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検索対象: 日本現代文學全集・講談社版 18 國木田獨歩集
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1. 日本現代文學全集・講談社版 18 國木田獨歩集

「學校の方は如何だね。」 晝飯を済まして、自分は外けやうとする處〈母が來て。母 いそが 8 「如何も多忙しくって困ります。今日もこれから寄附金のことで出 たが來たら自分の歸るまで待って貰ふ筈にして置いた處へ。 掛ける處でした。」 色の淺黑い、眼に劒のある一見して一癖あるべき面魂といふのが 「さうかね、私にかまはないでお出かけよ、私も今日は日曜だから 母の人相。背は自分と異ってすらりと高い方。言葉に力がある。 ゆっくり 悠然して居られない。」 此母の前へ出ると自分の妻などはみじめな者。妻の一言いふ中に 「さうでしたね、日曜は兵隊が澤山來る日でしたね。」と自分は何 母は三一言五言いふ。妻はもち / しながらいふ。母は號令でもする 心なく言った。すると母、やはり氣がとがめるかして、少し氣色を ゃうに言ふ。母は三言目には喧嘩腰、妻は罵倒されて蒼くなって小 更へ、音がカンを帯びて、 さくなる。女でもこれほど異ふものかと怪しまれる位。 「なに私どもの處に下宿して居る方は曹長様ばかりだから、日曜だ 母者ひとの御人來。 ふたん って平常だってそんなに變らないよ。でもね、日曜は兵が遊びに來 共處は端近先づ / 、これへとも何とも言はぬ中に母はつかノ \ と るし、それに矢張上に立てば酒位飮まして返すからね、自然と私共 上って長火鉢の向へむづとばかり、 も忙がしくなる勘定サ。軍人は如何しても景氣が可いね。」 「手紙は屆いたかね」とは一言で先づ我々の荒臚をひしがれた。 「さうですかね。」と自分は氣の無い挨拶をしたので、母は愈々氣 「屆きました」と自分は答へた。 色ばみ。 「言って來たことは都合がつくかね ? 」 えら いくさ 「だって左じゃないかお前、今度の戦爭だって日本の軍人が豪いか 「用意して置きました。」とお政は小さい聲、母はそろど、氣嫌を ら何時も勝つのじゃないか。軍人あっての日本だアね、私共は軍人 改ためて、 が一番すきサ。」 「あ、其は難有う。毎度お氣の毒だと思ふんだけれど、ツィね私の この調子だから自分は遂に同居説を持だすことが出來ない。まし 方も請取る金が都合よく請取れなかったりするものだから、此方も みもち て品行の噂でも爲て、忠告がましいことでも言はうものなら、母は 困るだらうとは知りつゝ、何處へも言って行く處がないし、ツィ につこり 何と言って怒鳴るかも知れない。妻が自分を止めたも無理でない。 ね」と言って莞爾。 「學校の先生なんテ、私は大嫌ひサ、ぐづ / \ して眼ばかり。ハチっ 能く見ると母の顔は決して下品な出來ではない。柔和に構へて、 えながヘる つかま かして居る處は蚊を捕へ損なった疣蛙見たやうた。」とは曾て自分 チンとすまして居られると、共劒のある眼つきが却って威を示し、 を罵しった言葉。 何處の高貴のお部屋様かと受取られるところもある。 疣蛙が出ない中にと、自分は、 「イ、え如何致しまして。」とお政は言ったぎり、伏目になって助 ごゆっ ( り の頭を撫でゝ居る。母はちょっと助を見たが、お世辭にも孫の氣嫌「ちょっと出て來ます、御悠寬」とこそ / 、出て了った。何と意氣 地なき男よ ! を取って見る母では無ささうで、實はさうで無い。時と場合で其な 思へば母が大威張で自分の金を奪ひ、遂に自分を不幸のドン底ま ことは如何にでも。 よっに〕ご て落したのも無理はない。自分逹夫婦は最初から母に呑れて居たの 「助の顏色が如何も可くないね。いったい病身な兒だから餘程氣を て、母の爲ることを怒り、恨み、罵っては見る者の、自分逹のカて つけないと不可ませんよ。」と云ひっゝ今度は自分の方を向いて、 こっち けしき

