川端康成 - みる会図書館


検索対象: 浮雲
11件見つかりました。

1. 浮雲

長塚節恩讐の彼方に菊池寛青春をいかに生きるか倉田百三 鸞全二冊吉川英治 カインの末裔有島武郎生きとし生けるもの山本有三親 生まれ出づる悩み有島武郎真実一路山本有三あるぶす大将吉川英治 小さき者へ・星座有島武郎学生時代久米正雄青空士官吉川英治 月 或る女有島武郎真知子野上彌生子忘れ残りの記吉川英治 眸一房の葡萄有島武郎迷路全三冊野上彌生子戯曲新・平家物語吉川英治 惜しみなく愛は奪う有島武郎注文の多い料理店宮沢賢治赤穂浪士全一一冊大佛次郎 鶴見祐輔 和 解志賀直哉セロ弾きのゴーシ = 宮沢賢治母 9 城の崎にて志賀直哉銀河鉄道の夜宮沢賢治暗黒星江戸川乱歩 学暗夜行路志賀直哉宮沢賢治詩集中村稔編黒蜥蜴江戸川乱歩 文羅生門・鼻・芋粥芥川龍之介若き日の悩み藤森成吉一寸法師江戸川乱歩 日杜子春・南京の基督芥川龍之介小説智恵子抄佐藤春夫陰 獣江戸川乱歩 代蜘蛛の糸・地獄変芥川龍之介性に眼覚める頃室生犀星伊豆の踊子・禽獣川端康成 国川端康成 舞踏会・蜜柑芥川龍之介愛の詩集室生犀星雪 録藪の中・将軍芥川龍之介かげろふの日記遺文室生犀星千羽鶴川端康成 少年・大導寺信輔の半生芥川龍之介出家とその弟子倉田百三山の音川端康成 対 くたび川端康成 偸盗・戯作三味芥川龍之介青春の息の痕倉田百三虹 姫川端康成 角河童・玄鶴山房芥川龍之介愛と認識との出発倉田百三舞 トロッコ・一塊の土芥川龍之介超 克倉田百三名 人川端康成 の或阿呆の一生・侏の言葉芥川龍之介絶対的生活倉田百三日も月も川端康成 端康成 父帰る・藤十郎の恋菊池寛絶対の恋愛倉田百三川のある下町の話ー

2. 浮雲

たまゆら川端康成かけろふの日記・礦野堀辰雄女同士石坂洋次邸 端康成大和路・信濃路堀辰雄わが日わが夢石坂洋次郎 東京の人全三冊 女であること川端康成珍品堂主人井伏鱒二愛情・少女石坂洋次郎 みすうみ川端康成駅前旅館井伏鱒二乳母車石坂洋次郎 月・ 橋石坂洋次郎 天のタ顔中河與一風の中の子供坪田譲治白 春伊藤整ある日わたしは石坂洋次郎 年城のある町にて梶井基次郎青 朝石坂洋次郎 若き詩人の手紙梶井基次郎典子の生きかた伊藤整寒 太陽のない街徳永直感傷夫人伊藤整若い川の流れ石坂洋次郎 帯 緑蟹工船・党生活者小林多喜二伊藤整氏の生活と意見伊藤整河のほとりで石坂洋次郎 貧しき人々の群宮本百合子女性に関する十一一章伊藤整別れの歌石坂洋次郎 学 惑伊藤整わが愛と命の記録石坂洋次郎 子宮本百合子誘 本播州平野・風知草宮本百合子いのちの初夜北条民雄雨の中に消えて石坂洋次郎 代幸福について宮本百合子命ある日片沢光治良陽のあたる坂道石坂洋次郎 現私は生きる平林たい子巴里に死す片沢光治良何処へ石坂洋次郎 録素足の娘佐多稲子愛と死の書片沢光治良金の糸・銀の糸石坂洋次郎 いとしい恋人たち佐多稲子春の谷間片沢光治良風と樹と空と石坂洋次郎 庫 蚊振りむいたあなた佐多稲子女にうまれて片沢光治良颱風とざくろ石坂洋次郎 婚片沢光治良だれの椅子 ? 石坂洋次郎 仰聖家族・燃ゆる頬堀辰雄結 風立ちぬ・美しい村堀辰雄坂の上の家片沢光治良如何なる星の下に高見順 幼年時代・晩夏堀辰雄人生劇場烹篇尾崎士郎今ひとたびの高見順 菜穂子・楡の家堀辰雄、攵の顔石坂洋次郎胸より胸に高見順

