168 浩さん ! 浩さんは去年の十一月旅順で戦死した。二十六日は風の強く吹く日であったそう だ。遼東の大野を吹きめぐ 0 て、黒い日を海に吹き落そうとする野分の中に、松樹山の突撃は予 えんご の定の如く行われた。時は午後一時である。掩護の為めに味方の打ち出した大砲が敵塁の左突角に 影中 0 て五丈程の砂烟りを捲き上げたのを相図に、散焦壕から飛び出した兵士の数は幾百か知ら ぬ。蟻の穴を蹴返した如くに散り散りに乱れて前面の傾斜を攀し登る。見渡す山腹は敵の敷いた まちまち ましごになどのうしょ 敦鉄条網で足を容るる余地もない。所を子を担い土嚢を脊負って区々に通り抜ける。工兵の切り みち 倫 開いた二間に足らぬ路は、先を争う者の為めに奪われて、後より詰めかくる人の勢に波を打つ。 こちらから眺めると只一筋の黒い河が山を裂いて流れる様に見える。その黒い中に敵の弾丸は容 赦なく落ちかかって、凡てが消え失せたと思う位濃い烟が立ち揚る。怒る野分は横さまに烟りを そうせんうご さら 千切って遙かの空に攫 0 て行く。あとには依然として黒い者が簇然と蠢めいている。この蠢めい ているもののうちに浩さんが居る。 ひげ 火桶を中に浩さんと話をするときには浩さんは大きな男である。色の浅黒い髭の濃い立派な男 である。浩さんが口を開いて興に乗った話をするときは、相手の頭の中には浩さんの外何もない。 1 」う は万歳などには毫も耳を借す景色はない。ぶら下が 0 たぎり軍曹の顔を下から見上げたまま吾が びよう 子に引き摺られて行く。冷飯草履と鋲を打った兵隊靴が入り乱れ、もつれ合 0 て、うねりくねっ ちょうせん とおざ て新橋の方へ遠かって行く。余は浩さんの事を思い出して悵然と草履と靴の影を見送った。
まい」と高き影が低い方を向く。「タ。へストリの裏で二人の話しを立ち聞きした時ま、 ーいっその くちびる 事止めて帰ろうかと思うた」と低いのが正直に云う。「絞める時、花の様な唇がびりびりと顫う うな た」「透き通る様な額に紫色の筋が出た」「あの唸った声がまだ耳に付いている」。黒い影が再び 黒い夜の中に吸い込まれる時櫓の上で時計の音ががあんと鳴る。 空想は時計の音と共に破れる。石像の如く立っていた番兵は銃を肩にしてコトリコトリと敷石 の上を歩いている。あるきながら一件と手を組んで散歩する時を夢みている。 むこう 血塔の下を抜けて向へ出ると奇麗な広場がある。その真中が少し高い。その高い所に白塔があ のる。白塔は塔中の尤も古きもので昔しの天主である。竪二十間、横十八間、高さ十五間、壁の厚 すみやぐら さ一丈五尺、四方に角楼が聳えて所々にはノーマン時代の銃眼さえ見える。千三百九十九年国 そ , りよ 民が三十三カ条の非を挙げてリチャード二世に譲位をせまったのはこの塔中である。僧侶、貴族、 をの 敦武士、法士の前に立って彼が天下に向って譲位を宣告したのはこの塔中である。爾時譲りを受 けたるヘンリーは起って十字を額と胸に画して云う「父と子と聖霊の名によって、我れへンリー たすけか はこの大英国の王冠と御代とを、わが正しき血、恵みある神「親愛なる友の援を藉りてぎ受 なんびと く」と。さて先王の運命は何人も知る者がなかった。その死骸がポント・フラクト城より移され しかばねめぐ こつりつ て聖ポール寺に着した時、二万の群集は彼の屍を繞ってその骨立せる面影に驚かされた。或は云 せつかく おの 八人の刺客がリチャードを取り巻いた時彼は一人の手より斧を奪いて一人を斬り二人を倒し うらみ た。されどもエクストンが背後より下せる一撃の為めに遂に恨を呑んで死なれたと。或る者は天 を仰いで云う「あらずあらず。リチャードは断食をしてと、命の根をたたれたのじゃ」と。 じよう たて ふる