2. 日本現代文學全集・講談社版 18 國木田獨歩集

ふ事實には勝てないのです。僕と里子の愛が却って僕を苦しめると れた僕から言へば、此天地間にかゝる慘刻なる理法すら行なはる 8 先程言ったのは此事です。 を恨みます。 僕は里子を擁して泣きました。幾度も泣きました。僕も亦た母と 先づ如何して此等の事實が僕に知れたか、共手續を簡單に言へ ものぐるに ば、母が鎌倉に來てから一月後、僕は訴訟用で長崎にゆくことゝな同じく物狂しくなりました、憐れなるは里子です。總ての事が里子 、共途中山口、廣島などへ立寄る心組で居ましたから、見舞かたには怪しき謎で、彼はたゞ惑ひに惑ふばかり、遂には母と同じく怨 がた鎌倉へ來て母に此事を話しますと、母は眼の色を變て、山口な靈を信するやうになり、今も横濱の宅で母と共に不動明王に祈念を こら うみ ど〈寄るなと言ひます。けれども僕の心には生の父母の墓に參る積凝して居るのです。里子は怨靈の本體を知らず、たゞ母も僕も此怨 をつとすくは でありますから、母には可い加減に言って置いて、遂に山口に寄っ靈に苦しめられて居るものと信じ、祈念の誠を以て母と所天を救う として居るのです。 たのです。 僕は成るべく母を見ないやうにして居ます。母も僕に遇ふことを 兼て大塚の父から聞いて居たから寺は直ぐ分りました。けれども 好みません。母の眼には成程僕が怨靈の顔と同じく見えるでせう 僕は馬場金之助の墓のみ見出して死だと聞た母の墓を見ないので、 ゆかり よ。僕は怨靈の兒ですもの ! 不審に思って老信に遇ひ、右の事を訊ねました。尤も唯だ所縁のも 僕には母を母として愛さなければならん筈です。然し僕は母が僕 のどのみ、僕の身の上は打明けないのです。 きは の父を瀕死の際に捨て、僕を瀕死の父の病床に捨て長、密夫と走っ すると老信は馬場金之助の妻お信の墓のあるべき筈はない。彼の なにがし たことを思ふと、言ふべからざる怨恨の情が起るのです。僕の耳に 女は金之助の病中に、碁の弟子で町の豪商某の弟と怪しい仲にな なきち、 は亡父の怒罵の聲が聞えるのです。僕の眼には疲れ果た身體を起し 、金之助の病氣は其爲更に重くなったのを氣の毒とも思ず、遂に いだ ちのみご て、何も知らない無心の子を擁き、男泣きに泣き給うた様が見える 乳飮兒を置去りにして駈落して了ったのだと話しました。 のです。そして此聲を聞き此様を見る僕には實に怨靈の氣が乘移る 老僭は猶も父が病中母を罵ったこと、死際に大塚剛蔵に其一子を のです。 托したことまで語りました。 まなこ 夕暮の空ほの暗い時に、柱に靠れて居た僕が突然、眼を張り呼吸 共お信が高橋梅であるといふことは、誰も知らないのです。僕も を凝して天の一方を睨む様を見た者は母でなくとも逃げ出すでせ 證據は持て居寸せん。けれども老信がお信のことを語る中に早くも う。母ならば氣絶するでせう。 僕は今の養母がちそれであることを確信したのです。 けれども僕は里子のことを思ふと、恨も怒も消て、たゞ限りなき 僕は山口で直ぐ死んで了はうかと思ひました。彼の時、實に彼の かなしみ 悲哀に沈み、この悲哀の底には愛と絶望が戦うて居るのです。 時、僕が思ひ切て自殺して了ったら、寧ろ僕は幸であったのです。 さか・つき くるしさへいぜい ひとっ 處が此九月でした。僕は餘りの苦惱に平常殆ど酒杯を手にせぬ僕 けれども僕は歸って來ました。一は何とかして確な證據を得たい まんなか ため、一は里子に引寄せられたのです。里子は兎も角も妹ですかが、里子の止るのもず飮めるだけ飮み、居間の中央に大の字にな って居ると、何と思ったか、母が突然鎌倉から歸って來て里子だけ ら、僕の結婚の不倫であることは言ふまでもないが、僕は妹として を其居間に呼びつけました。そして僕は醉って居ながらも直ぐ其理 里子を考へることは如何しても出來ないのです。 人の心ほど不思議なものはありません。不倫といふ言葉は愛とい由の尋常でないことを悟ったのです。

