びまど 一心に網うつは安からぬけふ日の惑ひ。 さるにてもうれしきは浮世なりけり。 うち 雨の中、をりをりに雲を透かして さ綠に技げかくる金の光は ね また雨に忍び人る。音には刻めど 絶えて影せぬ鶺鴒のこゑをたよりに。 小鳥は飛ぶ、彼はその飛ぶことすらも 曾て悟らざるがごとし。 小鳥は飛ぶ、金色の光に飛ふ。 小鳥はただ飛ぶ、形なき一線に飛 . ぶ。 はね さながら翼つけし獨樂の はや とめてとまらぬその迅さ。 かぎりなき大海の上、 ただひとっころがれる日輪の しゅべにまろ 朱紅の圓さ。 小鳥は飛ぶ、一線にその面を横ぎる。 抄かなしくも突き拔けむとす。 小鳥はこの時まさしく小鳥の姿となる。 3 イよ をきれい めん 眞珠抄序品 わが心は珠の如し、時に曇り、折にふれて虔ま しき悲韻を成す。哀とどめがたし、ただ常住 のいのちに縋る。眞實はわが所念、眞珠は海の 祕寶、音にめて涙ながせよ。 潤ほひあれよ眞珠だま、幽かに煙れわがい のち。 眞珠抄短唱 眞珠抄 永日禮讃 したた 滴るものは日のしづく、靜かにたまる眼の 人間なれば堪へがたし、眞實一人は堪へが たし。 珍らしや、寂しや、人間のつく息。 眞實寂しき花ゅゑに、一輪草とは申すなり。 哀れなる龍膽の春の深さよ、あな春の深さ よな。 キ、りギ、りす 磯草むらの撕、鳴かずにゐられで鳴きし きる。 宙を飛ぶ燕、ひもじかろ燕。 鳥のまねして飛ばばやな、光の雨にぬれば ゃな。 あまり冷たし蟲の穴、さのみ金銀珠玉な鏤 めそ。 たくら 光りて企む蟲の角、メフィストフェレスが ひと日海のほとり、斜なる草原の中に寢ころび身のこなし。 ぬ。日の光十方にあまねく身をかくすよすがも なし。眞實にただひとり、人問ものもあらざれ ば感極まりて乃ち涙をぞ流しける。 とめどなや、風がれうらんとながるる。 りんだう ちりば
吉日 女 - ドモニ惚レラレタラ・ハ ウレシカロゾトオモへド - モ、 フラレタラバクヤシカラムゾ、 ヨシモナヤノ、ケフノョキ日フ。 巡禮 アキラ 眞實、諦メ、タダヒトリ、 樂眞實一路ノ旅ヲュク。 ノ眞實一路ノ旅ナレド、 白眞實、鈴フリ、思ヒ出ス。 2 ス ( グ 素肌ニウケテ、身ジロガネ、 アマリニソソグ日ノ光、 アハレミタマへト目ヲップル。 フタッノ鏡 イヅレガ影力、カガャカニ、 マコト イヅレガ眞、エモワカネ。 鏡フタッヲ照リアハセ、 光リテヲノノク我ガココロ。 麗空 麗らかな、麗らかな、 何とも彼ともいへぬほど麗らかな、 實に實に麗らかな。 瑠璃晴天の空の上。 はるかの下界に雪の連峰。 山はみな鏡角、 白い波を打ち、ますます高く、 眞白に光る、その間から ひとすぢ煙を吐く山もあり。 その煙までが音たてず。 麗らかな、麗らかな、 何ともかともいへぬ麗らかな、 雲がふはりと空に居ゑ 實に實にうららかな。 見れば見る程うららかな。 第二白金ノ獨樂抄 正覺坊が空に居る。 大きな大きなその龜が、 麗らかに匍うてゆくのが眼に眩し。 雪の山をのにり越して 照り光るまんまるい日輪光にさしかかる、 ゆったりと正覺坊。 