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検索対象: 倫敦塔・幻影の盾
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1. 倫敦塔・幻影の盾

とも そうのば ている様である。伝馬の大きいのが二艘上 0 て来る。只一人の船頭が艫に立って艪を漕ぐ、これ かもめ もんど動かない。塔橋の欄干のあたりには白き影がちらちらする、大方鵐であろう。見渡した ところ凡ての物が静かである、物憂げに見える、眠っている、皆過去の感じである。そうしてそ の中に冷然と二十世紀を軽蔑する様に立っているのが倫敦塔である。汽車も走れ、電車も走れ、 あら 苟も歴史の有ん限りは我のみは斯くてあるべしと云わぬばかりに立っている。その偉大なるに は今更の様に驚かれた。この建築を俗に塔と称えているが塔と云うは単に名前のみで実は幾多の じしろ そび 櫓から成り立つ大きな地城である。並び聳ゆる櫓には丸きもの角張りたるもの色々の形状はある えいごう のが、れも陰気な灰色をして前世紀の紀念を永劫に伝えんと誓える如く見える。九段の遊就館を あるい のそ 石で造って二三十並べてそうしてそれを虫眼鏡で覗いたら或はこの「塔」に似たものは出来上り もっ はしまいかと考えた。余はまだ眺めている。セ。ヒャ色の水分を以て飽和したる空気の中に・ほんや 敦り立って眺めている。二十世紀の倫敦がわが心の裏から次第に消え去ると同時に眼前の塔影が けむ すす 倫ま・はろし 幻の如き過去の歴史を吾が脳裏に描き出してくる。朝起きて啜る渋茶に立っ烟りの寐足らぬ夢 しばら の尾を曳く様に感ぜらるる。暫くすると向う岸から長い手を出して余を引張るかと怪しまれて来 なおなお ちよりつ た。今まで佇立して身動きもしなかった余は急に川を渡って塔に行きたくなった。長い手は猶々 たちま 、牽く。塔橋を渡ってか 強く余を引く。余は忽ち歩を移して塔橋を渡り懸けた。長い手はぐいぐし らは一目散に塔門まで地せ着けた。見る間に三万坪に余る過去の一大磁石は現世に浮游するこの てつくす 小鉄屑を吸収し了った。門を入って振り返ったとき、 うれい 憂の国に行かんとするものはこの門を潜れ。 いやしく すべ てんま けいべっ うち げんせ ふゅう ねた

2. 倫敦塔・幻影の盾

もっ は悉く首を擡げて舌を吐いて縺るるのも、捻じ合うのも、攀じあがるのも、にじり出るのも見ら るる。五寸の円の内部に獰悪なる夜叉の顔を辛うじて残して、額際から顔の左右を残なく填めて 自然に円の輪廓を形ちづくっているのはこの毛髪の蛇、蛇の毛髪である。遠き昔しのゴーゴンと はこれであろうかと思わるる位だ。ゴーゴンを見る者は石に化すとは当時の諺であるが、この盾 を熟視する者は何人もその諺のあながちならぬを覚るであろう。 きす はす あと 盾には創がある。右の肩から左へ斜に切りつけた刀の痕が見える。玉を並べた様な鋲の一つを まと 半ば潰して、ゴーゴン・メジ = ーサに似た夜叉の耳のあたりを纏う蛇の頭を叩いて、横に延板の 平な地〈微かな細長い凹みが出来ている。ウィリアムにこの創の因縁を聞くと何にも云わぬ。知 のらぬかと云えば知ると云う。知るかと云えば言い難しと答える。 影人に云えぬ盾の由来の裏には、人に云えぬ恋の恨みが潜んでいる。人に云わぬ盾の歴史の中に は世もいらぬ神もいらぬとまで思いつめたる望の綱が繋がれている。ウィリアムが日毎夜毎に繰 り返す心の物語りはこの盾と浅からぬ因果の羈絆で結び付けられている。いざという時この盾を 執 0 て : : = 望はこれである。心の奥に何者かほのめいて消え難き前世の名残の如きを、白日の下 に引き出して明ら様に見極むるはこの盾のカである。いずくより吹くとも知らぬ業のの、熱 くす 多き胸に洩れて目に見えぬ波の、立ちては崩れ、崩れては立つを浪なき昔、風吹かぬ昔に返すは この盾のカである。この盾だにあらばとウィリアムは盾の懸かれる壁を仰ぐ。天地人を呪うべき えみ 夜叉の姿も、彼が眼には画ける天女の微かに笑を帯べるが如く思わるる。時にはわが思う人の肖 像ではなきかと疑う折さえある。只抜け出して語らぬが残念である。 もた きすな さと つな

