あ、、「武蔵野」。これ余が數年間の觀察を試むべき詩題なり。余 0 和は東京府民に大なる公園を供せん。 音響に鳥聲あり、風聲あり、葉聲あり、虫聲あり、車聲あり、蹄 聲あり、歌聲あり、談話の聲あり、砲聲あり、足音あり、羽音あ 、滴聲あり、雨聲あり。これ武藏野の林中にて傾聽し得るの音 聲なり。突然、物の落つるが如き音す。 一一十八日午前十時。 過去を見る勿れ。これ患者の事なり。自然は前途を有するのみ。 宇宙は進歩あるのみ。は前進者をめぐみ玉ふ。 嗚呼、不思議なる宇宙に此の人生。進むあるのみ。 われつらノ \ 交はる所を見るに、仰いで服するに足るの人物は誠 に稀なり。才物はこれあり。覇氣豪なるものはこれあり。勉強家 はこれあり。野心の火の如きものはこれあり。一人の高潔、勇 膽、學と才と德と精力とを兼ねしものなし。 あよ、われ何をか望まんや。一個のヒロイックならば足る。 午前ネルソン二十枚、書きぬ。 午後二時記す。 木本わが申込みを拒絶しても、われこれをさほどに悲しまざる べし。吾には深き悲しき戀あり。 0 0 而して今又新らしき戀に入りぬ。日く「書籍」。信子はわれを捨 てたり。木本孃もわれを拒まんと欲せば拒めかし。われは「書 籍」てふ靜にして其の樂深き戀人を得べければ。 友と、書と、自然。此の三つの者あらばまた何をか悲戀といふべ き。 二十九日。 人は古きものを嫌ひて新奇のものを愛す。然らば何ぞ名聞てふ如 き古來より人心を支配する所のものに相變らず支配せられて滿足 するや。何んぞ人心の中、更に新らしき高き感情を求めざる。名 を愛し富を愛するの心も既に古めかしからずや。 深夜にこれを書す。 木本嬢は果してこれを承知せざりき。 われはこれを不幸と思はず。凡て訷の御心の在る所と信ずるの み。 山路氏、宮崎氏等來宅。 共に談れば感ずることも多し。人生てふことの意味深きを感ぜざ らんと欲するも得ず。 嗚呼、わが心のさめんことを。自然と人生とにつきて益よ驚異ぜ んことを。 昨日午後。ブッシング、ツー ゼ、フロントを讀み、夜はカー一フ イルの傅、二十二歳頃の所を讀みぬ。 ( フロード氏の ) 今夜ブッシングを讀みぬ。 三十一日。 昨日東京に行き、竹越氏より十圓を借用せり 此の事如何に吾が精紳を衝動したるぞ。 われ男泣きに泣かんとせり。 驚異の心なくして宗敎心ありといふはうそなり。宗教心を耕す前 に驚異の情を燃やさしめざるべからず。 人は何故に驚異心を失ふや。大問題なり。ダルウヰンは何故に音 樂等の趣味を失ひしゃ。 ダルウヰンに宗敎心なきは何故ぞや。共の智識にや。否、彼は不 思議に打たる ~ の驚異心を失へるなり。 わが目的は唯一なり。驚異せんこと及び驚異せしめんことなり。 去年の今月今日は信子が遠藤の家を去って吾が家に技じたる日な
小ザッ。ハリと暮して居るものがある、感心なものでしよう、尤も酒 一人で不自由を感じないんですから。」 6 のみ つ「夫人がお有りンなるんですか、さうですか、それじやア何にも獨は呑ません、煙草もやりません。こんな男は例外です。私どもには わびずまび 到底出來ない藝です。」 身者の佗住居を好んでするにやア當らないでしよう、そしてお兒さ いる んは ? 」 「然し田舍に細君を置いてた處で費ものは費るから同じ事でしょ こど・も いつ、 「小兒もあります、五歳になる男の兒が一人あります、がです、矢う、文句を言はないで一所におなんなさい、細君が可哀さうだ。」 張一人のはうが氣樂ですナア。」と手酌で飮みながら、「尤も私の妻「ハ、、、、ツ貴様は大に細君孝行だ、イヤ私だってね、まんざ にか を呼ばないのは他にも理由がありますがね。」 ら女房を可愛がらないわけはないんだが、田舍には多少の資産があ あっち 「どんな理山がありますか知りませんが、兎も角妻子があれば一家 るんです、それに未だ父母も居ますから却て妻は先方に居たはうが あなた たのしみ 團欒の樂を享けないのは嘘でしよう ? 岩様さびしく思ひません相方の便利なんです。