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検索対象: ダーウィンに消された男
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1. ダーウィンに消された男

な創造物であるか、あるいは進化の産物、すなわち類縁のく思っております」。もし本当にダーウインが受けとった ばかりだとすると、この手紙は六カ月半余りかかったわけ 近い親となる種の子孫であるかどちらかなのだ。 だ。つまり、航路の大動脈であるマカッサルⅱシンガポー この小論が雑誌に発表されたのは一八五八年のはじめに なってからであったが、それはダ 1 ウインが一八五五 ~ 五ルⅡロンドン間を通常の二倍かかって運ばれたことになる。 「あなたのお手紙を拝見して、またそれ以上に一年余り前 六年に感じていた重圧感から予想されないものではなかっ にアナルズ誌に掲載されたあなたの論文を拝読して、私た た。挑戦者ウオレスの重苦しい影がダーウインの胸のなか ちがたいへんよく似た考えをもっていること、ある程度ま でしだいに色を濃くしていった。 本質的には、ダ 1 ウインは潔癖で誠実な人格者であった。で同じ結論に達していることがよくわかりました」。ダウ 科学の進歩に献身し、人類の知識を拡大することに最大のン・ハウスの主人がこう書いていることからも、ウオレス 関心をよせる真の学者であった。 / 彼の良心はウオレスへのがダーウインにサラワク法則についての意見を求めたであ 返事をこれ以上のばすことを許さなかった。とはいうものろうという先の推測が裏づけられる。「アナルズ誌の論文 について申しあげれば、あなたの論文の一言一句がほとん の、ウオレスがうぶでおひとよしであった以上に、ダ 1 ウ インは世間ずれしていて気がまわりすぎた。そのうえ彼は、どすべて真実であることに同意いたしますが、理論的な論 自分でも認めているように、優先権の確立に気をとられ文について細かな点まで意見が一致することはめったにな いことを、あなたにもおわかりいただけると思います。残 ていた。 一八五七年五月一日、ウオレスの自己紹介の手紙を受け念ながら、人は同じ事実から各人各様の結論をひきだすも とったと考えられる日からおよそ四カ月後に、ダーウインのだからです」。 はウオレスに返事を書いた。二五年後にダ 1 ウインが死ぬ攻撃は最大の防禦であるとは戦術家のよく言うところで までつづけられる、二人の文通の開始であった。その手紙あり、ダーウインはそれを実行した。ウオレスよりはるか の一行目は正直なものとは思えない。「数日前にセレベスに年長で、著書や研究論文を多数発表し、いくつもの学会 からの一〇月一〇日付けのお手紙を拝受し、たいへん嬉しに所属していたダーウインは、この教育のない貧しい若僧 プライオリティー

2. ダーウィンに消された男

てのコーヒーと種々のスパイスの香り、そしてご多分にも冷汗をかき、手をだすのをためらった。ウオレスはあわて 彼よ庖丁をつかむと、「そっと捕虫網を て立ちあがった。 / 。 れずクローヴ ( 丁子 ) の香りが船尾のほうへ漂ってきた。 目隠しして世界旅行をしても、インドネシア諸島だけはクびきよせ、それをへビのま上にかざして直撃を受けないよ ローヴの香りでそれとわかる。たばこ好きのインドネシアうにした」。それから庖丁をへビの背中めがけてすばやく 振りおろし、真二つに切ったのである。連れのアリがクリ 人は、そのたばこにまでこの香料を混・せているからだ。 途中このコラコラ船は、・ハナナなどの生鮮食糧を補給すスの柄でさらに一撃を加え、ヘビの頭を叩きつぶした。 調べてみると、このヘビには大きな毒牙があった。「最 るために小島に立ち寄った。その夜、ウオレスは室に戻っ てマットレスに横になり、ろうそくを消した。寝具のわき初に触ったときに、よく咬まれずにすんだものだと思う」 の箱の上にハンカチが置いてあった。「それをとろうと手と彼は書いている。 これが、イギリスの静かな田舎を夢見ていた内気で気の をのばした私は、なにか冷たくてすべすべするものに触れ、 弓いウオレスだった。 それが動いたので、あわてて手をひっこめた」。 テルナテで彼を迎えたのは、ダーウインからの二通の手 ウオレスは大声で明りを求めた。脅えた乗客と船員がヤ シ油のラン。フの光の中に見たものは、ウオレスのハンカチ紙だった。一通は一八五九年一月二五日付け、二通目は四 とちらも今では大英博物館の原 の上できちんととぐろをまいた一匹のヘビだった。「すぐ月六日付けのものだった。・ にも捕えるか殺すかしなければならなかった。さもないと稿コレクションに納められている。この二通の手紙はその しし、まさにダーウイン 、内容と、 ヘビはごたごたと積んだ荷物の山のなかへ逃げこんでしま調子といい、構成といし うだろう」。そしてウオレスはいつもの控えめな調子でこの特徴がよくでていて、「厚顔無恥」という、ベルメルガ うつけ加えている。そんなことになったら「おちおち寝てゼット紙のダーウイン評を裏づけるものである。二通の手 紙の文面には、高潔と道義に混じって狡猾、言葉上手、罪 いられない」。 の意識がモザイクのようにあらわれていた。 ジャワ人の兵士の一人がヘビを捕える役を買って出て、 ウオレスがニューギニアから帰って、七月一日にリンネ 手に布を巻いた。だがいざというときになると、彼は急に 220

