友人 - みる会図書館


検索対象: 野口英世
14件見つかりました。

1. 野口英世

そのうちに、中国のなかに戦争がおきましたので、ひきあけることになり かね ました。わざわざ中国まで行きましたが、とうとうアメリカ行きのお金をつ くることはできなかったのです。 いよいよアメリカへ ちおき 日本にもどってくると、しばらくのあいた血脇先生の学校のおてつだいを していました。しかしどうしても、アメリカに行きたくてたまりません。 ゅうじんやごやすへい こうとうしよ、つがっこ、つ ひやく たまりかねて、高等小学校のころの友人、八子弥寿平から、五百円ばかり かりようとしました。 こばやし そのことを小林先生に話すと、 「友人にたよるというような心がけは男らしくない。自分のカでやれ。」 ゅうじん ちゅうごく せんそう おとこ ちから

2. 野口英世

日本にいる友人、星一に、 ニアイタシ、カネオクレ』 でんぼう と、電報をうちました。 メリーもつれていきたかったのですが、お金の一、ともありましたし、ほか のわけもあって、一人でかえる一、とになりました。 には ~ ん ゅうじんはしはじめ はは 母のシカ に、あいたいという気持ちがあふれ ていました。 もうじっとしてはいられませんで した。だが、やはりお金がありませ ねんせん ん。年五千ドルももらう給料も、ほ けんきゅう とんど研究のひょうになってし まっていたのでした。しかたなく、 かね かね きゅ、つりよ、つ 130

3. 野口英世

きも にあいたいと思う気持ちは、ますますつよくなるばかりでした。 「このせいこうは、まったく母のおかげだ。もういちど日本にかえって、母 かお とんなにか待ちこがれているだろうな。」 の顔が見たい。。 つまのメリーとこんなうわさをしていたころ、ちょうど友人の石塚三郎か てがみ ら手紙がとどけられました。 『よく見たまえ。この年おいたお母 さんのすがたを。お母さんは、き 郎みにあいたがっているよ。今か 石えってこなければ、もう生きてい あいだ 人る間にあうことはできまい。』 しやしん その手紙の中に、母の写真といっ しょに手紙も入っていました。英世 ゆうじんいしづかさぶろう ゅうじん とし いしづかさぶろう 129

4. 野口英世

英世 , 友人石塚 帰国した英世右より小林先生 , 母 , と京 : そ 都 3 カ : わ 大鶚 き 小こて お を っ し、 林お れ 阪て で 母 : 見 た て、 案丿 ( おし、 い さ よ り た し し、 の は 内阪日 し 人 ん う た お し が な が と し ね 母 て し、 そ さ て 伊いつ で 工、い が 勢せづ ん す れ と の ま し の とく あ わ さ な ま く よ は ろ り い し に カゝ つ 央い 日 ま な て で た お や し 世ょだ が ど 本 き は ざ た た や はに つ の 母も 英 た わ か し、 り 美び ら 世 の 人 手 ' は が ん か く そ う と を す ゆうじんいしづか ひでよ はは こばやしせんせい ひでよ 135

5. 野口英世

と、さいそくするほどでした。そして、 「これでわたしもかく ) 、ができました。わたしも、自分のすることをしてし しいと思っています。」 まったから、もういっ死んでも、 ひでよ と、英世の友人にいったそうです。 そして、これがさいごのわかれとなったのです。英世は、ほんとうにいし ときにかえってきたと思いながら、ふるさととわかれをつげました。 かお まえ と、つきレ、つ いよいよ東京をたつ前の夜、英世はうかぬ顔をしていました。 やたい 「どこかの屋台でそはがたべたい。」 とも と、友だちをさそったそうです。アメリカにくらべると、だいぶおくれてい る日本ではありますが、英世にとってはかけがえのない日本です。 はや 「いればいるほど、日本がすきになる。だから早くアメリカへかえりたい。」 といって、あきらめきれないものをあきらめようとっとめました。 ゅうじん じぶん 138