3. 日本現代文學全集・講談社版 18 國木田獨歩集

いきっ 其内に雷が直ぐ頭の上で鳴りだして、それが山に響いて山が破裂すのは其時の母の顔で御坐います。石に腰を卸してほっと呼吸を吐 8 かなっき 幻するかと思ふやうな妻い音がして來たので、二人は物をも言はず絲いて言ふに言はれん悲しげな顔容を仕ます、共顔容を見ますと私ま そば を卷いて、籠を提るが早いかドン / 、逃げだしました。途中まで來でが子供心にも悲いやうな氣がしまして默ってつくねんと母の傍に ると下男が迎に來るのに逢ひましたが、家に歸ると叔母と母とに叱腰をかけて居るのでムいます。さうすると母が、「お前腹が減きは きもの られて、籠を井戸邊に投げ出したまゝ、衣服を着更へ直ぐ物置のやせんか、腹が減いたら餅をお喰べ、出して上げやうか、」と言って ひとま うな二階の一室に入り小さくなって、源平盛衰記の古本を出して畫合財嚢のロを開きかけます。私が「腹は減ない」と言へば、「そん おっかさん なことを言はないで一つお喰べ、母親も喰べるから、」と言って無 を見たものです。 さしむかひ けれども母と叔母は對坐で居ても決して笑ひ轉げるやうなことは理に餅を呉れます。さうされますと、私は何故か尚ほ悲しくなっ いろつや て、母の膝にしがみ附いて泣たいほどに感じました。 ありません、二人とも言葉の少ない、物案じ顏の、色彩の惡い女で 「私は今でも母が戀しくって戀しくって堪らんのでムいます。」 したが、何か優しい低い聲でひそ / 、話し合って居ました 0 一度は 盲人は懷舊の念に堪へずや、急に言葉を止めて頭を垂れて居た 母が泣顔をして居る傍で叔母が涙ぐんで居るのを見ましたが私は別 き、て たれ ちゃのま に氣にも留めず、たゞ一寸可恐いやうな氣がして直ぐと茶間を飛びが、暫時して ( 聴者の誰人なるかは既に忘すれ終てたかの如く熱心 出したことがありました。 まる・て あたりまへ 「けれどもこれは當然でムいます。母は全然私のために生きて居ま 私は七日も十日も泊って居たいのでムいますが、長くて四日も經 したので、一人の私をたゞ無暗と可愛がりました。めったに叱った ちますと母が歸らうと言ひますので仕方なしに歸るのでムいます。 あやま こともありません、たまさか叱りましても直ぐに母の方から謝罪る 一度は一人殘って居ると強情を張りましたので、母だけ先に歸りま したが、私は日の暮かりに椽先に立って居ますと、叔母の家は山やうに私の機嫌を取りました。それて私は我儘な剛情者に育ちまし に據って高く築きあげてありますから山里の暮れゆくのが見下されたかと言ふにさうではないので、腕白者のすることだけは一通りや なごり りながら氣が弱くて女のやうなところがあったのでムいます。 るのです。西の空は夕日の餘光が水の様に冴えて、山々は薄墨の色 むかしかたぎ あを これが昔氣質の祖母の氣に人りません、やともすると母に向ひ にぼけ、蒼い烟が谷や森のに浮いて居ます、何だか裏悲しくなり いつも まして、 ました。寺の鐘までが平時とは違ふやうに聞え、共長く曳く音が あんま 「お前が餘り優しくするから修藏までが氣の弱い兒になって了ふ。 谷々を渡って遠く消えてゆくのを聞きましたら、急に母が戀しくな おばア お前からして今少し毅然して男は男らしく育てんと不可ませんぞ、」 って、何故一所に歸らなかったらう、今時分は家に着いて祖母さんと 何か話して御坐るだらうなど思ひますと堪らなくなって叔母にこれとかく言ったものです。 うまれつき けれども母の性質として如何しても男は男らしくといふやうな烈 から直ぐ歸へると云ひだしました。叔母は笑って取合って呉ませ いとこ はさみしゃうぎ あかり しい育て方は出來ないのです。たゞ無暗と私が可愛いので、先から ん、共中に燈火が點く、從兄弟と挾將棊をやるなどする中に何時か ふしあはせ しあはせ 先と私の行末を考へては、それを幸の方には取らないで、不幸な 紛れて了ひましたが、の日は下男に送られ直ぐ家に歸りました。 又た母と一しょに歸る時など、二人とも出かける時ほどの元氣はことばかりを想ひ、一層私がふびんで堪ないのでムいました。 或時、母は私の行末を心配する餘りに、善敎寺といふ寺の傍に店 ありませんで、峠を越す時、母は幾度となく休みます。思ひ出しま びく をた っ しつかり ひとし いけ

4. 日本現代文學全集・講談社版 18 國木田獨歩集

これは吾が心、やよさめて、此の天地の不可思議に驚異しはじめ 吾が母には敎育なきが故に理想てふもの影だになき故、志念は たればなり。 低き様なれども天性上品の人に在はせば母を知る人の母になづか 0 0 0 0 0 美や、祁の光なり ぬは稀なり。吾が母を思ふて彼の母を思ふときは吾が心に彼の母 如意ケ嶽、何ぞ美なる、叡山何ぞ美なる。雲霧晴空の舊都何ぞ美 をあさましく思ふ念みちあふるよ也。 なる。訷聖を感ずるの心なくして美をめづるは美を弄するなり。 0 0 0 0 0 美を信ぜよ。これわが今日までしば / \ 叫びたる言なりき。今や ネルンンを書きはじめ、「夢見の里」、「新學士」の二編を讀みた 吾はたしかに美を信ぜんとしつよあり。 籘史何者ぞ。吾は此の天地に立つ。これの美はしき宮なり。 昨夜より風いたく荒れ、今日はひねもす雲の走ること急にをりを り雨を誘ひ來り風さへ加はりていとすさまじき日なりき。月はや 午後六時半記。 西に人りぬらんとおぼし。雲間にみえっかくれつ、其の美も今夜 「わが願ふ所」を草しつあり。 は能く眺め得ざりき。 わが願とは夢より醒めんことなり。 げに不可思議なるは此の天地と此の世とに於ける人の生命と蓮命 われはたしかに吾の夢みつよあることを極感する也。何者か吾を とにてあるなり。不思議と思ふ念のみ加はるぞかし。 此の夢よりさますものぞ。美のカか、美のカか。 二十日。 十八日。 午 ) ネルソン。 深夜 ( 十九日午前一時半 ) 記す。 書飯、爬利堂主人歸宅、鷄肉。 祚も照覽ある如く、わが心はしばしも彼の女の上より離れざるな 午後一睡。 。彼の女を戀ひ慕ふ心の苦しみはやよ失せたれど、何事につけ 食後内村氏を訪問。 ても想ひ連ねて來るものは彼の女なるぞうたてき。 歸路、御所園内散歩、月色宜し。 彼の女は戀にて成立ちし夫婦の義をも顧みず、吾の信愛をも顧み 今井忠治氏より來从。返書を認めて直ちに投函、夜十時半。其れ す、程よきロ實を作りて逃げ失せにけり。 より南禪寺近邊まで散歩、十二時歸宅。「わが願ふ所」を書す。 彼の女は逃げあふせ得ると思へるにや。其の良心のせめより逃げ二十一日。 得ると思へるにや。憐れの少女よ。 美はしき品性の人は實に稀なる哉。彼の人は一個の天才なり。さ 彼の女の母はげに世にも卑しき性の女なること愈よ我には明らか れど共の品性は美ならず。其の品性は寧ろ下劣なり。共の精は 物に成りまさりゆく。彼の女も此の母の性を少しは受けつぎたれば 高尚なり。其の理想は高尚なり。されど其の品性は下劣なり。げ 欺にや、情の中に誠少なし。腹に墨あり。眼に手段あり。意地強し。 に品性の中心は信義なる哉。彼は自己中心の横着者にして信義の これは正しき判斷なり。彼の女の行末の不幸を豫言し得るなり。彼 人に非ず。彼の人とは誰ぞや。内村氏なり。彼の人には品性の人 の母に比ぶれば吾が母の心情のうるはしさよ。吾が母は僞といふ 9 を感化すべきものを有せず。彼の人には才あり文あり。されど其 3 ことを知り給はず、吾が母の情には誠實同情の氣あふるが如し。 の人物に芳香なし。

