立石清重 - みる会図書館


検索対象: 明治の西洋館Ⅱ
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1. 明治の西洋館Ⅱ

・清氏の生家は、代々大工棟梁であること。 ・開智学校をつくった清重の活躍。 ・清重の長男清美が、東京医学校卒業年次に急逝していること。 ・このため、清重は長女八寿の子、友三郎をニ代目清重として、家業を継がせようと している。これが清氏の父親であること。 ニ代目清重は、初代の死後、建築家を志し横浜に出て遠藤於菟に師事するが、病弱 のため松本に帰郷。 ( 遠藤は日本における鉄筋コンクリート構造の先駆者 ) ・その後、涼月と号して日本画をよくしたが、 33 歳で結核を患い急逝したこと。 ・この時、清氏Ⅱ歳を筆頭に 4 人の子供が残されたこと。 そやの しても訪ねてみたくなってきた。 の系譜がわかってきた。私は、この年譜を丁寧に書いている田川明氏という人をどう 円建築家挫折後に画家 ) →立石清 Q906 ~ 円 83 美術教師、画家 ) という立石家 この画集によって、立石清重 Q829 ~ 絽 94 ニ代目立石清重 Q882 ~ 大工棟梁 ) 5 松本藩出入りの名人肌の大工であったらしい。明治 8 年、筑摩県の計画による開智学 造営にかかわり、お城大工として代々活躍していた。父安蔵、兄清八とともに清重も の出生と言われ、松本に来る以前は信濃大町に住んでいたと伝えられている。松本城 立石清重は、文政末年に立石安蔵の次男として生まれている。祖先は美濃 ( 岐阜 ) ニ人、古い写真や系図を見ながら、西洋館の時代に入っていった。 かせてくれた。私は、身勝手な突然の訪問であることを忘れ、いっしか彼とコタッで そして出入りの職人たちから伝え聞いた清重棟梁と父清重のエピソードをじっくり聞 200 年前からの立石家の系図をはじめ、貴重な資料を書斎の奥から出して広げ、母や兄 あったという明氏には、確かに父系に関する自己の記憶がなかった。しかし、彼は約 梁が世を去ってから約 20 年後に生まれ、父のニ代目清重が世を去った時は乳飲み子で 期待に沿えるような話はできないが、といって始まった面談であった。初代清重棟 稀を過ぎているはずだが、年齢よりもかなり若く見える。 あった。今は悠々自適の生活だが、定年までは音楽教師をしていたという。とうに古 立石清氏の実弟、母方の姓を継いでいるが旧名を立石明、つまりニ代目清重の次男で て踏切を渡り、川まで真っすぐ歩けという田川氏の指示に従う。出迎えてくれた彼は 松本電鉄上高地線で征矢野に向かう。渚という無人駅で下車、降りたらすぐ右折し