麗らかな、麗らかな、 何ともかともいへぬほど、麗らかな、 實に實に麗らかな、 るりいろの虚空から、その龜が ぼたり。ほったり卵を落し、 何處へゆくのかもわからず、 また乘り越してゆく日輪を。 泣くに泣かれぬ天景に 正覺坊はいつまでも、いつまでも、 まるい卵をぼたりにったり。 日輪は金になったり、白くなり。 麗らかな、麗らかな 何ともかともいへぬ麗らかな、 實に實にうららかな、 晝の幽靈、正覺坊の尻の穴。 てんけい まぶ
の 銀の眞晝に、色重き鐵のにほひぞ 鬱憂に吊られ壓さるる。 鋼鉞のにほひに噎び、 ひたはだか 絶えずまた直裸なる男の子 おもて 眞白に光り、ひとならび、力あふるる面して をど しふき 柵の上より躍り入る、水の飛沫や、 はっきん 白金に濡れてかがやく。 眞白なる眞夏の眞晝。 した 汗滴るしとどの熱に薄曇り、 くら 暈みて歎く吊橋のにほひ目當にたぎち來る 小蒸氣船の灰ばめる鈍き、 日は光り、煙うづまく。 硝子切るひと 君は切る、 色あかき硝子の板を。 いりひ 落日さす暮春の窓に、 えら いそがしく撰びいでつつ。 君は切る、 邪こんがう 金剛の石のわかさに。 9 アプサン 2 間香酒のつよきひとすち かくてはや靑白く疲れたる獸の面 今日もまた我見据ゑ、果敢なげに、いと果 敢なげに、 とのも 色濁る硝子外面より呪ひためらふ。 いづこにかうち狂ふ年オロンよ、わが唇よ、 身をもくべき砒素の壁、夕日さしそふ。 三薄暮の負傷 一狂念 血潮したたる。 あはれ、あはれ、 くれがたてきす 靑白き日の光西よりのぼり、 くれがたひ 薄暮の負傷なやまし、かげ暗き溝のにほひ 薄暮の灯のにほひ晝もまた點りかなしむ。 に、 ゆか はた、胸に、床の鉛に : わが街よ、わがよ、なにしかも燒酎叫び、 らくだ 鶴嘴のひとつらね日に光り悶えひらめく。 さあれ、夢には列なめて駱駝ぞ過ぐる。 えじぶと 埃及のカイロの街の古煉瓦 汽車ぞ來る、汽車ぞ來る、眞黑げに夢とど壁のひまには沙漠なるオアシスうかぶ。 ろかし、 その空にしたたる紅きわが星よ。 くわもつはこへう 窓もなき灰色の貨物輛豹ぞ積みたる。 血潮したたる。 あはれ、はや、燒酎は醋とかはり、人は轢 四象のにほひ かれて、 盲ひつつ血に叫ぶ豹の聲遠に泡立つ。 日をひと日。 日をひと日。 二疲れ あら くちつけ ししむら あはれ、いま、暴びゆく接吻よ、肉の曲。 日をひと日、光なし、色も盲ひて ふくだめる、はた、病めるなやましきもの つるはし っと引きつ、切りつ、忘れつ。 君は切る、 色あかき硝子の板を。 君は切る、君は切る。 惡の窓斷篇七種 と・も おもて
しだいに遠くへ離れます、 4 たすると、いっかしら雪雲が出て、 たつみ 西から巽へかぶさります。 ああ、せめては水平線にだけでも 靑い、すこしの空でも 殘してくれれば有り難いが、 あゐねずみ あちらも何だか時化てるやうです、藍鼠に。 お爺さん、舟を出しますか、 おおい、出すには出さうがの、 さかな 魚はみんな沈んで了った、 何にしても、今夜あたりは、 しゃち 金うろこの鯱でも來さうな沖だよ。 