たず、吹矢筒と毒矢のはいった矢筒、櫂、ナイフ、それに た」とウオレスは書いている。 火口箱だけをたずさえていた。 誰だってわざわざ危険を求めて一人でジャングルにはい ウオレスとペーツが互いに遠く離れるにつれて、苦難はる者はいない。危険、ウオレスが好んでつかうことばでい ます一方であった。彼らは昆虫に襲われ、くりかえしマラうなら「好ましくないこと」は避けられないのだ。「好ま リア熱の発作にいためつけられた。インディアンたちと同しくないこと」はジャガーや毒ヘビとのとっくみあいばか じく、彼らはジャングルに頼って生活しなければならなか りではない。ダニやカ、ヒルやカビも申しぶんなくその役 った。べーツは日記のなかで、主食のカメにうんざりして、割をはたしてくれる。しかも、二人が奥地へ行けば行くほ 空腹をがまんすることがよくある、とこ・ほしている。そのど、滞在が長びけば長びくほど、服はすりきれ、長靴は・ほ 点、ウオレスのほうが勇敢であった。彼はインディアンたろぼろになっていった。こうして日を追うごとに、彼らは ちの好物はワニの肉から赤アリにいたるまでなんでも食べ雨林の脅威に身をさらすはめになった。「鳥の皮をはいだ てみた。だが二人にとってなによりも辛かったのは、肉体り、魚の腹わたをぬいているときにうけた苦痛は、味わっ 的にも、知的にも、精神的にも、一人ぼっちであることだ た人でなければわかるまい」とウオレスは回想している。 った。緑の楽園はしだいにポルトガル人の探険家たちのい 「両足はたちまちピウムにくわれ、血のにじんだ小さな斑 う緑の地獄に変わっていった。 点が一面にひろがり、やがてそれが赤紫色にはれあがって 「ここにはジャガーもたくさんいれば、毒ヘビもうようよ炎症をおこすのだった。両腕も同じめにあうのだが、たえ している。一歩踏みだすたびに、い つも足の下をスルスルず動かしているので、いくぶんかはましだった」。 すね ウオレスも・ヘーツもチスイコウモリ ( 吸血コウモリ ) に襲 とすべる冷い感触を味わうのではないか、臑に毒牙がっき ささるのではないかと不安にかられた。 ・ : といって、立われている。二人がこのそっとする体験をしたのは、・フラ ちどまったり、ひきかえしたりしてもどうなるものではなム・ストーカーがカルバチア山脈のドラキュラ伯爵の物語の : だから、好ましくないことは結局なにも起こらない を書くずっと以前のことだった。アマゾンのチスイコウモ のだという漠とした信念をたよりに、先へ進むほかなかっリは、その進化の過程で、犠牲者に麻酔をかけたかのよう
る。 いる。「私は昔から、頭にうかんだ考えはほめたりとがめ 「マレ 1 諸島』に書いているように、彼は「これらの島々たりされるべきものではなく、そうされるべきなのは、そ の間に一本の線をひくことがでぎ、その線の片側は真にアの考えから生まれた行動だけだ、と考えている」とウオレ ジアに属し、他方の側はたしかにオーストラリアに近いとスは言う。「考えや信念はあぎらかに意志による行為では いう結論に達した」のである。この線は今日でもウオレスない。それは頭にうかんでくるものであってーーーどこから 線として世界的に認められている。それはポルネオとセレどううかんでくるのかはよくわからないが いったんう ベスの間を通り、・、 / リとロンボクの間をわけている。このかんでしまうと、私たちはそれを意志のカで拒否したり、 説は、一八七六年にマクミラン社から出版された『動物の変更したりすることはできない。考えや思いっきの発表は 地理的分布』に完全にまとめあけられた。これは動物地理自由であらねばならないが、それは公益のためであって、 学という学問分野の基礎を築いた本である。 賞賛にも非難にも、賞にも罰にも左右されてはならない」。 ダーウインに対する優先権の主張を放棄したことにつ ウオレスとダーウインはいろいろな点で異なっていたが、 いては、ウオレスは一番親しかったンレク、・ 、ノヘーツ、シム驚くほどよく似た点もあった。