を計画。露勢東漸考を著わそうと企てたが完成し 野犬狩より生じた事件のため露国警察署留置所に なかった。ツルゲーネフ「けふり」の翻訳に着手 約一時間拘東された。八月、徳永商店を見限った したが未完となった。 旨、東京坪内逍遙に書き送った。九月初旬ハル。ヒ ン出発。営口を経て九月八日、旅順に到着。芝罘、 四 0 歳 明治三七年 ( 一九〇四 ) 営ロ、小海関、秦皇島、天津を経て一〇月七日、 一月、「黒竜江群の勇婦」を『女学世界』に訳載。 北京到着。川島浪速方に落ち着いた。一〇月、京 一一月、ボタアベンコ「四人共産団ーを『文芸界』 師警務学堂提調代理となった ( 報酬一か月銀一一五 〇元 ) 。一〇月下旬、ハル。ヒンへ戻り徳永商店と に訳載。一一月一〇日、日露戦争が始まる。三月、 別れた。一一月、ハルビン出発。八日、北京着。 「露西亜の婦人界」を『女学世界』に発表。三月。 北京北城分司庁胡同警務学堂公館に住んだ。 四日、大阪朝日新聞東京出張員となった ( 月給一 〇〇円 ) 。六月一一七日、一一男富継が誕生。七月、ガ 明治三六年 ( 一九〇三 ) 三九歳 ルシン「四日間」を刈心の筆名で『新小説』に訳 一月、坪内逍遙に異郷の正月の寂しさを述べ、た載、同月、トルストイの『っゝを枕』を金港堂か ら出版。八月一一〇日、富継の母高野りうとの婚姻 びたび長文の手紙を逍遙宛に送った。一一月、逍遙 届を出した。八月、「摩天嶺の逆襲」「巖の役」 へすでに川島浪速と性情が投合しない事、北京も ついに久恋の地でない旨書き送った。七月、警務を『大阪朝日新聞』に訳載。一〇月、脳を病み静 譜堂を辞し、在職中の慰労として三五〇元を受け養のため北豊島郡滝野川村大字田端四五七に一戸 た。七月一一一日、北京を出発、帰朝した。北京滞を構えた。一〇月、一一月、「哈爾賓通信」、一一 年 月、「欧露鉄道輸送力の大減殺」を『大阪朝日新、 在中、清国人松某につき清語を修めた。一一一月、 本郷区駒込西片町一〇番地ろノ一四号に居住。帰聞』に訳載。 朝後、生活のため逍遙と相談して種々の著作翻訳