いさり 漁火をにうっと燃すんだな。 雪江 ろかう 雪は蘆江につもり、 山は高く、眞近に、 しづ 閑かなり、ただ、 ましろ 眞白なり、たた、 あした ああ、この朝、 うす干み 薄墨の空と水とに 半輪の眞珠いろの月。 ろがん 消えよ、蘆雁よ、 ああ、消えよ、蘆雁よ。 ああ、その早春の香氣さへ あまりに確か過ぎる。 雪院 しほなり ましてや正しい閑かな潮鳴、 この毛糸の上衣の眞赤さ、 あまりに會は眞近に切迫爲過ぎる。 髮毛の黒い、眼の大きい童子よ、 これがわたしの子であったか、 初秋の朝飯 雪のふかい枇杷の木の根を まさわ いつだか手を引いた事があったよ。 正眼に觀入る しろふよう すべては前の世の夜明のやうで、 白芙蓉。 ああ、今、この世でまた抱いたよ。 その雪がふってゐる、 幽かに聽くは ああ、今朝もその雪がふってゐる。 瀬のひびき。 やまみづ 秋はすずしき山水に 潮鳴の夜 ひた 時たま涵るわがこころ。 潮鳴の正しい夜煢になった。 わたくしは早険きの水仙を七寶の瓶に生け白の朝飯、 て、 白芙蓉。 輝く百燭光の電灯の下で、 一つ一つ、四角な細字を抓みあげ、それを今朝も身に染む また、 水しぶき。 ひとこまひとこま 方眼紙の一 小情一小間に押し入れてゐる。 あまりに全面が光り過ぎる。 初秋の夜 あまりに文字がはっきり爲過ぎる。 いさよひ あまりに理智に過ぎる、今夜のわたくしは。、月は十六夜、 この精密な考察と意識とは、また、 ほんの缺け初め、 あまりに透き徹り過ぎる。 稻妻だ、幽かな。 水仙の葉の濃靑さ、 花の白さ、つめたさ、 濡れて光るわづかの星、 かわ かす
北原白秋集目次 卷頭寫眞 筆蹟 邪宗門 思ひ出・ 雪と花火 ( 抄 ) ・ 畑の祭 ( 抄 ) ・ 眞珠抄・ 白金ノ獨樂 ( 抄 ) ・ 第二白金ノ獨樂 ( 抄 ) ・ 水墨集 ( 抄 ) ・ 海豹と雲 ( 抄 ) ・ 第一一海豹と雲 ( 抄 ) ・ 新頌 ( 抄 ) ・ 桐の ~ 化 雲母集 ( 抄 ) : 雀の卵 ( 抄 ) ・ 黑檜 ( 上卷 ) ・ 桐の花とカステラ・ 晝の思・ 詩集月に吠える序・ 愛の詩集のはじめに・ ・ : 一一 0 四
2 イ 7 舟 眞晝の綠の海、 小舟は疾く過ぎゅく。 見よ、太陽は稍左に轉じ、 みさきわも あくび 岬と灣とは欠伸したり。 聲もなし、漕ぎてゆく戀人を載せたる舟 小さくして甘き一つの舟 眞面目なる舟。 渚の家 午後。太陽は低く煙り 風はをの、き吹く。 散りまどへる波の嵐 りよくしよく 病める綠色のいぶきよ。 しらとり な製一 渚に群る又鳥、白鳥。 われら怒り、喜び、悲しむ。 影の如く われらゆく あ、 噫、群をなし跳り過ぎて。 をど けぶ 四十二年七月 四十二年四月 海鳥の歌 しゃいろ 赭色をなせる岩、海の上に あや 奇しくかゞやきて夢む。 太平洋上の眞晝。 浪重く、おもむろに空を吸へば 夏雲はものうげに こんじゃうみそこ 紺靑の水底に沈む。 時しもあれ、あ乂、か又る靜寂の世界に しらとり 音もなく舞ひくだる白鳥 むざん 日は爛れて、無慘なる光を放ち 赭色の岩かきけぶれども 痛ましき白鳥 いまし あゝ汝はおそれず。 