2. 明治の西洋館Ⅱ

しばらくして私も思い切。てスケッチブックと鉛筆を取り出す。冬のスケッチは描く というより闘いだが、無心に描いていると遠い時代の声が静かに聞こえてくる。 この学校をつく。た大工棟梁立石清重は、女鳥羽一丁目、静かな住宅地の中にある 林昌寺で眠。ている。さほど広くない墓地の最奧名高い棟梁としてはやや質素な墓 であ。た。墓石の中央には立石清重朝棟老翁墓と己され、側面には明治 27 年 8 月 23 日、 66 歳と刻まれている。逆算すると、彼は文政に年朝 829 ) に生まれ、幕末から明治と いう近代幕開けの急激な時代を信州松本の大工棟梁として生きたことになる。 生ノ公、 重 , の墓石の左隣には、立石米太郎童男 5 歳、立石清美稚子四歳、立石理勢童女 一歳の 3 人の夭折者の墓石がひ。そり立ている。立石が生んだ 4 人の子供のうちの 3 人であ。た。とくに、長男清美が開智学校工事中の明治 8 年 9 月田日に亡くなて いることの記録は、後に触れるが痛々しい。 彼の生家は、林昌寺から程近い城東一丁目にあ。たという。寺を後にして、地番を 追いながらしばらく歩いてみる。旧街道に面した現ナベリン写真館、 こが立石清重 の生誕地であるらしい。奧に長い敷地を入。ていくと、朽ちかけた空き家が 2 軒並ん でいる。その一軒の玄関表札には、立石清と記されている。よく見ると古い土蔵が組 み込まれた家である。しげしげと眺めていると、後ろからいぶかしげに声をかけられ てしまった 感じのよさそうな初老の女性であ。た。隣家に住んでいて、空き家とな。ている立 石家の管理人でもあるという。簡単に事情を説明して、立石清重と家主の立石清氏に ついて尋ねてみた。清重については、開智学校とこの土蔵を建てたという以外、全く わからない、無理もない。清氏については、信州の美術教育に携わた人であるとい うがム 、フから 8 年前に亡くなってしまったという。 彼女は、私のショルダーバッグに入。ているスケッチブックを見て親近感を覚えた のだろうか、四 84 年、信濃ギャラリーにおいて開催された立石清遺作展図録を見せて くれた。信州の風景、静物、生徒や女人像などが描かれている画集である。美術教師 としての生活のあいまに楽しんで描いたと思われる誠実で暖かい落ち着いた紵だと いってむろん余技ではなく、力強さと自然の素朴に迫るきびしい絵でもあった 丹念にページを繰。ていくと、最後に立石清氏の年譜と家系が詳しく紹介されてい た。その冒頭の内容を要約してみよう。 4

3. 明治の西洋館Ⅱ

洋耋 ' 三 : 費 - ) ごなイ . 2. 開智学校明治 9 年立石清重長野県松本市

4. 明治の西洋館Ⅱ

学校建設のほか、殖産興業、治山治水、土木事業を中心にして、広域分野に文明開 化を推し進めていた藤村は、同時代の山形県令三島通庸と並んで、別名を道路県令 といわれるほど道路整備に力も入れ、自らも現地に足を運び、開通した道路に人力車 を走らせて悦に入。ていたようだ。明治 20 年、彼は愛媛県知事として山梨を去り、先 に紹介した大工棟梁小宮山弥太郎を呼び寄せ、藤村式の愛媛師範学校などをつくらせ ているが、愛媛での県政は短く、後に故郷の熊本に帰っていったと館長は話してくれ とうに正午を回てしま。た。焚火はすかり燃え尽きていた。昼食をと。てから、 スチールの椅子を借りて、私はようやくスケッチに入る。甲府の午後の陽差しは、松 本に比 ~ たらはるかに暖かい。べランダの広がるフアサード、鼠色の漆喰で盛り上け たコーナー・ストーン、方形の瓦屋根の上にのっている太鼓楼、当時のェヒ。ソードの 余韻を感じながら、私は気持ちよく鉛筆を走らせる。 LET'S BUILD A FUJIMURA MEMORIAL HALL 』というかわいらしい睦沢学校の紙模型 のキットを最後に手渡してくれた、実は特攻隊志願兵だた館長に、丁重に別れをつ げて、私は、甲府から身延線で増穂町に急ぐ。乗り合わせた土地の老人の指示に従。 て東花輪で下車、がら空きのバスを乗り継いで、舂米学校に向かう。南下するほどに 近づく春の暖かさを感じる。久し振りに見る間近の富士はさすがに雄大だ。夕暮れに さしかかった舂米学校、下校時の子供たちに囲まれながら八 、フ日、 2 枚目のスケッチ にとりかかる。 参考文献『日本近代建築の歴史』村松貞次郎 / NHK ブックス 『 - ・ : 生二中 並石 , 月退作展図録』『旧開智学校展示解説図録』 『立石朝棟清重のこと』立石清 『山梨の洋風建築』植松光宏 / 甲陽書房 1 0

