「逢いに行ってるんだ」 「どうして ? 」 「どうしてって、逢いに行ったのさ」 「逢いに行くにも何にも当人死んでるんじゃないか」 「死んで逢いに行ったのさ」 こ出来るもんか。まるで林屋正 「馬鹿あ云「てら、いくら亭主が恋しい 0 た 0 て、そんな芸が誰冫 ( 五一 ) 三の怪談だ」 盾 「いや実際行 0 たんだから、仕様がない、と津田君は教育ある人にも似合ず、頑固に愚な事を主 の 影張する。 「仕様がない 0 てーー何だか見て来た様な事を云う。せ。可笑しいな、君本当にそんな事を話して 敦るのかい」 倫 「無論本当さ」 「こりや驚いた。まるで僕のうちの婆さんの様だ」 「婆さんでも爺さんでも事実だから仕方がない」と津田君は愈躍起になる。どうも余にからか 0 ている様にも見えない。はてな真面目で云 0 ているとすれば何か日くのある事だろう。津田君 と余は大学〈入 0 てから科は違うたが、高等学校では同じ組に居た事もある。その時余は大概四 十何人の席末を汚すのが例であ 0 たのに、先生は婦体として常に二三番を下らなか 0 たところを 以て見ると、頭脳は余よりも三十五六枚方晰に相違ない。その津田君が躍起になるまで弁護す がんこ
ラン 「珍らしいね、久しく来なかったじゃないか」と津田君が出過ぎた洋燈の穂を細めながら尋ね こ 0 そうまやき ひざがしら 津田君がこう云った時、余ははち切れて膝頭の出そうなズボンの上で、相馬焼の茶碗の糸底を この正月に顔を合せたぎり、花 三本指でぐるぐる廻しながら考えた。成程珍らしいに相違ない、 盛りの今日まで津田君の下宿を訪問した事はない。 盾 の「来よう来ようと思いながら、つい忙がしいものだから 影 「そりあ、忙がしいだろう、何と云っても学校に居たうちとは違うからね、この頃でもやはり午 もハ 後六時までかいー ろくろくは 敦「まあ大概その位さ、家へ帰って飯を食うとそれなり寝てしまう。勉強どころか湯にも碌々這入 らない位だ」と余は茶碗を畳の上へ置いて、卒業が恨めしいと云う顔をして見せる。 いちごん 津田君はこの一言に少々同情の念を起したと見えて「成程少し瘠せた様だぜ、余程苦しいのだ しやくさわ ろう」と云う。気のせいか当人は学士になってから少々肥った様に見えるのが癪に障る。机の上 ひま に何だか面白そうな本を広げて右の頁の上に鉛筆で註が入れてある。こんな閑があるかと思うと うらやま 羨しくもあり、忌々しくもあり、同時に吾身が恨めしくなる。 ていねい あいかわらず 「君は不相変勉強で結構だ、その読みかけてある本は何かね。ノートなどを入れて大分叮嚀に調 べているしゃないか」 や
て冷たき茶を一時にぐっと飲み干した。 「注意せんといかんよーと津田君は再び同じ事を同じ調子で繰り返す。瞳程な点が一段の黒味を 増す。然し流れるとも広がるとも片付かぬ。 えんぎ ( 四九 ) やこ人を驚かせるぜ。ワハハハハハ」と無理に大きな声で笑って見せたが、 「縁喜でもない、い冫 の抜けた勢のない声が無意味に響くので、我ながら気が付いて中途でびたりと已めた。やめる と同時にこの笑が愈不自然に聞かれたのでやはり仕舞まで笑い切れば善かったと思う。津田君は この笑を何と聞たかしらん。再び口を開いた時は依然として以前の調子である。 の「いや実はこう云う話がある。ついこの間の事だが、僕の親戚の者がやはりインフルエンザに罹 影ってね。別段の事はないと思って好加減にして置いたら、一週間目から肺炎に変じて、とうとう 一箇月立たない内に死んでしまった。その時医者の話さ。