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検索対象: ステンドグラス なだれる虹 燃えるいばら
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1. ステンドグラス なだれる虹 燃えるいばら

やがて、プールジュ大聖堂から出た私は、さらにもう一度黙示録 に思い当った。眼の前の建築が、奇怪に、巨獣のようなものに見え たからだった。なぜ、このような大工事が成し遂げられたのか、思 えば謎ではないか。天に昇ろうとする祈願、と考えるだけでは余り に大ざっぱだし、 ) 建築家が建築自体の美を追求したと考えるだけで 余りに抽象的だ。勿論こうした観点にも意味があるが、それだ けでは、この建物がキリスト教の聖堂であるゆえんは解らないので はないか。壮麗というだけではない。典雅というだけではない。重 苦しいし、荒々しいし、余りに執拗だ。恐らく、この印象を呼び起こす 原因もまた黙示録にあるのだろう。建築のヴィジョンもまた黙示録 に基づいていたはずだ。石彫や壁画やステンドグラスにも繰り返し あらわれているのだから : そう私は考え、振り返って黙示録を 思うと、接近不可能なほど不思議な幻であることに気づく。本当い って、黙示録の神秘は解らないのだ。しかし、それはキリスト教の 源であり、ここプールジュ大聖堂もまた、その具体化なのに違いな 121

2. ステンドグラス なだれる虹 燃えるいばら

冠をかぶっていた。玉座からは、稲妻と雷鳴、それからさまざまな 声が響き、その上、その正面には七つの灯火が燃えているのも見え 水晶に似たガラス た。これは神の七つの霊であった。その一則には、 の海がひろがっていた。それだけではない。 さらに玉座をとり囲ん で、四匹のけだものがいた。第一のけだものはライオンに似、第二 のけだものは雄牛に似、第三のけだものは人の顔をしていて、第四 の動物は空飛ぶ鷲に似ていた。 〈ヨハネ黙示録〉は小さな記述だが、巨大な建築的ヴィジョンを含 んでいる。また音響は深く、時には耳を聾するほどけたたましいし、 光と色彩も豊かで、時には眩惑するように眼を射る。 その意味を解釈しながら、地上に具体化して行くのが、後世の代々 の宗教建築家たちの役割であった。勿論ステンドグラスも、ヨハネ こうも書かれている。 の幻の具体化だったに違いない。 市街はガラスのように透き徹る純金で、城壁は碧玉でできていた。 そこの十二の土台石には、さまざまな宝石がちりばめられていた。 第一の土台石には碧玉が、第二にはサファイア、第三には玉髄、第 めのう 四にはエメラルド、第五には赤縞瑪瑙、第六には赤瑪瑙、第七には かんらん ーズ、第十には緑玉髄、 貴橄欖石、第八には緑柱石、第九にはトッパ 7

3. ステンドグラス なだれる虹 燃えるいばら

教と離れて行ったのは、それらが教会に反逆した場合よりも、教会 がそれらを排斥した場合のほうがはるかに多い。結果として、教会 は狭くなった。上品った神経質な小さな団体となった。その様は 時には偽善的でさえある。かっては、聖者といわれた或る宗教家さ え、私は性について語ることをひかえるつもりはない、必要ならば、 説教壇で体のあらゆる部分の名称をあげるだろう、そこで快楽を感 しる腰の奥で起こることさえ口に出すだろう、といったそうだ。 少々まわりくどい言い方だが、ともかく、中世の宗教にはそれだ いわば、人間性のすべてに関心を持ち、受け容れる覚悟が あったとい、つことたろ、つ なぜこのように中世の教会は大きくなったのであろうか。勿論、 その源は聖書にあったのに違いない。私が思い当るのは、キリス トの喩え話だ。小作人と地主の喩え、旅人と強盗の喩え、やもめと 裁判官、農夫とならずもの、税金取り、金貸し、等々。また、天国 は宝の置き場だ、そこへ宝を積めば、虫が喰い荒らすこともない し、泥棒も持って行かない という有名な言葉もある。これを読ん で或る人は、キリストの喩えは余りに卑俗だ、哲学と物質が直接結 びついている、と批難している。或る人々にとっては、その故に卑 130