まア私なんざア全く道樂で斯んな職をやって 居るんでサア、イヤになれば直ぐ止めて田舍へ引込んだって食ふに さびし 「イヤ全く孤獨く感じないこともないですがナ、ナニ私も時々歸る困るやうなことはないんですからナア。」 ひがヘり し妻もちょいノ、やって來ますよ、漁車で日往復が出來ますからナ 「氣樂ですね工。」 ニ便利な世の中ですよ、御心配には及びません夜具も二人前備へて 「全く氣樂です ! だから酒は石崎から斯うやって樽で取ってグイ あります、ハッハッ、、、、」 グイ飮むのですが、澤之鶴も可いが私どもにやア少し甘味が勝って 居るやうで却てキ印の方がロに合ひます、どうも料理屋の混成酒だ 、先づさう諦めて居れば仔細はありませんナ。」 「サア何か食って下さい、ろくなものは御座いませんがね、どうでけは閉ロしますナア。」 と先生頻りに酒の品評をはじめ、混成酒の攻撃をやって居たが醉 す豆か、蜜柑でも。」 すだこ ずのこ ちゃぶ臺には煮豆、數子、蜜柑、酢章魚といふ風なものが雜然とは益々發して來たらしい。 はないけ 並べてある。柱にかけた花挿には印ばかりの松ケ枝、冬の日脚は傾 「どうです、一ッ隱藝をお出しなさい、エ、僕ですか、僕は全く無 あるし いて西の窓をまともに射し、主人の顔は赤く眼はとろりとして矢張藝、たゞ飮めば則ち眠る、直ぐ寢て了ひす ! 」 正月は正月らしい。 成程さも眠むさうな、とろんこな眼をして居る、 「僕でも貴様方のやうにナア、文章が書けるなら隨分書いて見たい 主人は專賣特許の厨爐にかけた鐵瓶から德利を出しながら、 「全く一人のはうが氣樂ですよ。サア熱いところを一ツ、それに私事があるんだが、だめだ ! 」 と暫く眼を閉ちて默って居たが、急ににつこり笑って、 は敢へて好んで妻を持ったわけじやアないんですからナ。ふとした 梦とりみ 「ウンさうだ ! 一ッ見て貰ふものがある。」 處から養子に貰はれたので、若しそれで無かったら今でも獨身でサ たのしみ ひきたし ア、第一巡査をして妻子を養って樂をしようなんテ、ちっと出來 と机の抽出から草稿らしいものを五六枚出して、共一枚を自分の にくい藝ですナ、蛇の綱渡よりか困難いことです、エ、貴様は蛇の 前へ突き出した。見ると漢文で、『題警察法』といふ一編である。 綱渡を見たことがありますか、私は一ッ見ました。姓名は言はれま 「夫れ警察の法たる事無きを以て至れりと爲す。」 からだ と一種の口調で體軅をゆすりながら漢文を朗讀しだした。 せんが、私どもの仲間に妻と小供の三人と母親とを養って、それで つま ざらり さい
プ 34 とてはなく、身に降りか長った災難を今更の如く悲しんで、氣拔け自分を惱ましたことのないのが一今更の如く共怪しい、恐ろしいカ を感じて來る。たゞ百圓、その金錢さへあれば、母も盜賊にはなる した人のやうに當もなく歩いて溜池の傍で來た。 まいものを。よし母は盜みを爲た處で、自分に其金錢が有るならば 全たく思案に暮れたが、然し何とか思案を定めなければならぬ。 今の場合、自分等夫婦は全く助かるものをなど考がヘると、金錢と 日は暮れかゝり夕飯時になったけれど何を食うとも思はない。 いふ者が欲くもあり、悪くもあり、同時に共金錢のために少しも惱 ふと山王臺の森に烏の群れ集まるのを見て、暫く彼處のべンチに まされないで、長閑かに此世を送って居る者が羨ましくもなり、又 倚って靜かに工夫しゃうと日吉橋を渡った。 實に憎々しくもなる。總て是等の苦々しい情は、これまで勤勉にし 哀れ氣の毒な先生 ! 「見すぼらしげな後影」と言ひたくなる。 酒、酒、何で彼の時、蕎麥屋にでも飛込んで、景氣よく一二本も倒て信用厚き小學敎員、大河今藏の心には起ったことはないので、あ ちっ あ金錢が欲しいなアと思はず口に出して、熟と暗い森の奧を見つめ さなかったのだらう。 0 0 0 0 0 五月十四日 亡きれう するとがや / \ と男女打雜って、ふざけながら上って來るものが 寂寥として人気なき森蔭のべンチに倚ったまゝ、何時間自分は動 ある。 