3. 浮雲

はれる。 この度 さて昨年六月、いよ / 東京を去って露都に向ふ際には、文学は自分の本領ではない、 こそは日頃の望みも遂け得る時機が来たと故人自身も考へたらしいし、人にも言ったやうではあ るが、それかと言って満韓経営、日露親交と云ふ類ひの政治問題とか社会政策とかにのみ没頭し 得る人としては、彼は余りに複雑し過ぎ大き過ぎた観がある。自分の考では彼は、何か知ら或大 きな物に生命を捧げやうとして居たのだと思ふ。彼の手になった文学上の製作、さては政治上の 議論なり画策なりは、その何か知ら或大きな物 , ーーそれは自分も言葉では表はせないが , ーー例へ ヒューマニティ ば人道、この人道の為に尽す一の歩階に過ぎなかった。 故人がその限りある現し身を以て、かの限りなき憧憬の道を歩まうとした所を評して或人は眼 高手低と言ひ、或人は矛盾の人と称した。思ふに彼は到底実行の人ではなかった。実行し得るに はその目的が余りに高遠であった。昔自分は或人に『長谷川はつまりその真価を世間に示さすし て終るだらう。彼は常に失敗したる英雄である。』と言った事がある。今にして思へばこの言の 的中して、彼の抱負がその十分の一だに実行せられすして終ったのが遺憾千万である。 抄さて彼は実行家でないとすれば如何なる種類の人であったかと言ふに、一種のフリイシンカア 献 ( 自由なる思索家 ) それが故人の本領ではあるまいか。彼自身も、文学は自分の本領ではないが、 文もし文壇に立つならば作家よりは批評家とならうと言って居た。然しその意味は今日の所謂文芸 批評家ではなくて人生の批評家、文明の批判者であるべぎであった。故人が日本を去る前に雑誌 『太陽』其他で発表した大胆なる懐疑説、実感尊重論の如きは、以て彼の人生批判の一端と見る

4. 浮雲

219 い続けて、そのいくばくも実現し得なかった。しかし大きな可能性を包んだ、未完成ながらどこ までも本質的には文学者であった、といえるのではないか。 しかし、それにしても、むつかしい、謎の多い文学者ではある。「むつかしい」というのは、 読者が寂しい時、向こうがあいそよく、または物わ かりよく迎えて、慰めてくれたり、励ましたりして 許くれる作家ではなく、どちらかといえば、気むつか 入しく、近よりがたく、きびしい作家だという意味で 国ある。愛嬌気も色気もない。誰がいったい二葉亭四 際迷を、いわゆる「好きな作家」などと言い切れるで あろうか。第一、二葉亭四迷という、この咄家めい もた、日本の近代小説の始祖としては、まことにちぐ 下髪←〈はぐな、滑稽な筆名にしてからが、彼自身語「てい シ るとおり、単なる、くたばってしめえ、という自嘲、 鱚そのしゃれにすぎないとしたならば、彼ははたして 温「浮雲」を書く必要があったろうか。へたに割り切 明 ったつもりでいると、どうにも始末のつかない剩余 が残って、それが果てしなくこちらに問いかけてく る、謎の多い文学者が二葉亭四迷なのである。 はなしか

5. 浮雲

もしそれ趣向の妙と情致の周密は、例の春のや二葉亭両氏の手に成りたれば、これを説かざるも あいがん 知る人は知るべし。ただその文の霊妙なるをここに広告して愛翫を希望す。文章の改良を重んず る士並びに東洋将来に於いての必ず行なわるる文章の体は果たして如何ならんと思う人は、この 小説を一読して大いに語る所あるべきなり」。これが全文である。明治時代の批評家や文学史家 たちが、「浮雲」をいう場合に、現実追求のエネルギ 1 の強さや、人間的苦悶の深さをいうよりも 先に、言文一致の文体に力点を置こうとしているのは、この広告文が示す次元においては、ゆえ なきことではないのである。 「浮雲」は、日本文学史の上で、まったき意味における近代リアリズム小説の始祖であること は、あらためていうまでもないが、また、ついに未完成に終わった作品であることも、今では周知 のことに属する。この挫折の必然性を、中村光夫氏は今度の「二葉亭四迷伝」で、小説のメカニ ズムの点からみごとに解明している。がまた、公式的にいえば、二葉亭が理想とする文学の場が、 きびしい自己批判をも含めて、どちらを向いてもふさがれていたという事情もあったに違いない 「浮雲」は中絶したが、手記「くち葉集」には、第三篇大団円までの。フランが数種残されている。 説その中の一つに、お勢が昇と結婚するので、文三は失望落胆し、「食料を払いかねて叔母にいため 解 られ」、あげくに狂気して精神病院に入る、というようなことが見えている。 品 作 一九五八年十一月二十八日