6. 野口英世

みても、りつばな人にはなれないだろうと、かなしくてなりません。でも、 はげましてくださるお母さんのことを思うと、どうしても、りつばな人に ならなければいけないと思うのです。』 、」、っち・ - よ、つ これをよんた小林先生は、ほうってはおけませんでした。校長先生をはじ せいと め、ほかの先生がたにもよんでもらいました。また、生徒たちにもよんでや りました。 「清作をなんとかしてやろう。」 「よいお医者さんにみせてやらなくちゃ。」 わかまっ あいづわかまっし 「若松 ( 今の会津若松市 ) に、アメリカがえりのいい先生がいるそうだ。」 「ところで、お金はどうしたらいいたろうか。」 すこ だ 「少しすつでも、 しいから、みんなで出しあおうじゃないか。」 こえ という声がたかまってきました。先生も友人もたちあがりました。あわせて しゃ かね こばやし ゅうじん

7. 野口英世

にスペイン語に手をつけようとしているのです。 びよ、つき からだやす やまごや 病気の体を休めるため、しすかな山小屋に出かけました。小屋のうしろに ひでよ は、きれいな川がながれていました。英世はいなかじみた、こんなところが けんきゅうせいかっ じかん すきだったのです。ただ、今までのいそがしい研究生活には、そんな時間の ゆとりがなかったのでした。 トランクの中には、友人の堀が、油えのぐを入れておいてくれました。そ しやせい れをひつばりだして写生をはじめました。 みち 道のまん中にじんどって、見たままを思いきってかき出したのです。そこ みち へ見しらぬ人がやってきました。英世は道をあけようともしないで、 「あの木をごらんなさい。」 と、ぶえんりょに話しかけ、さらに、 「あれがこれです。そっくりでしよう。」 あぶら 143

8. 野口英世

たいしよう 一九一五年 ( 大正四年 ) 九月五日。 ふじさん なっかしい富士山を見ました。十五 ねんまえ ふな 年前、わすかの人に見おくられて船 出した横浜港には、たくさんの人が 出むかえてくれました。小林先生も ちわき わざわざきてくれました。血脇先生 じよ、つりく しんぶん の顔も見えます。上陸しても、新聞・・・ー・「 ~ レーイ きしゃ 記者にとりかこまれて、先生がたや 友だちとも話すことができないしま つです。 とうきよ、つ ていこく 東京では帝国ホテルにとまり、み とうきようだいがく のあいだに東京大学で話をしてい よこはまこ、つ こばやし 英世が多くの友人たちに迎えられた翁島駅 おきなじまえき ひでよ 131

9. 野口英世

とはなれたと思うと、おおいのテントがつよい風にあおられて、さつばりす すめません。おおいをとってどうやらすすむことができましたが、おかげで 英世はびっしよりぬれてしまったのです。 友人の家についてとこにつくと、すぐねこんでしまいました。 にゆういん あくる日はすぐ入院しました。それから、なにもわからない日がつづきま した。 おうねっぴょう かれはとうとうはけしい黄熱病にかかってしまったのです。一日、二日、 なのか みまも びよ、つき : 七日。この病気は七日目がとうげですから、みんなじっと見守っていま ようか した。どうやら持ちなおすかと思われましたが、八日目にはけいれんがおき ました。九日目になると、また、ただねむってしまいました。 その日の夕方、ヤングがみまいにきてくれました。はっきり目をさました 英世は、 ゅうじん ここのか ゅうがた も かぜ 157

10. 野口英世

と、話してばかりいるので、おどっている人は、がっかりしてしまったそう ひでよ です。しかし、英世のそのようなすがたを見ていた人たちの中には、そっと 座をはすして、しようじのかげでなみたをぬぐった人もありました。 じよちゅう みなみがわみつえ ( そのとき、女中さんたちをさしずしていた南川光枝という人は、そのとき はくし どう のことがわすれられず、なんとかして博士の銅そうをたてたいと思いたちま いしづか した。自分のお金をなげたしましたが、それだけではたりないので、石塚、 あらき ゅうじん 荒木などという、英世の友人たちにそうたんし、大阪の小学校の生徒たちか らのきふをあつめて、りつばな銅そうをたてたということです。 ) りよこう おきなじま おんししようがくしいんかい たのしい旅行もおわり、ふたたび翁島にもどりました。恩賜賞 ( 学士院の会 てんのう しよう せん 員で、すぐれた研究をした人に天皇からおくられる賞 ) としていただいた千円を、お かんのん 寺、学校、観音さまなどにきふしました。そののこりで田を買って、これか らの母の生活にしんばいがないようにしました。 てら いん せいかっ どう おおさか せいと 136