ダーウインもまた、歴史が ズに宛てた手紙で、ダーウインが先にやってくれたことをこれほどはっきりした学説の発見を自分とウオレスに残し 感謝していること、やむをえず、優先権の主張をすべてこておいたことをふしぎがっている。ウオレスと同様に、ダ ころよくあきらめたこと、を明らかにしている。ウオレス ーウインもこの説明のつかないことがらをたえず考えつづ けていた。 はダーウインの影の役割にあまんじたのだった。一方ダー ウインは、ウオレスをほぼ抹殺するという、長く暗い影を「昨夜は、未発見のことがらを人に発見させるのは何なの 歴史に投じたのである。 だろうかと考えていました。それはほんとうによくわから ウオレスは身をひくことを選んだばかりでなく、ある一ない問題です」とダーウインは自分の九人目の子どものホ つの哲学的な見解を展開して、自分の優先権を主張しな レースに書いている。「ひじように頭のいい人々、発見者 い決意を説明し、歳をとってからも何度もそれを表明してよりはるかに頭のいい人々がたくさんいるのに、彼らはな プライオリティー プライオ第ティー 230
不健康の一因は、衛生的とはけしていえない居住環境にさんは、故国を離れていた一〇年以上もの間、ずっとべー あったのかも知れない。ウオレスの部屋は散らかり放題だツの心の片隅でやさしく徴笑み続けていた女性」だった。 った。「自分用に折々に家へ送ってあった標本のはいった二人は一八六一年一月に結婚し、三人の息子と二人の娘を 荷物で部屋は一杯だった」。鳥の皮が数千枚と「少なくともうけた。 も二万匹の甲虫と蝶」、およびその他諸々が部屋中に所せ親しい友人もなく過したマレー諸島での八年間は、ウォ ましと山積みされていた。春から初夏にかけて、ウオレス レスの結婚観をすっかり変えてしまっていた。彼は若いこ は荷を一つずつほどいては、標本の山を区分けして整理すろ、幼ななじみのシルクと結婚についてよく話し、結婚と る作業に追われていた。そんなウオレスを母親は甘やかし、は慎重に決めなければならないものであり、いちばん大切 夕食の食卓にはいつでも食べきれないほどの御馳走が並べなことは男と女の知性的な関係だということで、二人の意 られた。 見は一致していた。しかし帰国直前にスマトラから書いた ウオレスはマレー諸島に関する「大作」にとりかかる前手紙で、ウオレスはシルクに「この点に関する私の考えは に、標本を全部整理してしまいたいと思っていた。だが、ずい分と変わってしまいました」と告白している。婚姻に ほかにもいくつか、急いでしなければならないことがあっ ついて、「ぼくは今では、良き妻とは男が得られる最大の た。仕事を見つけること、ダーウインに会うこと、そして天恵にちがいなく、幸福への唯一の道だと思ってます」と 結婚することであった。・ とれが後先ということはなく、と書いている。そして彼は、自分が考えを変えたことにシル にかくできる順に片づけていかなければならなかった。 クが賛成してくれるかどうか不安になり、次のように続け べーツはアマゾンに一一年間滞在し、三年前に帰国してている。 いた。彼もやはり同じような目標をもっていたが、結婚に 「いまでは知性はたいして重要なことだとは思いません」。 は時間がかからなかった。一八六〇年に、べーツはレスタもっと大切なことは「心やさしい妻」であることです、と ーのサラ・アン・メイスン嬢に求婚した。べーツの親友の彼は説明している。 エドワード・クロッドのすてきな表現によれば「このお嬢最果ての地で見聞きしたこともまた、ウオレスの結婚観 246
ラテン語にも困らなかった。「彼はよくへ・フライ語の酒歌応は、彼が紳士でありすぐれた学者であるという深い印象 を歌っていた。数人のイスラエル人と道づれになったときをダ 1 ウインの心に植えつけてした。・ 、 - ターウインは友好的 に、会話に加わってびつくりされ、彼らからその歌を教わで相手を気遣う人間になった。「起原』発行の一一日前に ったのだという。出会った人々の話や訪れた土地の秘話な水治療法施設イルキーウエルズで書いたこの手紙で、彼は ど、彼の話はっきるところをしらなかった」。 率直にこう述べている。