6. 浮雲

224 完成のしかたからすると、少しずつねじ曲がってきていることも確かであろう。全体と、してみる こん・せんみ と、小説の形態としては、渾然味が十分でないことはいなめない。しかし、それにもかかわらす、 そういう事情を越えて、創造的エネルギーがあふれ、作品としての密度感がきわめて豊かであり、 芯にひょわなところがなく、近代小説の骨組みが比類ないまでにできあがっている。先輩春の屋 の革新的な作品「当世書生気質」妹と背鏡」などをかたわらへも 0 てくれば、これらのことは さらに明らかになろう。 そこで、「浮雲」において、二葉亭はどういうことを書こうとしたのであろうか。十年後の回顧 談では、別にあれには一貫した思想はないが、ロシアの小説に出てくるような「官尊民卑」が気 に入らないので、それを反映したかったと語り、また、・ゴンチャロフの「断崖」 ( オプルイフ ) に 出ている新旧思想の問題も書きたかったと言っている。ところが、一貫した思想がないので書い ているうちに、ほやけてしまい、「浮雲」という題のことも行方不明になったと言っている。 この「浮雲」という題がなかなか問題で、たとえばこの作品の主人公の間題にも関係してくる ものを含んでいる。つまり、主人公お勢説の可能性をはらんでいるのである。柳田泉氏も早くこ の点に注目しているが、第一篇から第一一篇へかけてのかぎり、この見方は一概に退けられない点 がある。お勢の心持は、文三にともっかす、昇にともっかず、ふらふらしたところがあり、あと で昇の方へ落ち着くことにはなるが、はじめのうちは両方の間にはさまって浮遊している。ほん とうは、もう少し説明を尽くさないといけないが、こういう一面だけにも見えるような、心持の 不安定なまた危険な状況を「浮雲」ということばで表わしていると理解しようとするのである。

7. 浮雲

それが、その状況で充実した形で完成されず、違った方向へいってしまったので、「浮雲」という テ 1 マも題も行方不明になっていると考えるのである。とにかく、第一篇における人間関係が、 自然に、あるいは合理的に、第二篇、第三篇へ発展しておらす、だんだんと構造が変わっていっ て、小説のメカニズムとしては、確かに屈折している。まえにいった文体を媒介とする各篇間の ズレの内部には、人間関係でいえば、こうした事情も伏在しているわけだ。 ところで、官尊民卑・新旧思想の対立であるが、二十年後の回顧談ではそういうことは言わな 、で、だいたい「日本の青年男女の傾向」というものを頭に置きながら、「現代日本文明の裏面」 を書こうと思ったというふうに言っている。現代日本文明の裏面ということばは、何か暴露的な 感じがすることばであるが、「裏面」という意味は、現代日本文明の、いろいろに曲がっていると ころ、さまざまの矛盾、歪みというものを、「裏面」ということばで言っていると理解していいだ ろう。とすると、官尊民卑も新旧思想の対立も、すべてその「裏面」の中の一部分を占めること になる。とともに、そういう「裏面」を書くことは、とりもなおさす、それらに対する批判を意 味する。しかも、作者自身の自己批判と無関係にはなし得ない切実深刻な批判である。秀才では 説あるが世才に乏しい下級官吏の文三のような人物 ( のちに、作者自身、彼を自己の半身と言って 解 いる ) は、しよせんははみ出してゆかなければならない官僚機構、そうした社会の矛盾関係も官 作尊民卑にからめて批判されなければならないが、同時に、文三彼自身も、けっして批判を免れ得 5 るものではない。文三と対照的な軽薄才子の昇、その上役の課長、官僚機構の重味に自己を磨減 してしまっている古くからの小役人。実利実益主義のお政、浮薄な欧化好きのお茶ッピイ娘お勢、

8. 浮雲

角川文庫発刊に際して 角川源義 第二次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北であ 0 た以上に、私たちの若い文北力の敗退であった。私たちの文 化が戦争に対して如何に無力であり、単なるあだ花に過ぎなかったかを、私たちは身を以て体験し痛感した。 西洋近代文化の摂取にと 0 て、明治以後八十年の歳月は決して短かすぎたとは言えない。にもかかわらず、近 代文化の伝統を確立し、自由な批判と柔軟な良識に富む文化層として自らを形成することに私たちは失敗して 来た。そしてこれは、各層〈の文化の普及滲透を任務とする出版人の貴任でもあった。 一九四五年以来、私た、 0 は再び振出しに戻り、第一歩から踏み出すことを余儀なくされた。これは大きな不 幸ではあるが、反面、これでの混沌・未熟・歪曲の中にあ 0 た我が国の文化に秩序と確たる基礎を寶すため には絶好の機会でもある。角川書店は、このような祖国の文化的危機にあたり、徴力をも顧みず再建の礎石た るべき抱負と決意とをもって出発したが、ここに創立以来の念願を果すべく角川文庫を発刊する。これまで刊 行されたあらゆる全集叢書文庫類の長所と短所とを検討し、古今東西の不朽の典籍を、良心的編集のもとに、 廉価に、そして書架にふさわしい美として、多くのひとびとに提供しようとする。しかし私たちは徒らに百 科全書的な知識のジレッタントを作ることを目的とせず、あくまで祖国の文化に秩序と再建〈の道を示し、こ の文庫を角川書店の栄ある事業として、今後永久に継続発展せしめ、学芸と教養との殿堂として大成せんこと を期したい。多くの読書子の愛情ある忠言と支持とによって、この希望と抱負とを完遂せしめられんことを願 一九四九年五月三日

