みぎわ せま 只ふらふらと池の汀まで進み寄る。池幅の少しく逼りたるに、臥す牛を欺く程の岩が向側から半 うずくま わず ば岸に沿うて蹲踞れば、ウィリアムと岩との間は僅か一丈余ならんと思われる。その岩の上に一 人の女が、眦ゅしと見ゆるまで紅なる衣を着て、知らぬ世の楽器を弾くともなしに弾いている。碧 さか り積む水が肌に沁む寒き色の中に、この女の影を倒しまにす。投げ出したる足の、長き裳に隠 くるる末まで明かに写る。水は元より動かぬ、女も動かねば影も動かぬ。只弓を擦る右の手が糸 かしらまと たんぜん に沿うてゆるく揺く。頭を纏う、糸に貫いた真珠の飾りが、湛然たる水の底に明星程の光を放 盾つ。黒き眼の黒き髪の女である。クララとは似ても似つかぬ。女はやがて歌い出す。 われ、、、 「岩の上なる我がまことか、水の下なる影がまことか」 こすえ 清く淋しい声である。風の度らぬ梢から黄な葉がはらはらと赤き衣にかかりて、池の面に落ち 影る。静かな影がちよと動いて、又元に還る。ウィリアムは茫然として佇ずむ。 幻「まこととは思い詰めたる心の影を。心の影を偽りと云うが偽り . 女静かに歌いやんで、ウィリ かた アムの方を顧みる。ウィリアムは瞬きもせず女の顔を打ち守る。 「恋に口惜しき命の占を、盾に問えかし、ま。ほろしの盾、 がけ おじか くびす ウィリアムは崖を飛ぶ牡鹿の如く、踵をめぐらして、盾をとって来る。女「只懸命に盾の面を 見給え」と云う。ウィリアムは無言のまま盾を抱いて、池の縁に坐る。寥廓なる天の下、蕭瑟な なん る林の裏、幽冷なる池の上に音と云う程の音は何にも聞えぬ。只ウィリアムの見詰めたる盾の内 かす 輪が、例の如く環り出すと共に、昔しながらの微かな声が彼の耳を襲うのみである。「盾の中に 叙何をか見る」と女は水の向より問う。「ありとある蛇の毛の動くは、とウィリアムが眼を放たす さび ひた
薤露行 131 えら 古き幾世を照らして、今の世のシャロットにありとある物を照らす。悉く照らして択ぶところ なければシャロットの女の眼に映るものもまた限りなく多い。只影なれば写りては消え、消えて は写る。鏡のうちに永く停まる事は天に懸る日といえども難い。活ける世の影なれば斯くはかな きか、あるいは活ける世が影なるかとシャロットの女は折々疑う事がある。明らさまに見ぬ世な れば影ともまこととも断じ難い。影なればはかなき姿を鏡にのみ見て不足はなかろう。影ならす まどぎわ 時にはむらむらと起る一念に窓際に馳けよりて思うさま鏡の外なる世を見んと思い立 のろ つ事もある。シャロットの女の窓より眼を放っときはシャロットの女に呪いのかかる時である。 きよくせき ( 七四 ) シャロットの女は鏡の限る天地のうちに跼蹐せねばならぬ。一重隔て、二重隔てて、広き世界を 四角に切るとも、自滅の期を寸時も早めてはならぬ。 のが 去れど有のままなる世は罪に濁ると聞く。住み倦めば山に遯るる心安さもあるべし。鏡の裏な ちまた る狭き宇宙の小さければとて、憂き事の降りかかる十字の街に立ちて、行き交う人に気を配る辛 ばんけい えいごうきわ らさはあらず。何者か因果の波を一たび起してより、万頃の乱れは永却を極めて尽きざるを、渦 かしら さら 捲く中に頭をも、手をも、足をも攫われて、行く吾の果は知らず。かかる人を賢しと云わば、高 うてな き台に一人を住み古りて、しろかねの白き光りの、表とも裏とも分ち難きあたりに、幻の世を尺 あほう に縮めて、あらん命を土さえ踏まで過すは阿呆の極みであろう。わが見るは動く世ならず、動く しようじけんこんじようりわんしゆっ 世を動かぬ物の助にて、余所ながら窺う世なり。活殺生死の乾坤を定裏に拈出して、五彩の色相 を静中に描く世なり。かく観ずればこの女の運侖もあながちに嘆くべきにあらぬを、シャロット さわ の女は何に心を躁がして窓の外なる下界を見んとする。 とど よそ かた
