばこそ、落葉松の實生など、餘り佳いもので はない。毛利が主にもあらばこその一句は恐ろしい。 紹巴は時に此公を訪うた。或時參って、紹巴が「近頃何を御覽なもないが、それを釣瓶なんどに植ゑて、しかも共の小さな實生の何 されまする」と問うた。すると、公は他に言葉も無くて徐ろに「源様なるのを何時賞美しようといふのであらう。しかしこゝが面白い
295 平將門 ひる 得て始めて僭稱す。猶源賴朝の蛭が島に在りしや、僅に伊豆一國の然し檢非違使でゞもあれば兎に角、檢非違使の別當は參議以上てあ 主たらんことを願ひしも、大江廣元を得るに及びて始めて天下を攘るから、無位無官の者が突然にそれを望むべくは無い。して見れば みしが如き也、正統記大鏡等、蓋し共跡に就いて而して之を擴張せ檢非違使の佐か尉かを望んだとして解すべきである。これならば釣 る也、故に探らず」と云ってゐる。此言は心裏を想ひやって意を立合はぬことでは無い。共代りに將門の器量は大に小さくなることで て長ゐるのだから、此も亦中ると中らざるとは別であるが、而も正統あって、そんなケチな官を望む者が、純友と共に天子關白わけ取り いっせんさうてう 記等が共跡に就いて擴張したのであらうといふことは、一箭双鵰を を心がけるとなると、前後が餘りに釣合はぬことになる。明末の李 ちゅうこっ 貫いてゐる。宮本仲笏は、扶桑略記に「純友遙に將門謀反之由をき 自成が落第に憤慨して流賊となったやうなものであると、秀堅は論 て亦亂逆を企つ」とあるのに照らして見れば、是れ將門と相約せる じてゐるが、それは少しをかしい。彼國の及第は大臣宰相にもなる にあらざること明らかなりと云ってゐる。純友の南海を亂したのがの徑路であるから、落第は非常の失望にもならうが、我邦で檢非違 同時であったので、如何にも將門純友が合謀したことは、たとへば後使佐や尉になれたからとて、前途洋にとして春の如しといふ譯には の石田三成と上杉景勝とが合謀した如くに見え、そこで天子關白のならない。隨って攝政忠平が省みなかったために檢非違使佐や尉に いよのじよう 分ちどりといふ談も起ったのであらう。純友は伊豫掾で、承平年中なれ無いとて、謀反をしようとまで憤怨する譯もない。此事は、よ きのよしひと に南海道に群盜の起った時、紀淑人が伊豫守で之を追捕した共の事しやか乂る望を抱いたことが將門にあったとしても、謀反といふこ を助けてゐたが、共中に賊の餘黨を誘って自分も賊をはじめたのでととは餘りに懸離れて居て、提燈と釣鐘、釣合が取れ無さ過ぎる。 ある。將門の事とはおのづから別途に屬するので、將門の方は私鬪鷹洲は此事を頭から受取らないが、鷹洲で無くても、警部長になれ さきの みなもとのまもる ち常陸大掾國香や前常陸大掾源護一族と鬪ったことからなかったから謀反をするに至ったなどといふのは、如何に關東武士 引っゞいて、終に天慶二年に至って始めて私鬪から亂賊に變じたの の覇氣勃にたるにせよ、信じ難いことである。で、正統記に讀まれ である。共間に將門は一旦上京して上申し、私鬪の罪を赦されたこ ることは御免を蒙らう。隨って將門始末に讀まれることも御免蒙ら とがある位である、それは承平七年の四月七日である。さすれば純 しよほっしん 將門謀反の初發心の因由に關する記事は、皆受取れないが、一體 友と將門と合謀の事は無い。隨って叡山瞰京の事も、演劇的には有 った方が精彩があるかも知れないが、事實的には受取りかねるので當時の世態人情といふものは何様なであったらう。大鏡で概略は覗 ある。そこで夙に覬覦の心を懷いてゐたといふことは、面白さうで へるが、世の中は先づ以て平和で、藤原氏繁盛の時、公卿は榮華に はあるが、正統記に返還して宜いのである。正統記の作者は皇室奪誇って、武士は漸く實力がありながら官位低く、屈して伸び得ず、 崇の忠篤の念によって彼の著述をしたのであるから、將門如きは出藤原氏以外の者はたま / \ 菅公が暫時榮進された事はあっても遂に 來るだけ筆墨の力によって對治して置きたい餘りに、深く事實を考左遷を免れないで筑紫に薨ぜられた。丁度公の薨ぜられた其年に將 門は下總に勇しい産聲をあげたのである。抑醍醐帝頃は後世から ふるに及ばずして書いたのであらう。山陽外史に至っては多く意を 經ないで筆にしたに過ぎない。 云へばまことに平和の聖世であるが、また平安朝の形式成就の頂點 將門が檢非違使の佐たらんことを求めたといふことも、皇正統のやうにも見えるが、然し實際は何に原因するかは知らず隨分騷が さが しい事もあり、嶮しい人心の世でもあったと覺えるのは、史上に盜 記の記事からで、それは當時の武人としては有りさうな望である。 きゅ ぬす 0 じよう かの