この頃のインフルエンザは性が悪い、 かわ 敦じきに肺炎になるから用心をせんといかんと云ったがーーー実に夢の様さ。可哀そうでねーと言い 掛けて厭な寒い顔をする。 「へえ、それは飛んだ事だった。どうして又肺炎などに変したのだ」と心配だから参考の為め聞 いて置く気になる。 「どうしてって、別段の事情もないのだがーー・それだから君のも注意せんといかんと云うのさ」 「本当だね」と余は満腹の真面目をこの四文字に籠めて、津田君の眼の中を熱心に覗き込んだ。 津田君はまだ寒い顔をしている。 「いやだいやだ、考えてもいやた。二十二や三で死んでは実につまらんからね。しかも所天は戦 たち おっと かか
琴のそら音 なりませんから是非この月中に方角のいい所へ御転宅遊ばせと云う訳さ。飛んだ預言者に捕まっ て、大迷惑だ」 「移るのもいいかも知れんよ」 「馬鹿あ言ってら、この間越したばかりだね。そんなに度々引越しをしたら身代限をするばかり 「然し病人は大丈夫かい」 「君まで妙な事を言う・せ。少々伝通院の坊主にかぶれて来たんじゃないか。そんなに人を威嚇か すもんじゃない」 「威嚇かすんじゃない、大丈夫かと聞くんだ。これでも君の妻君の身の上を心配した積りなんだ よ」 「大丈夫に極ってるさ。咳嗽は少し出るがインフルエンザなんだもの」 「インフルエンザ ? 」と津田君は突然余を驚かす程な大きな声を出す。今度は本当に威嚇かされ て、無言のまま津田君の顔を見詰める。 「よく注意し給え」と二句目は低い声で云った。初めの大きな声に反してこの低い声が耳の底を つき抜けて頭の中へしんと浸み込んだ様な気持がする。何故だか分らない。細い針は根まで這入 へきるり ひとみ る、低くても透る声は骨に答えるのであろう。碧瑠璃の大空に瞳程な黒き点をはたと打たれた様 むこやまおろ な心持ちである。消えて失せるか、溶けて流れるか、武庫山卸しにならぬとも限らぬ。この瞳程 な点の運命はこれから津田君の説明で決せられるのである。余は覚えず相馬焼の茶碗を取り上け とお たびたび しんだいかぎり
琴のそら音 「そりや無い」と云ったが実はまた半信半疑である。半信半疑ではあるが何だか物凄い、気味の 一言にして云うと法学士に似合わしからざる感しが起こった。 もっと うち 「尤も話しはしなかったそうだ。黙って鏡の裏から夫の顔をしけじけ見詰めたぎりだそうだが、 けつべっ こっぜんわ その時夫の胸の中に訣別の時、細君の言った言葉が渦の様に忽然と湧いて出たと云うんだが、こ やきごて りやそうだろう。焼小手で脳味噌をじゅっと焚かれた様な心持だと手紙に書いてあるよ 「妙な事があるものだな」手紙の文句まで引用されると是非とも信じなければならぬ様になる。 何となく物な気合である。この時津田君がもしワッとでも叫んだら余はきっと飛び上ったに相 「それで時間を調べてみると細君が息を引き取ったのと夫が鏡を眺めたのが同日同刻になってい る」 「愈不思議だな」この時に至っては真面目に不思議と思い出した。「然しそんな事が有り得る事 かな」と念の為め津田君に聞いてみる。 「ここにもそんな事を書いた本があるがね . と津田君は先刻の書物を机の上から取り卸しながら 「近頃じゃ、有り得ると云う事だけは証明されそうだよ」と落ち付き払って答える。法学士の知 らぬ間に心理学者の方では幽霊を再興しているなと思うと幽霊も愈馬鹿に出来なくなる。知らぬ 事にはロが出せぬ、知らぬは無能力である。幽霊に関しては法学士は文学士に肓従しなければな らぬと思う。 さいはう 「遠い距離に於て、ある人の脳の細胞と、他の人の細胞が感じて一種の化学的変化を起すと : : : 」 ものすご
