公民館の転用を経て、その後、取り壊し寸前のところを山梨郷土研究会の情熱的な保 存運動に一命をつなぎ、昭和年現在地に移築復原された西洋館で、まさしく保存運 しもやま 動記念館ともいえる。また、山梨県の誇る下山の大工棟梁松木輝殷の設計によるもの であり、県下にいくつもの学校建築を手掛けた彼の唯一現存する建築でもある。松木 輝殷記念館といってもいいだろう。 しばらく全景を眺めてから、入口で署名をして内部を見学する。小さな学童机の上 に当時の教科書が数冊きちんと積まれている。中央には、正方形の火鉢がある。きっ と休み時間には、子供たちがガャガヤと炭火を取り囲んだはずである。私は火鉢を前 にして、その情景を想像しながら、暖房機以前、いや石炭ストーフ以前の学校の、そ の厳しい冷たさとは反対に、ほのかに手足へと伝わってくる暖かさの魅力をしばらく 思い続けていた 手すりもない急な階段を上って 2 階の教室に入ると、教育資料、生徒たちが描いた 睦沢学校の水彩画、藤村式建築の古い写真などが展示されている。藤村式学校は、 っきよね の睦沢学校のほか、増穂町の舂米学校、頁玉町の津金学校、牧丘町の室伏学校、都留 おがた 市尾県学校の 4 棟が残っているという。 ペランダに面した中央の御真影室と呼ばれている小部屋には、県令藤村紫朗を紹介 して、写真、肖像画、書簡、遺品などが並べられている。彼の写真や肖像画をじっと 見る限り、失礼だが、大人物あるいは豪傑という感じはしない。孤高な芸術家あるい は研究者という感じでもなく、やはり勤王の志士、行政手腕に長けた切れ者というイ メージが強く感じられる。 太鼓楼には登れないので、階段を降りて再び階下に戻るが、見学者はおろか、管理 室にも人の気配が見られないというのどかさ。とりあえず、外に出て樹木のあいまか らスケッチのポイントをさがすことにするが、境内の枯れ葉をいつばいに集めた焚火 の暖かそうな匂いに誘われて、少しあたらせてもらう。 どうぞ、どうぞ、といって受け入れてくれた焚火番は、尋ねてみると藤村記念館の 館長であった。藤村式建築のこと、松木輝殷のこと、県令のことなど詳しく答えてく れた。長い立ち話となった。 長野県において、開智学校に立石清重、中込学校に市川代治郎という棟梁がいるよ てるしげ うに、山梨県には、小宮山弥太郎朝 828 ~ 円 20 ) 、松木輝殷 (1 843 ~ 四Ⅱ ) という優秀 てるしげ 8
【群馬県】 桐生高等染織学校 ( 群馬大学工学部 ) / 桐生市 群馬県衛生所 ( 桐生明治館 ) / 桐生市 【埼玉県】 深谷商業学校 ( 深谷商業高校 ) / 深谷市 松山中学校 ( 松山高校 ) / 東松山市 本庄警察署 ( 本庄市立歴史民俗資料館 ) / 本庄市 日本赤十字社埼玉支部 ( 鎌形小学校 ) / 比企郡嵐山町 【千葉県】 学習院初等科正堂 / 成田市 佐倉中学校 ( 佐倉高校 ) / 佐倉市 騎兵連隊御馬見所 ( 空挺館 ) / 船橋市 【東京都】 東京医学校 / 文京区 慶応義塾三田演説館 / 港区 明治学院神学部校舎 ( 明治学院歴史記念館 ) / 港区 インプリー館 ( 明治学院同窓会館 ) / 港区 日本女子大学成瀬記念講堂 / 文京区 東京音楽学校 / 台東区 ( 現存せす ) 最高裁判所 / 千代田区 ( 現存せず ) 日本赤十字社本社 / 港区 ( 現存せず ) 豊多摩監獄 / 中野区 【神奈川県】 開港記念横浜会館 ( 横浜市開港記念館 ) / 横浜市 【山梨県】 つきよわ 舂米学校 ( 増穂町民俗資料館 ) / 南巨摩郡増穂町 睦沢学校 ( 甲府市藤村記念館 ) / 甲府市 【長野県】 開智学校 / 松本市 中込学校 / 佐久市 赤穂村役場 ( 駒ケ根郷土館 ) / 駒ケ根市 【新潟県】 新潟税関 ( 新潟市郷土資料館 ) / 新潟市 【福井県】 福井警察署 ( 丈生幼稚園 ) / 武生市 動物検疫所敦賀出張所 / 敦賀市 【静岡県】 見付学校 / 磐田市 岩科学校 / 賀茂郡松崎町 【三重県】 小田学校 / 上野市 第三中学校 ( 上野高校 ) / 上野市 【滋賀県】 長浜駅舎 ( 鉄道資料館 ) / 長浜市 【京都府】 京都郵便電信局 ( 中京郵便局 ) / 京都市 【大阪府】 大阪府立図書館 / 大阪市 大阪市中央公会堂 / 大阪市 【兵庫県】 神東神西郡役所 ( 神崎郡歴史民俗資料館 ) / 神崎郡福崎町 出石郡役所 / 出石郡出石町 和田山機関車庫 / 朝来郡和田山町 【奈良県】 奈良女子高等師範学校 ( 奈良女子大 ) / 奈良市 奈良県監獄署 ( 奈良少年刑務所 ) / 奈良市 【岡山県】 高梁小学校 ( 高梁郷土館 ) 咼梁市 遷喬小学校 / 真庭郡久世町 津山高校 / 津山市 【山口県】 岩国学校 / 岩国市 【香川県】 陸軍第十一師団偕行社 ( 善通寺市郷土資料館 ) / 善通寺市 【愛媛県】 開明学校 / 東宇和郡宇和町 【高知県】 須崎警察署佐川分署 ( 青山文庫 ) / 高岡郡佐川町 【福岡県】 福岡県公会堂貴賓館 / 福岡市 門司駅舎 (J R 門司港駅 ) / 北九州市 【熊本県】 第五高等中学校 ( 熊本大学資料館 ) / 熊本市 宇土郡役所 ( 九州海技学院 ) / 宇土郡三角町 1 9 3 7 41 2 9 00 一 9 一つ」っム 93 つ」っつ 00 82 83 O つ」 4 ・「 / 00 ao 9 一 4 L-n L-n 9 一 34 85 つ」 -6 C つ」っ」っつ 81 1 5 1 4 1 7 8 7 つつれい一 9 一 1 ー《 1 ー L-n 2 0 . 2 1 63 67 77 94 66 9 1 49 5 8
構造は木造であったわけだから開口部はどの ようにもできたわけだが、西洋建築の姿、形 に盛んに興味を示した大工棟梁たちは窓の意 匠もそのまま西洋のデザインを用いた フアサード faqade 建物の正面あるいは道路側の立面をいうか、 人にたとえれば「顔」に相当するもので、デ ザインが集中し、建物の性格を決定づける重 要なものである。 下見板張り ( したみいたばり ) 細い板材を少しずつ重ねながら横張りした外 壁。日本にも板張壁はあったが、概して幅広 く、細い板でペンキを塗り縦長の窓が入った 壁は、西洋館の雰囲気をかもしだす重要な要 素である。 / 、一フティンノヾー harf-ti mber 木造建築の一つの様式で、柱、梁、斜材など をそのまま露出して、その間の壁を石材や漆 喰、煉瓦、板などで埋めたもの。骨木の線に よる造形が美しい ( これが特に強調されたも のをスティックスタイルという ) 。イギリスで 図 50 ~ 田 50 年頃盛んに用いられた。その後四 世紀 ~ 20 世紀初頭にかけて西ョーロッパで、 カントリーハウススタイルとして復興してい る。日本でもそのヨーロッパの影響を受けて、 ハーフティンバーの外壁をもつ住宅か、大正 真壁に対し、柱をみせないようにつくった壁。 大壁 ( おおかべ ) 木造建築で、柱をみせてつくった壁。←大壁 真壁 ( しんかべ ) 時代に最も盛んに建てられた。 