『四十八歳の抵抗』の西村氏の場合は、 「やがて停年がやってくる。その時期はもう眼のまえに見えている。恐らくは退職の日まで現在 の生活がこのまま続いていくに違いない。なにか新しい、別の人生はないものだろうか。もっと 強烈な、もっと危険な、もっと生きがいのある人生はないものだろうか。あるに違いない。きっ とどこかにあると彼は思う。しかしそういう新しい人生に踏み込んで行くためには、まず足に結 ばれた重い鎖を断ち切らなくてはならない。それができないのだ」 おれも若かったら、というのは大人の口実にすぎない。おれも若かったらやったのに、という ような言訳をする人間は、結局は一生何もできはしないのだ。 辻君は旅によって自己変革をしようとしたのだ。辻君にとって旅は自己変革の手段でしかなか った。ある人にとっては、ゲ。ハ棒が自己変革の手段である。ある若い女性にとっては男が自己変 革の手段である。 柴田翔の『立ち尽す明日』の中の敬子はいう。 「結局私はあの人を、自分を変えるための手段としてしか考えていなかったのだと思います。そ 引底できないでしよう。私は変わりたかったんです。 して、そんなことで自分を変えることなど、」 本当に変わりたかったんです」 若者は変わりたがっている。それを理解できない大人は外国へ行く若者によくいう。「デザイ ナーになるとか、写真の勉強のためとか、そうした目的もないのに外国へなど行ってはいけな い」と
オーストラリアに着いてはじめてのインタビューはメルポルン大学だった。 大学の図書館で、すでに主婦となっている大学生に″あなたの人生の目的は ? 〃と聞いてみた。 高校を卒業して、会社の秘書をやって、結婚して子供ができて、さらにそれから大学へ。 しかもその時、メルボルン大学は冬休み、休みにもかかわらず図書館に出てくる。日本だった ら何やら悲壮感がただよう。 しかしそのご婦人、明るくて素直で、とても生活に疲れている、などというところはどこにも 人生の目的 ? と聞かれて、何やらよく理解できなかったようだ。 「つまり、僕の聞きたいのは : : : 」という具合にいろいろ説明すると、やっとわかった。すると、 あっさり答えた。 ところが二時間近いインタビューのうちに、一人が「サムタイムズ」と英語をいっただけであ とは全然しゃべらなかった。 それにくらべてローズリンは思わず「あっ、電話かけるのを忘れた」という日本語がでてくる くらい、日本語がうまかった。しかし一方日本の大学生でフイロソフィーという英語を知らない 人は、この五人のなかで一人もいるはずがない。 この日本とオーストラリアの若者の違いは、同じようなかたちであらゆるところにあらわれて くる。 142
「夫をもっと愛すること」 人生の目的、などとおおげさなしかも抽象的なことはどうもこの国の人には通じないらしい 人生の目的と聞くと、「愛」と答えずに「夫を愛すること」と具体的に答えがかえってくると いうわけである。 答えの仕方はみな同じである。 博物館で玉ーイフンンドとポサーツと絵を見ている十七歳の少女に同じように聞いてみても、 「オーストラリア、あるいは海外の図書館において、図書館員となりたい」 オーストラリア、あるいは海外において、というおまけまでついて答えがかえってくる。 答えが抽象的、一般的ではない。すべて具体的で、しかも自分に則して答える。 え そこでこっちは抽象的に追いつめていくとどういうふうに答えがでてくるかと、ためしてみるの と、行きつくところはトルースである。しかし、たどトルースという言葉だけはどうしてもかえ ら ってこない。必ず「私の感じるところの」というのがついてくる。 彼女はこの博物館に月二回は必ず来て、こうしてボサーツといつまでも絵を見ているのだとい う。こうしたタイプの女性にしてこの答えである。 考 オーストラリア国内の最大の航空会社、アンセット航空のエアー・ホステスの訓練所を訪ねて、 象 また同じような質問をしてみた。 「そりやー結婚よ」 今の勤めに満足しているフ