くちばしうをあさ 逞しく太き嘴に魚を漁り、 のび ひるがヘす翼こそは暢らかなれ、 波の上に、また岩かげに 渚を、 守れ、守れ、渚をーー・ 渚に群る、鳥、白鳥。 あ又勇健の族よ。 ( 汝が集をいづこに ) しヾま 四二年三月 歡樂は何處にありや、 美なるもの何處にありや、 まろし 古き繪に似たる幻、 すゑものかけら 陶器の碎片の夢よ、 あはれ彼の日、 彼の女、 彼のわづらひ、 また一切の欲心とあこがれ、 われは歎く、すべてのもの あ又今何處にありやと。 かぢよ 消え映る一瞬の羽ばたき。 舞ひ立ちぬ、 ひらめきぬ、 飢ゑたるこ、ち 萬象の中、白鳥ひとっ あ、太平洋上の眞晝に。 冫れたる噴水 いづく いづこ 靑ざめたる 心の歎き 四十二年三月
177 雪と花火 雪はちらちらふりしきる。 おほり 城の御濠の深みどり、 雪を吸ひ込む舌うちの しんしんと沁むたそがれに、 きょわ 隝の氣弱がかきみだす うはペ 水の表面のささにごり、 知るや知らずや、それとなく 小石技げつけ、 ひっそりと底のふかさをききすます わかき忠彌か、わがおもひ。 君が祕密の日くれどき、 ひとり心につきつめて そっとさぐりを投げつくる おそれ 深き恐怖か、わが涙 たまゆら 千萬無量の瞬間に 雪はちらちらふりしきる。 キャベッ畑の雨 さぎり 冷びえと、雨が、狹霧にふりつづく、 キャベツのうへに、葉のうへに、 雨はふる、冬のはじめの乳綠の キャベツの列に、葉の列に。 はりがね あまっさへ 、柵の網目の鐵條に とりわ 白い鳥奴が鳴いてゐる。 雨はふる、くぐりぬけてはいきいきと、 色と香ひを嗅ぎまはる。 ささやかな水のながれは北へゆく。 キャベツのそばを、葉のしたを、 かはしも 雨はふる、路もひとすち、川下の 街も新らし、石の橋。 キャベッ畑のあちこちに かがみ、はたらき、ひとかかへ 野菜かついで走るひと、 雨はふる。けふもあをあを夏子。 小父さんが來る、眞蒼に、脚も顫へて。 さんざし 「お早うがんす。」山楡子の芽もこわごわと、 泥にまみるる、立ちばなし。 雨はふる。しつかと握る水藥の黄色の罎の 鮮やかさ。 「阿魔っ子がね、昨夜さ、 いいらぶつ吃驚げた眞似しでかし申しての、 お前さま。」 かみそり 雨はふる。光っては消える。剃刀で 咽喉を突いた女の頬。 「だけんど、どうかかうか生きるだらうって、 醫者どんも云ゃんしたから。」まづは安心 ゅん・ヘ しやもや と軍鷄屋の小父さん、 胸をさすればキャベッまで ほっと息する葉の光。 鳥が隝いてる : : : 冬もはじめて眞實に 雨のキャベツによみがヘる。 濡れにぞ濡れて、眞實に 色も香ひもよみがヘる。 新らしい、しかし、冷たい朝の雨、 キャベッ畑の葉の光。 雨はふる。生きて滴る乳綠の キャベツの涙、葉のにほひ。 梨の畑 あまり花の白さに きす ちょっと接吻をしてみたらば、 梨の木の下に人がゐて、 こちら見ては笑うた。 梨の木の毛蟲を 竹ぎれでつつき落し、 つつき落し、 のんびり持った喇叭で 受けて廻っては笑うた、 しょざいなやの、 梨の木の畑の 毛蟲探のその子。 萬年靑