3. 倫敦塔・幻影の盾

まい」と高き影が低い方を向く。「タ。へストリの裏で二人の話しを立ち聞きした時ま、 ーいっその くちびる 事止めて帰ろうかと思うた」と低いのが正直に云う。「絞める時、花の様な唇がびりびりと顫う うな た」「透き通る様な額に紫色の筋が出た」「あの唸った声がまだ耳に付いている」。黒い影が再び 黒い夜の中に吸い込まれる時櫓の上で時計の音ががあんと鳴る。 空想は時計の音と共に破れる。石像の如く立っていた番兵は銃を肩にしてコトリコトリと敷石 の上を歩いている。あるきながら一件と手を組んで散歩する時を夢みている。 むこう 血塔の下を抜けて向へ出ると奇麗な広場がある。その真中が少し高い。その高い所に白塔があ のる。白塔は塔中の尤も古きもので昔しの天主である。竪二十間、横十八間、高さ十五間、壁の厚 すみやぐら さ一丈五尺、四方に角楼が聳えて所々にはノーマン時代の銃眼さえ見える。千三百九十九年国 そ , りよ 民が三十三カ条の非を挙げてリチャード二世に譲位をせまったのはこの塔中である。僧侶、貴族、 をの 敦武士、法士の前に立って彼が天下に向って譲位を宣告したのはこの塔中である。爾時譲りを受 けたるヘンリーは起って十字を額と胸に画して云う「父と子と聖霊の名によって、我れへンリー たすけか はこの大英国の王冠と御代とを、わが正しき血、恵みある神「親愛なる友の援を藉りてぎ受 なんびと く」と。さて先王の運命は何人も知る者がなかった。その死骸がポント・フラクト城より移され しかばねめぐ こつりつ て聖ポール寺に着した時、二万の群集は彼の屍を繞ってその骨立せる面影に驚かされた。或は云 せつかく おの 八人の刺客がリチャードを取り巻いた時彼は一人の手より斧を奪いて一人を斬り二人を倒し うらみ た。されどもエクストンが背後より下せる一撃の為めに遂に恨を呑んで死なれたと。或る者は天 を仰いで云う「あらずあらず。リチャードは断食をしてと、命の根をたたれたのじゃ」と。 じよう たて ふる

4. 倫敦塔・幻影の盾

132 くろがね ( 七五 ) 鏡の長さは五尺に足らぬ。黒鉄の黒きを磨いて本来の白きに帰すマーリンの術になるとか。魔 ちょ ) 法に名を得し彼の云う。ーー鏡の表に霧こめて、秋の日の上れども睛れぬ心地なるは不吉の兆な ふようした けき り。曇る鑑の露を含みて、芙蓉に滴たる音を聴くとき、対える人の身の上に危うき事あり。店 ぜん「七六 ) まつご シャロッ 然と故なきに響を起して、白き筋の横縦に鏡に浮くとき、その人末期の覚悟せよ。 あした ゅうべ トの女が幾年月の久しき間この鏡に向えるかは知らぬ。朝に向いタに向い、日に向い月に向いて、 厭くちょう事のあるをさえ忘れたるシャロットの女の眼には、霧立つ事も、露置く事もあらざれ おそれ たんせん ば、況して裂けんとする虞ありとは夢にだも知らず。湛然として音なき秋の水に臨むが如く、瑩 の朗たる面を過ぐる森羅の影の、繽として去るあとは、太古の色なき境をまのあたりに現わす。 たいくう うち 幻無限上に徹する大空を鋳固めて、打てば音ある五尺の裏に圧し集めたるをーー・シャロットの女は 夜毎日毎に見る。 そば 敦夜毎日毎に鏡に向える女は、夜毎日毎に鏡の傍に坐りて、夜毎日毎の繒を織る。ある時は明る き繒を織り、ある時は暗き繒を織る。 うてな シャロットの女の投ぐる梭の音を聴く者は、淋しき皐の上に立つ、高き台の窓を恐る恐る見上 げぬ事はない。親も逝き子も逝きて、新しき代に只一人取り残されて、命長き吾を恨み顔なる年 すま 寄の如く見ゆるが、岡の上なるシャロットの女の住居である。蔦鎖す古き窓より洩るる梭の音 しんし さま の、絶間なき振子の如く、日を刻み月を刻むに急なる様なれど、その音はあの世の音なり。静な るシャロットには、空気さえ重たげにて、常ならば動くべしとも思われぬを、只この梭の音のみ かす にそそのかされて、幽かにも震うか。淋しさは音なき時の淋しさにも勝る。恐る恐る高き台を見 かがみ が さび おか むか まさ はた