110 倫敦塔・幻影の盾 しんちゅう 笑う。露子の銀の様な笑い声と、婆さんの真鍮の様な笑い声と、余の銅の様な笑い声が調和して 天下の春を七円五十銭の借家に集めた程陽気である。姆低に源兵衛村の狸でもこの位大きな声は 出せまいと思う位である。 気のせいかその後露子は以前よりも一層余を愛する様な素振に見えた。津田君に逢 0 た時、当 夜の景況を残りなく話したらそれはいい材料だ僕の著書中に入れさせてくれろと云 0 た。文学士 津田真方著幽霊論の七二頁に君の例として載っているのは余の事である。
「これか、なにこれは幽霊の本さ」と津田君は頗る平気な顔をしている。この忙しい世の中に、 流行りもせぬ幽霊の書物を澄まして愛読するなどというのは、呑気を通り越して沢の沙汰だと 思う。 「僕も気楽に幽霊でも研究してみたいが、 どうも毎日芝から小石川の奥まで帰るのだから研 究は愚か、自分が幽霊になりそうな位さ、考えると心細くなってしまう」 「そうだったね、つい忘れていた。どうだい新世帯の味は。一戸を構えると自から主人らしい心 持がするかね」と津田君は幽霊を研究するだけあって心理作用に立ち入った質問をする。 「あんまり主人らしい心持もしないさ。やッばり下宿の方が気楽でいい様だ。あれでも万事整頓 だんな していたら旦那の心持と云う特別な心持になれるかも知れんが、何しろ真鍮の薬罐で湯を沸かし かなだらい たり、プリッキの金盥で顔を洗ってる内は主人らしくないからな」と実際のところを白状する。 「それでも主人さ。これが俺のうちだと思えば何となく愉快だろう。所有と云う事と愛惜という 事は大抵の場合に於て伴なうのが原則だから」と津田君は心理学的に人の心を説明してくれる。 学者と云うものは頼みもせぬ事を一々説明してくれる者である。 「俺の家だと思えばどうか知らんが、てんで俺の家だと思いたくないんたからね。そりや名前だ けは主人に違いないさ。だから門口にも僕の名刺だけは張り付けて置いたがね。七円五十銭の家 賃の主人なんざあ、主人にしたところが見事な主人じゃない。主人中の属官なるものだあね。主 人になるなら勅任主人か少なくとも奏任主人にならなくっちゃ愉快はないさ。只下宿の時分より けしきうかが 行面倒が殖えるばかりだ」と深くも考えずに浮気の不平だけを発表して相手の気色を窺う。向うが 琴のそら音
琴のそら音 るのだから満更の出鱈目ではあるまい。余は法学士である、刻下の事件を有のままに見て常識で あた むし 捌いて行くより外に思慮を廻らすのは能わざるよりも寧ろ好まざるところである。幽霊だ、祟 きら、 だ、縁だなどと雲を攫む様な事を考えるのは一番嫌である。が津田君の頭脳には少々恐れ入 0 ている。その恐れ入 0 てる先生が真面目に幽霊談をするとなると、余もこの問題に対する態度を 義理にも改めたくなる。実を云うと幽霊と雲助は維新以来永久廃業した者とのみ信じていたので ようす ある。然るに先刻から津田君の容子を見ると、何だかこの幽霊なる者が余の知らぬ間に再興され た様にもある。先刻机の上にある書物は何かと尋ねた時にも幽霊の書物だとか答えたと記憶す る。とにかく損はない事だ。忙がしい余に取 0 てはこんな機会は又とあるまい。後学の為め話だ けでも拝聴して帰ろうと漸くの中で決心した。見ると津田君も話の続きが話したいと云う風で ぎま ある。話したい、聞きたいと事が極れば訳はない。漢水は依然として西南に流れるのが千古の法 目ハュ / ただ 「段々聞き糺してみると、その妻と云うのが夫の出征前に誓 0 たのだそうだ」 「何を ? 」 「もし万一御留守中に病気で死ぬ様な事がありましても只は死にませんて」 「へえ」 こんまく おそば 「必ず魂だけは御傍〈行 0 て、もう一遍御目に懸りますと云 0 た時に、亭主は軍人で磊落な気 性だから笑いながら、よろしい、時でも来なさい、戦さの見物をさしてやるからと云 0 たぎり 満洲〈渡 0 たんだがね。その後そんな事はまるで忘れてしま 0 て一向気にも掛けなか「たそう でたらめ