5. 日本現代文學全集・講談社版 18 國木田獨歩集

わけ 勝手の間に通って見ると、母は長火鉢の向うに坐って居て、可怕金であれ、子の椅として訴たへる理由には如何してもゆかない。訴 2 幻い顔して自分を迎へた。鐵瓶には德利が入れてある。二階は兵士ど たへることは出來ず、母からは取返へすことも出來ないなら、竊か もの飮んで居る最中。然し思ったより靜で、妹お光の浮いた笑聲に自分で辨償するより外の手段はない。八千圓ばかりの金高から百 ちょう・つら と、これに件ふ男の太い聲は二人か三人。母はじろり自分を見たば圓を帳面で胡廠化すことは、たとひ自分に爲し得ても、直ぐ後で發 ふる かり一言も言はず、大きな聲で、 覺る。又自分には左る不正なことは思って見るだけで、身が戦へる 「お光、お銚子が出來たよ。」と二階の上口を向いて呼んだ。「ハ ゃうだ。自分が辨償するとして共金を自分は何處から持て來る ? イ」とお光は下て來て自分を見て、 思へば思ふほど自分は如何して可いか解らなくなって來た。これ 「オヤ兄様」と言ったが笑ひもせず、唯だ意外といふ顔付き、其風は如何なことでも母から取返へす外はと、思ひ定めて居ると母は外 は赤いものづくめ、如何見ても居酒屋の酌婦としか受取れない。母から歸って來て、無言で火鉢の向に坐ったが、 の可怕い顔と自分の眞面目な顏とを見比べて居たが、 「如何だね、聞いてお呉れだったかね ? 」と言って長い烟管を取上 おっか げた。 「それからね母上さん、お鮨を取って下さいって。」 「さう。幾價ばかり ? 」 「何をですか。」と自分は母の顔を見ながら言った。 いゼ 「幾價だか。可い加減で可いでしよう。それから母上さんにもお入 「まア可いサ聞かなかったのなら。然しお前の用といふのは何だ なさいって。」 「あア」と母は言って妙な眼つきでお光の顔を見たが、お光は其儘 自分は懷中から三圓出して火鉢の横に置き、 自分の方は見向もしないで二階へ上って了った。自分は唯だ坐わっ 「これは二圓不足して居ますが、折角お政が作らへて置いたのです たきり、母の何とか言ひだすのを待って居た。 から、取って下さい、さう爲ませんと : ・ : ・」 つ、けんどん もらいら 「何しに來たの」と母は突屋貪に一言。 「最早不用ないよ。だから私も二度とお前逹の厄介にはなるまい をんこく 「先刻は失禮しました。」と自分は出來るだけ氣を落着けて左あら し、お前逹も私のやうなものは親と思はないが可い。その方がお前 ぬ體に言った。 逹のお德じやアないか。」 おっか あなた 「いゝえ如何しまして。色々御心配をかけて濟なかったね、歸る時「母上さんは。貴女何故そんなことを急に被仰るのです。」と自分 お政さんに言って置いたことがあるが聞いてお呉れだったかね ? 」 は思はず涙を呑んだ。 と何處までも冷やかに、憎々しげに言ひながら起上がって、 「急に言ったのが悪けりや謝まります。さうだったね、一年前位に しやはせ 「私はお客樣の用で出て來るが、用があるなら待って居てお呉れ」 言ったらお前逹も幸輻だったのに。」 を、つばり と臺所口から出て去って了った。 何といふ皮肉の言葉ぞ、今の自分ならば決然と、 自分は腕組みして熟っとして居たが、我母ながら之れ實に惡婆で 「さうですか、宜しう御座います、それじゃ御言葉に從がひまして あるとっくん、情なく、ああまで濟まして居る處を見ると、言った親とも思ひますまい、子とも思って下さいますな。子とお思ひにな むだ ると飛んだお恨みを受けるやうな事も起るだらうと思ひますから。 ところで、無益だと思ふと寧そのこと公けの沙汰にして終はうかと の氣も起る。然し現在の母が子の抽斗から盜み出したので、假令公就いては今日私の机の抽斗に百圓入れて置きました共が、貴女のお こは いくら こは ふところ