5. 倫敦塔・幻影の盾

倫敦塔 納の鴉です。昔しからあすこに飼っているので、一羽でも数が不足すると、すぐあとをこしらえ ます、それだからあの鴉はいつでも五羽に限っています」と手もなく説明するので、余の空想の 一半は倫敦塔を見たその日のうちに打ち壊わされてしまった。余は又主人に壁の題辞の事を話す と、主人は無造作に「ええあの落書ですか、つまらない事をしたもんで、折角奇麗な所を台なし あて にせだいぶ にしてしまいましたねえ、なに罪人の落書だなんて当になったもんじゃありません、贋も大分あ りまさあね」と澄ましたものである。余は最後に美しい婦人に逢った事とその婦人が我々の知ら おおいけいべっ ない事や到底読めない字句をすらすら読んだ事などを不思議そうに話し出すと、主人は大に軽蔑 した口調で「そりや当り前でさあ、皆んなあすこへ行く時にや案内記を読んで出掛るんでさあ、 十こふべっぴん 倫敦に その位の事を知ってたって何も驚くにゃあたらないでしよう、何頗る別嬪だって ? や大分別嬪が居ますよ、少し気を付けないと呑ですせ」と飛んだ所へ火の手が揚る。これで余 の空想の後半が又打ち壊わされた。主人は二十世紀の倫敦人である。 それからは人と倫敦塔の話しをしない事に極めた。又再び見物に行かない事に極めた。 もんじ この篇は事実らしく書き流してあるが、実のところ過半想像的の文字であるから、見る人はその心 で読まれんことを希望する、塔の歴史に関して時々戯曲的に面白そうな事柄を撰んで綴り込んでみた やむ が、甘く行かんので所々不自然の痕迹が見えるのは已を得ない。その中エリザ・ヘス ( エドワード四世 さおう せつ、く の妃 ) が幽閉中の二王子に逢いに来る場と、一一王子を殺した刺客の述懐の場は沙翁の歴史劇リチャー ド三世のうちにもある。沙翁はクラレンス公爵の塔中で殺さるる場を写すには正筆を用い、王子を絞 そくびつ 殺する模様をあらわすには仄筆を使って、刺客の語を藉り裏面からその様子を描出している。甞てこ いつまん こんせき えら

6. 倫敦塔・幻影の盾

琴のそら音 すなほこ あふら す膏と、粘り着く砂埃りとを一所に拭い去った一昨日の事を思うと、まるで去年の様な心持ちが さえ ( 五ニ ) する。それ程きのうから寒くなった。今夜は一層である。冴返るなどと云う時節でもないに馬鹿 力いとうえり もうあ 馬鹿しいと外套の襟を立てて肓唖学校の前から植物園の横をだらだらと下りた時、どこで撞く鐘 ( 五三 ) だか夜の中に波を描いて、静かな空をうねりながら来る。十一時だなと思う。ーー時の鐘は誰が 発明したものか知らん。今までは気が付かなかったが注意して聴いてみると妙な響である。一つ 音が粘り強い餅を引き千切った様に幾つにも割れてくる。割れたから縁が絶えたかと思うと細く なって、次の音に繋がる。繋がって太くなったかと思うと、又筆の穂の様に自然と細くなる。 ある あの音はいやに伸びたり縮んだりするなと考えながら歩行くと、自分の心臓の鼓動も鐘の波 のうねりと共に伸びたり縮んだりする様に感ぜられる。仕竓には鐘の音にわが呼吸を合せたくな る。今夜はどうしても法学士らしくないと、足早に交番の角を曲るとき、冷たい風に誘われてポ ツリと大粒の雨が顔にあたる。 極楽水はいやに陰気な所である。近頃は両側へ長家が建ったので昔程淋しくはないが、その長 げきせん 家が左右共闃然として空家の様に見えるのは余り気持のいいものではない。貧民に活動はっき物 である。働いておらぬ貧民は、貧民たる本性を遺失して生きたものとは認められぬ。余が通り抜 ごくらくみす ける極楽水の貧民は打てども蘇み返る景色なきまでに静かである。 実際死んでいるのだろ う。ポツリポツリと雨は慚く濃かになる。傘を持って来なかった、殊によると帰るまでにはずぶ しようしよう やみ ぬれ 濡になるわいと舌打をしながら空を仰ぐ。雨は闇の底から蕭々と降る、容易に晴れそうにもない。 まんなか 五六間先に忽ち白い者が見える。往来の真中に立ち留って、首を延してこの白い者をすかして もち たちま つな こま おとと こと さみ