へうたう 蔵一ツを引渡すからと云ふと、其男が約を果せるらしい勇士だと、 係の將士に對して、民衆は剽盜的の行爲に出づることさへある。遠く 8 ことあしかにし ウン好からうといふので、其の口約束に從ってコマを廻して呉れ源平時代より共證左は歴にと存してゐて、特に足利氏中世頃から敗 ぶんどり れきじん る。ひどい事だ。自分の土藏でも無いものを、分捕して渡す口約東軍の將士の末路は大抵土民の爲に最後の血を瀝盡させられてゐる。 あけち をぐるす で博奕を打つ。相手のものでも無いのに博奕で勝ったら土蔵一ト戸ひとり明智光秀が小栗栖長兵衞に痛い目を見せられたばかりでは無 けう 前受取るつもりで勝負をする。斯様いふことが稀有では無かったか い。斯様いふやうに民衆も中に手強くなってゐるのだから、不人望 てひど ら雜書にも記されて傅はってゐるのだ。これでは資本の威力もへチの資産家などの危險は勿論の事想察に餘りある。共代り又手苛い領 マも有ったものでは無い。然様かと思ふと一方の軍が敵地へ行向ふ主や敵將に出遇った日には、それこそ草を刈るが如くに人民は生命 時に、敵地でも無く吾が地でも無い、吾が同盟者の土地を通過する。 も取られゝば財産も召上げられて終ふ。で、つまり今の言葉で云ふ 共時其の土地の者が敵方へ同情を寄せてゐると、通過さぜなければ搾取階級も被搾取階級も、何れも是れも「カの發動」に任せられて へちま 明白な敵對行爲になるので武力を用ゐられるけれども、通過させる ゐた世であった。理屈も絲瓜も有ったものでは無かった。債權無 ことは通過させておいて、民家に宿舍することを同盟謝絶して共一観、貸借關係の棒引、ち德政はレーニンなどよりずっと早く施行 かうのもろなに 軍に便宜を供給しない。詰り遊歴者諸藝人を勤儉同盟の村で待遇すされた。高師直に取っては臣下の妻妾は皆自己の妻妾であったか るやうに待遇する。すると其軍の大將が武力を用ゐれば何とでも隨ら、師直の家來達は、御主人も好いけれど女房の召上げは困ると云 意に出來るけれど、好い大將である、仁義の人であると思はれようったといふが、武田信玄になると自分はそんな不法行爲をしなかっ とする場合には、寒風雨雪の夜でも押切って宿舍する譯には行かなたけれども「命令雜婚」を行はせたらしく想はれる。何處の領主で い。憎いとは思ひながらも、非常の不便を忍び困苦を甘受せねばなも兵卒を多く得たいものは然様いふことを敢てするを忌まなかった らぬ。斯様いふ民衆の態度や料簡方は、今では一寸想像されぬが、 から、共婚主義などは隨分古臭いことである。滅茶苦茶なことの好 中に手強いものである。現に今語らうとする蒲生氏鄕は、豐臣秀吉きなものには實に好い世であった。 ち當時の主權執行者の命によりて奧羽鎭護の任を帶びて居たので 斯様いふ恐ろしい、そして馬鹿げた世が續いた後に、民衆も目覺 いっき ある。然るに葛西大崎の地に一揆が起って、共地の領主木村父子をめて來れば爲政者權力者も目覺めて來かった時、此世に現はれ さぬま 佐沼の城に圍んだ。そこで氏鄕は之を援けて一揆を鎭壓する爲に軍て、自らも目覺め、他をも目覺めしめて、混亂と紛糾に陷ってゐた を率ゐて出張したが、途中の宿、、の農民共は、宿も借さなければ薪炭ものを「整理」へと急がせることに骨打った者が信長であった、秀 だい・こ など與ふる便宜をも峻拒した。これ等は伊逹政宗の領地で、政宗は裏吉であった。醍醐の醍の字を忘れて、まごど、して居た佑筆に、大 面は兎に角、表面は氏鄕と共に一揆鎭壓の軍に從はねばならぬもの の字で宜いではないかと云った秀吉は、實に混亂から整理へと急い あら であったのである。借さぬものを無理借りする譯には行かぬので、氏で、譬へば亂れ垢づいた髮を齒の疎い丈夫な櫛でゴシ / 、と掻いて 鄕の軍は奧州の嚴冬の時に當って風雪の露營を幾夜も敢てした困難整へ揃へて行くやうなことをした人であった。多少の毛髪は引切っ は察するに餘りある。斯様いふ場合、戰亂の世の民衆といふものは中ても引拔いても構はなかった。共爲に少し位は痛くっても關ふもの かといふ調子で遣りつけた。ところが結ぼれた毛の一トかたまりグ 中に極度まで自己等の權利を殘忍に牢守してゐる。まして敗軍の將 あだ ッと櫛の齒にこたへたものがあった。それは關八州横領の威に誇っ 士が他領を通過しようといふ時などは、恩も仇もある譯は無い無關 かさい さう