6. 日本現代文學全集・講談社版 18 國木田獨歩集

一時間ばかり經っと里子は眼を泣き膨らして供の居間に歸て來まれども如何でせう。此ゃうな目に遇って居る僕がプ一フンディの隱飮 はたし したから、 みをやるのは、果て無理でせうか。 「如何したのだ。」と聞くと里子は僕のに突伏して泣きだしまし 今や僕の力は全く惡蓮の鬼に挫がれて了ひました。自殺の力もな く、自滅を待つほどの意氣地のないものと成り果て居るのです。 おっかさん 「母上が供を離婚すると云ったのだらう。」と僕は思はず怒鳴りま 如何でせう、以上ザッと話しました僕の今日までの生涯の經過を あわて した。すると里子は狼狽て、 考がへて見て、僕の心持になって貰ひたいものです。これが唯だ源 あなた 「だからね、母が何と言っても所天決して氣にしないで下さいな。 因結果の理法に過ないと數學の式に對するやうな冷かな心持で居ら うっちゃ うみ 狂氣だと思って投擲って置いて下さいな、ね、後生ですから。」とれるものでせうか。生の母は父の仇です、最愛の妻は兄妹です。こ 泣聲を振はして言ひますから、「さういふことなら投擲って置く譯れが冷かなる事實です。そして僕の運命です。 に行かない。」と僕はいきなり母の居間に突人しました。里子は止 若し此運命から僕を救ひ得る人があるなら、僕は謹しんで敎を奉 すくひぬし める間もなかったので僕に續いて部室に入ったのです。僕は母の前じます。共人は僕の救主てす。」 に座るや、 あなた わけ 「貴女は私を離婚すると里子に言ったさうですが、其理由を聞きま せう。離婚するなら仕ても私は平氣です。或は寧ろ私の望む處で御 自分は一言も交へないで以上の物語を聞いた。聞き終って暫くは おっしゃ 座います。けれども理由を被仰い。是非共の理由を聞きませう。」 一言も發し得なかった。成程悲慘なる境遇に陷った人であるとック と醉に任ぜて詰寄りました。すると母は僕の劒幕の餘り鋧いので喫ヅク氣の毒に思ったのである。けれども止むなくんばと、 驚して僕の顏を見て居るばかり、一言も發しません。 「斷然離婚なさったら如何です。」 「サア理由を聞きませう。怨靈が私に乘移って居るから氣味が惡い 「それは新らしき事實を作るばかりです。既に在る事實は其爲めに といふのでせう。それは氣味が惡いでせうよ。私は怨靈の兒です消えまぜん。」 やむ もの。」と言ひ放ちました、見る / \ 母の顔色は變り、物をも言は 「けれども共は止を得ないでせう。」 ず部屋の外へ駈け出て了ひました。 「だから運命です。離婚した處で生の母が父の仇である事實は消ま 僕は共まゝ母の居間に寢て了ったのです。眼が覺めるや酒の醉もせん。離婚した處で妹を妻として愛する僕の愛は變りません。人の すわっ 醒め、頭の上には里子が心配さうに僕の顔を見て坐て居ました。母力を以て過去の事實を消すことの出來ない限り、人は到底運命のカ 者は直ぐ鎌倉に引返したのでした。 より脱ることは出來ないでせう。」 かは こちら 語其後僕と母とは會はないのです。僕は母に交って此方に來て、母 自分は握手して、默禮して、此不幸なる靑年紳士と別れた。日は かは ゅふペ 運は今、横濱の宅に居ますが、里子は兩方を交るえ \ 介抱して、二人既に落ちて餘光華かにタの雲を染め、顧れば我運命論者は淋しき砂 いたゞき ながめ の不幸をば一人で正直に解釋し、たゞ / 、怨靈の業とのみ信じて、 山の頂に立って沖を遙に眺て居た。 くるしみまるきり 二人の胸の中の眞の苦惱を全然知らないのです。 其後自分は此男に遇ないのである。 僕は酒を飲むことを里子からも醫師からも禁じられて居ます。け あは ( 明治三十五年十一一月 )

