新しいセビロに腕を通さずに、ただ肩にかけて歩いているグレン隊風のオ = ーサン。 これらすべてを人間生活のアワだといってしまうのは簡単である。それでは、都市とは一体何 なのか。えたいの知れない若者が多く集まれば集まるほど、匿名性は増していく。農村の盛り場 とはそこがちがう。 山形の某大学の学長が教授たちにいった。町のうわさになるから盛り場のいかがわしいところ には出入りしないように。 やはり農村では、住民を中心とする地縁、血縁的人間関係や、職場の人間関係からはなかなか 解放されない。 ちちれつ毛のカッラをかぶった人、ヒゲをのばした人、向かうべき方向を見失った現代の象徴 のような新宿。 着物をきた人が前のテーブルのところにすわってビールを飲んでいる。身分はわからない。 こうした町が人々のパーソナリティーに影響してくるのは当然である。かくて新しいタイプの 政治的無関心が生まれてくる。 もし、政治的無関心が異常であるというなら、それより町が異営といったほうが正しい。これ から夏がやってくる。しかし、夏の夜中午前三時ごろの新宿は、むしあついなかで若者がゴロゴ 、ようがないようにし ロしている。ちょうど演説があるというそこに、まさにゴロゴロとしかいし て、若者はたむろしている。見知らぬ同士で。シンナー遊びをしている数はふえるばかりである。 僕はただ待っているたけですることがないから、ビールのつまみのエダ豆をたべていた。
じい時に食べさせてくれた人というだけのことである。 今の自分のままで受けいれてくれるもの、それが傷ついた若者にはたまらない。 万一、人間がー・ー男も女もーーーその生涯を通じて「母なるもの」を見つけることができれば、 その生涯は負担と悲劇から解放されることになろうと、フロムはいう。 まことにフロムのいうごとく、人間はなにも幼児ばかりが無力なわけではない。若者を含めて 大人もまた精神的には無力なのである。そしていくじなく保護と依存を求めている。 新日本製鉄ができ、第一勧業銀行ができ、企業はどんどん巨大化していく。そして何よりもこ の巨大化した企業のなかの階層秩序がそのまま社会的な地位や威信を示すものとなっていく。 アメリカ人がいかに社会的地位を求めて不安になっているかを書いた『地位を求める人々』に よるならば、家を大量に売ろうとしたら、家こそ地位のシンポルだということを無視しては、商 売は成立たないという。。ヒッツ、、 ( ーグのある住宅販売のコンサルタントは、セールスマンに「良 家の方」とか「近隣はよいところの方々ばかりで」とか、「重役の方々がお求めになるような」と いうような文句が効果的だと教えるという。 日本の新聞の住宅の広告をみてもみなこれと同じである。 冷房装置のいいところは、見知らぬ人でも外から見えるということだ。 日本の車でも、どうしてわざわざ「冷房車」と車に張紙がしてあるのか不思議であろう。 そうした意味で日本やアメリカは社会全体が非常に不安定である。 172
しかし、あの種の若者は余暇をもてあましている。 ( イフルクのある公共団体の調査では、その調査の五八 % の青年が " 自分をもてあます。とい っている。また別の調査では映画ファンの四三・六 % がただ時間をもてあましているからだとい 「余暇なんていって外にでれば、ストレスですよ。へんなかたちで遊びをするとかえって疲れま すよ」 現代は、仕事のストレスを余で解消するとい 0 ても、仕事のなかで自らの自発性をスリ減ら してしまった人間は、余暇においても、自発性を発揮できなくな 0 ている。現代は余暇において、 自発性を発揮しようとしているだけである。 自発性が失われれば失われるほど、人々は自発性を求め、自発性を高く評価する。したが 0 て 余暇において自発的であろうとするが、実際にはわが身をもてあまし、時間をもてあましている。 大企業のなかで働き、余暇で人間性を回復するとい 0 ても、われわれが実際に行な 0 ている疎 外の解消 ( ? ) ということは : 、 ーで酒をのんだり、上役の悪口をいったりすることである。 女の子ならペチャクチャやりながら買物をすることである。 そうした意味で、サラリ ーマンの疎外の解消 ( ? ) と町の奥さんの解消とは本質的に同じであ る。物価が上がった上がった、買物が大変だ大変だ、と いいながらも、奥さん方はつれだって買 物にいき、ご主人の悪口などいいながら、結構楽しんでいるのである。 僕の住んでいる町に、最近あるデパー トが進出した。きれいなデパートで清潔でイルミネーシ 8
チ、ーリヒ大学と上智大学とのあいだに約半世紀の年月が流れ、「不安」は一部の詩人、哲学 者の問題ではなく一般の人々の問題となったのである。 わが国でも一九一一一三年に三木清は『不安の思想とその克服』を書いた。そしてその不安の思想 の性格を「人格の解体」のうちにまとめた。一九三三年は " 戦間期】である。 ところが第一一次世界大戦が終わり、一九七一年になると、若者の教祖高橋和巳の『わが解体』 が書かれ、若者の共感を得てベスト・セラーにな 0 た。わが解体ーー・私たちが依拠していたいろ いろな基本的なものと思われていた価値も幻想かもしれない : それは高橋和巳の不安であり、同時に読者の不安であ 0 た。であればこそ高橋和巳は読まれた のである。教養のためではなく、自分のために、若者は高橋和巳を読むのである。 「今の自分の生き方で何かないかって捜しているんです」 現代はあまりにも情報が多い。どんな生き方が正しいのか、若者には全くわからなくなってい る。まさに基本的なものと思われていた価値も幻想かもしれないと実感しているのではなかろう 一夫一婦制を絶対守らねばならず、離婚も再婚もできない文化もあれば、他方、ポリネシアで は若者で乱交しないと異常だとされる。 わが国では女性は残念ながら嫉妬深く、一人の男性を独占しようとする。しかし、シベリアの 「リヤ , ク族の婦人は、夫を一人じめしようとするような欲張りで、嫉妬深い女の気持は理解で きないという。 204
彼は日本の若者と倒し合いをやったが、全然問題にならなかったといって、腕をあげて胸をは った。そして、どうしてあんなに弱いのだと聞く。 ト・アンド・ エリス島でわれわれは、すべての人々を愛するという。仕事もかんたん ギル、、ハー ト・アンド・ エリス島 、ことずくめで、変な気がしてきた。ギル・ハー に得られるという。何かいし では他の若者も皆私と同じだというのである。この島に行ってみなければ本当かウソかはわから ない。とにかくこの島からたった一人しか来ていないのであるから確かめようもない。しかしこ の疑うということも、われわれ先進工業国の人間のあわれな習性なのかもしれない。 ただ世界的に有名な女性の文化人類学者が、講演でいったのだが、未開社会のほうがしあわせ だと思うのは、一一流の文化人類学者だというのだ。決してそんなにしあわせではないといってい た言葉が気になったのである。 る あ タブ・アラマ君とわかれて、また次のテントを求めて歩いた。 1 ナツをくれた。人にが ・ r.n ・のテントの前を通ったら、ド だれも彼もえらく愛想がいい。 道を聞いたりすると、これまた親切におしえてくれる。 " ありがとう。といえば、これまたオーは ち ーに″どういたしまして〃とくる。 た 飛ーイスカウトの少年同士がすれちがいざまに、ふっと「イギリスから来たの ? 」とか、「メ キシコから ? 」とか、話しかけながらすれちがっていく様子も見かける。 このジャンポリー用に刷った名刺が明日で終わりというのにたくさんあまってしまったらしい