びじゅっかん 16 刈り入れ人たちの休息 ( ルツとボアズ ) 1850 ~ 53 年 67.3X119.7cm ポストン美術館 きゅうそく びと ねん 1850 年、『種をまく人』で 、刀、刀 画家として力強くふみだしたものの、 ミレ 1 の貧しさはあいかわらすでした。 しよくじだい 食事代もなくて 3 日も食べないことも あったほどでした。 おばあさんの死の知らせをうけても 2 年後に、お母さんが亡くなったときも かえ ミレ 1 は帰ることかできませんでした。 りよひ 旅費がなかったのです。 かな ミレ 1 の悲しみは、はかりしれません。 しゆっぴん 18 5 3 年、サロンに出品した 」ゅ、つュ、ノ、 『刈り入れ人たちの休息』が 売れると、ミレ 1 はいそいで むら かえ グリュシ 1 村へ帰って、 お母さんやおばあさん、 AJ 、つ そして早く亡くなったお父さんの墓を つくり、とむらいました。 ねんご は ちからづよ たね は
ー - ドイヅ、 - 、 0 フランクフ ) 丿い ランドルベルギー 、 6 ルーアン、うルクセン 。ル・み 第イギ丿ス淹峡 : 曇ズ第まグ丿ユシ歹村ェルプー 、ゴタツ プルターニエ しどスケト ~ アルザス 。第 0 ベルン ー以イス ユネプ ・イタリア ジェノバ \ フン バルビゾン村 0 グルノー ガンヌ親父の館 ( 現バルビゾン派美術館 ) 」ロ フォンテープローの森 、マルセイユ ーの家 ( 現ミレー記念館 ) ミし一とルソーの記念碑 朝、かれらが畑へ出るころ、 」、つノ、 ミレ 1 も絵の道具をもって出かけ、 かれらが仕事を終えると ミレ 1 も家路につきました。 そして、この村で描いた おお はじめての大きな絵、『種をまく人』を 、、、レ 1 は、 18 5 0 年のサロンに しゆっぴん にゆうせん 出品して入選しました。 ある 大またで歩きながら、 たね 種をまこ、つとしている農夫を えか 画面いつばいに大きく描いたこの絵は、 おおくの人びとをおどろかせました。 ど、つど、つ のうみんすがた こんなに堂々とした農民の姿を えか 、刀、刀 描いた画家は、はじめてだったからです。 のちにオランダの画家ゴッホも かんどう この絵に感動して、 もしゃ なんども模写しています。 がめん あさ おお ひと しごと むら おお ねん 、刀、刀 のうふ たね ひと
晩年、ミレーはルソーとともにフォン もり テーヌプローの森の保護に力をつくしま と一つじ した。おかげで、私たちはいまも当時の しぜんたの ままの自然を楽しむことができるのです。 ふたり ミレーが亡くなって 2 年ほどのち、一一人 の努力をたたえて、フォンテーヌプロー もり いりぐち きねんひ の森の入口に、ルソーとミレーの記念碑 がたてられました。 ばんねん どりよく わたし ほこちから ねん えカ 自然を描きにパリからやってくる 、カ、カ 画家たちがあとをたちませんでした。 やど コロ 1 もこの宿にとまって えカ ふうけいが たくさんの風景画を描いています。 しぜんあい このよ、つにバルビゾンの自然を愛し、 えカ ふうけいがか しぜんかす その自然を数おおく描いた風景画家たちを わたしたちは「バルビゾン派」の画家と よんでいます。 この村の住民は木こりや農民で、 その人たちは朝早くから、夕方太陽が しすむまで働いていました。 男たちは荒れ地をたがやし、 種をまき、女たちはまきをあつめ、 落ちた穂をひろい、みんな休むひまもなく ろ、つ AJ 、つ 労働におわれていましたが、 かみだいち 神と大地のめぐみに かんしゃ 感謝と祈りをわすれませんでした。 おとこ たね ひと むらじゅうみん はたら おんな あさはや ゅうがたたいよう やす のうみん 、刀、刀
びじゅっかん 15 種をまく人 1850 年 101.6 ー 82.6 。。ポト美術館
ハリの貧しい画学生 がいせんもん そのころのパリは、凱旋門や どお シャンゼリゼ通りができたばかりで ばしゃ とお 通りはにぎわい、馬車がゆきかい レ」、つ よる 夜はおそくまでガス燈が かかやいていました。 しかし、道路はせまく、 ごみがすてられ 、つ」 そのにおいやよごれた空気で 息もつまりそ、つでした。 あか たいよう ノルマンディ 1 の明るい太陽や うみかせ さわやかな海風やかぐわしい草の 。おいになれた かっかりしました。 そのうえ、美術学校の勉強も ミレ 1 にはおもしろく ありませんでした。 