かなかったらう。日は全く暮れて四圍は眞暗になったけれど、少し 「淋しいじや有りませぬか、歸りましようよ。最早こんな處つまり も氣がっかず、たゞ腕組して折り / \ 溜息を洩すばかり、ひたすら ませんわ。」といふ女の聲は確にお光。自分はぎよっとして起あが 物思に沈んで居たのである。 かんがヘ らうとしたが、直ぐ共處に近づいて來たので共儘身動きもせず様子 實地に就ての益に立っ考案は出ないで、斯うなると種々な空想を 描いては打壞はし、又た描く。空想から空想、枝から枝が生え、殆を窺がって居た。人々は全たく此處に人あることを氣がっかぬらし い。お光が居れば母もと覗がったが女はお光一人、男は二人。 んど止度がない。 おっか 「ねえ最早歸りましようよ、母上さんが待って居るから。と甘った 痴情の果から母とお光が軍曹に殺ろされる。と一つ思ひ浮べると 其悲劇の有様が目の先に浮んで來て、母やお光が血たらけになってるい聲。 「何故母上さんは一所に出なかったのだらう、君知らんかね。」と 逃げ廻る様があり / \ と見える。今藏々々と母は逃げながら自分を 一人の男が言ふと、一人、 呼ぶ、自分は飛び込んで母を助けやうとすると、一人の兵が自分を 「頭が痛むとか言って居たつけ。」といふや三人急に何か小さな聲 捉へて動かさない : : : アッと思ふと此空想が破れる。 すり で囁き合ったが、同時にどっと笑ひ、一人が「ヨイショー」と叫け 自分が百圓持って銀行に預けに行く途中で、掏兒に取られた體に んで手を拍った。 して屆け出やう、さう爲ようと考がへた。すると嫌疑が自分にかゝ つを、ま - と 面白ろうない事が至る處、自分に着課って來る。三人が行き過ぐ り、自分は拘引される、お政と助は拘引中に病死するなど又々淺ま るや自分は舌打して起ちあがり、そこノ、と山を下りて表町に出 しい方に空想が移る。 校舍落成のこと、其落成式の光景、升屋の老人のよろこぶ顔まで 此上は明日中に何とか處置を着ける積り、一方には手紙で母に今 が目に浮んで來る。 一度十分訴たへて見、一方には愈々といふ最後の處置は如何するか あ、百圓あったらなアと思ふと、これまで金錢のことなどまで
4 信孃より今夜書从來る、 其中に曰く、小 妹はいま明らかにいふ、大兄と相對してかたろふ 其時は實に小妹の本心の現はるよ時なり、何もかもうちあかして 語る誠によろこばしき限りに御座候、家にありて種々の苦痛も小 妹は常に大兄と相見る其時の樂みを思ひ出し自ら其時を待つべし と思ひ、よく心を慰められ候云々。 然らば之れ已に戀愛に非ずや。 今朝信壤來りぬ。八時十五分より十時まで語りて去りたり。 孃とわれとは最早分っ可からざる戀愛のうちに入りぬ。たゞ未だ 互に其の戀てふ文辭を公言せざるのみ。 此の次の對面には吾より公言す可し。最後の言葉を約す可し。 午後三時まで「死」を作る。 三時過ぎより佐々城氏を訪ひ、萱場三郎氏と相知る、氏は農學士 なり。 古人の一詩を得て編輯者の机上に置き歸りぬ。 希くは眞理をかたく信ぜしめよ。 クリストが示し給ひし眞理を堅く信ぜしめよ。 日く神の愛。罪のあがない。永久の命。善の勝利。生時の義務。 嗚呼不可思議なる世界に於ける此の不思議の生命其のもの。眞理 を認めずして、孰れがよく堪ゅべきぞ。 三日 基督敎信徒であり乍ら何故に吾は其の傳道に全身全力を打ち込む 能はざるか われは何故に基督敎を信ずるやと間へば、そは基督の敎、パイプ ルに示す處、是れ宇宙人生の不思議を説明してもらす處なき眞理 なりと信するが故に非ずや。 然らば何故に共の眞理を他の不幸なる人に傅ふるに躊躇する乎。 何の故を以て、敢て他の事業を撰ばんとする乎。 眞理。之れ生命に非ずや。 爾のロ實は是なり曰く。我れは傳道事業の性質上不適當なり。日 く。吾が適任と思ふことをなす是れ則ち紳に仕ふる所以也。と。 而して其の撰ぶ處の業を見れば、日く文學、日く政治、日く法 律、曰く商業、曰く新聞記者、曰く敎師曰く農業。 嗚呼是れ「眞理」を解したる人の撰擇なり。 