唐破風 ( からはふ ) 中央部が起り、両端部に反りがついた曲線状 の破風。仏教寺院等の大陸様式の影響を受け、 他の建物でも重要な出入口や門の上によく用 いられた 鬼瓦 ( おにがわら ) 屋根の棟端部にある装飾瓦。鬼面や植物の文 様、記号等が刻まれ、装飾であるとともに魔 除けの意味をもつ場合もある。 ・トラス ( 洋小屋 ) くみられる。 で盛りあげた防火外壁。 黒い平瓦を壁に斜め張りし、 海鼠壁 ( なまこかべ ) の意味をも担う。 水を象徴し、木造建築にとって重要な火除け 下がった木彫装飾。雲、水波、魚、龍の形で 棟木端部を隠すために、破風板頂部より吊り 懸魚 ( げぎょ ) とくに伊豆地方によ その目地を漆喰 組積造 ( そせきぞう ) 石や煉瓦など小さなビースをひとつずつ積み 重ねて主体を造る構造。窓などの開口部を大 きくすると壁が崩れるので、間口が狭く縦長 になる。地震に弱い。 軸組造 ( じくぐみぞう ) 柱、梁など軸状の材を、垂直・水平に組み合 わせて主体を造る構造。壁が必要ないので大 きな開口部が取れる。日本の在来工法やギリ シャの石造神殿がこの構造である。 トラス truss 三角形を組み合わせた構造骨組。外力がかか ったとき抵抗が強く形か崩れにくいため、大 スパンに適している。これに対し日本古来の 小屋組は「和小屋組」といい、梁や束などの 水平と垂直の部材で構成されており斜材はほ とんど使われていない。 キングボストトラス ワーレントラス クイーンポストトラス プラットトラス フィンクトラス マンサードトラス
明治の西洋館・解説 旧名称 ( 現名称 ) 104 / 構造 / 所在地 建築年 / 設計者 / 施工者 / 指定 1 . 見付学校 明治 8 年 / 伊藤平左衛門 / 伊藤平左衛門 / 国 史跡 / 木造 5 階 / 静岡県磐田市馬場町見付字 塔ノ壇字ノ宮小路 2426 明治 8 年竣工。天竜川の渡しで栄えた見付で は、住民の教育熱が盛り上がり、当時高名な 大工棟梁伊藤平左衛門を名古屋から呼び寄せ て建設にあたった。伊藤は、これに応えて 2 階建て、その上に 2 層の小塔をつけて高楼と し、関係者を喜ばせた。明治 16 年、 2 階の屋 根裏を改造して 3 階建てとし、 2 層の塔をつ けて 5 層とした。現在の姿は、明治 16 年増築 時のもの。 2. 開智学校 明治 9 年 / 立石清重 / 立石清重 / 国指定重文 / 木造 2 階 / 長野県松本市開智 2 ー 4 ー 12 かっての教育県長野・松本。地元棟梁立石清 重の名はこの建物により永く世にとどまるこ とになる。東京や横浜に出向いて初期の洋風 建築を学び、そこに自らの創意を加えてこの 建物を生み出した。ポーチの欄間には龍が出 迎え、 2 階には湧きたっ雲を従えたバルコニ ーがのり、唐破風に天使が舞う。その上には 八角の鼓楼が方位盤をのせて高らかにそびえ る。未だ本格的な「西洋」の姿の到来する前 の町に、新しい世界を伝統的な漆喰に塗りこ 3. 舂米学校 ( 増穂町民俗資料館 ) つきよね めて見せたのであった。 在は町の民俗資料館となっている。 は心意気の表れか。のちに村役場となり、現 漆喰で盛りあげている。塔屋根に飾られた鯱 漆喰大壁造りで、石積のように隅石を模して、 中央に突き出た玄関上のべランダは起り屋根。 同県内の睦沢学校と同じ藤村式の学校建築。 階 / 山梨県南巨摩郡増穂町 明治 9 年 / 不詳 / 不詳 / 県指定重文 / 木造 2 4. 