この一 燗変化したらーーーどうも変化しそうだ。今夜のうち、夜の明けぬうち何かあるに相違ない。 秒も待って過ごす。この一秒もまた待ちつつ暮らす。何を待っているかと云われては困る。何を 待っているか自分に分らんから一層の苦痛である。頭から抜き取った手を顔の前に出して無意味 いふくろ に眺める。爪の裏が垢で薄黒く三日月形に見える。同時に胃嚢が運動を停止して、雨に逢った鹿 皮を天日で乾し堅めた様に腹の中が窮窟になる。犬が吠えれば善いと思う。吠えているうちは厭 でも、厭な度合が分る。こう静かになっては、どんな厭な事が背後に起りつつあるのか、知らぬ 間に醸されつつあるか見当がっかぬ。遠吠なら我慢する。どうか吠えてくれればいいと寝返りを かす の打って仰向けになる。天井に丸くランプの影が幽かに写る。見るとその丸い影が動いている様 せきずい 影だ。愈不思議になって来たと思うと、蒲団の上で脊髄が急にぐにやりとする。只眼だけを見張っ ふだん て、慥かに動いておるか、おらぬかを確める。ーー確かに動いている。平常から動いているのだ もし今夜だけ動く 敦が気が付かずに今日まで過したのか、又は今夜に限って動くのかしらん。 はた あるい のなら、只事ではない。然し或は腹工合のせいかも知れまい。今日会社の帰りに池の端の西洋料 たた えび 理屋で海老のフライを食ったが、ことによるとあれが祟っているかもしれん。つまらん物を食っ て、銭をとられて馬鹿々々しい廃せばよかった。何しろこんな時は気を落ち付けて寐るのが肝心 だと堅く眼を閉じてみる。すると虹霓を粉にして振り蒔く様に、眼の前が五色の斑点でちらちら する。これは駄目だと眼を開くと又ラン。フの影が気になる。仕方がないから又横向になって大病 人の如く、凝として夜の明けるのを待とうと決心した。 ちちふ ふすま 横を向いて不図目にたのは、襖の陰に婆さんが響に畳んで置いた秩父銘仙の不断着であ かも はんてん
ひらりと高き脊に跨がる。足乗せぬ鐙は手持無沙汰に太腹を打 0 て宙に躍る。この時何物か「南 の国〈行け」と鉄被る剛き手を挙げて馬の尻をしたたかに打つ。「呪われた , とウィリアムは馬 と共に空を行く。 ウィリアムの馬を追うにあらず、馬のウィリアムに追わるるにあらず、呪いの走るなり。風を 切り、夜を裂き、大地に疳走る音を刻んで、呪いの尽くる所まで走るなり。野を走り尽せば丘に 走り、丘を走り下れば谷に走り入る。夜は明けたのか日は高いのか、暮れかかるのか、雨か、霰 か、野分か、木枯か、ーー知らぬ。呪いは真一文字に走る事を知るのみじゃ。前に当るものは親で しゅ さえぎ 0 も許さぬ、石蹴る蹄には火花が鳴る。行手を遮るものは主でも斃せ、闇吹き散らす鼻嵐を見よ。 影物凄き音の、物妻き人と馬の影を包んで、あ 0 と見る睫の合わぬ間に過ぎ去るばかりじゃ。人か 馬か形か影かと惑うな、只呪いその物の孔り狂うて行かんと欲する所に行く姿と思え。 敦ウィリアムは何里飛ばしたか知らぬ。乗り斃した馬の鞍に腰を卸して、右手に額を抑えて何事 倫 をか考え出さんとカめている。死したる人の蘇る時に、昔しの我と今の我との、あるは別人の如 く、あるは同人の如く、繋ぐ鎖りは情けなく切れて、然も何等かの関係あるべしと思い惑う様で ある。半時なりとも死せる人の頭脳には、喜怒哀楽の影は宿るまい。空しき心のふと吾に帰りて 在りし昔を想い起せば、油然として雲の湧くが如くにその折々は簇がり来るであろう。簇がり来 るものを入るる余地あればある程、簇がる物は迅速に脳裏を馳け廻るであろう。ウィリアムが吾 に醒めた時の心が水の如く涼しか 0 ただけ、今思い起すかれこれも送迎に選なきまで、糸と乱れ てその頭を悩ましている。出陣、帆柱の旗、戦・ = = ・と順を立てて排列して見る。皆事実としか思 よみがえ