されど欺く勿れ。われ自からわれを欺くに非ざる乎。眞理は之れ 生命に非ずや。爾若し眞に基督の敎、バイプルの示す處の眞理を 解したりとせば、眞理其者は直ちに爾を驅て、此の輻音の宣傳者 たらしめざる乎。眞理其の者の力は必ず爾のあらゆるロ實に勝っ 可き筈なり。 然るにロ實は爾を支配す。見よ、見よ、爾は米だ眞理を解し居ら ざる也。 爾の信仰極めて淺薄なるもの也。爾の實際は極めて曖咊にして利 己なるもの也。爾は決して眞の基督敎徒に非ざる也。 眞の基督敎徒は必ず敎の爲めに其の地上の生命を費す、其の汗、其 血、其の涙、一滴たりと雖も敎のためならざるを惜しむ可き也。 西行は世は無常なりと感ぜり。「無常」は彼を驅て世を捨てしめ たり。無常を語るものは世に猶ほ多し、而して其の多きもの未た 嘗て世を捨てざる也。 何となれば、彼等は未だ無常其者の眞の消息を直感したるに非ざ れば也。實に是れ人心欺く可からざる自然の作用の結果なり 吾此の如く信ずるが故に、自からみて問はんとはす、爾は基督 敎徒であり乍ら何故に其の眞理の宣傅のために全心全力を盡さゞ る乎。其の傅道のために一生を擲たざる乎。と ( )
八月 一日。 わが生涯は更に別種の途に踏み入りたり。 われ等は戀愛のうちに陷りぬ。 昨日、信子孃來訪す。北海道生活の事は互に共の夢想を同くした り。吾れ等は明言こそせざれ、互に一生を通じて相携ふべしと約 しぬ。 吾等が前途は夢の如し。吾等の前途は嶮路の如し。吾等は夢の如 くに進まずして、一歩々々、必ず此嶮路を打ち越へざる可からず。 6 何の故に嶮難なるか、曰く信子嬢の母は吾等の戀愛に反對なれば ざなり。 昨夜佐々城本支氏を釘店に訪ひ、徳磨氏の病に就て尋問したり。 今朝又た訪ひ、其所にて徳磨氏に逢ふ。 3 われ遂に勝っ可し。決して失望する勿れ。強かれ。強かれ。け破 りて進む可きのみ。 德富をして其の傲慢を吾が前にふるはしめよ。 盟壽をして共の偏頗を吾が戀愛の前に行はしめよ。 放慢をして共の勢力を吾が弱點の前に横行せしめよ。 不信をして吾を墮落に陷らしめよ。 われ遂に何人、何もの、何事にも勝つべし。 決して赤面する勿れ。決して人の前に思はざち事を言ふ勿れ。之 れのみ。 信子孃に向て、公然言ふ可きか。お互は實に戀愛に陷りてある事 を。 昨日正午なり。信子孃の來りしは。 一時半頃まで、一秒時間の如くに語り、相携へて芝公園に至る、 孃が歸路なれば也。勸工場に人りて買物す。出でよ公園の内、人 影少なき處に至りぬ。樹下に憩ひて涼氣を取り、暫時語る。 共に一日の閑族行を約しぬ。曰く八王子の方面宜しかるべしと。 あよわれは孃を得ざれば止まざる可し。母氏をして承諾せしめず んば止まざる可し。 戀するならば全身全心の熱血を注ぐ可し。 孃は吾が著作の成功を待ちつよあり。夜半まで務むる勿れと言へ り。必ず病を得る勿れと言へり。されど吾が成功を待てり。 吾等が戀愛はすべからく公明正大にして大膽なるべし、何物も恐 るよ勿れ。陰影にかくす勿れ。日光にさらすべし。月夜に語るも よし。只だ二人語るべし。されど又た人の前に恥する勿れ。 嗚呼一生 ! 何ぞや。今日のわが戀愛も昔語りとなるの日あらん。 吾等の愛も何時かは土塊のうちに入らん。 祁の永遠の生命を信する能はずんば愛戀程墓なきものはなし。 鳴呼一生 ! 前途の夢に迷ふ切れ。今こそわが生命なれ。 プライアントの Thanatopsis を讀み且っ筆寫し置きぬ。ウォー ヅウォースの lnfluence ( も natural を讀み深く感ずる所あり。 何事をも全力をこめてなすべし。戀も、著作も、讀書も。 戰爭なり。勝たずんば敗る。 "Up, up 一 Whatsoever ( 等 hand findeth ( 0 do. do 一【 with thy whole might, ・ Work while 一 ( is called T0-day 一一日 the Night cometh. 第・ hereln work.