3. ダーウィンに消された男

ダーウインは、科学の発展のためにハトを殺さねばならぬ最初の逸脱は一八九一年、彼の「自然淘汰説への寄与』 とき涙を流さずにいられない男であった。 ( 一八七〇年 ) を「自然淘汰と熱帯の自然』に収録して再 この問題に対するウオレスの態度は、まさに彼らしいも版したときに見られる。この本には、ウオレスがモルッカ のであった。フランシスに先の礼状を出してから一抹の不諸島でマラリアの発作と闘いながら書き上げてダーウイン 安を感じたウオレスは、父親へのフランシスの信頼感がゆに送り、そしてリンネ学会で読み上げられたテルナテ論文 らぐことのないよう急ぎペンをとり、多くの人々が自然淘もそっくりそのままの形で収められている。しかしそこに 汰説の「名誉を私に与えて」くれようとしてきたが、あのは、初版にはなかった次のような脚注が新たに書き加えら メカニズムと分岐の原理の発見における自分の役割りはれた。「筆者にはこの論文の校正刷りに目を通す機会がな 「とるに足らないもの」であったとつねづね思ってきたし、 かったことを明記しておく」。 「いまでもそう思っている」と書き送った。 この脚注は、この論文が最初に発表されるにいたる波乱 だが薄氷はまたすぐに割れてしまった。一八九三年、夫多き日々に何があったかを知らない読者にとっては、おそ エーサ・グレイの書簡集を編んでいたジェ 1 ン・ローリンらく何の意味もない。しかし、フッカーとフランシス・ダ グ・グレイは一つの事実を知って当惑した。ダーウイン家ーウインは、この短い書き足しの意味をはっきり読みとっ たにちがいない。さらに、ウオレスは前書きを書き加えて 冫卩い合わせたところ、夫がダーウインに宛てた手紙のう ち一八五五年から一八五八年までの重大な期間の分がほと ( 彼はこの前書ぎを付け加えたことを序文にも目次にも断 わっておらず、明らかにそのために科学史家たちに見過さ んど失くなっていたのである。 もはやウオレスは、ダーウインたち故人のように聖人でれてきた ) 、自分のテルナテ論文が直接にもたらした結果 はいられなかった。ウオレスとて生身の人間であった。進は、ダーウインに「一部を書きおえていたがいっ完成する 化生物学のドラマにおける槍持という彼が自ら課した歴史ともわからない大がかりな著作のかわりに」、ただちに『起 的役割りからたまに逸脱したからといって、誰がそれを責原』を出版する準備にとりかからせたことである、と述べ ている。 められようか。