5. 明治の西洋館Ⅱ

校の建設にあたっては、棟梁として長男の清八が予定されていたという。ところか、 清八の健康がすぐれす ( 明治年没 ) 、次男の清重に白羽の矢が立つ。清重 47 歳の働き 盛りであった。直ちに彼は、西洋館の学習のため、草深い信 l)ll\l から東京、横浜に出か ける。むろん鉄道はない。甲州街道を 9 日かけての上京であった。新築構想を練りな がら、旅先で毛筆のスケッチを何枚も描き続けている。 設計にあたってとくに参考にしたのは、東京の開成学校 ( 明治 6 年 ) 、東京医学校 ( 明治 9 年 ) の建物や図面といわれている。両校舎とも西洋を横浜で実地に学び、職 人から官僚技術者に転した明治初期の重要な建築家、林忠恕の設計によるものである。 まだ、英国人教師ジョサイア・コンドルの来日以前、辰野金吾ら本格的な日本の近代 建築家が育つ以前の時代であった ちょうど同時期、清重の長男清美は、松本からはるばる東京医学校に学んでいた 開智学校のための学習や買い付けにしばしば上京する清重であったが、この一人息子 と会うのを、ことのほか楽しみにしていたという。しかし、先に記したように清美は、 明治 8 年 9 月田日、東京医学校卒業を前に急死してしまう。墓碑にあるように数え円 歳、抱えきれない未来を準備していた若者の無残な死。清重にとって、開智学校建設 の真っ最中におきた、信しることのできない深い悲しみであった。 すでに日が暮れようとしていた。時問を忘れて、昼過ぎから延々と話しこんでしま った。田川氏に伝えられている清重棟梁の気性をまとめると、次のようになるだろう。 てんたん 松本一等の大工棟梁、情け心が深く、金銭に恬淡で反古にしてあげた借用書は数知 れず、義侠心は厚く、遠方から流れてきた雇人の面倒もよく見て、若い職人のためには 月 2 回神官や僧侶を招いて説教をし、その後必ず赤飯をふるまい饗応、妻留以の気丈 なきりもりに助けられ、という具合で弘前の大工棟梁堀江佐吉の人問性とよく似てい ただ、次々と田人の子供をもうけている佐吉に対して、清重は 4 人、 るものだった そのうち 3 人が夭折、長女の息子をニ代目とするがこれも 33 歳で夭折するという後継 者にめぐまれない悲劇があった 再び松本に戻り、改めて開智学校の前に立ってみる。やつばり楽しく、面白い。生 き生きとしている。清重棟梁の迷いも疲れも見えない。当時の悲しみも見えない。 立石清重は、開智小学校のほか洗馬学校 ( 明治 9 年塩尻市 ) 、大町裁判所 ( 明治田年 ) 、 松本裁判所 ( 明治Ⅱ年 ) 、東筑摩中学校 ( 明治絽年 ) 、長野県会議事堂 ( 明治 20 年 ) 、東 6