「この学説におけるあなたの役割 一八六〇年の初めにテルナテに戻ったウオレスは、そこを、フッカーやライエルやエーサ・グレイ等、真実の陪審 でダーウインの手紙をうけとった。それは前年の一一月一員たちがみのがすはずはないと思います」。 三日、「起原』の出版直前に書かれたもので、「 ( できれば ) さらにダーウインは、ウオレスがいっ帰国するつもりか 郵便で拙著を一冊あなたに送るようマレイ社に言っておきをたずね、友情と援助の手をさしのべている。「あなたは ました。この手紙とだいたい同じ頃にそちらに届くこととまもなく厖大なコレクションをたずさえ、さらに重要な資 思います」と書かれていた。 料を頭におさめて帰国されるおつもりと察します。出版に ダ 1 ウインは驚くほど率直であった。空間的にも社会的ついてお困りのことがありましたら、英国学士院基金を考 えにお入れください」。 地位の点でも遠く隔っている二人の関係は、急速に緊密に なっていった。。 ターウインはさらに「あなたはこの問題を ダーウインからのこの一通の手紙は、ウオレスがアマゾ 私自身とほぼ同じ方向で深く考えておいででしたので、こ ンとマレ 1 諸島でなめたあらゆる艱難辛苦を償ってあまり の本についての感想をぜひうかがわせてください」と書いあるものだった。 ていた。 ウオレスはときおり故郷のことを思い出した。ときには 「起原』が印刷されて自分の優先権が保障されるや、ダイギリスへ帰りたくてたまらなくなることもあったが、ま 1 ウインはすっかり性格が変わってしまった。秘密に対すだやらねばならない仕事が残っていたし、生活費もかせが る罪の意識も、他人はおろか親しい友人まで疑う気持も消ねばならなかった。。 ヒウムやアカルスとちがって、お金は しとんでしまった。リンネ学会事件に対するウオレスの反どうやっても逃げきれぬ問題だった。経済的なことを考え プライ十リティー 226
年前の一八三九年に書いたもので、けして発表のため人目のうち場所をまちがえたのではあるまいか。それはきっと をさけて一気にしあげたものではありません」。 「私たちのほうへ改宗した」と書くべきだったのであろう。 ダーウインはこの手紙を思いやりのある好意的な調子で ウオレスが保管していたダーウインの最初の三通の手紙 こう結んでいる。「賞賛にあたいする熱意と根気が成功をは「マイ・ディア・サー」で始まっている。 ( 三通目の、 もたらすものならば、あなたこそもっとも多くの成功をおフッカーの手紙を同封した短い手紙はなくなっている。 ) さめるにちがいありません」。 そして、ダウンの消印のあるこの四月の手紙は五通目にあ ・ウオレ 四月の手紙は、ダーウインがこの時期、心に深い傷手をたるが、この手紙は「マイ・ディア・ミスター 負っていたことをものがたっている。この手紙でダーウィ ス」で始まっている。 ンは、要約の最初の部分を出版者のマレイに預けたことを いくつもの大洋と大陸をはさんで、二人の間柄は急速に ウオレスに知らせた。そして彼は、その要約のなかにウォ親密さを増していった。運命はダ 1 ウインとウオレスの名 レスの名をあげたといっておきながら、一方ではこう書いを永遠に結びつけた。ただし、地上に人類が生存する限り ている。「申しあげましたように、私はいま要約だけを発において。なぜなら、ウオレス日ダーウインの由来と分岐 表するつもりですので、参考文献はいっさいあげません」。 の学説が正しいとすれば、人類はいっかは舞台から姿を消 ダ 1 ウインはまた、フッカ 1 が種の起原の新説に「すっか し、新しい種が出現するはずだからである。ペリクレスの り宗旨変え」したと報告し、無邪気に喜んでいる。隣人のことばを借りれば、地球は偉大な人間の墓場ではなく、減 ジョン・ラボック卿も同じくこの学説の信奉者になった。 んだ種の墓場なのだ。 そしてこの手紙ではじめて、彼はこの学説を共作にすると ダーウインは追伸を書くのが好きで、追伸のない手紙の いう譲歩をおこなった。 ほうが少なかった。それらの短いつけたしの文章は、手紙 ックスリーは考えを変え、種の変化を信じていますが、の本文よりも彼のほんとうの気持をよく伝えている。四月 私たちのほうへ改宗したのかどうかはまったくわかりませの手紙には次のような長い追伸がついている。 ん」。傍点はやはりダーウインによるものだが、彼は傍点 222