7. 日本現代文學全集・講談社版 18 國木田獨歩集

歸りになると同時に紛失したので御座いますが、如何がでしよう、若 高めて乘掛る。 しか反古と間違って、お袂へでもお入になりませんでしたらうか、 「ま、ま、さう大きな聲で : ・・ : 」と自分はまご / ・・、。 一應お聞申します。」と腹から出た聲を使って、グッと急所へ一本。 「大きな聲が如何したの、いくらでも大きな聲を出すよ : : : さア今 つかま 「何だと親を捕へて泥棒呼ばはりは聞き捨てになりませんそ。」と 一度、言って御覧。事とすべに依ればお光も呼んで立合はすよ。」 ゑみ 來る所を取って押へ、片頬に笑味を見ぜて、 といふ劔幕。此時二階の笑聲もびたりと止んで、下を覗がひ聞き耳 うろた 「これは異なこと ! 親子の縁は切れてる筈でしよう。イヤお持歸をたてゝ居る樣子。自分は狼狽 ( て言葉が出ない。もちノ \ して居 りなりませんなら其で可う御座います、右の次第を屆け出るばかり ると臺所ロで、 ですから。」と大きく出れば、いかな母でも半分落城する所だけれ 「お待遠さま」といふ聲がした。母は、 ど、彼の時の自分に何んでこんな芝居が打てやう。 「お光、お光お鮨が來たよ」と呼んだ。お光は下りて來る。格子が 惡々しい皮肉を聞かされて、グッと行きづまって了ひ、手を拱ん開いたと思ふと、「今日は」と入って來たのが一人の軍曹。自分を だま暫時は頭も得あげず、涙をほろ / \ こぼして居たが、 ちょっと尻目にかけ、 あんま 「母上さん、それは餘りで御座います。」とやう / 、に一言、母は 「御馳走樣」とお光が運ぶ鮨の大皿を見ながら、ひょろついて尻餅 うはて 何所までも上手、 をついて、長火鉢の横にぶつ坐った。 「何が餘だね。それは此方の文句だよ。チョッ泣蟲が揃ってら。面「おやまア可いお色ですこと」と母は今自分を睨みつけて居た眼に 白くもない ! 」 媚を浮べて「何處で。」 自分は形無し。又も文句に塞ったが、氣を引きたて長父の寫眞を 「ハッハッ : : : 其は軍事上の祕密に屬します。」と軍曹酒氣を吐い 母の前に置きながら て、「お茶を一ばい頂戴。」 おとう A : っネ ぜはし 「父上さんをお件れ申してのお願ひで御座います。母上さん。何卒「今入れて居るじゃありませんか、性急ない兒だ」と母は湯呑に充 わたくし ばいっ : お返しを願ひます、それでないと私が : : : 」と漸との思で言 滿注いでやって自分の居ることは、最早忘れたかのやう。二階から ひたした。母は直ぐ血相變て、 大聲で、 「オヤそれは何の眞似だえ。を可笑なことをお爲だねえ。父上さん 「大塚、大塚 ! 」 あなた の寫眞が何だといふの ? 」 「貴所下りてお出でなさいよ。」と母が呼ぶ、大塚軍曹は上を向い 「どうか左う被仰らずに何卒お返しを。今日お持返りの物を・ : : ・」 「先刻からお前可笑なことを言ふね、私お前に何を借りたえ ? 」 「お光さん、お光さん ! 」 そと けはひ 「何にも申しませんから、左う被仰らずにお返しを願ひます、 外所は豆腐屋の賣聲高くタ暮近い往來の氣勢。とても此様子では やさし 灣それでないと私の立っ瀬がないのですから : : : 」と言はせも果てずと自分は急に起て歸らうとすると、母は柔和い聲で、 母は火鉢を横に膝を進めて、 「最早お歸りかえ。まア可いじやアないか。そんなら又お來でよ」 「怪しからんことを言ふよ、それでは私が今日お前の所から何か持と軍曹の前を作ろった。 ってでも歸ったと言ふのだね、聞き捨てになりませんよ。」と聲を 外へ出たが直ぐ歸へることも出來ず、さりとて人に相談すべきこ おっか やっ て、 のしか、