6. 明治の西洋館Ⅱ

明治の西洋館・解説 旧名称 ( 現名称 ) 104 / 構造 / 所在地 建築年 / 設計者 / 施工者 / 指定 1 . 見付学校 明治 8 年 / 伊藤平左衛門 / 伊藤平左衛門 / 国 史跡 / 木造 5 階 / 静岡県磐田市馬場町見付字 塔ノ壇字ノ宮小路 2426 明治 8 年竣工。天竜川の渡しで栄えた見付で は、住民の教育熱が盛り上がり、当時高名な 大工棟梁伊藤平左衛門を名古屋から呼び寄せ て建設にあたった。伊藤は、これに応えて 2 階建て、その上に 2 層の小塔をつけて高楼と し、関係者を喜ばせた。明治 16 年、 2 階の屋 根裏を改造して 3 階建てとし、 2 層の塔をつ けて 5 層とした。現在の姿は、明治 16 年増築 時のもの。 2. 開智学校 明治 9 年 / 立石清重 / 立石清重 / 国指定重文 / 木造 2 階 / 長野県松本市開智 2 ー 4 ー 12 かっての教育県長野・松本。地元棟梁立石清 重の名はこの建物により永く世にとどまるこ とになる。東京や横浜に出向いて初期の洋風 建築を学び、そこに自らの創意を加えてこの 建物を生み出した。ポーチの欄間には龍が出 迎え、 2 階には湧きたっ雲を従えたバルコニ ーがのり、唐破風に天使が舞う。その上には 八角の鼓楼が方位盤をのせて高らかにそびえ る。未だ本格的な「西洋」の姿の到来する前 の町に、新しい世界を伝統的な漆喰に塗りこ 3. 舂米学校 ( 増穂町民俗資料館 ) つきよね めて見せたのであった。 在は町の民俗資料館となっている。 は心意気の表れか。のちに村役場となり、現 漆喰で盛りあげている。塔屋根に飾られた鯱 漆喰大壁造りで、石積のように隅石を模して、 中央に突き出た玄関上のべランダは起り屋根。 同県内の睦沢学校と同じ藤村式の学校建築。 階 / 山梨県南巨摩郡増穂町 明治 9 年 / 不詳 / 不詳 / 県指定重文 / 木造 2 4. 岩国学校 明治 3 年 / 不詳 / 不詳 / 県指定重文 / 木造 2 階 / 山口県岩国市岩国 3 ー 1 ー 8 全国に先んじて明治 3 年、岩国藩は学制の大 改革を行う。翌年この校舎が開校するが、入 母屋 2 階建てのほとんど寺にあるような和風 の建物だが、明治 5 年、屋根上に大ぶりなト ンガリ屋根の鐘楼を増築する。よろい戸のつ いた窓の上には扇を形どったようなレリーフ がつき、ファン ( 扇 ) ライトの意訳ではないか と思わせる。 5. 中込学校 明治 8 年 / 市川代治郎 / 市川代治郎 / 国指定 重文 / 木造 2 階 / 長野県佐久市中込 松本・開智学校の前年に、やはり地元の棟梁 が完成させた。開智より小規模で、ポーチの 上にバルコ二 、八角鼓楼、隅石装飾は共通 しているが、かって「西洋づくりのギャマン 学校」と呼ばれたように、ポーチ欄間の色ガ ラス、前面吹き放ちの二層のべランダより伸 ひ上がった鼓楼が特徴的である。その鼓楼の 天井には学校を中心とした世界地図が拡がっ ている。 6. 睦沢学校 ( 甲府市藤村記念館 ) 明治 8 年 / 松木輝殷 / 松木輝殷 / 国指定重文 / 木造 2 階 / 甲府市古府中町武田神社 山梨県令藤村紫朗は明治 6 ~ 20 年に、県内に 次々と洋風建築を建てさせた。それらの擬洋 風建築を「藤村式」と呼んでいるが、その典 型・最古のものである。瓦葺、漆喰大壁造り。 中央にべランダをのせた玄関。塔屋の太鼓堂 からは時刻を報じたのだろう。昭和 32 年まで 小学校として務めを果たし、公民館を経て、 地元の運動によって昭和 41 年、巨摩郡敷島町 より現在地に保存となった。