岩国学校 明治 3 年 / 不詳 / 不詳 / 県指定重文 / 木造 2 階 / 山口県岩国市岩国 3 ー 1 ー 8 全国に先んじて明治 3 年、岩国藩は学制の大 改革を行う。翌年この校舎が開校するが、入 母屋 2 階建てのほとんど寺にあるような和風 の建物だが、明治 5 年、屋根上に大ぶりなト ンガリ屋根の鐘楼を増築する。よろい戸のつ いた窓の上には扇を形どったようなレリーフ がつき、ファン ( 扇 ) ライトの意訳ではないか と思わせる。 5. 中込学校 明治 8 年 / 市川代治郎 / 市川代治郎 / 国指定 重文 / 木造 2 階 / 長野県佐久市中込 松本・開智学校の前年に、やはり地元の棟梁 が完成させた。開智より小規模で、ポーチの 上にバルコ二 、八角鼓楼、隅石装飾は共通 しているが、かって「西洋づくりのギャマン 学校」と呼ばれたように、ポーチ欄間の色ガ ラス、前面吹き放ちの二層のべランダより伸 ひ上がった鼓楼が特徴的である。その鼓楼の 天井には学校を中心とした世界地図が拡がっ ている。 6. 睦沢学校 ( 甲府市藤村記念館 ) 明治 8 年 / 松木輝殷 / 松木輝殷 / 国指定重文 / 木造 2 階 / 甲府市古府中町武田神社 山梨県令藤村紫朗は明治 6 ~ 20 年に、県内に 次々と洋風建築を建てさせた。それらの擬洋 風建築を「藤村式」と呼んでいるが、その典 型・最古のものである。瓦葺、漆喰大壁造り。 中央にべランダをのせた玄関。塔屋の太鼓堂 からは時刻を報じたのだろう。昭和 32 年まで 小学校として務めを果たし、公民館を経て、 地元の運動によって昭和 41 年、巨摩郡敷島町 より現在地に保存となった。
をよく受け入れたのである。 古典主義とゴシックは相容れない様式である。古典は厳格な比例体系をもつヒロイック な様式であり、ゴシックは気まぐれでやや怪奇的な、ビクチュアレスク ( 絵画的 ) な様式 である。本来様式はそれぞれの時代精神と深く結びついたものであり、ある国、ある時代 の政治、宗教、経済、技術、美意識が結晶して様式を生み出す。リヴァイヴァリズムにお いても、様式の選択は重大な議論を呼び起こす。だが明治の日本に入ってきた西洋建築の 諸様式は、日本人にとってはすべて等価であった。それはたんに、新しい材料や工法をま とめるためのルール、技術として以上のものではなかった。様式の折衷化は不可避だった。 コンドルの弟子第一号の辰野金吾は、師ゆずりのゴシックの華麗さにルネサンスの量塊 性を兼ね備えたモニュメンタルな手法を開発する。辰野式ルネサンスと呼ばれるこのスタ イルは、赤煉瓦に白い石の縁取り、ドームや屋根窓がにぎやかな屋根をのせ、都市に華や かな景観と記念性を創り出した。日本銀行京都支店、日本生命九屮Ⅱ支社、盛岡銀行、そし て東京駅と、辰野式ルネサンスは赤煉瓦の西洋館のひとつのあり方を生み出し、それらは 様式というよりはもっと一般的な言葉として、洋風建築のそれ以後の日本における方向づ けを行ったのである。 明治初期における様々な方面での制度の改革は、都市部のみならず山深い地方にも文明 開化のプームをひき起こした。明治 4 年の廃藩置県によって各地方が中央と直結し、翌 5 年の学制制定で全国に小学校が建てられることになる。政府によって任命された県令 ( 知 事 ) たちは、互いに競うようにして任地の産業や教育の振興をはかった。県令たちの中で も山梨の藤村紫朗、山形の三島通庸、筑摩の永山盛輝らは、県下の小学校、警察署、県庁 舎等の公共建築を次々と洋風で建てさせたことで有名である。