びじゅっかん もしル 1 プル美術館がなかったら、 き どうろ まず びじゅっがっこ、つ かが / 、せ べんきよう まち さっさとこの街から 逃げ出していたことでしよう。 まいにちびじゅっかん 1 は毎日美術館にかよい、 さくひん 巨匠の作品をくりかえしくりかえし もしゃ 模写をして勉強しました。 と、つじ、 リの画学生のおおくは 1 は A 」くにひ」く 貧乏でしたが、 食べることもまんぞくに できませんでした。 しかし、 1840 年、歳のときに しよ、つぞ、つ にゆうせん 『ルフラン氏の肖像』がサロンに入選して、 よ、つやく、 1 は画家としての 一歩をふみだしました。 てんらんかい サロンは政府のひらく展覧会で、 にゆうせん ここで入選しないと世間には 、刀、刀 画家とみとめられなかったのです。 」よ 1 」よ、つ びんばう し せいふ べんきよう ねん 、刀、刀 せけん さい
ねん きあいだぬま 40 ヴィル・ダヴレー、木の間の沼 1870 年 54.9X80cm かー はしいぜ ノ、かヨ : むゝ ね日んま自じいわっいおた にかたっ分てだもた金わ らのてのいらだく持もれ まイでい洋まけぶはちて つのする服 t しのだしに 人をたズぶななま てよ いか ボのいっし ン青でてた をい のた げお よ金 を画が 知し家ヵ ロエ は びじゅっかん ニューヨークメトロポリタン美術館 絵が売れ、有名になっても、 コロ 1 はやさしい心を わす 忘れませんでした。 わか たくさんの若い画家たちから 心のやさしいコローじいさん 「コロ 1 じいさん」とよばれて ゅうめい こころ しごとぎ
( 町歳 ) 最後のイタリア旅行。 《ティヴォリのヴィラ・デステ庭園》 一一月革命ルイ・フィリップ退位。第ニ共和政 《イタリア風景》等数点の作品をフランス政府が購入。 一八五〇歳 ) 《朝、ニンフの踊り》をフランス政府が購入。 画家として不動の地位を得る。 一ハ五一一ルイ・ナポレオン皇帝に即位。第一一帝政 一八五五歳 ) パリ万国博覧会美術展でグランプリ受賞。 一八六四歳 ) 《モルトフォンテーヌの思い出》 歳 ) 《真珠の女》 一ハ七〇普仏戦争ルイ・ナポレオン退位。第三共和政 ド 1 ミエのために家を購入。 ( 間歳 ) 一八七四 ( 行歳 ) 《青い服の婦人》 一八七五 ( 爲歳 ) 2 月 2 日 ノノ - リで死去。 一八五七歳 ) 《落ち穂拾い》 一八五九 ( 菊歳 ) 《晩鐘》農民を描いたこれらの絵で批評家の賛否が 大きく分かれる。 一八六四 ( 浦歳 ) 《羊飼いの少女》が絶賛をあびる。 パリ万国博覧会美術展でグランプリ受賞。 一八六七歳 ) これにより画家としての地位をきずく。 テオドール・ルソーが死去。 一八七〇 ( 浦歳 ) この頃から健康が悪化しはじめる。 ( 歳 ) 名声が確立し、とくにアメリカで評価が高まる。 頭痛、目の痛み、喀血などをおして制作を続ける。 一八七四歳 ) 《糸紡ぎ》を完成。 一八七五 ( 8 歳 ) 1 月日バルビゾンで死去。 シャイイ村の墓地にあるルソーの墓のそばに埋葬される。 一八四〇元歳 ) 《ルフラン氏の肖像》がサロンで初入選。 ーヌ・ヴィルジニ 1 ・オノと結婚。 の歳 ) ポ 1 リ 1 ヌが肺結核のため歳で死去。 一八四四歳 ) ポー 一八四五 ( 引歳 ) カトリーヌ・ルメールとパリに住む。 一八四八 朝歳 ) 《箕をふるう人》 一八四九歳 ) バルビゾンへ転居。テオドール・ルソーと親交を結ぶ。 = 八五〇歳 ) 《種をまく人》
作品リスト シャン = フランソワ・ミレー Jean-Francois MiIIet 表紙落ち穂拾い、夏 1853 年 38.3X29.3cm カンヴァス油彩甲府山梨県立美術館 1 . 2. 3. 4. 5. 6. 7. 8. 9. 10. 1 1 . 13. 14. 15. 16. 18. 19. 20. 21. 22. 23. Summer, The G / e 肥島 . ( 扉 ) 自画像 54.5 >< 43cm 青灰色の紙黒クレョンパリルーヴル美術館 員叩 0 ra ″わい Musée du Louvre, D. A. G. , Paris. ◎ Photo RMN / Michöle Bellot / distributed by DNPAC. 