394 なり。忍耐と勤勉と希望と滿足とは境遇に勝つものなり 民友社に歸復すること出來ず、共の他の社に入る事も出來ず、報 知瓧に空位ありて吾を迎へざるに非ずと云へども、今は吾、文筆 に從事せんことを願ふ。 あらゆる空想を排し此の世の夢よりさめんことこそ願はしけれ。 九月 七日。 吾が身今は澁谷村なる閑居に在り。家は人家はなれし處に在り。 四日に移轉したり。 五日に今井君來りぬ。六日は昨日日曜日、朝より今井來り、晝飯 に中村修一氏來り、午後一時頃宮崎湖處子君來りぬ。 昨朝早く差配の老婆と收二との間に喧嘩あり。 今尚ほ其のもんちゃく中なり。 昨日も今日も南風強く吹き、雲霧忽ち起り、突然雨至るかと見れ ば日光雲間よりもれて靑葉を照らすなど、氣まぐれの秋の空の美 はしさ。實に昨年の事夢の如し。今や信子は北に在りと云ふ。哀 れなるは吾が身の上かな。 われ詩人たるべしといふ。されどわれに此の資格ありや否や。祚 の愛と義を感ずる事は極めて薄し。 たゞ偏へに人生の不思議に驚くのみ。まぼろしの世なるかな。 ①澁谷村百五十三番地。丘の上の孤屋。 一日の事を詳記すれば限りもあらず。されど人の傅記は一日の中 に在り。彼の一日を精査せよ。彼の事業と彼の品性とを見るを得 ・ヘし。彼の一日を詳記せよ。そは彼の傳記なるべし。 故に余は余が一日の事を詳記すべきか。余には其の技倆なきな われは重夢の中にあるなり。 九日午後一時四十五分記 余は今、此の閑居に獨座しネルンン傳を譯しつあり。 わが机の上には樹梢を通じて落ち來る光點々たり。目は強く、秋 聲野に滿つ。浮雲變幻たり。 お德、お國、お勝。一は女郞たりし女、一は家を走りし老女。一 は農にかせぐ老婆。 此の家に來りし以來の見聞遭遇は人生一片の詩に非ずや。 人各自ら感じて自得する處あり。人應にこれを強追熱躡して其 の上に樹立すべし。 今は十一時半なり。一たび床に就きたれども、百感交もノ«- 起り て眠られざるがため、再び起って此の筆をとるなり。 わが年已に二十六歳。 これ功名を樹立すべきの時なり。これ智識も、學術も、成熟の絡 に就く可きの時なり。此の我は依然たり。何の發明も進歩もな し。 一日また一日。夢の如くに過ぎゅく。 吾は遂に失敗者なるか。失敗者にても可なり。人生の意義に就 き、根本的信仰なくして而かも世に成功せんことは我の望む處に あらず。 夢中の成功は夢なり。 醒むること則ち成功なり。 わが願は夢より起きんことなり。今日夕暮獨り門を出で近郊を 散歩し、秋風に身を任ぜて、田園丘の間を吟行したり。されど 自然の懷に温氣なく、の御手のわざに感瞑する能はざりき。今 や夜更けて獨坐す。屋外の草叢、虫聲繁く、雨滴またきこゅ。
たゞ / 、希ふ。此の靜けき家に座してかに讀み、靜かに思ひ、 靜かに書かんことを。 一週間計り以前の夜の事なりき。 獨り床に橫はりて書を讀み居たり。屋外は月冴えに冴えたれば人 の心も自づから澄み、氣靜かに、體も何となくゆたかなるを覺え てあり。かくて言ふべき様なき平安を感ずると同時に物足らぬ心 地して淋しさを覺えぬる刹那、戸外に信子立ちて今にも雨戸を叩 くかと心おのよき立ちて、ひたすら耳そばだてよまち侍る。待て ども / 戸はたよかれず。暫くして次室に信子の座りて在る様覺 えければ聲を上げて二聲三聲、信さん信さんとよびて待てり。何 の答もあらず。さては心づきし時の心地、如何なる言葉もてたと へつべき。法然として涙下りぬ。 昨日人見と瓧樓にて激談す。内村を訪ひて語る。植村を訪ふ。不 在。昨夜を上げて前を呼びぬ。 開拓瓧に人るべきか。このまよ閑居して讀書すべきか。心みだれ 動くのみ。 世を退いて讀書修養の事第一なれども、余が性は此の事に堪へ難 く、常に活動を好み、變動を愛す。 されど。祁よ希くはわれをして此處に修養せしめ給へ。 よ、われをして忍耐せしめ給へ。 二十七日。 人生は何ぞや。 嗚呼繰り返へしても繰り返へしても止む能はざる間なる哉。 われ今、熱心、傅記叢書に力を注ぎ居れり。こル貧との戦なり。 一日一日。果敢なく過ぎゅく。 人生は戦なり。