とは言っても、洋風のスタ イルなど誰もはっきりとはわからない。建物の計画にあたっては地元の大工棟梁に相談を もちかけた。木造主流の日本建築では、棟梁が設計から見積り、施工まですべてをこなす オールラウンドの技術者であった。伝統的な技術や造形には誇りをもつほど保守的になり がちである。その中で何人か、自分の腕で新しい形に挑戦してみようという勇気をもった 人々か各地に出てくるのである。依頼を受けた彼らは西洋のスタイルを学ぶために横浜や 神戸などの外国人居留地に行き、異人館や西洋館を見てまわる。これが開化の建物か、ず いぶん軒の出が浅い。雨で壁が傷まないのだろうか。窓が小さい。壁が多くて蔵のようだ 夏に住めるのだろうか。棟梁たちは気候風土と建築の形との関係を熟知している。ーどう やら、開化というのは少々不自由なものらしい。ー西洋の木割 ( オーダー ) は少々こついが 1 01
のドームの下にホールがある。正面はコリン ト式列柱に大きなペデイメントをのせた古典 主義様式で、後の近代建築はこのような入口 は権威主義的であるとして排除していったが、 特別な空間に入るという高揚した気分をも同 時に失っていったのではないだろうか。 67 . 大阪市中央公会堂 大正 7 年 / 岡田信一郎 / 清水組 / 煉瓦・鉄筋 コンクリート造 3 階 / 大阪市北区中之島 岡田信一郎のコンべ当選案をもとに辰野金吾 が修正を加えて設計。全体の骨格はルネサン ス的、正面の巨大なアーチ、ジャイアント・ オーダーはバロック的だが、細部の装飾は直 線化しており、この時代のゼッェッションの 影響が見られる。 68 . 豊多摩監獄 大正 4 年 / 後藤慶ニ / 直営 / 煉瓦造平屋 / 東 京都中野区新井 芸術的な感性と精緻な構造学者としての両面 をあわせもった大正期を代表する建築家、後 藤慶ニの作品である。監獄として合理的で質 実でありながら、細部のデサイン処理に美的 なセンスがうかがえ、豊潤な香りのする建築 であった。工事は基本的に服役者の労働によ るものであった。後藤慶二は、この工事の完 成後 4 年、大正 8 年 37 歳で天折してしまった。 69. 奈良県監獄署 ( 奈良少年刑務所 ) 明治 41 年 / 山下啓次郎・千里久春吉 ( 司法省 ) / 直営 / 煉瓦造 2 階 / 奈良市磐若寺町 あたかもテ、イズ二一ランドを思わせるような 美しいデサインの門、そして本館。これが当 時同じように煉瓦で各地に建てられた監獄の ひとっとは想像しにくいかもしれない。当時 収監されていた者に、新しい世界を夢見るの が早すぎた人々も含まれていたことを考える と、 まるでここが彼らの城のようにも思えて 70. 歩兵第四連隊兵舎 ( 仙台市歴史民俗資料 もつ。外壁は瓦張りに漆喰塗り。オーダー 造平屋建ての気品のある建物。横長の両翼を はフレンチ・ルネサンス様式を基調とした木 交社、陸軍では偕行社といった。弘前偕行社 将校たちの社交場かっ研究団体を海軍では水 / 青森県弘前市御幸町 明治 40 年 / 堀江佐吉 / 堀江彦三郎 / 木造平屋 記念館 ) 72 . 第八師団弘前偕行社 ( 弘前女子厚生学院 る。 体をひきしめたプロポーションは日本的であ 風の手続きをふんでいるが、重厚な屋根で全 妻造りの玄関ポーチが突出している。一応洋 三角のペデイメントを石の角柱で支えた、切 央には寄棟造りの玄関構えがあり、そこから ている。寄棟造りの木造平屋、瓦葺。