田園風景個人蔵 い〃 c SCENE, PHOTO BY ◎ BURSTEIN COLLECTION/CORBIS. はれいしょ植え 1861 年頃カンヴァス油彩 82.5 x 101.3cm ボストン美術館 P 砒 0 P 帰心 e 島 , Museum of Fine Arts, Boston, Gift of Quincy Adams Shaw through Quincy Adams Shaw, Jr. , and Mrs. Marian Shaw Haughton. ◎ 2002 Museum of Fine Arts, Boston. ルフラン夫人 1841-1842 年 8 1 >< 64.5cm カンヴァス油彩個人蔵 Madame な〃““ . ◎ akg-images 部屋着姿のポーリーヌ・オノの肖像 1843 年カンヴァス油彩シェルプールトマ・アンリ美術館 P 砠市 0 〃 0 d 訪 0 〃 4 Cherbourg, Musée Thomas-Henry. ◎ Photo RMN distributed by Sekai Bunka Photo. グリュシーの鵞鳥番の少女 1854 ー 56 年カンヴァス油彩 33X24.8cm カーディフ国立ウェールズ美術館 ん e C00 GirI 併“ん第 National Museums & Galleries of Wales, Cardiff. ◎ National Museum & Galleries of Wales. グリュシーの村はすれ 2 1866 年カンヴァス油彩 81.6x100.6cm ボストン美術館 E 〃イイ e 〃 amlet ツ℃Ⅲ c ん鰺 Museum of Fine Arts, Boston, Gift of Quincy Adams Shaw through Quincy Adams Shaw, Jr. , and Mrs. Marian Shaw Haughton. ◎ 2002 Museum of Fine Arts, Boston. 1853 年頃紙本炭あるいは黒クレョン 36X29.5cm 日本個人蔵 編み物のおけいこ カ 0 / 0 〃 de な / c . カトリーヌ・ルメールの肖像 1848 ー 49 年 55.9X42.9cm ボストン美術館 4 んイ ame 工ー F. 財〃 / e な C / 肥肥〃なの , Museum of Fine Arts, Boston, Gift of Mrs. Major Henry Lee Higginson. ◎ 2002 Museum of Fine Arts,Boston. 耕す人 1855 年工、ソチング 33.7 x 23.7cm 甲府山梨県立美術館 肥 0 財印 Tu ・ rning 0 怩ロ厖 So 〃 . 箕をふるう人 1847 ー 48 年頃 IOO. 5><71cm ロンドンナショナル・ギャラリー 7 ' ん e ル / nno ル National GaIIery, London. ◎ National Gallery, London. 仕事に出かける人 1851-53 年カンヴァス油彩 55.9X45.7cm シンシナティ美術館 Co ⅲⅣん , Cincinnati Art Museum, Bequest of Mary M. Emery. ◎ Cincinnati Art Museum. 種をまく人 1850 年カンヴァス油彩 99.7x80cm 甲府山梨県立美術館 The So 肥既 種をまく人 1850 年カンヴァス油彩 1 0 1 .6 >< 82.6cm ボストン美術館 7 ' ん e Sower, Museum of Fine Arts, Boston, Gift of Quincy Adams Shaw through Quincy Adams Shaw, Jr. , and Mrs. Marian Shaw Haughton. ◎ 2002 Museum of Fine Arts, Boston. 刈り入れ人たちの休息 ( ルツとボアズ ) 1850-53 年カンヴァス油彩 67.3x 119.7cm ボストン美術館 〃 0 e e e g 砒ん 0 〃イ召 0 ) , Museum of Fine Arts, Boston, Bequest of Mrs. Martin Brimrner. ◎ 2002 Museum of Fine Arts, Boston. ミルク缶に水を注く農婦 1859 年頃カンヴァス油彩 39.5X33cm 日本個人蔵 Femme e 島 0 れ de / ′ e 佖 dans わ 0 e å / ″ . 