はオデュッセウスのように耳をふさいだりはしなかっこ。 のなかを、川はおごそかにうねり流れてゆく : : : 」と熱っ 彼の読書傾向はしだいにアマゾンからユカタンへかけてのぼく描写していた。一年にわたる大冒険を重ね、それまで 熱帯アメリカに焦点がしぼられていった。 アメリカ人が誰一人到達したことのないアマゾンの源流に ペーツがニースを訪れ、ウオレスがロンドンへ旅してか溯った。また「博物学者が気にいらぬはずはないと思って」 ら二、三カ月の後、ジョン・マレー社 ( 後にダーウインの いろいろな植物、昆虫、鳥の標本を「遊び半分で」集めた。 「種の起原』を出すことになる出版社 ) は・Ⅱ・エドワ エドワーズは学者ぶったりせず、熱帯雨林の生物の種類 ーズのアマゾン川溯行記』を世に出した・ウオレスはさの豊富さにただただ驚きの目をみはっていた。 っそく買い求め、その二一〇頁ばかりの小冊子 ( 「このち ウオレスは、「さまざまな植物と昆虫、とりわけ甲虫」 つぼけな本」と彼はよんでいた ) を開くやいなや、抑えがの話を読み、エドワーズがムラサキオオダイコクコガネ たい興奮にとらわれた。 ( p 守き anc の標本を手にいれ、「あらゆる色と大ぎ それは前書きからして刺激的だった。アメリカ人のエ ドさのチョウの大群」を観察し、ある日「雪のように真っ白 ワーズは「アングロ・サクソンの誰も彼もが新しいものにな、まちがいなくアルビノの子ザル」をみつけた話を読ん 目を光らせ、新しい水場の発見が新しい惑星の発見以上の だときには、自分を抑えておくのがやっとであった。 、なに 熱狂をもって迎えられる、この騒々しい時代に : そしてなによりも、「景観も産物も、鳥も動物も他の地 か新しいことをみたり話したりしてわくわくすることを糧方とは異なっていて、それ自身が小さな世界をなしてい に生きている人々が、わが南の大陸にほとんど足を向けなる」というアマゾン川河口のマラジョ島の話を読んだとき、 かったことは、私にはふしぎでならなかった」と書いてい ウオレスの胸の高なりは最高潮に達した。種の重大な謎は その島でとけるのではないだろうか。 地 エドワーズは、アマゾン川を「川の王様 : : : 世界一の庭それに、エドワーズは、この地方は生活費がたいへん安の 園」と呼び、「もっとも美しくかっ変化にとんだ動植物を いとくりかえし書いていた。たとえば、世界最大の世界一 産し、それらを包みかくしているみわたすかぎりの原生林おいしいオレンジが一・フッシェル ( 約三五リットル ) 、なんと
い空と海のように明晰であった。ウオレスは論文を書きあ げると、「変種がもとのタイ。フから無限に遠去かる傾向に ついて」という表題をつけ、最後に「一八五八年二月、テ ルナテにて」と書いた。彼がこれを書いた場所は、「想像 もおよばぬもの」を最初に予感した場所ではなかった。 ウオレスのテルナテ論文は一行一行がみごとに整合して、 進化の全体像すなわち自然淘汰による由来と分岐のもよう を描きだしている。 ウオレスのこの論文は三七六四語からなり、ダ・フルスペ ースでタイプすると一五頁の分量がある。彼の説得力ある 文章は、このこみいった問題をいかにして簡潔に、だが単 純化しすぎぬように論じるかという難題を克服している。 ウオレスがその論文を書きあげたそのころ、ダーウインの 「ビッグゾック』は五〇万語に達していた。だがダウン・ハ ウスの主人は分岐の難問をつかみそこね、先の見通しはた っていなかった。その作業はまるで、ダーウインが自分の 問題を種切れになるまで書き尽そうとしているかのようで あった。 ウオレスの明快さについてはなんの説明もいらない。テ ルナテ論文から一部を紹介すれば十分だろう。 