7. 明治の西洋館Ⅱ

筑摩高等小学校 ( 明治 22 年 ) などの大建築を手掛けているが、残念ながら現存してい ふしむら 《藤村式建築》 はんすう 7 ふしむら 北巨摩郡睦沢村に睦沢学校として建てられ、昭和 32 年までの 80 年間その使命を果たし、 社 ( 大正 8 年 ) の境内に、藤村記念館がある。開智学校より一足早く、明治 8 年月、 朝の武田通りを真っすぐに歩いて約 20 分、甲斐の名将、武田信玄をまつった武田神 しく、話すほどに厚みがあって温かい。 藤村紫朗も知らなかったが、梨大 ( 山梨大学 ) の貧乏学生が常連という店の女主人ら なしだい 屋街で一人ビールを飲んでみる。この店で 40 年という大正生まれの女将は、藤村式も 奮に押されてホテルの近く、月曜日の夜は人影もまばらな新天街というひなびた飲み せる。目的の建築に初めて出会う前夜の気分はなかなか快いものである。その軽い興 洋館の旅のメモや資料の整理をして、藤村記念館となっている旧睦沢学校に思いを馳 ホテルでシャワーを浴びてから、佐久の中込学校、松本の開智学校と続いている西 の残した業績を記念する言葉と考えていいだろう。 うとも思えない。藤村県令時代に建てられた一連の西洋館のこと、たぶん、藤村紫朗 が、他県の明治初期西洋館に比べて、それほどきわだった相違があるかといえば、そ いる。学校建築のほかにも、役所、病院、教会、警察署、商店と多岐にわたっている として知られ、明治初期から明治 20 年頃にかけて盛んに用いられたスタイルとされて ているポビュラーな言葉のようである。山梨県第五代県令の藤村紫朗が奨励した建築 藤村式というのはどうも山梨県では、建築関係者だけでなく一般的にも広く浸透し てもらう。 地を教えてもらい、ついでに徒歩で向かうのに便利な北ロのビジネスホテルを紹介し 気軽に使われている藤村式という言葉にいささかびつくりしながら、武田神社の所在 学校なんですがと問い直すと、ああ藤村式の学校かという答えが返ってきた。私は、 を広げて睦沢はずいぶん遠いよという返事。いや武田神社の中にあるという古い睦沢 だ。ともかく、交番に飛び込んで睦沢学校はどこかと尋ねてみる。昇仙峡方面の地図 甲府に向かう。賑わっている南口に降りてみる。もう旅行案内所も閉まっているよう 私は、田川さんから聞いた立石清重の話を反芻しながら、松本を後にして、夜行で

8. 明治の西洋館Ⅱ

公民館の転用を経て、その後、取り壊し寸前のところを山梨郷土研究会の情熱的な保 存運動に一命をつなぎ、昭和年現在地に移築復原された西洋館で、まさしく保存運 しもやま 動記念館ともいえる。また、山梨県の誇る下山の大工棟梁松木輝殷の設計によるもの であり、県下にいくつもの学校建築を手掛けた彼の唯一現存する建築でもある。松木 輝殷記念館といってもいいだろう。 しばらく全景を眺めてから、入口で署名をして内部を見学する。小さな学童机の上 に当時の教科書が数冊きちんと積まれている。中央には、正方形の火鉢がある。きっ と休み時間には、子供たちがガャガヤと炭火を取り囲んだはずである。私は火鉢を前 にして、その情景を想像しながら、暖房機以前、いや石炭ストーフ以前の学校の、そ の厳しい冷たさとは反対に、ほのかに手足へと伝わってくる暖かさの魅力をしばらく 思い続けていた 手すりもない急な階段を上って 2 階の教室に入ると、教育資料、生徒たちが描いた 睦沢学校の水彩画、藤村式建築の古い写真などが展示されている。藤村式学校は、 っきよね の睦沢学校のほか、増穂町の舂米学校、頁玉町の津金学校、牧丘町の室伏学校、都留 おがた 市尾県学校の 4 棟が残っているという。 ペランダに面した中央の御真影室と呼ばれている小部屋には、県令藤村紫朗を紹介 して、写真、肖像画、書簡、遺品などが並べられている。彼の写真や肖像画をじっと 見る限り、失礼だが、大人物あるいは豪傑という感じはしない。孤高な芸術家あるい は研究者という感じでもなく、やはり勤王の志士、行政手腕に長けた切れ者というイ メージが強く感じられる。 太鼓楼には登れないので、階段を降りて再び階下に戻るが、見学者はおろか、管理 室にも人の気配が見られないというのどかさ。とりあえず、外に出て樹木のあいまか らスケッチのポイントをさがすことにするが、境内の枯れ葉をいつばいに集めた焚火 の暖かそうな匂いに誘われて、少しあたらせてもらう。 どうぞ、どうぞ、といって受け入れてくれた焚火番は、尋ねてみると藤村記念館の 館長であった。藤村式建築のこと、松木輝殷のこと、県令のことなど詳しく答えてく れた。長い立ち話となった。 長野県において、開智学校に立石清重、中込学校に市川代治郎という棟梁がいるよ てるしげ うに、山梨県には、小宮山弥太郎朝 828 ~ 円 20 ) 、松木輝殷 (1 843 ~ 四Ⅱ ) という優秀 てるしげ 8