北側中 昭和 55 年に郷土資料館として改修、復原され 通寺市生野町 明治 36 年 / 不詳 / 不詳 / 木造平屋 / 香川県善 料館 ) 71. 陸軍第十一師団偕行社 ( 善通寺市郷土資 ザインで兵舎を建てたと思われる。 舎もこれとそっくりである。全国的に同一デ な造りである。明治村にある歩兵第六連隊兵 な外観で、構造もキングボストトラスの頑丈 立てただけの玄関ポーチ。飾り気のない質素 トリングコース ( 階層を示す蛇腹 ) 、丸い柱を く並んだ上げ下げ窓、コーナーストーン、ス 宮城県で最古の洋風建築。漆喰の壁に配列よ 輪 1 ー 3 明治 7 年 / 不詳 / 不詳 / 木造 2 階 / 仙台市五 館 ) ペデイメント、軒蛇腹、ドーマー窓の古典的 な要素なども円熟した堀江佐吉が手堅くまと めている。施工は佐吉の長男、堀江彦三郎が あたった。 73. 騎兵連隊御馬見所 ( 空挺館 ) 明治 44 年 / 不詳 / 不詳 / 木造 2 階 / 千葉県船 橋市薬円台 3 ー 20 ー 1 、自衛隊習志野駐屯地内 御馬見所とは天皇・皇族に馬術を見せた迎賓 館のこと。目黒区駒場にあったものを、騎兵 学校の習志野移転に伴い移築再建した。外観 はコロ二アル様式を基調としているが、装飾 がほとんどないせいか開放感がない。日本的 な引違い窓をうまく洋風にアレンジしてある。 74. 今市浄水場 大正 3 年 / 不詳 / 今井平吉 / 木造 3 階 / 栃木 県今市市瀬川 1334 ー 1 こから宇都宮市への送水を始めたのが大正 5 年。水源は大谷川、さらには日光中禅寺湖 に遡る。半切妻屋根や、帽子をかぶりスカー トをはいたような隅部の円形の部屋の外観が 楽しい。写真右の城郭のような建物は、濾過 した水を集める出水井である。 75. 動物検疫所敦賀出張所 大正 5 年 / 不詳 / 不詳 / 木造 2 階 / 福井県敦 賀市縄間 44 敦賀市のはすれの海岸近くにひとり立っこの 建物は、朝鮮牛の輸入に際して建てられた検 疫所である。全体に簡素だが、軒蛇腹、 に控え目な持送りをつけ、ペデイメントやポ ーチのちょっとしたアクセントが端正で好ま しい印象を与える。 76. 青森大林区署庁舎 ( 青森市立森林博物 館 ) 明治 41 年 / 不詳 / 成田文吉 / 木造 2 階 / 青森
、当 1 ド一一 64. 京都郵便電信局 ( 中京郵便局 ) 明治 35 年吉井茂則・三橋四郎京都市中京区 80
様式の模索 佐奈芳勇 明治の西洋館、という言葉を聞くと、まずわれわれに思い浮かぶのは、赤煉瓦の壁、ア ーチ、ドーム、あるいは堂々とした石の列柱、ペンキを塗った下見張りの壁、よろい戸の ついた上げ下げ窓、広いべランダ、マントルビースなどのイメージである。日本各地に残 された西洋館は、様々なスタイルで今なおわれわれを魅了する。バリやロンドンにそのま ま建っていてもおかしくないほど本格的なものから、種々の様式が混合して稚拙と思える ものまで、そのどれもが明治という新しい時代のそれぞれの受けとめ方のあらわれである。 そしてそこに共通しているのは、明治の日本が痛切に抱いていた、近代への脱皮の意志の 投影なのである。 幕末から明治にかけての日本にとって、西洋という言葉はまず何よりも近代を憙味して いた。開国によって否応なく世界史に参加した以上は、独立国として生きぬくための国力 をもたねばならない。黒船来航の衝撃の中に日本が見たものは、圧倒的な力の差を見せつ ける西洋文明である。後進的な封建制を打破し、強力な中央集権国家を樹て、富国強兵を 図らねばならない。