これ如何に繰り返へしたる言葉なるぞ。嗚呼人生 は戦なり。而して吾は薄志弱行の男なり。 かざるの記 竹越は貸金の義務なしといひぬ。 妻、われを見捨て、友も亦吾を遠ざけんとす。 よし。此の生命 ! これ何ぞ、嗚呼獨立の靈よ、天を呼びて叫 國民新聞瓧に出瓧せざるが故に給料を受取る能はず。故に今月の 支拂を爲す能はず。竹越氏に借金を賴みたれど謝絶されたり。人 見氏に傅記叢書原稿料の前金を請求したれども、これまた謝絶さ れたり。今や、金策なし。斷然、徹夜的勉強を以て傅記叢書を完 成し、一日も早く原稿料を受取り、それまで支拂を待ちもらふ事 に決心せり。 われを憐れむ勿れ。われを虐待せよ。われを驅使せよ。 恥を受けしめよ。罸を受けしめよ。 五日。 さて久しぶりにて此の筆を執る、 今は夜の一時なり。婦人新報に寄稿する所あらんと欲して今、日 ルストイ旧の「めをと」を讀み了りぬ。此の書は曾て一度讀みし 事あり。書中の敎訓を研究して婦人の參考に供せんと欲したる 也。 わが妻、われを捨てよ去り、わが心、過去の夢に焦れて居る時に 當りて此の書を讀む、大に感ずる所多し。 ディッケンス傅草稿最中なり。 一咋水曜日の午後。田山氏を訪ふ、不在。直ちに本鄕なる松岡氏 を訪ひぬ。また不在。金子喜一氏を訪ひ、雜談して九時半に及 び、再び松岡氏を訪間して、氏の宅に一泊し、昨日朝歸宅す。新
4 6 「何處に、何處に、」と小山は慌たゞしく間ふた。自分の指す方へ、 自分は以上の外爾ほ一一三編を讀んだ。そして之を聽く小山よりも 近眼鏡を向けて眼を眩しさうに眺めて居たが、 之を讀む自分の方が當時を回想する情に堪へなかった。 かす 時は忽然として過ぎた、七年は夢の如くに經過した。そして半熟「成程山だ如何です此瞑かな色は ! 」と左も懷かしさうに叫けむ ねぼけまなこ 先生此處に茫然として半ば夢から醒めたやうな寢耄眼を瞬いて居だ。 る。 此時自分の端なく想出したのは佐伯に居る時分、元越山の絶頂か ら遠く天外を望んだ時の光景である。山の上に山が重り、秋の日の 五 水の如く澄むだ空氣に映じて紫色に染り、共天末に絲を引くが如き メランコリー 午後一一人は家を出た。小山は畫板を肩から腋へ掛け疊將儿を片手連峰の夢よりも淡きを見て自分は一種の哀情を催し、此等相重な る山々の谷間に住む生民を懷はざるを得なかった。 に、藥壜へ水を入れて手巾で包んだのを片手に。自分はヲ - ーズフル ス詩集を懷ろにして。 自分は小山に此際の自分の感情を語りながら行くと、一條の流、 ・フルシャン 大空は春のやうに霞すんで居た。普魯西プリューでは無論なしコ薄暗い林の奧から音もなく走り出で又た林の奥に沒する畔に來た。 バルトでも濃過ぎるし、こんな空色は書き難くいと小山は呟きなが 一個の橋がある。見るかげもなく破れて、殆ど墜ちさうにして居 る。 ら行った。 野に出て見ると、秋は矢張り秋だ。楢林は薄く黄ばみ、農家の周 「下手な畫工が描きさうな橋だねェ」と自分は林の蔭から之を望ん 圍に立つ高い欅は半ば落葉して共細い網のやうな枝を空にすかして で言った。 居る。丘のをめぐる萱の穗は白銀の如くひかり、共間から武蔵野「私が一つ描いて見ましようか。」 には餘り多くない櫨の野生が共眞紅の葉を點出して居る。 「止し給へな、有りふれてるから。」 わたし 「こんな錯雜した色は困るだらうねェ」と自分は小さな坂を上りな 「しかし斯な物でも描かなければ小生の描く物がありません 0 」 しゃうぎ がら頭上の林を仰で言った。 共處で小山は程可き位置を取って、將儿を置き自分には頓着な 「さうですね、併し却て此様な色の方が胡魘化されて描きよいかも 、熱心に描き始めた。自分は日當を避けて楢林の中へと入り、下 知れません、」と小山は笑ひながら答へた。 草を敷て腰を下ろし、我が年少畫家の後姿を木立の隙から眺めなが 「下手な畫工が描きさうな景色といふ奴に僕は時々出遇ふが、共ら、煙草に火を點けた。 實、實際の景色はなか / 佳いんだけれども。」 小山は默って描く、自分は默って煙草をふかす、四圍は寂然とし 「だから下手が飛付いて描くのですよ、自分の力も知らないで、たて人聲を聞かない。