ププ 6 子ども 天眞流露、子どもがはねるぞはねるぞ。 飛び越せ、飛び越せ、薔薇の花。子どもよ、 子どもよ、薔薇の花。 深夜 月ほそく光りたり、眞の夜中に。懺悔せよ とか。 すんきんほんどあみだっ 寸金本土の阿彌陀佛、光るは海の眞夜中。 海底 死んで光るものは珊瑚の集、弟アベルが眼 の光。 註。カイン怒って弟アベルを殺す、これ惡のはじめ なり。 恐らくは花ならむ、海の底の海松の小枝に、 輝く玉あり。輝く玉あり。 ざんげ のながれを堰くすべもなや。 ちちろと歎く蓑蟲も、螢の尻もみな幽けし。 なまじ寢鳥の寢もやらぬ春のこころの愁は しさよ。 色ならば、利休鼠か、水あさぎ、黄は薄く ほのかなるもの とも温かければ、卵いろとも人のいふ。 ゅめはうつつにあらざりき、うつつはゆめ よりなほいとし、まぼろしよりも甲斐なき水藻、ヒヤシンスの根、海には薔薇のり、 はなし。 風味あやしき菜は濁りに濁りし沼に険く、 なまじ淸水に魚も住まず。 幽かなるこそすべなけれ、美しきものみな もろし、奪きものはさらにも云はず。 花といへば、風鈴草、高山の蟲取菫、蒜の 花、一輪険いたが一輪草、二輪険くのが二 ひとのいのちはいとせめて、日の光こそす輪草、まことの花を知る人もなし。 べなけれ、麗かなるこそなほ果敢な。星、 月、そよかぜ、うす雲のゆくにまかする空葉は山椒の葉、アス。ハ一フガス。蔓は豌豆、 なれども。 藤かづら、芥子に恨みはなけれども、その 葉ゅゑこそ香も淸く、ひとに未練はなけれ ふりそそぐものみなあはれなり、雨、雪、 ども、思ひ出のみに身はほそる。 霰、雹に霙、それさへたちまち消え失せぬ。 あはれなるもの、木の梢。細やかなるもの、 土に置く霜、露のたま、靄、霧、霞、膂の竹の枝、菅の根の根のその根のほそ毛、絹 稻づま、ほのかなれども水陽炎のそれさへ絲、うどんげ、人蔘の髯。 賴むに足るものなし。 はろかなるもの、山の路。疲れていそぐは 煙こそあはれなれども、提へられねばよし 秋の鳥、とまるものなき空なればこそ、こ もなし。山家にゆけど、野にゆけども、水がれあこがれわたるなれ。玻璃器のなかの 第一一眞珠抄 いばら
綿雲のうす紫。 かす 稻妻だ、幽かな。 絶えずまたとどろく海、 嵐の名殘。 稻妻だ、幽かな。 月はいよいよ澄み、 搖れそよぐ斜丘の小 稻妻だ、幽かな。 ああ、そして一面の蟲の音、 初秋の露。 稻妻だ、幽かな。 綠の藜明 白い木槿の季節が來たね、さうして 孟宗の綠の夜明が。 を、りま一わ おや、この霧雨のどこかで 鶯が啼いてる。いや、あれは氣早な 百舌のロ眞似だ。 茶でもお入れ、それから すぐ朝飯だ。 ひさし 見ないか、あの廂の あまだれ ひとつひとつの雨垂を、光を。 まるで眞珠た。搖れてる。 ・てゼむし % あ、蝸牛だ、あのいちばん大きな雫は。 あ、蝸牛の雨垂だ。 月の夜の あすはびのき 羅漢柏の なんとなき こご そらこぼれた。また凝った。光った。 いい綠だ、いい綠だ。 夏野 目にとめて幽かなものは 野菊の花、 竹煮草のすがれた花穗。 