4. ダーウィンに消された男

人、モルッカ人、ジャワ人からなる一行を驚きと疑いと好でいる。その趣味のよさ、美しさはわれわれのデザイン学 奇心のいりまじった眼でながめていた。ウオレスたちは校でもきっとほめられるにちがいない ! 」。 「最初のうちは装填した銃を脇におき、見張りをたてて寝 。 ( プア人の体の色は「概して黒く」、ふつうのマレー人 た」が、数日たつうちに、「人々が友好的であることがわかのようなコ 1 ヒー色ではない、と彼は書いている。髪はか り、しつかり武装した五人の男をあえて襲うことはなさそらみあった短い縮れ毛で、目鼻立ちは黒人系であった。こ うだと思えたので、それ以上警戒するのをやめた」。このれらのことにはウオレスはほとんど驚かなかった。一六世 引用で興味深いのは、ウオレスが、アマゾンのインディア 紀にこの島の人々をはじめて見たヨーロッパ人が同じこと ンのときと同じように、はじめて会った・ ( 。フア人を「土を観察し、この土地がアフリカの西海岸のギニアによく似 人」とはいわずに人々とよんでいることである。後半につていると感じて、ニューギニアと名づけたのだった。 いていうなら、銃の威力を知らないパ。フア人は、この一隊しかし、エル・ドラドの言い伝えが探険家や冒険家をお 「しつかり武装している」とは考えなかったのではなかびきよせていたアマゾンとはちがって、「オランダ領ニュ ろうか。 1 ギニアが旅行者をひきつけるのは、黄金の輝きではなく、 パ。フア人、とりわけ奥地の。 ( プア人は、アマゾンではじ触れることのできない荘厳な輝き、すなわち雪であった」 めて出会ったインディアンと同様、ウオレスの興味をひい と、オランダ人の学者Ⅱ・・・パイルメルは書いてい た。パプア人は男も女も子どもたちもまったくの裸だった。る。マレー地域で万年雪をたたえているのはニューギニア 彼らはまわりの動物と同様、自然淘汰の産物であった。だ だけであり、一九〇七年にはじめてヨーロッパの探険隊が が、彼らはいろいろな面でウオレスを驚かせた。とくに注この雪に到達しようと試みたが、深いジャングルにはばま 意をひいたのは、彼らの間に美術に対する愛好の萌芽がみれて失敗した。 地 られることだった。「これらの人々が未開人でないとした だがウオレスが求めていたのは、雪ではなく、種であつの ら、どこに未開人がいるだろう。けれど、彼らは明らかに た。そして彼は再び昆虫の宝庫をみつけたのである。彼が巧 すぐれた美術を愛し、暇なときには作品の制作にうちこん胸を躍らせたできごとの一つは、眼の下から角のつきでた

5. ダーウィンに消された男

めてそれを和らげようと骨折っていたころ、ウオレスは母る汚点であり、それがけしてぬぐえぬものであることをダ ーウインは承知していた。いつの日か歴史に裁かれるにち 親を同じように扱っている。ウオレスはセラムからシムズ に宛てた手紙の追伸にさらにダ】ウイン的な追伸をつけて、がいない。「起原』以前の手紙が不可解にも消失したとこ 「これはあなたへのお願いですが、母には手紙だけを見せろで、教養あるダーウインがそう思わぬはずはなかった。 このウオレスを賞めたたえる傷々しい手紙は、もしウオレ てください」と懇願した。 ともあれ、この時期にウオレスが受けとった手紙のなかスが先に発表していたとしたら、自分は羨望と嫉妬にから 彼よ、自分がウォ でもっとも重要なものは、一八六〇年五月一八日付けのダれたにちがいない、と言っているのだ。 , ー レスとちがって、寛容でもなければ、人類共通の欠点を免 ウン・ハウスからのものである。それは、『起原』につい てウオレスが述べた感想に対するダーウインの返事である。れてもいないことを知っていた。これは、真実の前にひれ 罪悪感にさいなまれ続けていたダーウインは「拙著をほふし困惑し悩む人間の重大な告白であった。 ウオレスの行動がウオレスの人格をよくあらわしている めすぎている」とウオレスに不平を述べたあと、前年にも ウオレスへの手紙に書いた話をむしかえしている。「あなように、ダーウインの告白はダーウイン自身をよくものが たが私の本についてこれほど寛容な態度で語っておられるたっている。 ことに、心から感嘆しております。あなたと同じ立場にあ るなら、たいていの人は羨望と嫉妬を感じるにちがいあり ません。あなたはなんと立派にこの人類共通の欠点をすて さっておられることでしよう。けれど、あなたはご自身の ことをあまり謙遜されすぎておいでです。あなたに私ほど の時間があれば、私と同様、いやおそらくはもっと立派な 本を書かれたはずです」。 人格高潔の士にとって、リンネ学会事件は名誉を傷つけ ( 1 ) ウオレス線は今日、新たな発見に照らして科学的な興 味をそそられる。だが、ウオレスの生物地理学に対する 影響 ( そしていつもダーウインとくらべて語られるとい う運命 ) が一番よく示されたのは、一九五七年にスタン地 フォード大学で開かれたアメリカ生物科学研究所とアメ縁 リカ科学振興協会のシンポジウムであろう。二〇名の動 物学者、生物学者、地理学者、古生物学者がこの会議に