子どもに食べさせる親 ( ついはみ ) 1860 年カンヴァス油彩 74x60cm リール美術館 ん佖召 ecq リ , 0 リ Pa am 肥″〃れ厩å manger å ses e 可〃 . な , Lille, Musée des Beaux-Arts. ◎ Photo RMN / Quecq d'Henripret / distributed by Sekai Bunka Photo. 鶏に餌をやる女 1853 ー 56 年頃板油彩 73 x 53.5cm 甲府山梨県立美術館 WomanFeeding C ん c ん e . 親の心づかい 1855 ー 57 板油彩 29 x 20.5cm パリルーヴル美術館 ん佖 P cat 市 0 〃・ materne 〃 e, Musée du Louvre, Paris. ◎ Photo RMN / Arnaudet, J. Schormans / digital file by DNPAC. 落ち穂拾い 1857 年カンヴァス油彩 83.6x 111Cm パリオルセー美術館 Les / 肥靨い , Musée d'()rsay, Paris. ◎ Ph0t0 RMN / Jean Schormans / digital file by DNPAC. 晩鐘 1857 ー 59 年カンヴァス油彩 55.5x66cm パリオルセー美術館 4 ″ ge / 靨 , Musée d'()rsay, Paris. ◎ Photo RMN / C. Jean / distributed by Sekai Bunka Photo. 羊飼いの少女 1862-64 年カンヴァス油彩 81 x101cm パリオルセー美術館 Bergére 硯℃ c な 0 e Ⅲもイ″佖い藐 Bergére 0 司 0 厩 . mo 0 0 リん佖 g 田〃わ夜・ g e , Musée d'Orsay, Paris. ◎ Ph0t0 RMN / Harve Lewandowski / distributed by Sekai Bunka Photo.
しゆっぴん つぎつぎにサロンに出品した絵も入選し、 ふうけいがか 風景画家コロ 1 の名まえはしだいに 人びとに知られるようになってきました。 さくひん そんなコロ 1 を、さらに有名にした作品は、 1850 年、 ~ 成の A 」きに田、こ 『朝、ニンフの踊り』でした。 、も . り・ あさひ よ、っせい 美しい森のなかで朝日を浴びて踊る妖精たちが えカ かろやかに描かれたこの絵は、まるで絵が 踊っているようにも、歌っているようにも見えます。 おんがく これは、コロ 1 が音楽やオペラを たいへん好きだったことと関係があるようです。 にちょ、つび おんがく力い コロ 1 は日曜日になると、音楽会やオペラ座にかよって、 おんがく おど 音楽を聞いたり、踊りを見たりしていたのです。 ぶたい コロ 1 の絵を見ていると、まるでそれらの舞台が おも 思い浮かんでくるような気がします。 この絵はフランスの国か買い上げました。 おど ひと あさ ねん おど ゅうめい かんけい おど
しんじゅおんな 真珠の女 ふうけいがか 風景画家として、だれからも 知られるよ、つになったコロ 1 ですが、 じんぶつが 晩年はおおくの人物画ものこしています。 えカ コロ 1 の描く人物は、 かぞく 家族や友だちゃその子どもたちなど した みぢかにいる親しい人びとでした。 コロ 1 は、絵のモデルになってくれる かいわ たの 人たちと、会話を楽しみながら 絵を描くのが好きでした。 おおくの画家たちは、モデルが動くことを いやかりますか、コローはモデルが 動いても、しゃべっても、歌ってもいい かんが と考えていました。 もくてきせいめい 「わたしの目的は生命を えカ 描くことにあるので、モデルたちが 動いてくれたほうがいいんです」 ばんねん ひと し え と、も 、刀、刀 じんぶつ す え ひと こ とっています。 コロ 1 はこの絵をとても気に入っていて、 じぶん 自分の家の客間に かざっていたといいます。 ひきつけました。 お 髪かざりからすり落ちた小さな葉と しんじゅ その影が、真珠のように しんじゅおんな 見えたことから、『真珠の女』 とよばれるようになったのです。 しよ、つじよ 絵のモデルになった少女は レオナルド・ダ・ヴィンチの傑作 こうしてコローは生啀に、およそ じんぶつが 300 占 ~ をこえる人物画を描きました。 なかでも、歳のときに描いこ しんじゅおんな 『真珠の女』は人びとの目を かみ 『モナ・リザ』とおなじポ 1 ズを み え て ん 、んきやくま さい え ひと 1 レよ、つ・かし め ちい 、刀 、刀 けっさく