この激しい日でりに わたしは纃子も忘れて來た。 草蠅よ、ぢいぢい蠅よ、 浪の音ではないか、 あの惓るい繰返しは。 このひもじい日ざしに わたしは煙草も忘れて來た。 目にとめて幽かなものは 野菊の花、 竹煮草のすがれた花穗。 月光微韻 ーー短唱一一十一一章ーー かす 人の 近づきて、 明るか、 のいばら 月の野茨。 月の夜に 影するものの眞近さ、 花ちり方の椎の木。 春の幽けさ。 月の夜の 煙草のけむり 匂のみ 露けきは月の夜にして、 竹の根の たけにぐさ 竹煮草の葉。 星より。も ほのかなものは みどり兒のほほゑみ、 ついたち二日の月。 かす ふつか
2 空に眞赤な 空に眞赤な雲のいろ。 はり 蘰璃に眞赤な酒のいろ。 なんでこの身が悲しかろ。 空に眞赤な雲のいろ。 秋のをはり 腐れたる林檎のいろに なほ奩きにほひちらぼひ、 つくゑ 水薬の汚みし卓に がすこんろ 瓦斯焜爐ほのかに燃ゆる。 やまうど 病人は肌ををさめて 愁はしくさしぐむごとし。 しめ 何ぞ濕る、醫局のゆふべ、 見よ、ほめく劇藥もあり。 むろ 色冴えぬ室にはあれど、 聲たててほのかに燃ゆる。 瓦斯焜爐・ : : : : 空と、こころと、 硝子戸に鈍ばむさびしさ。 しかはあれど、寒きほのほに 黄の入日さしそふみぎり、 朽ちはてし秋のヰオロン ほそぼそとうめきたてぬる。 まっか に 月光は早やもさめざめ : ・ : : : 涙さめざめ : かたほ 十月の暮れし片頬を ほのかにもうっしいだしぬ。 十月の顔 接吻の時 顔なほ赤し : 薄暮か、 : うち曇り黄ばめるタ、 日のあさあけか、 『十月』は熱を病みしか、疲れしか、 かしすりがらす 晝か、はた、 濁れる河岸の磨硝子脊に凭りかかり、 うち 霧の中、入日のあとの河の面をただうち眺ゅめの夜半にか。 む。 めくるめき そはえもわかね、燃えわたる若き命の眩暈 おびえ くちつけ 赤き震慄の接吻にひたと身顫ふ一刹那。 そことなき櫂のうれひの音の刻み : 涙のしづく : ・ : 頬にもまたゆるきなげき たいげつ や : あな、見よ、靑き大月は西よりのぼり、 ぎやくやはてふるひ あなや、また瘧病む終の顫して かけら ややありて麪包の破片を手にも取り、 東へ落つる日の光、 さは冷やかに噛みしめて、來るべき日の 大空に星はなげかひ、 みのも くすりが 味もなき悲しきゅめをおもふとき : 靑く盲ひし水面には薬香にほふ。 むせ なほもまた廉き石油の香に噎び、 あはれ、また、わが立っ野邊の草は皆色も 「オクス 腐れちらばふ骸炭に足も汚ごれて、 干乾び、 ふなばら かばねよ 小蒸汽の灰ばみ過ぎし船腹に 折り伏せる人の骸の夜のうめき、 まどわく ひとたまいろ 一きは赤く輝やきしかの慙枠を忍ぶとき・ : 人靈色の 木の列は、あなや、わが挽歌うたふ。 かくて早や、落穂ひろひの農人が寒き瞳よ。 よろこび 歡樂の穗のひとつだに殘さじと、 はた、刈り入るる鎌の刄の痛き光よ。 野のすゑに獸らわらひ、 血に饐えて汽車鳴き過ぐる。 つきかげ かい くれた よは びきうた のうにん