9. 明治の西洋館Ⅱ

《開智学校》 信州松本の冬は、先に旅した津軽の弘前よりも寒いかもしれない。雪は降っていな いが肌を刺す空気の冷たさ。なにはともあれ、軽装備の私は、それでも手袋をポケッ めとばかわ トから取り出し、マフラーを整える。ます、駅から女鳥羽川に向かう。なまこ壁の土 蔵が点在し、かっての落ち着いた城下町の記憶をかすかにとどめている。開智橋を見 せんさいばし て右に折れ、川沿いに千歳橋までゆっくりと歩いて寒気の中で立ち止まる。 このあたりが中央 2 丁目 ( 南深志町 ) 、明治 9 年、松本の大工棟梁立石清重が、当時 の人々の熱い期待を背負って開智学校を建てたといわれる場所である。今、その面影 は何もない。松本城大手門石垣の石材を用いて造った千歳橋 ( 同年 ) もない。女鳥羽 川の水量も少なく、心なしか泳ぐアヒルも寂しげだ。私は、大名通りを抜け、松本城 を見ながら、移築復原先の開智学校に急ぐ。 旧開智学校は松本城の北、現開智小学校に隣接して移築されている。信州大学附属 病院跡地であった。木造 2 階建ての日本瓦葦、壁は漆喰塗り、窓の扉は色鮮やかなペ ンキ塗り、欄間には船来の色ガラスが用いられている。いうまでもなく、明治初期の どんら人 日本人棟梁たちが夢中になって創意工夫し、貧婪な気迫とバイタイリティーをもって 各地に建てていった西洋館学校の代表的な存在である。 白い息を吐きながら久し振りにじっと仰ぎ見る八角太鼓楼、東西南北の風見を兼ね た避雷針、唐破風つきバルコニーにはいくつもの雲がおおらかに漂う。校名を掲げる らんま キューヒ。ッドの童子、欄問や扉の濃密な竜の木彫など、この時期の学校建築の特徴を 備えた貫禄のフアサードである。見るほどにやつばり面白い。 , こには棟梁の迷いや 疲れが見られない。和をもって西洋に向かう潔い意志と自信がある。寺小屋から近代 的な学校に移行する激しい時代のショックと熱狂が明るく奇妙に噴出している。この 学校が春の花々に飾られて開校したのは、今からⅡ 5 年前、明治 9 年 4 月 22 日のことで あった 教育資料館となっている内部の展示では、学校建設にかかわる資料はむろん、明治 政府の教育内容や当時の授業風景が、写真、道具、書籍、絵などによって詳細に紹介 されている。興味深く一階から 2 階へと見学しているうちにすっかり体は冷えきって しまった。とにかく外に出て、暖かい缶コーヒーを流し込んで一息入れる。立ち去り がたく庭のペンチに座っていると、大型カメラを持った男か無表情にたばこを吸いな がら、アングルを見定めるように行ったり来たりして、きびしい目で観察している。 西洋館との対話 鈴木喜 3