そのためには、近代の科学・技術を西洋から学ぶ必要がある。 科学はヨーロッパ生まれの錬金術である。それは自然全体が、人問が加工すべき材料の 体系であるという思想に基づいている。そしてその加工の手段が技術である。科学は自然 のもつ潜在力をひき出して西洋の人々に様々な新しい物、新しい力をもたらした。それま で日本では、自然とは人々に実りを分け与えてくれる神々の棲みかであり、人々はまだ神 話の中に生きていた。自然と人問は対立するのではなく共棲していたのである。そのよう な情況が残っている限り、近代化は果たせない。近代を選んだ以上、政治、産業、軍備、 教育などすべてを新しくしなければならない。 物資や兵士を大量に輸送するためには鉄道や大船が必要である。レールや軍艦、兵器を っくるためには新式の製鉄所や工場。そしてそれらの施設を建てるための建築材料も要る。 何から何まで日本になかったものだ。初めは西洋諸国から必要なものを買い入れていたが そのための外貨を稼ぐには産業を機械化し、集約化しなければならない。その他にも、新 体制にともない、様々な施設をあらたにつくらねばならない。それらは、どのような形が ふさわしいか。西洋人が見ても納得する姿は何か。そして堅固で不燃の建物をつくるため の新しい材料はどう使うのか。煉瓦はどうやって、どういう形に積めばよいか。そこに窓 る分野で指導をあおいだ。そして彼らに日本人技術者の養成を依頼した。土木、建築の分 明治初期から、政府は数多くの外国人御雇技術者を招き、政治、経済、産業などあらゆ をどのように開け、屋根のトラスはどう組むか。 9 9
豪勢な感じがする。破風 ( ペデイメント ) などはもっとうまくつくる自信がある。屋根の形 は日本のものより数段劣る。学ぶ必要はない。棟梁たちにとって、異人館は見なれた形と 見なれない形の組み合わせであった。 それまでの日本の建物は主にその屋根にデザインのエネルギーが集中した。屋根の下は 庇の翳に包まれた奥深い空問であった。西洋館は、それに対して壁面の建築である。箱の ように空間を囲った壁面に、オーダーや腰高窓の装飾、また屋根そのものよりも軒まわり のデザインが施される。そして見よう見まねの独学で棟梁たちが建てた西洋館は、堂々た る屋根と誇らしげな壁面をもつ新しいスタイルの建築だった 棟梁たちが注目した洋風建築のモチーフはオーダーとペデイメント、コーナーストーン ( 隅石積 ) 、上げ下げ窓にアーチ窓、車寄せのポーチと 2 階のバルコニーなどである。 これらの形は日本の大工たちのもつ優秀な木造技術にとって、充分応用可能であった むしろ、古代ギリシャのオーダーは、もともと木造から端を発したといわれている。石の 柱や梁に施されたディテールか、木造でつくられていた時の仕ロの名残に由来するものか 多い。巨木の不足や不燃化の必要性によって徐々に石造の軸組へと置きかえられ、それに ともなって比例の体系ができあがっていったのである。木造から始まった古代ギリシャの オーダーの化石が、日本の明治の棟梁たちによって再び木の中に甦る。ただし、それはオ ーダーの本来もっている約束事をほとんど無視しながら。 コーナーストーンの場合は本 来的に石造のディテールであり、木造には必要ない。 だが棟梁たちにとってはあくまでも 西洋の「装飾」として重要であった。壁の漆喰に目地を切り、色を変えて表現した 構造は伝統的な工法で行う。とすれば、各部分の形は西洋の材料や工法の結果としてあ らわれるのではなく、洋風を表現する装飾として扱われる。そしてそのことがバルコニ やペランダまわりにもあらわれる。