7. 倫敦塔・幻影の盾

185 趣味の遺伝 ことわざ ものだ。美人薄命と云う諺もある位だからこの女の寿命も容易に県険はつけられない。然し妙 の娘は概して活気に充ちている。前途の希望に照されて、見るからに陽気な心持のするものだ。 ゅうぜん しゅちん のみならず友染とか、繻珍とか、 ばっとした色気のものに包まっているから、横から見ても縦か ら見ても派手である立派である、春景色である。その一人がーー。最も美くしきその一人が寂光院 の墓場の中に立った。浮かない、古臭い、沈静な四顧の景物の中に立った。するとその愛らしき こっぜん しようじよう じゃくまく 眼、そのはなやかな袖が忽然と本来の面目を変じて蕭条たる周囲に流れ込んで、境内寂寞の感を 一層深からしめた。天下に墓程落付いたものはない。然しこの女が墓の前に延び上がった時は墓 さみ よりも落ちついていた。銀杏の黄葉は淋しい。況して化けるとあるから猶淋しい。然しこの女が たたす さみ 化銀杏の下に横顔を向けて佇んだときは、銀杏の精が幹から抜け出したと思われる位淋しかっ しようだい た。上野の音楽会でなければ釣り合わぬ服装をして、帝国ホテルの夜会にでも招待されそうなこ さくまく の女が、なぜかくの如く四辺の光景と映帯して索の観を添えるのか。これも諷語だからだ。マ クベスの門番が怖しければ寂光院のこの女も淋しくなくてはならん。 御墓を見ると花筒に菊がさしてある。垣根に咲く豆菊の色は白いものばかりである。これも今 の女の所おに相違ない。家から折って来たものか、途中で買って来たものか分らん。若しや名刺 でも括りつけてはないかと葉裏まで覗いて見たが何もない。全体何物だろう。余は高等学校時代 から浩さんとは親しい付き合いの一人であった。うちへはよく泊りに行って浩さんの親類は大抵 知っている。然し指を折ってあれこれと順々に勘定してみても、こんな女は思い出せない。する と他人か知らん。浩さんは人好きのする性質で、交際も大分広かったが、女に朋友がある事はっ

8. 倫敦塔・幻影の盾

] 15 夜 遣火がりながらふらふらと揺れる。東隣で琴と尺八を合せる音が紫陽花の茂みを洩れて手にと る様に聞え出す。すかして見ると明け放ちたる座敷の灯さえちらちら見える。「どうかな」と一 人が云うと「人並じゃ」と一人が答える。女ばかりは黙っている。 「わしのはこうじゃ」と話しが又元〈返る。火をつけ直した蚊遣の烟が、筒に穿てる三つの穴を 洩れて三つの烟となる。「今度はっきました」と女が云う。三つの烟りが蓋の上に塊ま 0 て茶色 の球が出来ると思うと、雨を帯びた風が颯と来て吹き散らす。塊まらぬ間に吹かるるときには = 一 つの烟りが三つの輪を描いて、黒塗に蒔絵を散らした筒の周囲を遶る。あるものは緩く、あるも のは疾く遶る。またある時は輪さえ描く隙なきに乱れてしまう。「荼毘、荼毘だ」と丸顔の男 は急に焼場の光景を思い出す。「蚊の世界も楽じゃなかろ」と女は人間を蚊に比較する。元〈戻 りかけた話しも蚊遣火と共に吹き散らされてしもうた。話しかけた男は別に語りつづけようとも せぬ。世の中は凡てこれだと疾うから知っている。 「御夢の物語りは」とややありて女が聞く。男は傍らにある羊皮の表紙に朱で書名を入れた詩集 をとりあげて膝の上に置く。読みさした所に象牙を薄く削 0 た紙小刀が挾んである。巻に余 0 て 長く外〈食み出した所だけは細かい汗をかいている。指の尖で触ると、ぬらりとあやしい字が出 来る。「こう湿気てはたまらん」と眉をひそめる。女も「じめじめする事」と片手に袂の先を握 って見て、「香でも焚きましよか」と立つ。夢の話しは又延びる。 こラろ ( 六一 D 宣徳の香炉に紫檀の蓋があ 0 て、紫檀の蓋の真中には猿を彫んだ玉のつまみ手がついてい る。女の手がこの蓋にかか 0 たとき「あら蜘蛛が、と云うて長い袖が横に靡く、一一人の男は共に

