がくけんきゅう やはり医学研究のためにニ = ー かお ヨークにきたのでした。顔ににあわ す気持ちのいい人だったので、英世 もすっかりすきになりました。そし ふたりせいかっ て、ふうがわりな二人の生活がはじ まりました。 みやはら 一年ばかりして宮原が日本にかえ あら ると、それと入れかわるように、荒 せいねん 木という青年があらわれました。荒 ちわき おな 木は英世と同じように、血脇先生の ところでやっかいになった人です。 けんきゅ、つじよ 英世は研究所に行ったきりで、か い ) , Dr. Ncsgn ぐ剏、 いい 5 ー 928 けんきゅうじよや ロックフェラー研究所矢じるしのところが英世の研究室 113 ひでよ けんきゅうしっ
いまにみていろ しよいよアメリカへ どく けんきゅう へびの毒の研究 りゅうがく ョ ロツ。、 , への留学 けんきゅうじよ ロックフ = ラー研究所 けんきゅう 研究につぐ研究 なっかしいふるさとへ おうねっぴょう 黄熱病とのたたかい アフリカへ あとかき 6 年表 172 149 92 107 126 111
とも話しません。すぐ本をあけて、さらのわきにそれをおきます。 そして、フォ 1 クにささったのを口にいれるだけです。どんぶりをのそく でもなく、それがなんであっても、おかまいなしなのです。ただ、ロにほう りこむだけで、目は本にそそがれているのです。 けんきゅうじよ ロックフ = ラー研究所の研究生活は、二十四年間にわたります。その二十 じだい 四年間を三つの時代にわけることができます。 どく けつかく ーマなど 一九〇四ー一〇年へびの毒の研究をつづける。結核、トラコ の問題にとりつく。研究はそれほどすすまないで苦しい時代。 はくし けっこん ばいどノ、 2 、一九一一ー一五年梅毒の研究にせいこう。結婚。そして日本から博士 ) 」うおんししよう 号、恩賜賞をうけている。日本にかえる。もっとも、とくいの時代。 ちゅうなんべい おうねっぴょう 、一九二 ハー二八年おもに黄熱病の研究。中南米に行き、さらにアフリ 力に行き、ついにたおれる。 もんだい せいかっ くる 116
研究につぐ研究 けっこんせいかっ 一九一二年 ( 明治四十五年 ) 、かれは三十六才になって、結婚生活に入りまし た。あいては、メリー ・ダージスという、たいへんやさしいアメリカ人のお じようさんでした。 げしゆくや けっこん 二人は、下宿屋からア。 ( トの五階にうつりました。しかし、結婚しても ひでよ 英世の研究ぶりはあいかわらずです。 し′」と 研究所にいる時間も多いのですが、それでもまんそくできす、仕事をア。 ( じつけん だいどころ しやしん トまでもちかえります。実験のどうぐを台所にもち一、みます。写真をとる。 しよくたく きよう それを現像する。食卓の上でけんび鏡をのそく。 いよいよごはんになると、またこれがたいへんです。はやめしのとくいな げんぞう けんきゅう けんきゅう 120
し′」と って、そこで仕事をはしめることになりました。 けんきゅうじよ ここには、イギリスのたてた研究所があり、ヤングという、たいへんまじ しょちょ、つ めな人が所長をしていました。 きようどうけんきゅう ちゅうしん これから、ふたりを中心とする、くるしい共同研究がつづけられていくの ひやくとう です。実験のために、九百頭ものさるがっかわれました。馬もっかわれまし た。そのために、日に三トンものえさがいりました。また三百人ほどの助手 もやとわれました。 おうねっぴょうびようにん 赤道に近いだけに、毎日あつい日がつづきます。うんわるく黄熱病の病人 が見つからないので、研究も思うようにすすみません。ゅううつになる毎日 がつづくうちに、とうとうクリス「スにな 0 てしまいました。 ところが、そのあくる日、研究所の人が英世のへやをたすねていくと、英 じしんおうねっぴょう 世はす 0 かり元気がなくな 0 て、とこにねていました。かれ自身が黄熱病に う じよしゅ 152