うすくれない もすそ 薄紅の一枚をむざとばかりに肩より投げ懸けて、白き二の腕さえ明らさまなるに、裳のみは からさばたま 怪く捌く珠の履をつつみて、猶余りあるを後ろざまに石階の二級に垂れて登る。登り詰めたる きざはし 階の正面には大いなる花を鈍色の奥に織り込める戸幗が、人なきをかこち顔なる様にてそよと おわ も動かぬ。ギニヴィアは幕の前に耳押し付けて一重向うに何事をか聴く。聴き了りたる横顔を又 まむこう 真向に反えして石段の下を鋭どき眼にてア。濃やかに斑を流したる大理石の上は、ここかしこ やわら に白き薔薇が暗きを洩れて和かき香りを放つ。君見よと宵に贈れる花輪のいっ摧けたる名残か。 しばらくは吾が足に纏わる絹の音にさえ心置ける人の、何の思案か、屹と立ち直りて、繊き手の 動くと見れば、深き幕の波を描いて、眦ゆき光り矢の如く向い側なる室の中よりギニヴィアの頭 みけんあたこんごうせぎ に戴ける冠を照らす。輝けるは眉間に中る金剛石そ。 「ランスロット」と幕押し分けたるままにて云う。天を憚かり、地を憚かる中に、身も世も入ら 一」も おそ ぬまでカの籠りたる声である。恋に敵なければ、わが戴ける冠を畏れす。 こた うず 「ギニヴィア ! 」と応えたるは室の中なる人の声とも思われぬ程優しい。広き額を半ば埋めて又 あおじろ 捲き返る髪の、黒きを誇るばかり乱れたるに、頬の色は釣り合わず蒼白い 女は幕をひく手をつと放して内に入る。裂目を洩れて斜めに大理石の階段を横切りたる日の光 きわだ は、一度に消えて、薄暗がりの中に戸帳の模様のみ際立ちて見える。左右に開く廻廊には円柱の 影の重なりて落ちかかれども、影なれば音もせす。生きたるは室の中なる二人のみと思わる。 「北の方なる試合にも参り合せす。乱れたるは額にかかる髪のみならじ」と女は心ありげに問 わだか うれいうち う。晴れかかりたる眉に晴れがたき雲の蟠まりて、弱き笑の強いて憂の裏より洩れ来る。 薤露行 まっ こま くだ まるばしら かしら
% 人相を見る。 「御前の方がどうかしたんだろう。先ッきは少し歯の根が合わない様だ 0 たぜ」 ーー然し日一那様雑談事しゃ御座いませんよ」 「私は何と旦那様から冷かされても構いません。 「え ? 」と思わず心臓が縮みあがる。「どうした。留守中何かあ 0 たのか。四谷から病人の事で も何か云って来たのか、 「それ御覧遊ばせ、そんなに御嬢様の事を心配していら 0 しやる癖に」 「何と云 0 て来た。手紙が来たのか、使が来たのか」 の「手紙も使も参りは致しません、 影「それじや電報かー 「電報なんて参りは致しません」 敦「それじゃ、どうしたーーー早く聞かせろ . 「今夜は鳴き方が違いますよ」 「何が ? 」 「何が「て、あなた、どうも宵から心配で堪りませんでした。どうしても只事じゃ御座いませ ん」 「何がさ。それだから早く聞かせろと云 0 てるじゃないか、 「先達中から申し上げた犬で御座います .