6. ダーウィンに消された男

「この特徴 : : : から、私は、この尾状突起のある雌が ( 飛 なるのではなくて、男の子は全員父親に似て肌が白く んでいるとき ) 同属の別種のチョウ、ホソジャコウアゲ 眼が青く、女の子はみな母親に似るとしよう。これだ けでもふしぎなのに、このチョウのばあいは、もっと ハ ( & co ) にそっくりであることを発見した。べ ッ氏がよく説明している擬態とよく似た例がここにもある 驚くべきことがある。それそれの母親は、父親似の雄 ことがわかったのである」。 の子どもと自分に似た雌の子どもを生むだけでなく、 スマトラでウオレスは、このアゲハを材料にして遺伝の なんともう一匹の妻に似て、自分とはまったくちがう 研究に手をつけた。彼がこれをおこなったのはじつに、オ 雌の子まで生むのである ! ーストリア人の僧侶グレゴール ・メンデルがエンドウをつ かって実験を行ない、遣伝学の基礎を固めていたのと同時しかし、ウオレスは身のまわりの自然淘汰にいろいろと 期のことであった。メンデルの研究はその後数十年陽の目気をとられ、その分、注意を集中する期間が短くなってい を見ずに埋もれていた。 た。「私の大きな欠点はあわてることだ」と彼はいったこ 尾状突起のあるアゲハとないアゲハの存在を論じるにあとがある。「なにか考えがうかぶと、二、三日考えただけ たって、ウオレスは独り者らしいおもしろいたとえを引い で、その間に思いうかんだ例で書きとばしてしまうのだ」。 ている。たぶん無意識に浮気な空想にふけったのであろう。 スマトラでは、彼はアゲハの謎を究明するより早くスマ ウオレスはこう書いている。 トラ産のサルのとりこになった。サルたちはスマトラの村 や農園付近にうようよいたし、ジャングルにはたえずキャ ッキャッという彼らの声があふれていた。尾の長いサルも あるイギリス人がどこか遠い島を放浪していて、二 いれば、短いサルもおり、なかにはまったく尾のないのも 人の妻をめとったとしよう。一人は髪が黒く肌の赤い インディアン、もう一人は縮れ毛で黒い肌をした黒人いた。また、長い腕をもっていて、けして樹上を歩いたり の女性である。そして子どもたちは、両親の特徴がい走ったりせずに、腕で枝にぶらさがって体を揺らせ、枝か ろいろな程度にまざりあって褐色の肌ゃうす黒い肌にら枝へすいすいと優雅に移動していくサルもみられた。 236

7. ダーウィンに消された男

分の家の前の道に水をまかなければならない。通りにはちなくなり、日付けや曜日がでたらめになったり、ときには り一つない。ふたのある下水溝はふたのない大きな下水に月までがわからなくなったりしている。マラリアの発作で すべての汚物を流しこむようにできている。この大きな下何日も寝たきりの日を送ったあとはことにそうだった。 「ここはひどいところです。ニュ 1 ギニア行きの便があり 水には満潮時に海水がはいりこみ、引き潮のとき、下水は しだい出発するつもりです」と彼はショウに書いている。 海水と一緒に海へ流れでていくのである」。 だが、彼もまもなく知ることになるのだが、第二次大戦に 舞踊や絵や彫刻、そして階段状の水田と胸をあらわにし リ島でおけるアメリカと日本の決戦地、ニューギニアはアルー島 た女性たちで有名な娃惑的なヒンドウー教の島、 は、ウオレスはその美しさに目をみはった。「私は驚きとよりさらに険悪な土地だった。マレー人、すなわちインド 嬉しさでいつばいだった。ヨーロッパ以外の地域でこれほネシア人がいうように、それは、ワニのロを逃れてトラの 口にはいるだけのことだった。 どよく耕作された美しい土地を見たことがなかった」。 一方のパリ島やセレベス島と他方のアルー島、ニューギ しかしアルー島は、エドガー・アラン・ポーの作品に出 ート・ルイス・スティーヴン てくるような布しい不快な島だった。英国地理学会の事務ニアの間に、ウオレスは ( 局長ノートン・ショウに宛てた「一八五七年八月」付けのスンの作品の島々のようないくつかの楽天地をみつけた。 手紙 ( これは今も同学会の貴重品保管室に保存されている ) 大きな湾を抱いたまことに美しい小島、アンポン島は、ニ でウオレスは、アルー島を、うっそうと生い茂るジャングシキ〈ビ事件があったにもかかわらず、そうした気にいり ルと険悪な沼沢地からなり、昼は無数のヒル、夜は蚊の大の土地の一つだった。「私の住居は、正面に屋根のない・ヘ 群、そして四六時中むっとする大気に悩まされる恐怖の島ランダと、後に暗い小さな寝室のある小ちんまりした草ぶ だと述べている。文明世界から遠くはなれてきちんとしたき小屋だった。地面から一・五メートルほど床上げされて 日付けとは縁がなかったのか、ショウ宛ての手紙にみられおり、べランダの中央にかかる粗末なはしごで上り下りすの るように、ウオレスの手紙やノート類には日付けのはつぎるようになっていた。壁と床は竹製で、部屋の中にはテー りしていないものがよくあった。彼はしばしば日をたどれ・フルと二脚の竹椅子、それに寝台が一つあった。おかげで