琴のそら音 かない ぎっと家内に不幸があると云ったんだがね。ーー余計な事じゃないか、何も坊主の癖にそんな知 った風な妄言を吐かんでもの事たあね」 しか 「然しそれが商売だから仕様がない」 「商売なら勘弁してやるから、金だけ貰って当り障りのない事を喋舌るがいいや」 らち 「そう怒っても僕の咎じゃないんだから埓はあかんよ」 つけた 「その上若い女に驛ると御負けを附加したんだ。さあ婆さん驚くまい事か、僕のうちに若い女が あるとすれば近い内貰う筈の宇野の娘に相違ないと自分で見解を下して独りで心配しているの さ」 「だって、まだ君の所へは来んのだろう 「来んうちから心配をするから取越苦労さ」 しゃれまじめ 「何だか洒落か真面目か分らなくなって来たぜ」 「まるで御話にも何もなりやしない。ところで近頃僕の家の近辺で野良犬が遠吠をやり出したん 」 0 れんをう 「犬の遠吠と婆さんとは何か関係があるのかい。僕には聯想さえ浮ばんが」と津田君は如何に得 意の心理学でもこれは説明が出来悪いと一寸眉を寄せる。余はわざと落ち付き払 0 て御茶を一杯 と云う。相馬焼の茶碗は安くて俗な者である。もとは貧乏士族が内職に焼いたとさえ伝聞してい でがらなみなみ る。津田君が三十匁の出殻を浪々この安茶碗についでくれた時余は何となくな心持がして飲む かのうほうげんもとのぶ ( 四八 ) 気がしなくなった。茶碗の底を見ると狩野法眼元信流の馬が勢よく跳ねている。安いに似合わず ちょっと
少しでも同意したら、すぐ不平の後陣を繰り出す積りである。 「成程真理はその辺にあるかも知れん。下宿を続けている僕と、新たに一戸を構えた君とは自か すこふ ら立脚地が違うからな」と言語は頗るむずかしいがとにかく余の説に賛成だけはしてくれる。こ つかえ の模様ならもう少し不平を陳列しても差し支はない。 「先すうちへ帰ると婆さんが横綴じの帳面を持って僕の前へ出てくる。今日は御味噌を三銭、大 りん うすらまめ 根を二本、鶉豆を一銭五厘買いましたと精密なる報告をするんだね。厄介極まるのさ , 「厄介極まるなら廃せばいいじゃないか」と津田君は下宿人だけあって無雑作な事を言う。 の「僕は廃してもいいが婆さんが承知しないから困る。そんな事は一々聞かないでもいいから好加 うち 影 減にしてくれと云うと、どう致しまして、奥様のいらっしやらない御家で、御台所を預かってお 幻 ります以上は一銭一厘でも間違いがあ 0 てはなりません、て 0 て皿として主人の云う事を聞かな 敦いんだからね」 倫 「それじゃあ、只うんうん云って聞いてる振をしていりや宜かろう」津田君は外部の刺激の如何 に関せず心は自由に働き得ると考えているらしい。心理学者にも似合しからぬ事だ。 あすおかずつい 「然しそれだけじゃないのだからな。精細なる会計報告が済むと、今度は翌日の御菜に就て綿密 なる指揮を仰ぐのだから弱る」 「見計らって調理えろと云えば好いじゃないか」 めいりよう 「ところが当人見計らうだけに、御菜に関して明瞭なる観念がないのだから仕方がない」 「それじゃ君が云い付けるさ。御菜のプログラム位訳ないじゃないか」 こしら こんにち いかん