8. 日本現代文學全集・講談社版 18 國木田獨歩集

しか おとうさまえんづ しムねく た。」と直ぐ床を敷して休んで了ひました。 時分、お里の父上に縁かない前に或男に言ひ寄られて執着追ひ廻さ 此事の有った後は母の禪經に益々異常を起し、不動明王を拜むばれたのだよ。けれども私は如何しても其男の心に從はなかったの。 おふだ かりでなく、僕などは名も知らぬ符を幾枚となく何處からか貰っさうすると其男が病氣になって死ぬ間際に大變私を怨んで色々なこ て來て、自分の居間の所々に貼っけたものです。そして更に妙なの とを言ったさうです。それで私も可い心持は仕なかったが、此處へ は、これまで自分だけで勝手に信じて居たのが、僕を見て驚ろいた 縁づいてからは別に氣にもせんで暮して居ました。ところが所大が 後は、僕に向っても不動を信じろといふので、僕が何故信じなけれ死くなってからといふものは、其男の怨靈が如何かすると現はれて こは ばならぬかと聞くと、 可怖い顔をして私を睨み、今にも私を取殺さうとするのです。それ 「たゞ默って信じてお呉れ。それでないと私が心細い。」 で私が不動様を一心に念ずると共怨靈がだんノ消て無なります。 おっかさん ひとしほ 「母上の氣が安まるのなら信仰も仕ませうが、それなら私よりも それにね、」と、母は一增聲を潜め「この頃は共怨靈が信造に取っ お里の方が可いでせう。」 いたらしいよ。」 いけま 「お里では不可せん。彼には關係のないことだから。」 「まア嫌な ! 」里子は眉を顰めました。 「それでは私には關係があるのですか。」 「だってね、如何かすると信造の顔が私には怨靈そっくりに見える 「まアそんなことを言はないで信仰してお呉れ、後生だから。」と のよ。」 いふ母の言葉を里子も傍で聞て居ましたが、呆れて、 それで僕に不動様を信じろと勸めるのです。けれども僕にはそん おっかさん 「妙ねえ母上、不動様が如何して母上と信造さんとには關係があっ な眞似は出來ないから、里子と共に色々と怨靈などいふもの、有る て私には無いのでせう。」 べきでないことを説いたけれど無益でした。母は堅く信じて疑は 「だから私が賴むのじやアありませんか、理由が言はれる位なら賴ないので、僕等も持餘し、此鎌倉〈でも來て居て精を靜めたらと、 はしません。」 無理に勸めて遂に此處の別莊に入れたのは今年の五月のことです。」 「だって無理だわ、信造さんに不動様を信仰しろなんて、今時の人 にそんなことを勸たって : : : 」 「そんなら賴みません ! 」母は怒って了ったので、僕は一一一口葉を柔 高橋信造は此處まで話して來て忽ち頭をあげ、西に傾く日影を愁 ぜん げ、 然と見送って苦惱に堪へぬ様であったが、手早く杯をあげて一杯飮 おっかさん 「イヤ私だって不動様を信じないとは限りません。だから母上まアみ干し、 者其理由を話して下さいな。如何なことか知りませんが、親子の間だ 「この先は詳しく話す勇氣は僕にありません。事實を露骨に手短に あなた から少も明されないやうなことは無いでせう。」と求めました。 話しますから、共以上は貴様の推察を願ふだけです。 しんしつ うみ 運これは母の言ふ處に由て迷信を壓へ經を靜める方法もあらうかと 高橋梅、則ち僕の養母は僕の眞實の母、生の母であったのです。妻 ことに あや 思ったからです。すると母は暫く考へて居ましたが、吐息をして聲 の里子は父を異した僕の妹であったのです。如何です、これが奇し 7 を満め、 い運命でなくて何としませう。斯の如きをも源因結果の理法といへ 「これ限りの話だよ、誰にも知してはなりませんよ。私が未だ若い ばそれまでゞす。けれども、かゝる理法の下に知らす / 、此身を置 いけれ さい

9. 日本現代文學全集・講談社版 18 國木田獨歩集

! 56 「見ましたとも。」 までに苦しみは仕ないのです。 養母の梅は今五十蔵ですが、見た處、四十位にしか見えず、小柄「オヤさう、如何な顔をして居て ? 私も見たいものだ。」と里子 の女で美人の相を具へ、なかノ立派な婦人です。そして情の烈しは何處までも諭かしてかゝった。すると母は妻いほど顔色を變へ い正直な人柄といへば、智慧の方はやゝ薄いといふことは直ぐ解るて、 准んと でせう。快活で能く笑ひ能く語りますが、如何かすると恐しい程「お前怨靈が見たいの、怨靈が見たいの。眞實に生意氣なことをい 沈鬱な顔をして、半日何人とも口を交へないことがあります。僕はふよ此人は ! 」と言ひ放ち、つッと起て自分の部屋に引込んで了っ 養子とならぬ以前から此人柄に氣をつけて居ましたが、里子と結婚た。僕は思はず、 おっかさん 「母上如何か仕て居なさるよ、氣を附けんと : : : 」 して高橋の家に寢起することゝなりて間もなく、妙なことを發見し 里子は不安心な顔をして、 たのです。 おっかさんきっと にんと きみ ふどうみやう 「私眞實に氣味が惡いわ。母上は必定何か妙なことを思って居るの それは夜の九時頃になると、養母は共居間に籠って了ひ、不動明 ですよ。」 王を一心不亂に拜むことで、ロに何ごとか念じっ又床の間にかけた よなかすぎ 「ちっと經を痛めて居なさるやうだね。」と僕も言ひましたが、さ 火炎の像の前に禮拜して十時となり十一時となり、時には夜半過に て翌日になると別に變ったことはないのです。變って居るのは唯々 及ぶのです、晝間の中、沈鬱いで居た晩は殊にこれが激しいやうで 何時もの通り夜になると不動樣を拜むことだけで、僕等もこれは最 した。 しひ 僕も初めは默って居ましたが、餘り妙なので或日このことを里子早見慣れて居るから強て氣にもかゝりませんでした。 いつも 處が今年の五月です。僕は何時よりか二時間も早く事務所を退て に訊ねると、里子は手を振って聲を潜め、「默って居らっしゃいよ。 あれは二年前から初めたので、あのことを母に話すと母は大變機嫌家 ( 歸りますと、其日は曇って居たので家の中は薄暗い中にも母の へや を悪くしますから、成るべく知らん顔をして居たほうが可いんです室は殊に暗いのです。母に少し用事があったので別に案内もせず懊 まる・てきちがひ を開けて中に入ると母は火鉢の傍に。ほっねんと座って居ましたが、 よ。御覽なさい全然狂氣でせう。」と別に氣にもかけぬ様なので、 僕の顔を見るや、 僕も強ては間ひもしなかったのです。 しりもちっ つ、たっ 「ア、ア、アッ、アッ ! 」と叫んで突起たかと思ふと、又尻餅を春 けれども共後一月もして或日、僕は事務所から歸り、夜食を終へ びつくり いて熟と僕を見た時の顔色 ! 供は母が氣絶したのかと喫驚して傍 て雜談して居ると、養母は突然、 をんりゃう たっ に駈寄りました。 「怨靈といふものは何年經ても消えないものたらうか ? 」と間ひま 「如何しました、如何しました。」と叫んだ僕の聲を聞て母は僅に した。すると里子は平氣で、 座り直し、 「怨靈なんて有るもんじやアないわ。」と一言で打消さうとすると、 むき 「お前だったか、私は、私は : : : 」と胸を撫すって居ましたが、其 母は向になって、 間も不思議さうに僕の顔を見て居たのです。僕は驚ろいて、 「生意氣を言ひなさんな。お前見たことはあるまい。たからそんな おっかさん 「母上如何なさいました。」と聞くと、 ことを言ふのだ。」 ひっくり たしぬけ しつかさん 「お前が出找に入って來たので、私は誰かと思った。おゝ喫鸞し 「そんなら母上は見て ? 」 わう ふさ ひい