野生動物の生活は生存闘争である : 周囲の状況をよくよく考えれば、ある種がやたらに 数が多いのに、それと近縁な別の種がひどく少ないと いった、一見不可解にみえることがらを理解できるし、 ある程度説明することができる : ・ 地球上の動物の個体数が一定であり、あるいは、お そらく人間の干渉によって数が減っていることが明ら かなのだから、もし抑制がなければ、もっとも子の数 の少ない動物でさえ急速にふえていくはずである : ・ 単純な計算をしてみれば、一つがいの鳥が一五年で 約一千万個体にふえることがわかる。 つまり、毎年厖大な数の鳥が , ーーじつは生まれた数 とほ・ほ同じ数がーーー死んでいることになる。もっとも 低く見積っても、子孫は毎年親の数の二倍生まれるの だ。ある地域に生存する平均個体数がいくらであれ、 一年にその数の二倍が死んでいるという驚くべき結果 になる : 野生のネコ類は多産であるうえ、外敵もほとんどな以 いのに、なぜ飼いウサギのように増えないのか ? 合の 点のいく唯一の答は、食物の入手がままならないとい うことである。
ても、ウオレスは心から納得することはできなかった。 生物を殺すことへのダーウインの苦悩は、彼が一つの鳥ポルネオでオランウータンを殺したとき、ウオレスはこ の巣から卵を一個以上とったことは一度しかないと告白しとに深い罪悪感にさいなまれた。一つには、この動物が人 ていることからもうかがえる。また、ダーウインは魚釣り 間によく似た姿をしていたからであろう。また、ウオレス が大好きだったが、「多少釣れかたが悪くても生き餌を針は類人猿の社会的習性を研究した最初の研究者であり ( そ につける」ことをしなかった。ウオレスのほうは、美しい れはジョージ・シャラーがゴリラの仕事をし、ジェーン・ すばらしい生きものを殺すことはまちがいだという倫理的グドールがチン。 ( ンジーの中で暮す一世紀以上も前のこと 理由から生物学をすてた若い博物学者に心から共感し、そである ) 、したがって、人々がそれとなく感じていた人間 の気持がよくわかると述べている。そして、同じような手とミアスとのつながりをはっきりと見ぬかずにはいられな 紙をよこした別の人物にはこう返事を書いている。「私たかったためでもあろう。 ちは二人とも、虫けらから人間にいたるまで、あらゆる自 「ミアスが森の中をゆうゆうと通っていくさまは、まこと 然を愛しているのです」。 に見ごたえのある興味深い光景だ」。半直立姿勢で大枝の とはいえ、「虫も殺せぬ」タイ。フといわれそうな、はに上を歩いてゆくミアスを、ウオレスは人間と比較してこう かみやで引込み思案のウオレスが毎日動物を殺していた。書いている。「ミアスは腕が長く肢が短いため、いきおい 彼は、科学の名において自分のジレンマを合理化しようとそういう姿勢になる。私たちがやるように手のひらででは 試みた。人間以外の動物には未来についての意識がない、 なく、こぶしで歩くため、この四肢の長さの不釣合いがい と彼はいう。だから、虫を殺したばあい、虫の生命は明らっそう強調されるのだ」 ( 傍点筆者 ) 。ウオレスの記録によ かにそこで終る。一方、時間の観念をもつ人間のばあいは、れば、オランウータンはけして跳んだりはねたりすること以 今日のためだけでなく明日のためにも生きているので、そはないし、急いで歩くことさえしない。「それでもミアスの の死はあらゆる生物にくらべてもっともいたましいものとは、森の地面を人間が駆け出すくらいの速さで進むことが なる。だが、生命を奪うことについていくら議論をしてみできる」のである。