倫敦塔 うや , や いと扉が開くと内から一人の男が出て来て恭しく婦人の前に礼をする。 「逢う事を許されてか」と女が問う。 おきて あきら 「否」と気の毒そうに男が答える。「逢わせまつらんと思えど、公けの掟なれば是非なしと諦め ほり なさけ 給え。私の情売るは安き間の事にてあれど」と急に口を緘みてあたりを見渡す。濠の内からかい つぶりがひょいと浮き上る。 うなじ 女は頚に懸けたる金の鎖を解いて男に与えて「只東の間を垣間見んとの願なり。女人の頼み引 き受けぬ君はつれなしーと云う。 男は鎖りを指の先に巻きつけて思案の体である。かいつぶりはふいと沈む。ややありていう おぼ 「牢守りは牢の掟を破りがたし。御子等は変る事なく、すこやかに月日を過させ給う。心安く覚し そうぜん て帰り給え」と金の鎖りを押戻す。女は身動きもせぬ。鎖ばかりは敷石の上に落ちて鏘然と鳴る。 かな 「姆何にしても逢う事は叶わずや」と女が尋ねる。 「御気の毒なれど」と牢守が云い放つ。 「黒き塔の影、堅き塔の壁、寒き塔の人」と云いながら女はさめざめと泣く。 舞台が又変る。 こけ すみ の高い黒装束の影が一つ中庭の隅にあらわれる。苔寒き石壁の中からスーと抜け出た様に思 もうろう われた。夜と霧との境に立って朦朧とあたりを見廻す。暫くすると同じ黒装東の影が又一つ陰の 底から湧いて出る。櫓の角に高くかかる星影を仰いで「日は暮れた」と脊の高いのが云う。「昼 の世界に顔は出せぬ」と一人が答える。「人殺しも多くしたが今日程寐の悪い事はまたとある つかま によにん
148 「ランスロット ? 」と父は驚きの眉を張る。女は「あな」とのみ髪に挿す花の色を顫わす。 またきず よろい 「二十余人の敵と渡り合えるうち、何者の槍を受け損じてか、鎧の胴を二寸下りて、左の股に を負う・・ : : 」 けねん かたす 「深き創か」と女は片唾を呑んで、懸念の眼を崢る。 くら あおゅうべ 「鞍に堪えぬ程にはあらず。夏の日の暮れきに暮れて、蒼きタを草深き原のみ行けば、馬の蹄 二人は一言も交わさぬ。ランスロットの何の思案に沈めるかは知らず、わ は露に濡れたり。 しの こずえ くっ れは昼の試合のまたあるまじき派手やかさを偲ぶ。風渡る梢もなければ馬の沓の地を鳴らす音の 路は分れて二筋となるー のみ高し。 マイル 影「左へ切ればここまで十哩じゃ」と老人が物知り顔に云う。 かしら 「ランスロットは馬の頭を右へ立て直す」 敦「右 ? 右はシャロットへの本街道、十五哩は確かにあろう」これも老人の説明である。 「そのシャロットの方へーー後より呼ぶ吾をみもせで轡を鳴らして去る。已むなくて吾も従 いなな う。不思議なるはわが馬を振り向けんとしたる時、前足を躍らしてあやしくも嘶ける事なり。嘶 たづな あがき わが手綱の思うままに運びし時 く声の果知らぬ夏野に、末広に消えて、馬の足掻の常の如く、 かす われは鞍を敲いて追うー は、ランスロットの影は、夜と共に微かなる奥に消えたり。 そろ 「追い付いてか」と父と妹は声を揃えて問う。 やみ 「追い付ける時は既に遅くあった。乗る馬の息の、闇押し分けて白く立ち上るを、いやがうえに むち ) 鞭って長き路を一散に馳け通す。黒きもののそれかとも見ゆる影が、二丁ばかり先に現われたる ぬ かた マイル ふる ひづめ