9. 浮雲

218 れていたらしい翻訳の仕事、なかんすく名訳とされる、ツルゲ 1 ネフものの「あひびき」「めぐり あひ」「片恋」「浮草」等には、高い理想の実現を阻まれて苦悩する知識人としての二葉亭の鋭く てデリケ 1 トな感受性が、おのずからにじみ出ている。 知識人追究の文学そのような自己自身の半生をも含めて、日本の知識人の姿、とくに文学者 の自己形成や生活における、高い人類的、かっ民族的な理想や、社会意識の欠如、さては人間主 体の弱さをもろに批判的に造型しようとしたところに成 0 たのが、後期の小説「其面影」や「平 凡」であろう。おのすからそこに作者の苦渋に満ちた生涯の反省がにじみ出て、滋味豊かに日本 の近代を形成してきた知識人の存立の意味や限界を描き、その未来を暗示する文学とな 0 ている。 未完成の大きな謎しかもなお、究極において高次元における政治的理想と文学との結合を夢 見てやまなか 0 たがために、自己をも含む日本の文学者の現状にあきたりなか 0 た二葉亭は、ふ たたび作家としての自己に見切りをつけ、朝日特派記者としてロシアの首都ベテルプルグ ( レ = , グラード ) に赴き、病を得ての帰途、明治四十一一年 ( 一九〇九 ) 五月十日インド洋上に近 0 た。 一一葉亭の後半生における文学に対する懐疑、自然主義文学者によ 0 て、「実行と芸術」というふう に定式化されてしまう、その混沌とした懐疑は、「文芸は男子一生の事業とするに足らず」と言 0 たと伝えられるその伝説どおり、額面どおりには、必ずしも受け取ることができないものをも 0 ている。自己の作家的資質に対する弱気もからま 0 てはいるが、それ以上に、文学に賭けた理想 が大きか 0 たのであり、また先駆者として、後続世代による文壇の文芸意識に対する厳刻な批判、 反発がそこに潜められていた。その二葉亭自身は、高い人類的、民族的、かっ社会的な理想を追

10. 浮雲

191 浮雲 思ッてか、高く笑ッたばかりで、再び娘をなじらなかッた。その後はお勢はことさらに何喰わぬ 顔を作ッてみても、どうも旨くいかぬようすで、ややもすれば沈んで、眼を細くして何処か遠方 ゅめうつつ をみつめ、うっとりとして、夢現の境に迷うように見えたことも有ッた。「十一時になるよ」と さ ためいき 母親に気を附けられたときは、夢の覚めたような顔をして溜息さえ吐いた。 ねまき 部屋へ戻ッても、なお気が確かにならす、何心なく寝衣に着代えて、カ無さそうにべッたり、 床の上へ坐ッたまま、身動きもしない。何を思ッているのか ? 母の端なく云ッた一言の答を求 めて求めえんのか ? 夢のように、過ぎこした昔へ心を引き戻してこれまで文三如き者にかかす いたすら らッて、良縁をも求めず、徒に歳月を送ッたを惜しい事に思ッているのか ? あるいは母の言葉 き しおざかい めぐやみ の放ッた光りに我身を禁る暗黒を破られ、始めて今が浮沈の潮界、一生の運の定まる時と心附い たの たのか ? そもそもまた狂い出す妄想につれられて、我知らす心を華やかな、娯しい未来へ走ら おそ うれ うつつ し、望みを事実にし、現に夢を見て、嬉しく、畏ろしい思いをしているのか ? うっとりとした 顔に映る内の想いが無いから、何を思ッていることかすこしも解らないが、とにかくややしばら くの間は身動きもしなかッた、そのままで十分ばかり経ったころ、忽然として眼が嬉しそうに光 くちもと り出すかと思う間に、見る見る耐えようにも耐えきれなさそうな微笑が口頭に浮かび出て、頬さ えん べにさ えいっしか紅を潮す。閉じた胸の一・時に開けた為、天成の美も一段の光を添えて、艶なうちにも、 はす 何処かからりと晴やかに快さそうな所も有りて、さながら蓮の花の開くを観るように、見る眼も ただ 覚めるばかりで有ッた。突然お勢は跳ね起きて、嬉しさがこみあげて、徒は坐ッていられぬよう おのえがおのぞこ むか ほんやり写る己が笑顔を覗き込んで、あやすような真 に、そして柱に懸けた薄暗い姿見に対い、。 お こっぜん