ひでよ はくし 英世には、博士のたいどがつめたく見えましたが、博士も、決して英世を みすててしまったのではありませんでした。よくよくかんがえたすえ、英世 をよびだしました。 けんきゅう 「きみは、ヘびの研究をしたことがありますか。」 と、だしぬけにたずねました。 でんせんびようけんきゅうじよ 英世はやったことはありませんでしたが、伝染病研究所で友だちが、台 湾の ( ブというどくへびの研究をやっているのを見たことがあります。英世 はわるいと思いながらも、 「はい、やったことがあります。」 くる と、苦しいへんじをしてしまいました。 「では、さっそくてったってもらいましよう。」 ということばで、博士の助手となりました。 わん じよしゅ
ョロッパへの留学 ひでよ 英世は日本にいるときから、ドイツで勉強したいと思っていました。伝染 びようけんきゅうじよきたざとはくし 病研究所の北里博士も、 りゆ、つカ′、 「五年もしつかり勉強してくれれば、留学させてやる。」 といって、はげましてくれたことがありました。 そのねがいがかなって、一九〇三年 ( 明治三十六年 ) 、ヨーロツ。 ( の土をはじ めてふむことができました。研究のつごうでドイツではなく、デンマークの ーゲンにむかいました。 そして、マドセン博士をたすねました。 「おお、あなたがノグチくんですか。」 りゆ、つかく けんきゅう べ人きよう てんせん 107
たことを思い出してください。それから、ちょうど十年たっているわけです。 ひでよ 清作から英世へ でんせんびようけんきゅうじよじよしゅ 一八九八年 ( 明治三十一年 ) 、清作は伝染病研究所に助手としてっとめるこ しょちょうきたざとしばさぶろうはくし とになりました。所長は北里柴三郎博士という、ドイツで勉強してきた、す がくしゃ ばらしい学者でした。 けんきゅう だいがく ここで研究している人たちは、大学 。博を出た人ばかりで、清作のように学校 諸柴を出ないで勉強した人はまれでした。 ですから、はじめのうちはたいへん まごっきました。あるとき、清作は新 せいさく せいさく あたら【 /
どく へびの毒の研究のときよりも、もっともっとすさまじいス。ヒードで、研究 けんきゅうしつ しつづけていきます。研究室は葉まきタ。 ( コのにおいでむせるようです。そ しけんかん のなかに、数百本の試験管がならんでいます。その一本、一本をちゅういぶ かく、にんたいづよく観察して行くのです。そのなかの一本にでも、なにか ・はいどく かわったことが起こっていないだろうか。おそろしい、まじりけのない梅毒 きん の菌が、この中に生まれていないたろうか。 しけんかん この研究はせいこうしました。一、の菌だけをとりだして、試験管 あたら よば、つほ、つ の中でふやすことができたのです。このせいこうによって、新しい予防法や くすりがくふうされるわけです。 すうひやつほん けんきゅう かんさっ 119
しい実験のために、 「モルモットを十三びきほど、なんとかしていただきたいのですが : : : 」 と、もうしでました。 「え、十三びき。とんでもない。そんなにおしげもなく、モルモットをつか うようなことはできませんよ。」 と、かかりの人からはねつけられてしまった一、ともありました。 きも せいさくからだ けんきゅう 清作の体の中には、研究したいという気持ちが、火のようにはげしくもえ つづけておりました。ああもしたい、 こうもしたいと、いらいらして一日を すごすこともありました。 けんきゅうじよ この研究所も、清作のはげしい気持ちには、びったりしなかったようです。 びようき そのころ、小林先生のおくさんが、おもい病気になったというしらせをう あたら し けました。さっそく、新しいくすりをおくったり、病気のなおしかたを知ら じつけん こばやし ひ