9. 倫敦塔・幻影の盾

びもと の遠く立ちて、今に至るまで史を繙く者をゆかしがらせる。希臘語を解しプレートーを読んで一 せきがく 代の碩学アスカムをして舌を捲かしめたる逸事は、この詩趣ある人物を想見するの好材料として なんびと 何人の脳裏にも保存せらるるであろう。余はジェーンの名の前に立留ったぎり動かない。動かな いと云うより寧ろ動けない。空想の幕は既にあいている。 かす 始は両方の眼が霞んで物が見えなくなる。やがて暗い中の一点に。ハッと火が点ぜられる。その だんだん 火が次第次第に大きくなって内に人が動いている様な心持ちがする。次にそれが漸々明るくなっ て丁度双眼鏡の度を合せる様に判然と眼に映じて来る。次にその景色が段々大きくなって遠方か ら近づいて来る。気がついて見ると真中に若い女が坐っている、右の端には男が立っている様 だ。両方共どこかで見た様だなと考えるうち、瞬たく間にズッと近づいて余から五六間先で果と 停る。男は前に穴倉の裏で歌をうたっていた、眼の凹んだ煤色をした、脊の低い奴だ。磨ぎすま した斧を手に突いて腰に八寸程の短刀をぶら下げて見構えて立 0 ている。余は覚えずギョッと ふぜい する。女は白き手巾で目隠しをして両の手で首を載せる台を探す様な風情に見える。首を載せる まきわり わら 台は日本の薪割台位の大きさで前に鉄の環が着いている。台の前部に藁が散らしてあるのは流れ ようじん る血を防ぐ要慎と見えた。背後の壁にもたれて二三人の女が泣き崩れている、侍女ででもあろう すそ か。白い毛裏を折り返した法衣を裾長く引く坊さんが、うっ向いて女の手を台の方角へ導いてや る。女は雪の如く白い服を着けて、肩にあまる金色の髪を時々雲の様に揺らす。ふとその顔を見 おもて さっき ると驚いた。眼こそ見えね、眉の形、細き面、なよやかなる頚の辺りに発まで、先刻見た女その % ままである。思わず馳け寄ろうとしたが足が縮んで一歩も前へ出る事が出来ぬ。女は漸く首斬り ハンケチ かん たる ようや

10. 倫敦塔・幻影の盾

いるうちに、白い者は容赦もなく余の方へ進んでくる。半分と立たぬ間に余の右側を掠める如く みかん きれ 過ぎ去ったのを見るとーー蜜柑箱の様なものに白い巾をかけて、黒い着物をきた男が二人、棒を 通して前後から担いで行くのである。大方葬式か焼場であろう。箱の中のは乳飲子に違いない。 黒い男は互に言葉も交えすに黙ってこの棺桶を担いで行く。天下に夜中棺桶を担う程、当然の出 来事はあるまいと、思い切った調子でコッコッ担いで行く。闇に消える棺桶を暫くは物珍らし気 に見送って振り返った時、又行手から人声が聞え出した。高い声でもない、低い声でもない、夜 が更けているので存外反響が烈しい。 の「昨日生れて今日死ぬ奴もあるしーと一人が云うと「寿侖だよ、全く寿侖だから仕方がないと そばかす 影 一人が答える。二人の黒い影が又余の傍を掠めて見る間に闇の中へもぐり込む。棺の後を追って 幻 足早に刻む下駄の音のみが雨に響く。 敦「昨日生れて今日死ぬ奴もあるしーと余は胸の中で繰り返してみた。昨日生れて今日死ぬ者さえ 倫 あるなら、昨日病気に罹って今日死ぬ者は固よりあるべき筈である。二十六年も娑婆の気を吸っ たものは病気に罹らんでも充分死ぬ資格を具えている。こうやって極楽水を四月三日の夜の十一 何だか上りたくない。 時に上りつつあるのは、ことによると死にに上ってるのかも知れない。 暫らく坂の中途で立ってみる。然し立っているのは、殊によると死にに立っているのかも知れな ある 又歩行き出す。死ぬと云う事がこれ程人の心を動かすとは今までつい気が付かなんだ。 気が付いてみると立っても歩行いても心配になる、この様子では家へ帰って蒲団の中へ這って もやはり心配になるかも知れぬ。何故今までは平気で暮していたのであろう。考えてみると学校 、 0 かっ かんおけ こと はんぶん ふとん かす