8. ダーウィンに消された男

イ . ライオリティー は種の問題のとりこになっていただけでなく、秘密主義と「博物学者のダーウイン氏」であった。一二年後、妻を伴 って英国を再訪したグレイは、フッカー家の昼食の席でふ 優先権にもとりつかれていたのである。 ダーウインがライエルに知らせることができなかったのたたびダーウインに会った。「ダーウイン氏は快活で好感 のもてる人物でした」と夫人のジェ 1 ン・ローリング・グ は、ライエルならばダ 1 ウインの考えの主な拠り所がウォ レスであることに気づいてしまうからであった。信頼するレイは日記に書いている。しかしグレイ夫妻とダーウイン フッカーでさえ、一八五八年、ウオレスのテルナテ論文がとの交際はそれまでであった。夫妻が接した主な人々はフ ダウン・ハウスに届いたあの六月の八日まで、つんぼ桟敷ッカーと、「大英博物館でよく会った」リンネ学会会長の 1 ト・・フラウン、オランダ生まれでウオレスのいたマ におかれていた。ダーウインが親友にたいしてどうしてこ レー諸島の植物学の専門家ナタニエル・ヴァルリッヒであ のような態度をとったのか、理解に苦しまざるをえない。 とにかく、ダーウインはウサギから身を守らねばならな グレイとダーウインのあいだには一八五五年にウオレス かった。自分は分岐の秘密をずっと以前から温めてきたの のサラワク法則が発表されるまで何ごともなかった。 だ、そんなことはあたりまえすぎて議論するまでもなかっ その年、ダ 1 ウインは北アメリカの高山植物の分布に興 たのだ、という何らかの証拠を彼は示さねばならなかった。 1 ド大学の著名な植物学者であった 彼はライエルやフッカーにさえ一言もしゃべっていないし、味をもち、当時ハ ターウインがグレイに宛てた最初 ウイグレイに意見を求めた。・ もちろんウオレスに対しても口をつぐんでいた。ダ 彼よさして面の手紙は、ウオレスがはじめてダーウインに書いた失われ ンは何か思いきった手を打っ必要があった。 , 。 識もない外国人であるアメリカの植物学者工 1 サ・グレイた手紙を思わせる文面ではじまる。「憶えていてくださる に手紙を書いた。そしてその私信のなかに、彼は自分の学と思いますが、私はあなたに紹介されるという光栄にあす かったことがあります」。 説を巧みに仕組んだのである。 ダーウインとグレイのあいだでやりとりされた初期の手 一八三九年、グレイがはじめてイギリスを訪れたとき、 彼は七歳年下のフッカーから一人の青年を紹介された。紙は歴史的にあまり意味がない。しかし一八五六年七月二