自分は懷から詩集を取出して讀みだした。頭の だ景色の佳いに釣られて行るのですから出來上って見ると、無全で上を風の吹き過ぎる毎に、楢の枯葉の磨れ合ふ音ががさ / とする うはつらなすく 景色の外面を塗抹った者に成るのです。」 ばかり。元來この楢は餘り風流な木でない。共枝は粗、共葉は大、 「自然こそ可い迷惑だ、」と自分は笑った。高臺に出ると四邊が俄 秋が來てもほんのりとは染らないで、亠円い葉は靑、枯葉は枯葉と、 みえがくれ に開けて林の上を隱見に國境の連山が微かに見える。 亂雜に枝にしがみ着いて、風吹くとも霜降るとも、容易には落ちな 「山 ! 」と自分は思はず叫けむだ。 い。冬の夜嵐吹きすさぶ頃となっても、がさ / 、、と騷々しい音で幽 あたり
154 はお前も知ってゐるだらう。それでお前これから直ぐ私立の法律學ました。父はフンプの下で手紙を認めて居ましたが、僕を見て、 校に入るのじゃ。三年で卒業する。辯護士の試驗を受ける。そした「何ぞ用か。」と間ひ、やはり筆を執て居す。僕は父の脇の火鉢の わし 曉は私と懇意な辯護士の事務所に世話してやるから、共所で四五年傍に座って、暫く默って居ましたが、此時降りかけて居た空が愈々 實地の勉強をするのじゃ。其内に獨立して事務所を開けば、それこ時て來たと見え、廂を打っ霙の音がパフ / 聞えました。父は筆 やをこちら そ立派なもの、お前三十にならん内、堂々たる紳士となることが出を擱いて徐ら此方に向き、 「何ぞ用でもあるか。」と優しく問ひました。 來る。如何じゃな、其方が近道じゃぞ。」といふ父の言葉を聽いて た・つ 「少し訊ねたいことが有りすので、」と僅かに口を切るや、父は 居る、僕の心の全く顛動したのも無理はないでせう。 これ實に他人の言葉です。他人の親切です。居候の書生に主人の早くも様子を見て取ったか、 おごそ 「何ちゃ。」と嚴かに膝を進め寸した。 先生が示す恩愛です。 ほんと 「父様、私は眞實に父様の兒なのでせうか。」と兼て思ひ定めて置 大塚剛蔵は何時しか其自然に返って居たのです。知らず / 、其自 たんとうちよくにふ いた通り、單刀直入に問ひました。 然を暴露すに至ったのです。僕を外に置くこと三年、其實子なる秀 かたはら 輔のみを傍に愛撫すること三年、人間が其天眞に歸るべき門、墳「何ぢやと。」と父の一言、其眼光の鋧さ ! けれども直ぐ父は顔 ちかづ 墓に近くこと三年、此三年の月日は彼をして自然に返らしたのでを柔げて、 「何故お前はそんなことを私に聞くのちゃ、何か私共がお前に親ら す。けれども彼は未だ共自然を自認することが出來ず、何處までも しくないことでもして、それでさういふのか。」 自分を以前の父の如く、僕を以前の子の如く、見やうとして居るの 「さういふ譯では御座いませんが、私には昔から如何いふ者か此疑 のぞみ があるので、始終胸を痛めて居るので御座ます。知らして益のない 其處で僕は最早進んで僕の希望を述べるどころではありません、 おとうさま たゞこれ命これ從がふだけのことを手短かに答〈て父の部屋を出て祕密だから父上も默ってお居でになるのでせうけれど私は是非それ が知りたいので御座います。」と僕は靜に、決然と言ひ放ちまし しまひました。 父ばかりでなく母の様子も一變して居たのです。日の經つに從が しばら 父は暫時く腕組をして考へて居ましたが、徐ろに顏を上げて、 うて僕は僕の身の上に一大祕密のあることを瓮々信ずるやうにな 「お前が疑って居ることも私は知って居たのぢゃ。私の方から言う 父母の擧動に氣をつければつけるほど疑惑の增すばかりなので もはや た方がと思ったことも此頃ある。それで最早お前から聞れて見ると す。 あひにくおもひおこ 一度は僕も自分の癖見だらうかと思ひましたが、合憎と想起すは猶ほ言うて了ふが可えから言ふことに仕よう。」とそれから父は長 十二の時、庭で父から問ひつめられた事で、彼を想ひ、これを思へ長と物語りました。 けれども父の知らして呉れた事實はこれだけなのです。周防山口 ば、最早自分の身の祕密を疑がふことは出來ないのです。 あうなう の地方裁判所に父が奉職して居た時分、馬場金之助といふ碁客が居 懊惱の中に禪田の法律學校に通って三月も經ましたらうか。僕は て、父と非常に懇親を結び、常に兄弟の如く往來して居たさうで 今日こそ父に向ひ、斷然此方から言ひ出して祕密の有無を訊さうと 決心し、學校から日の暮方に歸って夜食を濟ますや、父の居間にゆきす。その馬場といふ人物は一種非凡な處があって、碁以外に父は共 てんどう ひがみ こっち わし ござい