ろうそく Ⅷは、やおら身を臥床に起して、「たそ」と云いつつ戸を半ば引く。差しつくる蝋燭の火のふき込 かざ められしが、取り直して今度は戸口に立てる乙女の方にまたたく。乙女の顔は翳せる赤き袖の影 ともしび おもはゆ に隠れている。面映きは灯火のみならず。 「この深き夜を : : : 迷えるか」と男は驚きの舌を途切れ途切れに動かす。 ねすみ 「知らぬ路にこそ迷え。年古るく住みなせる家のうちをーー鼠だに迷わし」と女は微かなる声な がら、思い切って答える。 ついたて 男は只怪しとのみ女の顔を打ち守る。女は尺に足らぬ紅絹の衝立に、花よりも美くしき顔をか ほうぎよう のくす。常に勝る豊頬の色は、湧く血潮の疾く流るるか、あさやかなる絹のたすけか。ただ隠しか さ 影 ねたる鬢の毛の肩に乱れて、頭には白き薔薇を輪に貫ぬきて三輪挿したり。 幻 白き香りの鼻を撲って、絹の影なる花の数さえ見分けたる時、ランスロットの胸には忽ちギニ なにゆえ 敦ヴィアの夢の話が湧き返る。何故とは知らず、悉く身は痿えて、手に持っ燭を取り落せるかと驚 倫 ろきて我に帰る。乙女はわが前に立てる人の心を読む由もあらず。 かぶとま 「紅に人のまことはあれ。耻すかしの片袖を、乞われぬに参らする。兜に捲いて勝負せよとの願 や なり」とかの袖を押し遣る如く前に出す。男は容易に答えぬ。 「女の贈り物受けぬ君は騎士かーとエレーンは訴うる如くに下よりランスロットの顔を覗く。覗 かれたる人は薄き唇を一文字に結んで、燃ゆる片袖を、右の手に半ば受けたるまま、当惑の眉を たたかい 思案に刻む。ややありて云う。「戦に臨む事は大小六十余度、闘技の場に登って槍を交えたる 事はその数を知らず。未だ佳人の贈り物を、身に帯びたる試しなし。情あるあるじの子の、情深 ふしど な かす たちま
わた 思う人 ! ウィリアムが思う人はここには居らぬ。小山を三つ越えて大河を一つ渉りて二十 哩先の夜鴉の城に居る。夜鴉の城とは名からして不吉であると、ウィリアムは時々考える事があ る。然しその夜鴉の城へ、彼は小児の時度々遊びに行 0 た事がある。小児の時のみではない成人 してからも始終訪問れた。クララの居る所なら海の底でも行かずにはいられぬ。彼はつい近頃ま で夜鴉の城〈行 0 ては終日クララと語り暮したのである。恋と名がつけば千里も行く。二十哩は 云うに足らぬ。夜を守る星の影が自ずと消えて、東の空に紅を揉み込んだ様な時刻に、白城の はねばし ・ : 宵の明星が本丸の櫓の北角に。ヒカと見え初むる時、 刎橋の上に騎馬の侍が一人あらわれる。 ひづめ の遠き方より又蹄の音が昼と夜の境を破 0 て白城の方へ近らいて来る。馬は総身に汗をかいて、 むち 影白い泡を吹いているに、乗手は鞭を鳴らして口笛をふく。戦国のならい、ウィリアムは馬の背で 人と成ったのである。 あけがた 敦去年の春の頃から白城の刎橋の上に、暁方の武者の影が見えなくなった。夕暮の蹄の音も野に うち 倫せま 逼る黒きものの裏に吸い取られてか、聞えなくなった。その頃からウィリアムは、己れを己れの よそ うち 中へ引き入るる様に、内へ内へと深く食い入る気色であった。花も春も余所に見て、只心の中に 貯えたる何者かを使い尽すまではどうあっても外界に気を転ぜぬ様に見受けられた。武士の命は 女と酒と軍さである。吾思う人の為めにと響の上け下しに云う彊彼に傚 0 て、わがクララの為め にと云わぬ事はないが、その声の咽喉を出る時は、塞がる声帯を無理に押し分ける様であった。 ひげ さかずぎ どくろ 血の如き葡萄の酒を置髏形の盃にうけて、縁越すことをゆるさじと、髭の尾まで濡らして呑み干 とう す人の中に、彼は只額を抑えて、斜めに泡を吹くことが多かった。山と盛る鹿の肉に好味の刀を ふさ おの
