エクアドル - みる会図書館


検索対象: 野口英世
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1. 野口英世

に・まで「ノグチ」の名をつけた ほどでした。 その後も英世は、メキシコ、 ブラジル、ジャマイカ、 おうねっぴょうけん ュカタンなどへも、黄熱病の研 きゅう 究のためにいっています。 さて、エクアドルをあとにし すうじつごおきなじまむら た数日後、翁島村では六十五才 1 びようき になった英世の母が病気になっ じたいせん ていました。第一次大戦のあと せかい に世界じゅうをおそった、たち議《・・ ひでよ かい 工クアドルでおこなわれた英世にかんしやする会 147

2. 野口英世

アメリカ合衆国 おうねっぴょう 年間は、この黄熱病とのたたかいです。 びようき この病気は、長いあいたたくさんの人をくるしめぬいてきました。そのた 、つん・か」、つドレ、は かすおお し ) 」と めに。 ( ナマ運河の工事場では、数多くの人がつぎつぎとたおれ、仕事をさま ふたりひとり たげていました。 = クアドルでは、二人に一人のわりあいで、兵隊がたおれ ていました。かがこの病気の ん プラジル もとをは一、んでいることだけ レ しかわかっていません。あと ア クはいっさいなそだったので れす。 と ェクアドルについたのは、 お 世七月十五日でした。たいへん あついところですが、ついた メキシコ湾 メ ・・メキンコ 西インド諸島 廾ントドミンゴ 「一一一カリブ海 ュ メリダ 、一ホンジュフス グアテマラ ニカラグア ンイ′し第、ドし ′レたノレ′、ドノレ コスタリカ コ ジ - マイ 0 なが くランキリア カラカス 、ベネてエラ ( 十マ 0 ボコ・タ コロンビア、 ( ナマエクドル キ 0 ク・テヤをル 145

3. 野口英世

きん どうも九年ほどまえにエクアドルで発見した菌とはちがうらしいのです。 じぶん こうなると、どうしても自分の目でそれをたしかめないではいられません。 あんこく がくしゃ ひでよ 英世の心は、つぎつぎとりつばな学者をのみこんでいく、暗黒のアフリカ たいりく 大陸にとんでいました。 「よその国のことは、よその国にまかせておけばよいのに。」 という人もありました。 がくしゃ 「あなたのようなりつばな学者が、わざわざ出かけていかなくともいいで しよう。」 はくし と、フレキシナー博士もとめようとしました。しかし英世は、 し びよ、つき 「たとえ、病気にかかって死ぬようなことがあっても、自分は行かなければ ならない。」 と、」っぱり、 しいました。 はつけん 150

4. 野口英世

さくひん と、つけくわえるのでした。一、のようにして、かかれた作品のいくつかは、 今ものこっています。 しぜん ヨークに , もどりましたが たのしい自然のなかの生活もおわって、ニー しゅじゅっ びよ、つき 病気がぶりかえしました。そのうえ、もうちょうの手術もしなければならな き くなりました。そればかりでなく、メリーももうちょうを切るというさわぎ です。いちどにさいなんが、かたまってやってきたのでしよう。 あしけんきゅう たいしよう 一九一八年 ( 大正七年 ) 六月のある日、まだふらっく足で研究をしていると はくし ころへ、フレキシナー博士がやってきました。 おうねっぴょう 南アメリカのエクアドルに行ってくれないかというのです。黄熱病がは きん やってこまっているから、その病気のもとになる菌をしらべてくれないか、 も という話を持ってきたのでした。 英世はまた大きな・ほうけんにたちむかうこととなりました。これからの十 みなみ せいかっ 144

5. 野口英世

まひきようせきずいろうかんじやけっえきちゅうばいどく 一九一三年大正二年三七歳麻痺狂と脊髄癆患者の血液中に梅毒のス。ヒロへーターを こうえんりよこう おうしゅうかっこく 発見しました。九月、欧州各国に講演旅行をして十一月に アメリカにかえりました。 一九一四年大正三年三八歳ロックフェラー研究所の正員になりました。四月、日本の 理学博士の学位をうけました。 おんししよう ていこくがくしいん 一九一五年大正四年三九歳四月、帝国学士院から恩賜賞をうけ、九月に日本にかえり ました。十一月またアメリカにもどりました。 おうわっぴょうげんきんはつけん 一九一八年大正七年四二歳七月、南米のエクアドルに行き、黄熱病原菌を発見しまし 十一月、母シカがなくなりました。 さよすけ 一九ニ三年大正一二年四七歳父、佐代助がなくなりました。日本の学者として最高の名 よ ていこくがくしいんかいいん 誉である帝国学士院会員となりました。 おうねっぴょうけんきゅう びようげんたい トラコ , ーマの病原体を発表。十月、黄熱病の研究のためア 一九ニ七年昭和二年五一歳 フリカに行きました。 一九ニ八年昭和三年五二歳五月二十一日、アフリカのアクラで黄熱病にかかってなく なりました。 なんべい

6. 野口英世

つぎの日にはもう仕事にかかりました。 チフスでねていたとき勉強したスペイン語が、一、一、でさ 0 そくやくにたち おうねっぴょう きんはつけん ました。九日目には、見なれない菌を発見し、どうも一、れが黄熱病のもとの ように思われました。 けんきゅう すぐにその菌をやしない、病気たいしの研究をはじめました。モルモ〉ト、 あたら じつけん さる、ろば、はつかねすみなどをふんだんにつか 0 て実験がつづけられ、新 せいこ、つ しいくすりをつくることに成功しました。これによ 0 て、たくさんの人がす くわれるようになったのです。 英世のかえる前の夜、つまり十月二十九日には、 = クアドルのゆうめいな 人たちが、かれのためにさかんな会をひらいてくれました。そして、 = クア ドルの軍医大佐のくらいをもらい、そのしるしの軍服やつるぎをおくられて ど、つろ ひこうせん います。人びとのよろこびはそれだけではおさまらないのか、道路や飛行船 し ) 」と べんきよう ぐんぶく 146