10. 日本現代文學全集・講談社版 18 國木田獨歩集

五月八日 悪く顔を掠めた。敷居に立って豆洋燈を高くか、げて眞暗の隅々を 6 熟と見て居たが、竈の橫にかくれて黒い風呂敷包が半分出て居るの 明くれば十月二十五日自分に取って大厄日。 こども あさめし に目が着いた。不審に思ひ、中を開けて見ると現はれたのが一筋の 自分は朝起きて、日曜日のことゆゑ朝食も急がず、小見を抱て庭 女帶。 に出で、共霆らをぶら / \ 散歩しながら考へた、帶の事を自分から よそゆきたっ 驚くまいことか、これお政が外出の雎た一本の帶、升屋の老人が 言ひ出して止めやうかと。 特に祝はって呉れた品である。何故これが此所に隱してあるのだら 然し止めて見た處で別に金の工面の出來るでもなし、さりとて斷 たっ 然母に謝絶することは妻の斷て止める處でもあるし。つまり自分は 自分の寢靜まるのを待って、お政はひそかに簟笥から此帶を引出知らぬ顔をして居て妻の爲すがまゝに任すことに思ひ定めた。 し、明朝早くこれを質屋に持込んで母への金を作る積りと思ひ當っ 朝食を終るや直ぐ机に向って改築事務を執って居ると、升屋の老 た時、自分は我知らず涙が頬を流れるのを拭き得なかった。 人、生垣の外から聲をかけた。 自分は共のま長帯を風呂敷に包んで元の所に置き、寢間に還って 「お早う御座い。」と言ひっ又椽先に廻って、「朝はらから御勉強た 長火鉢の前に坐わり烟草を吹かしながら物思に沈んだ。自分は果しね。」 て彼の母の實子だらうかといふやうな怪しい慘ましい考へが起って 「折角の日曜も此頃はつぶれで御座います。」 まる・て なあ 來る。現に自分の氣性と母及び妹の氣象とは全然異って居る。然し ノハハハッ何に今に遊ばれるよ、學校でも立派に出來あがった慮 父には十の年に別れたのであるから、父の氣象に自分が似て生れたで、しんみりと戦ひたいものだ、私は今からそれを樂みに爲て居 といふことも自分には解らない。かすかに覺えて居る所では父は柔る。」 和い方で、荒々しく母や自分などを叱ったことはなかった。母に叱 座に着いて老人は烟管を取出した。此老人と自分、外に村の者、 られて柱に縛りつけられたのを父が解て呉れたことを覺えて居る。 町の者、出張所の代診、派出所の巡査など五六名の者は笊碁の仲間 其時母が父にも怒を移して慳貪に口をきいたことをも思ひ出し、父 で、殊に自分と升屋とは暇さへあれば氣永な勝負を爭って樂んで居 こっち のこと母のこと、それから共へと思を聯ね、果は親子の愛、兄弟の たのが、改築の騷から此方、外の者は兎も角、自分は殆ど何より嗜 愛、夫婦の愛などいふことにまで考へ込んで、これまでに知らない好唯一の道樂である碁すら打ち得なかったのである。 深い人情の祕密に觸れたやうな氣にもなった。 「來月一ばいは打てさうもありません。」 たすく お政は痛寸しく助は可愛く、父上は戀しく、懷かしく、母と妹は 「その代り冬休といふ奴が直ぐ前に控へて居ますからな。左右に火 ふところ 悪くもあり、痛ましくもあり、子供の時など思ひ起しては戀しくも 鉢、甘い茶を飲みながら打っ樂みは又別だ」といひっ長老人は懷中 あり、突然寄附金の事を思ひだしては心配で堪らず、運動場に敷く から新聞を一枚出して、急に眞顔になり、 小砂利のことまで考へだし、頭はぐら / 、して氣は遠くなり、それ 「ちょっと是を御覽。」 で居て訷經は何處かに焦々した氣味がある : 披げて一一面の電報欄を指した。見ると或地方で小學校新築落成式 嗚呼 ! 何故彼の時自分は酒を呑まなかったらう。今は舌打してを擧げし常日、廊下の欄倒れて四五十人の兒童庭に類落し重傷者一一 飲む酒、呑めば醉ひ、醉へば樂しい此酒を何故飮まなかったらう。 名、輕傷者三十名との珍事の報道である。 0 0 0 0 ひろ てすり