崩れもするもので、獨逸のホラアフク博士が地球と星が衝突するや、三好秀次や淺野長政や前田利家や徳川家康や、其他の有象無象 2 とり と云ったと聞いては、眼の色を變へて仰天し、某國のオドカシック等の信書や言語が何を云って來たからと云って、禽の羽音、虻の羽 號といふ軍艦の大砲を見ては、腰がけさうになり、新學説、新器音だ。そんな事に動く根性骨では無い。聞怯ぢ人種、見崩れ人種で たくび 械た、ウへ ハ、アッと叩頭する類は、皆是れ聞怯ち見崩れの手はないのである。自分が自分で合點するところが有ってから自分の くた 合で、斯様いふ手合が多かったり、又大將になってゐたりして呉れ碁の一石を下さうといふ政宗だ。確かに確かに關白と北條とを見積 ては、戰ならば大敗、國なら衰亡する。平治の戰の大將藤原信頼はってから何様とも決めようといふ料簡だ、向背の決着に遲にとした 重盛に馳向はれて逃出して終った。あの様な見崩れ人種が大將で とて仕方は無いのだ。 は、義朝や惡源太が何程働いたとて勝味は無い。鞭聲肅に夜河を渡 そこで政宗が北條氏の様子をも上方勢の様子をも知り得る限り知 どっ すゐら った彼の猛烈な謙信勢が曉の霧の晴間から雷火の落掛るやうに哄と らうとして、眼も有り才も有る者共を澤山に派出したことは猜知せ 斬入った時には、先づ大抵な者なら見ると直に崩れ立っところだ られることた。北條の方でも秀吉の方でも政宗を味方にしたいので りんり が、流石は信玄勢のウムと堪へたところは豪快淋漓で、斬立てられあるから、便宜は何程でも有ったらうといふものだ。で、關白は たには違無からうが實に見上げたものだ。政宗の秀吉に於ける態度愈小田原攻にかゝり、事態は日に逼って來た。ところへ政宗が出 の明らかに爽やかで無かったのは、潔癖の人には不快の感を催させした視察者の一人の大峯金七は歸って來た。 るが、政宗だとて天下の兵を敵にすれば敵にすることの出來る力を 金七の復命は政宗及び其老臣等によって注意を以て聽取られた。 くのへまさざね 有って居たので、彼の南部の九戸政實ですら兎に角天下を敵にして 勿論小田原攻め視察の命を果して歸ったものは金七のみでは無かっ 戰った位であるから、まして政宗が然様手ッ取早く歸順と決しかねたであらうが、共他の者の姓名は傅はらない。金七が還っての報告 ぼんてんまるをさなたち たのも何の無理があらう。梵天丸の幼立からして、聞怯ち、見崩れによると、猿面冠者の北條攻めの有様は尋常一様、武勇一點張りの ものはち をするやうなケチな男では無い。政宗の幼い時は人に對して物羞を ものでは無い、共大軍といひ、一般方針といひ、それから又千軍萬 のづらおにふう するやうな兒で、野面や大風な兒では無かったために、これは柔弱馬徃來の諸雄將の勇威と云ひ、大剛の士、覺えの兵等の猛勇で功者 で、好い大將になる人ではあるまいと思った者もあったといふが、小 な事と云ひ、北條方にも勇士猛卒十八萬餘を蓄はヘて居るとは云 うちば へ、到底關白を敵として味は無い。特に秀吉の軍略に先手ぐぐと 見の時に内端で人に臆したやうな風な者は柔弱臆病とは限らない、 却って早くから名譽心が潜み發逹して居る爲に然様いふ風になる斬蜷られて、小田原の孤域に退嬰するを餘儀なくされて終って居る ものが多いのである。片倉小十郞景綱といふのは不幸にして奥州に上は、籠中の禽、釜中の魚となって居るので、遲かれ速かれどころ 生れたからこそ陪臣で終ったれ、京畿に生れたらば五十萬石七十萬では無い、瞬く間に踏潰されて終ふか、然無くとも城中疑懼の心の 石の大名には屹度成って居たに疑無い立派な人物だが、其烱眼は早堪へ無くなった頃を潮合として、扱ひを入れられて北條は開城をさ くも梵天丸の其様子を衆人の批難するのを排して、イヤど、、末賴せられるに至るであらう、といふことであった。金七の言ふところ にはか は明白で精確と恝められた。こゝに至って政宗も今更ながら、流石 もしい和子様である、と云ったといふ。二本松義繼の爲に遽に父の さら 輝宗が攫ひ去られた時、鐵砲を打掛けて共爲に父も殺されたが義繼に秀吉といふものの大きた人物であるといふことを感じない譯には しばし をも殺して了った位のイラヒドイところのある政宗た。關白の威勢行かなかった。沈默は少時一座を掩ふたことであらう。金七を退か ふちゅう こと さな