10. 明治の西洋館Ⅱ

【群馬県】 桐生高等染織学校 ( 群馬大学工学部 ) / 桐生市 群馬県衛生所 ( 桐生明治館 ) / 桐生市 【埼玉県】 深谷商業学校 ( 深谷商業高校 ) / 深谷市 松山中学校 ( 松山高校 ) / 東松山市 本庄警察署 ( 本庄市立歴史民俗資料館 ) / 本庄市 日本赤十字社埼玉支部 ( 鎌形小学校 ) / 比企郡嵐山町 【千葉県】 学習院初等科正堂 / 成田市 佐倉中学校 ( 佐倉高校 ) / 佐倉市 騎兵連隊御馬見所 ( 空挺館 ) / 船橋市 【東京都】 東京医学校 / 文京区 慶応義塾三田演説館 / 港区 明治学院神学部校舎 ( 明治学院歴史記念館 ) / 港区 インプリー館 ( 明治学院同窓会館 ) / 港区 日本女子大学成瀬記念講堂 / 文京区 東京音楽学校 / 台東区 ( 現存せす ) 最高裁判所 / 千代田区 ( 現存せず ) 日本赤十字社本社 / 港区 ( 現存せず ) 豊多摩監獄 / 中野区 【神奈川県】 開港記念横浜会館 ( 横浜市開港記念館 ) / 横浜市 【山梨県】 つきよわ 舂米学校 ( 増穂町民俗資料館 ) / 南巨摩郡増穂町 睦沢学校 ( 甲府市藤村記念館 ) / 甲府市 【長野県】 開智学校 / 松本市 中込学校 / 佐久市 赤穂村役場 ( 駒ケ根郷土館 ) / 駒ケ根市 【新潟県】 新潟税関 ( 新潟市郷土資料館 ) / 新潟市 【福井県】 福井警察署 ( 丈生幼稚園 ) / 武生市 動物検疫所敦賀出張所 / 敦賀市 【静岡県】 見付学校 / 磐田市 岩科学校 / 賀茂郡松崎町 【三重県】 小田学校 / 上野市 第三中学校 ( 上野高校 ) / 上野市 【滋賀県】 長浜駅舎 ( 鉄道資料館 ) / 長浜市 【京都府】 京都郵便電信局 ( 中京郵便局 ) / 京都市 【大阪府】 大阪府立図書館 / 大阪市 大阪市中央公会堂 / 大阪市 【兵庫県】 神東神西郡役所 ( 神崎郡歴史民俗資料館 ) / 神崎郡福崎町 出石郡役所 / 出石郡出石町 和田山機関車庫 / 朝来郡和田山町 【奈良県】 奈良女子高等師範学校 ( 奈良女子大 ) / 奈良市 奈良県監獄署 ( 奈良少年刑務所 ) / 奈良市 【岡山県】 高梁小学校 ( 高梁郷土館 ) 咼梁市 遷喬小学校 / 真庭郡久世町 津山高校 / 津山市 【山口県】 岩国学校 / 岩国市 【香川県】 陸軍第十一師団偕行社 ( 善通寺市郷土資料館 ) / 善通寺市 【愛媛県】 開明学校 / 東宇和郡宇和町 【高知県】 須崎警察署佐川分署 ( 青山文庫 ) / 高岡郡佐川町 【福岡県】 福岡県公会堂貴賓館 / 福岡市 門司駅舎 (J R 門司港駅 ) / 北九州市 【熊本県】 第五高等中学校 ( 熊本大学資料館 ) / 熊本市 宇土郡役所 ( 九州海技学院 ) / 宇土郡三角町 1 9 3 7 41 2 9 00 一 9 一つ」っム 93 つ」っつ 00 82 83 O つ」 4 ・「 / 00 ao 9 一 4 L-n L-n 9 一 34 85 つ」 -6 C つ」っ」っつ 81 1 5 1 4 1 7 8 7 つつれい一 9 一 1 ー《 1 ー L-n 2 0 . 2 1 63 67 77 94 66 9 1 49 5 8