はなさき かぎ やじり 蜩の如く寄手の鼻頭に、鉤と曲る鏃を集める。空を行く長き箭の、一矢毎に鳴りを起せば数千の 5 ・′」め 鳴りは一と塊りとなって、地上に蠢く黒影の響に和して、時ならぬ物音に、沖の鵰を驚かす。狂 えるは鳥のみならず。秋の夕日を受けっ潜りつ、甲の浪鎧の浪が寄せては崩れ、崩れては退く。 とき 退くときは壁の上櫓の上より、傾く日を海の底へ震い落す程の鬨を作る。寄するときは甲の浪、 鎧の浪の中より、吹き捲くる大風の息の根を一時にとめるべき声を起す。退く浪と寄する浪の間 にウィリアムとシーワルドがはたと行き逢う。「生きておるか」とシーワルドが剣で招けば、「死 そばだ かっ ぬところじゃ」とウィリアムが高く盾を翳す。右に峙っ丸櫓の上より飛び来る矢が戞と夜叉の額 たちま さえぎ を掠めてウィリアムの足の下へ落つる。この時崩れかかる人浪は忽ち二人の間を遮って、鉢金を しばら の蔽う白毛の靡きさえ、暫くの間に、旋る渦の中に捲き込まれて見えなくなる。戦は午を過ぐる二 まかた 影た時余りに起って、五時と六時の間にも未だ方付かぬ。一度びはき心に天主をも屠る勢であっ そうぜん た寄手の、何にひるんでか蒼然たる夜の色と共に城門の外へなだれながら吐き出される。摶っ音 の絶えたるは一時の間か。暫らくは鳴りも静まる。 日は暮れ果てて黒き夜の一寸の隙間なく人馬を蔽う中に、砕くる波の音が忽ち高く聞える。忽 ち聞えるは始めて海の鳴るにあらず、吾が鳴りの暫らく已んで空しき心の迎えたるに過ぎぬ。こ きざ の浪の音は何里の沖に萌してこの磯の遠きに崩るるか、思えば古き響きである。時の幾代を揺が えいごう して知られぬ未来に響く。日を捨てす夜を捨てず、二六時中繰り返す真理は永劫無極の響きを伝 あわれ えて剣打っ音を嘲り、弓引く音を笑う。百と云い千と云う人の叫びの、はかなくて憐むべきを るときかれる。去れど城を守るものも、城を攻むるものも、おのが叫びの纔かにゃんで、この深 かす すん かふと よろい わす
そば る様に余の袖の傍を擦りぬける。ヘリオトロープらしい香りがぶんとする。香が高いので、小春 あわせばおり 日に照りつけられた袷羽織の脊中からしみ込んだ様な気がした。女が通り過ぎたあとは、やっと 安心して何だか我に帰った風に落ち付いたので、元来何者だろうと又振り向いて見る。すると運 悪く又眼と眼が行き合った。此度は余は石段の上に立ってステッキを突いている。女は化銀杏の 下で、行きかけた体を斜めに捩って此方を見上げている。銀杏は風なきに猶ひらひらと女の髪の 上、袖の上、帯の上へ舞いさがる。時刻は一時か一時半頃である。丁度去年の冬浩さんが大風の と つるぎ 中を旗を持って散兵壕から飛び出した時である。空は研ぎ上げた剣を懸けつらねた如く澄んでい まぎわ うすもの かす ひとみうち のる。秋の空の冬に変る間際程高く見える事はない。羅に似た雲の、微かに飛ぶ影も眸の裡には落 影ちぬ。羽根があって飛び登ればどこまでも飛び登れるに相違ない。然しどこまで昇っても昇り尽 せはしまいと思われるのがこの空である。無限と云う感じはこんな空を望んだ時に最もよく起 敦る。この無限に遠く、無限に遐かに、無限に静かな空を会釈もなく裂いて、化銀杏が黄金の雲を そうきゅう 凝らしている。その隣には寂光院の屋根瓦が同じくこの蒼穹の一部を横に劃して、何十万枚重な 5 ・ろこ がらん ったものか黒々と鱗の如く、暖かき日影を射返している。ーー古き空、古き銀杏、古き伽藍と古 じゃくまく たけやぶ き墳墓が寂寞として存在する間に、美くしい若い女が立っている。非常な対照である。竹藪を後 ろに脊負って立った時は只顔の白いのとハンケチの白いのばかり目に着いたが、・今度はすらりと ぎぬ しまがら 着こなした衣の色と、その衣を真中から輪に截った帯の色がいちじるしく目立つ。縞柄だの品物 などは余の様な無風流漢には残念ながら記述出来んが、色合だけは慥かに華やかな者だ。こんな とまどい 物寂びた境内に一分たりとも居るべき性質のものでない。居るとすればどこからか戸迷をして紛 こんど ねじ はる ( えニ )