倩熱を用ゐて一生を送りたいと。今一度言ふ、浮雲一過した、否な 「だって可笑しいんですもの、所天の掘った穴がちゃんと殘って居 4 ますから。」 僕は雲を追拂ってしまった。愴快で堪らない」 たとび 此手紙に對する自分の返事は頗る簡單で「當局者の發明は令其「何だ何だ、共の土龍といふのは。」と若代が振りかへって訊くか 事が如何なに小さいことであらうが、大なる成功である、情の世界ら、自分が共由來を手短に話すと、 せがれ に於て常に自から發明して行くといふことは智力の勝刊である。其「何のことだ共土龍なら三年前に死んで了って今は子息の代になっ うる 發明が美はしく發展するといふことは意力の勝利である。僕は君の て居る。」 こども 如き友を有することを誇る」といふだけであった。 坂本は「子息と言へば等もそろ / 、小兒があって可い時分だ ね、ね君。」と自分を顧みた。自分は笑って答へなかったが腹の中 で、「聯想まで違って來たわい。」 秋の末冬の初、大阪から若代が上京して大森に三四日滯在したの 夜食が濟むや、坂本と若代、自分と三人で久しぶりに海岸の方へ で、自分も妻を件て大森を訪ふた。若代の用向の一には、坂本の妹散歩に出た。 ゅふなき タ和の海暮れんとして沖の白帆は朦朧と其の影を倒映し、岸に沿 を同僚の一人に世話する相談もあったのである。相談は首尾よく收 こども ったらしい。 うた家々には既に燈を點けて居る。タ煙地を這ひ軒を罩め、小兒の まどゐ あ、樂しき集合よ ! 殊に若代の一名加はると我等の圓居は別様群は往來を駈け廻って居た。 た、かひ の光を添へて來る。彼の性情は酸味苦味がない、彼は戦鬪の人でな すると往來から横に入った路次で、突然けたゝましい人聲がし い代に、戦鬪ふ必要のない人である。自分は若代の顏を見て、其談て、小兒が一一三人駈け込んだ。何事かと路去のロまで行いて見る 話を聞いて、共の無限の愛嬌に對して何時も思ふ、斯ういふ人が若と、低い長屋が四五軒並んで居て、共一軒の前に幾人かの男女が立 てゐる。 し社會に一人も居なかったら、さぞ世の中がぎくしやくして住み心 地の悪いことであらうと。人を人生必要の器具にたとへたら彼は樂 「ヤイ殺すなら殺せ、サア殺せ。てめえのやうな者と一絡になって しまい あは 器である。 居るとナ、終果にはどんな目に遇しゃあがるか知れたものじや無 なた けはひ あつまり さなきだに樂い筈の集合に此人が加はったので、我等は如何なに い。」と叫ぶのは女の聲である、叫ぶ中にも人の寬める氣勢がする。 愉快に此一日を樂んだらう。 「何だ此死ぞこないめ、大きな口をきゝやアがんな、心中の爲ぞこ 夜食前一同は庭に出て且っ笑ひ且っ語り、林に入り、落葉を踏ないめ、人殺しめ、誰がてめえのやうな奴を殺すものがあるか、死 てん・て にたきやア勝手に死ね、よう死ねまい、心中の爲そこないめ ! 」 み、縱横になって居る小路を各自に歩るいて居ると、坂本夫人は自 きっと 分の妻と隣の路を歩いて居たが、突然自分逹の方を向いて、 「死んでやるから見ろ、屹度死んでやるから見ろ、化けて出ててめ ーもぐら・も 4 っ あなたはんと 「所天眞實に未だ土龍が生きて居るでしようかね。」と言ったのでえを取殺して呉れるから。」と女が叫んだので外面に立て居る者が クスリと笑った。 坂本は自分をちょっと顧みて笑ひながら、 おまへ 「未だ卿あんなことを言って居る、大變土龍が氣になると見える 「死ね、死ね、死んで鍼五郎の跡でも追駈けろ功德になるわ、人殺 ね。」 め、心中の爲ぞこないめ ! 」 たま いっ どん