ペランダは、西洋列強の支配した亜熱帯地方の植民地 で、現地の気候風土に合わせた西洋人の住まいに流行したものである。西洋人たちはこの コロニアル・スタイル 植民地風様式を、長崎や神戸の居留地にも応用した。それを見た棟梁たちは冬には雪で埋 まる山問の地にも、このペランダを採用し、その軒裏をやはり亜熱帯地方で用いられる屋 根裏換気用の細木の目透し張りでおおったのである。 棟梁たちが採用したのは西洋館の装飾的モチーフであった。そしてその中で自分たちの ちゅうちょ 伝統との連続性を感じた部分は、躊躇なく優れていると思われる方を採用した。優れてい るところだけを集めたから、最も近代的な建物なのである。技術の習得のために様式を忠 実になぞろうとした中央の建築家たちとちがって、棟梁たちの西洋館は純粋にデサインの 面からのアプローチだった。それは後世の人々から見よう見まねの洋風、和洋折衷、擬洋 102
風と蔑称されるが、棟梁たちは「開化式」と誇らしげに自らの作品を呼び、民衆は熱狂的 にこれを受け入れたのである。 103 「西洋館』 ( ブック・オプ・ブックス日本の美術 ) 坂本勝比古 / 小学館 「鹿鳴館の系譜』磯田光一 / 文芸春秋社 参考文献「日本近代建築の歴史』村松貞次郎 / NHK ブックス れるべきかもしれない。 ようとした擬洋風の建築は、「野性的な思考」を再びわれわれに取り戻すために見なおさ むしろ保守的であったとしても伝統の確かな技術を用いて、可能な限り新しい形を求め 程で起こる不可避的な出来事であった。 して外部に赤煉瓦を積み、同じ運命をたどるのである。だがそれは、外来文化の受容の過 ート造が西洋から導入された時、その構造にふさわしい新しい形を採り入れることに躊躇 家たちの批判するところであったが、様式建築の方もやがて新しい鉄骨造、鉄筋コンクリ 式を組み合わせ、折衷化していく。また擬洋風の構造 ( 和 ) と表現 ( 洋 ) とのずれも建築 である。古典主義やゴシックは選択可能なスタイルにすぎない。彼ら自身もまた自由に様 れた。地方の擬洋風の存在を横目でにらみながら。だが、建築家たちの様式も結局は模倣 を目ざした。初期の彼らにとっての様式建築は西洋の楽譜に忠実に再現することが求めら 成、様式性。西洋の長い歴史の中で磨きあげられた形式、手法を用い、ハイクラスの音楽 建築は例えていえばクラシック音楽である。華麗な調和、永続的な記念性をかもし出す構 擬洋風が唱歌のような存在であるとすれば、正規の教育を受けた建築家たちによる洋風 メージの架け橋であった の側から出てきたものであるにせよ、それは伝統の世界と新しい開化の世界とをつなぐイ 解しやすくさせる。擬洋風のデザインが、中央の公式見解の指導によるものではなく民衆 言葉や開化のイメージを、日本人の音域に合わせたロすさみやすいメロディーにのせて理 を克服し、共通のコミュニケーションが可能となるように考案された。それは耳慣れない 代に文部省によって生まれた唱歌に近いかもしれない。唱歌は当時各地に色濃く残る方言 世界のイメージをも抱かせることができたのである。そういった意味では、擬洋風は同時 もその骨格のせいかもしれない。 だがそれゆえにまた大衆に受け入れられ、彼らに新しい ての洋風のイメージをちりは、めた。われわれがその形に寺院や城郭との近親性を感じるの をベースにして感じとることができる。擬洋風は伝統と半ば連続した骨格の上に近代とし 見たことのないものを理解するのは容易なことではない。新しさも、理解が可能な範囲