9. ダーウィンに消された男

ジョ 1 ドスン号の船長は漂流していた彼らを救助したあ 。フルースへの手紙に書いている。 1 ドスン号は平均二、三 / ット、トラファルガ 1 沖と、ターナー船長とウオレスに自分の船室の二段ペッドを をゆくネルスン提督の船くらいの速度であった。おそらく譲り、自分は天候のいい日にはソフアで眠り、嵐のときは それは実際にナポレオン戦争中につくられた船だったので船室の床にマットレスをしいて寝ていた。嵐がいちばんひ どかったある夜、「驚いたことに、船長が斧をおろして自 あろう。 おかもり 海上で強風にあったことがなかったウオレスは、陸者の分の脇に置いているのがみえた」。ウオレスはふしぎに思 呑気さで、「一度その現象を目撃してみたいものだと思ってってその斧をどうするのかとたずねると、「転覆したとき に、マストを切りはなすのです」、彼は仰天している陸者 いた」。だがイギリスにつくまでの間に、彼は秒速二四 ~ にとくとくと説明した。 一一三メートルの全強風に三回もまきこまれ、呑気な好奇心 その夜、荒波が船室の天窓を破り、海水がどっと船室内 は吹きとばされた。強風のたびに、海は沸きたっ泡のかた に流れこんだ。船長とマットレスは水浸しになり、船が揺 まりと化して、波頭は甲板にしぶきをとばし、船はもみに を水中に突込み、いまにれるたびに左右にザザーツと水が流れた。「いよいよ最期 もまれて、船首のパウスプリット 調理場では、波だ。船長は斧をもって甲板にとびだしていくにちがいな も分解せんばかりにギシギシときしんだ。 ; い」とウオレスは思った。「だが船長はさんざん毒づいた が砕けるたびにストー・フの火が傾き、燃え移るおそれがあ るため、乗組員は船底ポン。フのそばで寝ずの番をしなけれあげく、乾いた上着と毛布を探しだすと、なにごともなか ったかのようにソフアに寝ころんだのだった」。 ばならなかった。 半世紀ほど後に『わが生涯』を書いたとき、ウオレスは九月二九日、パラを発って八〇日目にジョードスン号は おかもの 『アマゾン紀行』にもスプルース宛ての手紙にも「陸者にとイギリス海峡にはいった ( ちなみに、往きは二九日しかか 地 からなかった ) 。やっとぶじに帰れたのだ。ところがまもなの っていちばん怖しかったいくつかのできごとは、書かなか く船はまたも強風にみまわれ、再び辛じて沈没を免れた。 った」と白状している。ウオレスはただただ怖しくてしかた この嵐はその数年来でもっとも激しかったもので、アイル がなかったのだ。ここでは一例を紹介すれば十分であろう。

10. ダーウィンに消された男

も、無造作なっかみどころのない言い方で、つまり例のることができ、そして弱いものは″追いやられる〃という 「厚顔無恥」なやり方で真実を語ることによって、追手を当り前のことが論証されているにすぎない」とホートンは 煙にまいてしまおうとしたのか。 言う。「この結論に対して反論すべき点はない、ただし新 歴史の彼方に忘れられていたホートンの批評は、ダーウしさに欠ける点を除けば」。 プライオリティー インの優先権に疑問をもって探せばすぐに見つけて利用 一方ウオレスについては、ホートンはその独創的で革命 できる形で残っていた。ホートンが行なった年次報告と総的な、そして危険な進化論を認め、それに対し強く異議を 会評は、一八六〇年にダ・フリンの出版業者・Ⅱ・ギルに唱えているのである。ホートンの批評がダ 1 ウインの心に よって出版されたダ・フリン地質学会誌第三巻の一三七頁にサラワクのヒルのようにへばりついたのは、むしろこのウ 埋もれていたのだ。この巻には後に王立アイルランド地質オレス評価のためかも知れない。 学会と改名された同学会の一八五七年から六〇年にかけて 「ウオレス氏はこの論文において、ダーウイン氏と同じ線 の総会の議事録が掲載され、そのなかに同学会の会長であに沿った論法を採用しているが、それをさらに一歩押し進 ったホートンの一八五八年の年次報告が含まれているのでめ : : : 」 ( 傍点筆者 ) とホ 1 トンは書き、次のウオレスの文 ある。 章をそっくりそのまま引用している。「自然界にはある種 ホ 1 トンは職務上、リンネ学会会長のベルと会誌を交換類の変種が原型から遠くへ遠くへと前進し続けていく傾向 していた。だがホートンは一八五八年を徒労に終った一年があることを、これで証明できたと思う。この前進には何 と酷評したベルとは異なる見解をとっていた。彼はダーウらの限界を設けるべき理由はないように思われ : : : 」。 インをけなしはしたが、ウオレスについては別の評価を下ホートンはウオレスの無限の進化という説に困惑した。 していたのである。 「原型から無限に遠去かっていくという可能性がここでは 「ダーウイン氏の論文は要するにマルサスの人口論を生物仮定されているのだが、これは我々の経験と矛盾し、自然 種に適用したにすぎず、その種のなかでもっとも健康で活の他の分野について我々の知っているあらゆることとくい 力があり、またもっとも〔食物に〕恵まれたものが生き残違うと言わざるを得ない」と彼は書いている。