4. ステンドグラス なだれる虹 燃えるいばら

だなと思う。私が子供のころ親しかった大工は、法隆寺を創建した という聖徳太子を拝んでいた。 シャルトレ ノ大聖堂では、どの窓をとって見ても、ガラスの断片の つなぎ合わせ方が自然であり、剛健で、ゆるがない美しさがある。 たとえば、松の木の肌の裂け目が、かえって松の強さを表わしてい るような、有機的な小区画の組織となっている。これを鎧の錏にた とえている人もあるが、その通りだと限う。 〈聖母の臨終〉の感想をつけ加えておこう。〈聖母の生涯〉の一区 * カラー 画であるこの図柄は、画工の腕の冴えを如実に見せてくれる一例だ。 黒い釉による輪郭線は自在に躍動している。線の即興曲だ。色彩に ついて見ても、絵具を大胆に澱ませたりばかしたりしながら、ガラ フォーウイスム スの透明度を損わない。野獣派の始祖を見る思いだ 特に古い仕事 ここでさかのばって、フランスで発見されたステンドグラスでは 最古のものといわれる〈キリストの顔〉について書いてみよう。動 * ガラー。 きのない、不気味な、闇からぬっと現われたような人物像だ。西欧 では、キリストの顔は、時とともに随分変った。日本で仏たちの顔 うわぐオい しころ ヘージ参照 ページ参照 112

5. ステンドグラス なだれる虹 燃えるいばら

宗教画は身近かな隣人たちの写生で うだ。後世ヴァン・ゴッホが、 あった、という意を述べているのは当を得ている。西欧の伝統では たしかにそうだ。いわゆる宗教画家たちの大多数は、想像を描いた のではない。 日常の情景を描いたのだ。根底には、民衆が聖書物語 の中に自らを入れて、いわば物語の中に生きる気持があったのだ。 同じカンタベリー大聖堂の〈種まく人〉の連作も面白い。第一の 絵には、聖書の〈農夫が畑に種をまいた。しかし或る種は道ばたに こばれたので、鳥が来て、ついばんでしまった〉というくだりが描 写されている。そして第二の絵には〈いばらの中に落ちた種もあっ オカいばらが茂ると、生長できなくなってしまった。しかし、耕 された良い土に落ちた種もあった〉というあたりが図示されている。 この二つがあるのは〈神学の窓〉だというが、なるほどと思わせ る。というのは、種まく人の容貎が農夫らしくなく、威厳のある人 物だということだ。つまり、教会の解釈によれば、喩え話とはいえ、 種をまくのは神だということになるのだろう。そして、種は神の教 えとも受けとれるが、昔の見方では、それは人間だということらし 神が人間という名の種をまき、やがてそれを刈りいれるという ことになる。誕生と死を農耕の過程と結びつけて考えている。 * カラー ページ参照 124

6. ステンドグラス なだれる虹 燃えるいばら

十字架につけられたキリストは新しい墓に納められ、三日目に復 活した。そして、キリスト信徒の願いは、いわば、この世の生命に 死んで永遠の生命は生きるということにあったのだから、キリスト のたどった〈死〉と〈死後の世〉の境界ー・ーっまり墓が関心事であ 信徒たちは自分たちも穢れたこの世に一たびは死んで、そこ に葬られ、そして、そこで生まれかわって、しかも天に昇って行き たいという、非条理な、熾烈な希望を持っていた。 聖堂は、初代キリスト教徒の時代には、文字通り墓であった。未 公認の時代、迫害のゆえに、彼らは地下に祈りの場を設けたという 説明だけでは充分ではない。世に容れられすにひそかに、あるいは、 虐げられつつ信仰を守り抜いた死者と、今その試練を受けつつある 生者が集って、共同体を感しることができる場所は墓以外にはなか った。やがて、そこに色濃く籠っていた熱狂が空へ環れ、やみがた 棲まじく噴出して行く姿は、聖堂建築史と照応する。 これほど激しく、人々を先導した目的地のヴィジョンは何であった ろうか。〈黙示録〉に書かれている終末であったに違いない 書かれている。 幻の中で、天使は私を、大きく高い山の頂上へ連れて行った。そ 4