「悩みって、お客さんとのトラ、、フルのことをいうの ? 」 逆に質問される始末である。やはり悩みという一般的なのではなく、具体的に答えてくる。 社会の抑圧っていうもの感じない ? 「抑圧って、人と話していて意見の一致しないこと ? 」 われわれにとって、サプレッションとディスアグリーとはちがうのだが、もうどうしようもな いという感じになってくる。 だいたい僕の英語自体がむずかしいらしい ェアー・ホステスになった動機って何ですか ? 「動機って、″な・せ ? “ということ ? 」 え 考 そして″な・せといったってれといってゲラゲラ楽しそうに笑った。 の ら オーストラリア人に夢がないのか、日本人が夢を追いすぎるのか キャンべラ大学を訪ねた時、哲学のヘルプスト教授に会って、この若者の傾向についての解説 を求めた。〈ル。フスト教授は、若者との付きあいも多く、オーストラリアでは有名な哲学の教授一 考 である。 的 彼はオ 1 ストラリアの若者の悩みはすべて具体的であって、人生とは何か ? というような抽象 象的なものはない、と説明してくれた。 人生の目的は、などと聞くと、あいつ、、ハカじゃないかとさえ思われるというのである。
には不条理な関係しかありえなかった。カミュの不条理の思想の根源がアルジ , リアの自然のなかにある のに、この国の自然からは、カミュの思想に匹敵する思想が生まれないのか。 オーストラリア人の死についての答えは、″われわれは決してそんなことを考えない。それはムダであ というものであった。 海の波のくだける音にまじって「僕の人生の目的は、カンフォタブルな生活です」という若者の答えが 耳に聞こえていた。 オ 1 ・ストラリアを理解するためには、やはりオーストラリアに長く滞在し、そこで生活をする必要があ るのかもしれない・ 君らの意見を聞かせてほしい。 生きがいは ? 「フレンドリーよ」
そこですれちがう人に、ホイ、ホイとあげたりしている。 皆が同じような服を着ているということが、彼らの親近感を増しているのだろう。ここ全体が ひとつの国であってもおかしくない感じだった。 僕はまたフラリと香港のテントサイトにはいってみた。ここでも同じようなことを聞いたら、 ここの少年たちは、日本は国が栄えているのに、若者が希望を失っているなどということは、ど うしても信じられないというのだ。 そして彼らもまたいった。 「われわれは国の発展のためにつくす」 日本でも飛ーイスカウトの青少年は、他の青少年にくらべて国との同一化はなされているかも しれない。しかし、それらの国の若者の同一化は見事なものである。 韓国のテントにいってみた。ここは教育政策から考えてちょっと特殊だと思ったからだ。 「君の人生の目的は ? 」 「わが国の生活状態がよくなることをねがって働くことです」 「君は自分の国をどう思う ? 」 「われわれ各個人が国をささえていると考えてます」 諦三後記ギル、、ハー ト・アノド・ エリス島の若者の話を聞きながら、こういう単純な島では皆が詩人に
ぎがいはちがうようだ 6 したがって僕は、この生きがいについて聞く時、いつも「生きるに値する」というふうに使っ ていた。 じゃーこの人生で一番大切な価値ってなんだと思う ? 「ほかの人たちと仲良 y することじゃーない」 オーストラリアはスポーツの国である。フットボール、ラグビーからお年寄り向きのローン・ ウリングにいたるまで人々はスポーツに熱狂する。 したがって、何かをしたいのだけれど何をしていいかわからない、 といういらだちはない。 『若者の思想と行動』のヨーロツ。 ( 編で報告したような悩みは、このオーストラリアには少ない ようだ。 そこで、その若者にアメリカであったサンフラシスコのヒッ。ヒーたちの話をした。すると、 「アメリカはテンションがおおきすぎるのよ。私たちはもっとあたたかくて、人々を愛するわ」 とつけ加えた。 何かしたいけれど何をしていいかわからない。欲求が現実と結びつかない、 ということは精神 衛生上きわめて不健康なしるしだといわれている。 その点このオーストラリアの若者は精神的に健康というべきなのだろう。もちろんことなった 見方もできる。オーストラリアの若者は人生に激しい欲求をいだかない。たとえば僕が町で若者