まろし わた むとき、過去、現在、未来に渉って吾願を叶える事のある盾だと云う。名あるかと聞けば只幻影 の盾と答える。ウィリアムはその他を言わぬ。 はがねまんじゅう 盾の形は望の夜の月の如く丸い。鋼で饅頭形の表を一面に張りつめてあるから、輝やける色さ びよう ふちめぐ えも月に似ている。縁を繞りて小指の先程の鋲が奇麗に五分程の間を置いて植えられてある。鋲 からくさ の色もまた銀色である。鋲の輪の内側は四寸ばかりの円を画して匠人の巧を尽したる唐草が彫り れんい ( 三七 ) はだ ちょっと 付けてある。模様があまり細か過ぎるので一寸見ると只不規則の漣潴が、肌に答えぬ程の微風 よそ はけ ったある に、数え難き皺を寄する如くである。花か蔦か或は葉か、所々が劇しく光線を反射して余所より のぺいた ぞうがん きわだ のも際立ちて視線を襲うのは昔し象嵌のあ 0 た名残でもあろう。猶内側へると延板の平らな地 影になる。そこは今も猶鏡の如く輝ゃいて面にあたるものは必ず写す。ウィリアムの顔も写る。ウ なび さしけ ィリアムの甲の挿毛のふわふわと風に靡く様も写る。日に向けたら日に燃えて日の影をも写そ しゅんこっ 敦う。鳥を追えば、こだまさえ交えずに十里を飛ぶ俊鶻の影も写そう。時には壁から卸して磨くか ひとごと 倫 とウィリアムに問えば否と云う。霊の盾は磨かねども光るとウィリアムは独り語の様に云う。 すきま やしゃ まんなか 盾の真中が五寸ばかりの円を描いて浮き上る。これには怖ろしき夜叉の顔が隙間もなく出さ のろ とこ れている。その顔は長しえに天と地と中間にある人とを呪う。右から盾を見るときは右に向って もと むか のそ 呪い、左から盾を覗くときは左に向って呪い、正面から盾に対う敵には固より正面を見て呪う。 ある時は盾の裏にかくるる持主をさえ呪いはせぬかと思わるる程怖しい。頭の毛は春夏秋冬の風 へび に一度に火かれた様に残りなく逆立っている。しかもその一本一本の末は丸く平たい蛇の頭とな ってその裂け目から消えんとしては燃ゆる如き舌を出している。毛と云う毛は悉く蛇で、その蛇 もち しわ かしら みが
あめ だる ポン・フ 共、夜の世界に流矢の疾きを射る。飴を煮て四斗樽大の喞筒の口から大空に注ぐとも形容され せん る。沸ぎる火の闇に詮なく消ゆるあとより又沸ぎる火が立ち朦る。深き夜を焦せとばかり煮え返 こしやく る餤の声は、地にわめく人の叫びを小癪なりとて空一面に鳴り渡る。鳴る中に餤は砕けて砕けた る粉が舞い上り舞い下りつつ海の方へと広がる。濁る波の憤る色は、怒る響と共に薄黒く認めら すすとお るる位なれば櫓の周囲は、煤を透す日に照さるるよりも明かである。一枚の火の、丸形に櫓を裹 ひめがき んで飽き足らず、横に這うて垬の胸先にかかる。炎は尺を計って左へ左へと延びる。たまたま一 なこさき 陣の風吹いて、逆に舌先を払えば、左へ行くべき鋒を転じて上に向う。旋る風なれば後ろより不 意を襲う事もある。順に撫でて餤を馳け抜ける時は上に向えるが又向き直りて行き過ぎし風を追 の う。左へ左へと溶けたる舌は見る間に長くなり、又広くなる。果は此所にも一枚の火が出来る、 影かしこにも一枚の火が出来る。火に包まれたる蝶の上を黒き影が行きっ戻りつする。たまには暗 き上から明るき中へ消えて入ったぎり再び出て来ぬのもある。 幻や さから 焦け爛れたる高櫓の、機熟してか、吹く風に逆いてしばらくは餤と共に傾くと見えしが、奈落 までも落ち入らでやはと、三分二を岩に残して、倒しまに崩れかかる。取り巻く餤の一度に。ハッ たたず と天地を燬く時、鰈の上に火の如き髪を振り乱して佇む女がある。「クララ ! 」とウィリアムが 叫ぶ途端に女の影は消える。焼け出された二頭の馬が鞍付のまま宙を飛んで来る。 疾く走る尻尾を攫みて根元よりス。ハと抜ける体なり、先なる馬がウィリアムの前にてととま る。とまる前足にカ余りて堅き爪の半ばは、斜めに土に喰い入る。盾に当る鼻づらの、二寸を隔 たてがみ てて夜叉の面に火の息を吹く。「四つ足も呪われたか」とウィリアムは我とはなしに鬣を握りて ただ しりお つか と