した。彼が自分や家族のことをあまり話してくれないので、ついてウオレスに質問している。「この動物は人の手で持 きっと「何かを隠している」にちがいないと思うと言うの込まれたものが野生化したにちがいないと私は推察するの だ。また、ウオレスが母親の友人のインド陸軍将校の未亡ですが、どんなものでしようか ? もしこれについて何か 人と仲が良いという噂を耳にしたとも書いてあった。ウォ明確な意見をお持ちでしたら、引用させていただけません レスは驚きあきれた。伯母か祖母のようなその未亡人を結か ? 」。 婚の対象と考えたことなど、あるはずがないではないか。 猩紅熱と種の問題が同等に扱われたのであれば、イノシ ウオレスはすぐさま手紙を書き、嬢の誤解をとこうとしシは当然、恋愛事件にまさる問題であった。 た。「しかし返事はなく、あの日以来、その家族の誰とも 二日後、ウオレスは返事を出した。婚約解消について 会っていないし、消息を聞いたこともない」。 「思いやりあるお言葉に大変感謝しています」と礼を述べ この事件は、ウオレスがアマゾン流域や東インドの人々ると、すぐにアルーのイノシシの起原に話題を移し、ダー とは気楽につき合っていたのに、同国人とはそういかなかウインの推察は間違いで、アルー種は隣接するニューギニ ったことをものがたるエビソードであるが、またダーウィ ア種に近い特異な種類であると確信すると論じている。 ンとの親交がどのようなものであったかもよくわかる。ウ しかし、イノシシのことをいくら一生懸命考えてみたと オレスはこの一件をダーウインに打ち明け、ダーウインは ころで、「心やさしい」妻を求める彼の燃える想いを鎮め 一八六五年一月二九日付けのウオレスへの手紙で、地理学ることはできなかった。 雑誌に載ったばかりのウオレスの論文の独創性に胆をつぶ したと述べたあと、「一生懸命研究していやなことを忘れ て下さい」と書き添えた。 この助言は、後にウオレスが率直に認めているように、 「私の婚約解消」に対するものであった。 その手紙の追伸で、ダーウインはアル 1 島のイノシシに
目をみはり、「べーツの言った通りでした」と賞賛の手紙かし、名士に群らがる習性をもっ街のア・フたちはウオレス を書いた。「難しい問題はあなたに聞くのが一番です。あをぞっとさせた。 , - 彼らの話は陳腐でつまらなく、「彼らに なたの推理ほどうまい説明はありますまい。この仮説を証話を合わせるなんて出来ない相談 : : : 」であった。 明されるのを楽しみにしております」。 ウオレスは彼らに陰気な印象を与えてしまうこともあっ ちょうどその頃、ジ = ンナー・ウェアーという昆虫学者たが、それは「ただうんざりしていただけだったのだ」。 が、自分の飼っている小鳥たちがイギリスにふつうに見ら ダーウインもそうだが、ウオレスはその穏やかで礼儀正 れるガの一種 ( S を 0 ミ。ミ ( 守呈 ( ) を食べようとしない しい外見とは裏腹に、内面には神経質なエネルギーが充満 ことを報告していた。ウェアーは、そのガが白くて夜にはしていた。やりたいことが山ほどあるのに、それをする時 よく目立ち捕食されやすいはずなので、自分の観察を説明間がないときほどいらだっことはない。おしゃべりで時間 しあぐねていた。この二つの事実をつき合わせたとき、ウを浪費するくらいなら、庭でぼんやりしていたほうがずつ オレスの頭に一つの解答がひらめいた。「タ闇のなかの白とましにちがいない。 いガは白日下の色鮮やかないもむしと同様によく目立つ。 こうして、ウオレスはロンドンから逃げ出すことにした。 つまりこの二つの例はまったく同じことであり、私は自分小刻みに何度も引越し ( ド 1 キング、クロイドン、ゴッド の説明が正しいとほぼ確信するにいたった」 アルミング、 ークストーン : ・ : ) 、二〇年もかかってよ ーデ それを聞いたダーウインは、「白いガの話はまことにみうやくドーセットに落ち着いた。この村はトマス・ ごとです」とウオレスに手紙を書いた。「一つの仮説が証イの故郷であり、彼の傑作「狂乱の群れをよそに』の精神 明されようとしているのを見ていると、体中の血がたぎるが充ちあふれていた。ウオレスは最後には、ロンドンから 思いがします」。 西へ一六〇キロ以上も離れた・フロ 1 ドストーンまで退却し者 学 だがロンドンの華やかさは、しだいにウオレスを消耗さナ こ。ダーウインや当時の人々がロンドン橋からダウンまで乏 せていった。・ ターウイン、フッカー、ライエル、ハックスの二五キロの道のりをおそろしく長いと感じていたことを 、そして彼らの家族は気持の良い人たちであった。し思えば、・フロードストーンへ行くことは惑星旅行にも等し