なれるのではないかとさえ臥った、 客現性と価値のあいだで悩み苦しみ、全人間的要求と、専門人とのあいだでの緊張を味わい、苦しんで ー・パーなどの苦しみとは、およそ無縁な人々なのだろう。詩人とは自分の価値のな いた社会科学者、ウェ かに埋没できるしあわせな人々ではなかろうかと僕は思っている。もちろん詩人には詩人で、社会科学者 とは異質の苦しみをいだいて生きているにちがいないのだが。こういう島の若者は、われわれの高度工業 化社会の若者とちがって、人生にとって不必要な知識をめったやたらにもっていないにちがいない。その かわり自分たちが生きていくのに必要な知恵はキチンと持っているのであろう・ 巧ボクたちには生きがいがある
しかし、チームプレーであるスポーツは自己中心になることは許されない。海のスポーツは山 のスポーツと同しく、フレンドシップを大切にする。山路でいきちがったとき、たとえ知らない 人同士でも「コンニチワ」とあいさっする。海も同じである。 見せかけの協同一致は、そのまま死を意味するのだ。 諦三後記名誉欲というのは、ルネサンスになってはじめてあらわれてきたと、フロムは『自由からの 逃走』のなかで指摘している。 中世のごとく神が信じられなくなり、人生の意味が疑わしくなってきたとき、名誉がこの疑いを沈黙さ や不死についてのキリスト教の信仰と同じ働き せるひとつの手段となる。名誉はエジプト人のビラミッド をする。 しかし現代、仕事の世界において名誉を得るためにはあまりにもおおくのものを失わなければならない。 や 生産の規模が大きくなり、組織の一部となり、機械のネジのように人々はなった。 っ しかし、生産がつまらなくなるのと比例して消費は面白くなった。人生のコースが決まり、生産がつまく らなくなったとき、その反逆としていろいろなものがあらわれた。ヒッ。ヒ 1 ・から反体制連動にいたるさま を ざまな反逆である。 そして、その他に今回の若者のようにヨ , トのなかに「自己の発見」をした若者もいる。そしてこれら道 の若者は、そのように自己の発見をしたからこそ、振落とされまいとしがみついているほどの魅力を体制甥 男 に対して失っているのだ。
少なかれ不健康にならざるをえない。 「普通の主婦のやるよーなこと、全然ダメなのよ、洗たく、料理してダンナサンの帰るのを待っ ているのに耐えられないの」 ージンでなければなんて全然思わないわ、好きになったらむこうみずよ。愛人でも何でもい いわ、自由なつながりがいいわ」 あーだ、こーだ、と東縛されるのがいやだという。 「大切なものはバイタリティーね」 自由で、、、ハイタリティー、」 に結婚なんてしたくもないという。他人のスキャンダルにも興味 十よ、 0 「 ( イタリティーだけは失いたくないわー」 欲求とタブーとがぶつか 0 た時、敢然として自らの欲求にしたがう。これは現代が生んだ新し き世代のひとつの女性像である。今までの日本の女性史のなかには禁欲によるゾヒズム的倒錯 のほうは多かった。しかしこの逆は現代が新しく生みだしてきたものである。 「自分の一生はよか 0 たなー 0 て思えるような一生を送りたいんです。絶対 0 ていうのは生と死 しかないでしよ、絶対ダメといわれても自分が納得しなくちゃーダメね。そしてやるだけや 0 た、 そう思って後悔しない人生ね」 今のサラリー マンどう思う ? 「今の自分のや 0 ていることに満足でぎないなら、どうしてやめないのかなー、や「ばりこわい 1 】 0