然し遠吠がそんなに、よく当るものかな」 みようあさ うたぐ 「まだ婆やの申す事を疑っていらっしやる。何でも宜しゅう御座いますから明朝四谷へ行って御 覧遊ばせ、きっと何か御座いますよ、婆やが受合いますから、 「きっと何か有っちゃ厭だな。どうか工夫はあるまいか」 「それだから早く御越し遊ばせと申し上げるのに、あなたが余り剛情を御張り遊ばすものだから ともかくあした早く四谷へ行ってみる事に仕よう。今夜これか 「これから剛情はやめるよ。 のら行っても好いが : : : 」 影「今夜いらしっちゃ、婆やは御留守居は出来ませんー 「なぜ ? 敦「なぜって、気味が悪くって居ても起ってもいられませんもの」 「それでも御前が四谷の事を心配しているんじゃないか」 「心配は致しておりますが、私だって怖しゅう御座いますから」 うな 折から軒を遶る雨の響に和して、いずくよりともなく何物か地を這うて唸り廻る様な声が聞え 「ああ、あれで御座います」と婆さんが瞳を据え小声で云う。成程陰気な声である。今夜はここ へ寝る事にきめる。 まぶた 余は例の如く蒲団の中〈もぐり込んだがこの唸り声が気になって臉さえ合わせる事が出来な きび
圏だ」 「そうだろう、僕なんざさに出なく「ても忘れてしまわあ、 「それでその男が出立をする時細君が色《手伝「て手荷物などを買 0 てや 0 た中に、懐中持の小 さい鏡があったそうだ . 「ふん。君は大変詳しく調べているな」 てんまっ 「なにあとで戦地から手紙が来たのでその顛末が明瞭にな 0 た訳だが。 中していてね , 「うんー 影「ある朝例の如くそれを取り出して何心なく見たんだそうだ。するとその鏡の奥に写 0 たのが いつもの通り髭だらけな垢染た顔だろうと思うとーーー不思議だねえーー実に妙な事があるし 敦ゃないか」 「どうしたい」 いえそれは一寸信じられ 「青白い細君の病気に窶れた姿がスーとあらわれたと云うんだがね んのさ、誰に聞かしても嘘だろうと云うさ。現に僕などもその手紙を見るまでは信じない一人で あ 0 たのさ。然し向うで手紙を出したのは無論こちらから死去の通知の行 0 た三週間も前なんだ ぜ。嘘をつく 0 た 0 て嘘にする材料のない時ださ。それにそんな嘘をつく必要がないだろうじゃ ないか。死ぬか生きるかと云う戦争中にこんな小説染た呑気な法螺を書いて国元〈送るものは一 人もない訳ださ」 その鏡を先生常に懐
「逢いに行ってるんだ」 「どうして ? 」 「どうしてって、逢いに行ったのさ」 「逢いに行くにも何にも当人死んでるんじゃないか」 「死んで逢いに行ったのさ」 こ出来るもんか。まるで林屋正 「馬鹿あ云「てら、いくら亭主が恋しい 0 た 0 て、そんな芸が誰冫 ( 五一 ) 三の怪談だ」 盾 「いや実際行 0 たんだから、仕様がない、と津田君は教育ある人にも似合ず、頑固に愚な事を主 の 影張する。 「仕様がない 0 てーー何だか見て来た様な事を云う。せ。可笑しいな、君本当にそんな事を話して 敦るのかい」 倫 「無論本当さ」 「こりや驚いた。まるで僕のうちの婆さんの様だ」 「婆さんでも爺さんでも事実だから仕方がない」と津田君は愈躍起になる。どうも余にからか 0 ている様にも見えない。はてな真面目で云 0 ているとすれば何か日くのある事だろう。津田君 と余は大学〈入 0 てから科は違うたが、高等学校では同じ組に居た事もある。その時余は大概四 十何人の席末を汚すのが例であ 0 たのに、先生は婦体として常に二三番を下らなか 0 たところを 以て見ると、頭脳は余よりも三十五六枚方晰に相違ない。その津田君が躍起になるまで弁護す がんこ
「その事に就て浩一は何かあなたに御話をした事は御座いませんか」 「嫁の事ですか」 「ええ、誰か自分の好いたものがある様な事をー しいえ」と答えたが、実はこの問こそ、こっちから御母さんに向って聞いてみなければならん 問題であった。 「御叔母さんには何か話しましたろう」 の望の綱はこれぎり切れた。仕方がないから又眼を庭の方へ転ずると、四十雀は既にどこかへ飛 影 び去って、例の白菊の色が、水気を含んだ黒土に映じて見事に見える。その時不図思い出したの 幻 は先日の日記の事である。御母さんも知らず、余も知らぬ、あの女の事があるいは書いてあるか しる 敦も知れぬ。よしあからさまに記してなくても一応目を通したら何か手懸りがあろう。御母さんは 女の事だから理解出来んかも知れんが、余が見ればこうだろう位の見当はつくわけだ。これは催 促して日記を見るに若くはない。 「あの先日御話しの日記ですね。あの中に何かかいてはありませんか」 「ええ、あれを見ないうちは何とも思わなかったのですが、つい見たものですから : : : 」と御母 さんは急に涙声になる。又泣かした。これだから困る。困りはしたものの、何か書いてある事は 慥かだ。こうなっては泣こうが泣くまいがそんな事は構っておられん。 「日記に何か書いてありますか ? それは是非拝見しましよう」と勢よく云ったのは今から考え みすけ