かえ というて、くらやみのむこうへ帰っていった。 それから、なん日かすぎた。 トンキ , ーは、ふしぎに、また死なんで生きておった。というても、あのま るまるした背なかはヘ一、み、からだじゅうの皮がたるんで、一日ごとによわっ っ ていく。とびらをしめきった、たれもこないへやのすみで、かべによりかか て立ったまま、じっと、死ぬのをまっているようだった。 そのトンキーが、さいごに、おじさんのまくらもとへやってきたのは、 子が死んで十日めの晩だそうな。 ある ひと足ごとに、たおれそうになりながら、よろりよろり歩いてきた。そし て、 「おじさん、こんやは、おわかれに、きましたよ。ながいあいだ、かわいが 0 てくださって、ありがとう。」 にち ばん かわ にち
どころか、ただの鉄砲さえあんまりなくて、「おじい」の二等兵には、手りゆ うだんが一つずつわたされたきりたった。 そんな一、とでたたかえ。は、たちまち、ぜんめっしてしもうにきまっておる。 でも、トクさんたちは、ちっとばかりウンがよかったんだろう。いちども 敵のこうげきをうけんうちに、あの八月十五日、ムジョウケンコウフクの日 をむかえた。 まもなく、ソビエト軍がやってきよって、鉄砲も、手りゅうだんもとりあ げられ、みな、トラックや貨車で、シベリアのおくのほうへおくられていっ よくりゅうせいかっ た。そして、おもいだすのもつらい、なんともつらい抑留生活がはしまった のだそうな。 てき へいしゃ だだ 0 びろい野のまんなかに、さむざむした兵舎がた 0 ていて、まわり げ てっぽう ぐん かしゃ がっ てつばう にち と、つへ
わすれたくてもわすれられない、あのおそろしか 0 た、くうしゅうの話た じごくのような火のなかをくぐ「てにげて、や 0 とこさ助か 0 た人もあ 0 たけど、こどもらやおかあさんたちが、たくさんたくさん、にげきれなくて、 ちりちりと火に焼かれ、くるしんで、なにかさけんで死んでいった。 しようわ ねん がっ ねんせい ちょうど、その日ーー昭和二十年の三月九日だったが、六年生の一、どもら きしゃ したまちかえ が、汽車にゆられて、とうきようの下町〈帰 0 てきた。もう卒業がちかづい しゅうだん たので、おとうとやいもうとたちをのこし、集団そかいしていた、いなカカ かえ ら帰ったのだ。 そして、ほんとにし。はらくぶりに、おかあさんのそばでねむれた、うれし い夜のことたったんたよ。 よる たす ひと
「一、うなったら、花子も、トンキ , ーも、ひぼしにして、うえ死にさせるほか はないよ。それまで、ただ見てるなんて、おれたち、つらいなあ。」 「つらいなあ、ほんとにつらいなあ。」 やくしょ おじさんたちは、そういうたが、お役所のきついめいれいなもので、やっ ばり、うえ死にさせる一、とにした。 あきかぜ なっ そろそろ秋風がふきだす夏のおわりであったけど、とうきようには、あっ い日がつづいておった。あの大きなそうが、おりのなかにいれられたまま、 みず えさも水ももらえなくなるなんて、どんなにひどいくるしみだろう。 はじめからひ。ほしにされておったジョンが、八月のすえ、すっかりやせこ け、ドオとよこむきにたおれて死んだ。 いく日かたつうち、花子とトンキ , ーの二とうも、ひもじそうにして、ほそ い目でおじさんたちを見つめ、だんだんけんきをなくしていった。 にち はなこ おお がっ
ほんの十なん年かまえの話さ。 ある町はずれといっても、だいぶいなかのほうに、ひとりぐらしのじいや わたろう んがおった。名まえは、たしか和太郎ちゅうて、ばあやんにも先だたれ、そ かいき の三回忌をすませたころのことだった。 ようじ ある日、じいやんは用事があって、ちょっくら町へでかけた。夕方ちかく かえ なり、「さて、秋は日がみしかいで帰るか」と、もどりかけたところが、横丁 の路地から、 夕、タ・、タ、タッ おと こえ と、えらくにぎやかな音に、子どもらの声がする。 「今じぶん、ありゃあなんそな ? 」 わたろう よこちょうはい 和太郎じいやんは、その横丁へ入って、ついと足をとめた。 八、九人の子どもらが、おもちゃのライフルだの、二ちょうけんじゅうだ まち あきひ ねん はなし まち さき ゅうがた よこちょう 152
おも 和太郎じいやんは、からだこそ小さくてやせておるけど、なにか思いたっ と、やることが早いじいやんなんじゃと。 さんりんくみあい その日の昼すぎには、うらのとうさんと山林組合へでかけて行って話をつ やまのば まっ ける。そのつぎの日には、おおぜいで山へ登って、やられた松を切りたおし、 しようどく まったに 消毒もし、たおした松を谷へひきおろして焼いた。 まっ おく 「これで、へえ、一、んだけの松も、野べの送りってもんだかや。」 わら じぶん じいやんは笑っていったが、まるで自分の身を焼かれるような、せつない かん いたみを感じとった。 しろ くろ あきぞら 白いけむり、黒いけむりがいりまじり、むくむくと立ちのぼっては、秋空 はつけん へすいこまれて行く。それを見ておるうち、じいやんはひょいと発見でもし たみたいに わたろう ひる はや はなし 165
せんそうぐんたい 「いち。はん戦争や軍隊をきらっとった者が、いちばんうかばれん。力のある 者らが、つごうのええようにかんがえてやりよる。平和になって、これだ けたっても、ほんまなええ世の中はこんかったんじゃなあ。」 ろくた おっかさんのくちびるが、小きざみにふるえとった。六太の手も、おなじ にふるえとった。 ろくた それから三日後に、おっかさんはだまって死なれてしもうた。六太は、と むらいがすんでからいく日も、ただおえおえと泣いておったな。そして、ふつ つりと、「わし、あほうや。」といわんようになった。 ふゅ 冬が過ぎ、春もなかばを過ぎた。 りくぐんしよ、つしよ、つひ やま いりえ 入江をひと目でみおろす山に、陸軍少将の碑ができあがろうとしておっ あか たが、ある朝、ちょっとしたさわぎがおこった。その碑に、でかでかと赤い ペンキで、 もの あさ はる にち なか もの ひ ちから 145
かえ すらすらいうたら帰すさかいな。」 と、じわりじわりせめられた。なんの一、とかわからんで、。ほけ , ーっと口をつ しない ぐんでおれば、あたまからどなりつけられ、おびえてわめきたてれ。は、竹刀 などでビシビシと打ちすえられるんじゃそうな。 ろくた やっと身がらのひきとりに、おっかさんがよばれてきたとき、六太はちが おも うむすこかと思うほど顔かたちがかわっておった。 「なんと、おまえ、兵隊に行くよりもむごいめにあわされてしもうて : : : 」 ろくた おっかさんは、六太にすがって、あたりかまわす泣いた。そのあとも、ま けいさっ ろくた だ、いろんなことが待ちうけておった。戦争のあいだじゅう、六太は警察や 、えや くうしゅうル けんべい 憲兵にみはられ、空襲で家が焼かれたときでさえ、かってにほかへうつるこ とができんかったくらいじゃったとか。 せんそう にちにつばん 八月十五日、日本がまけて、戦争がおわ 0 た日。お 0 かさんはかなしみ判 がっ へいたい かお せんそう くち 140
くんれん へくりあげ入校の寸前たった。江田島へ行ったら , ハヶ月訓練をうけたあと、特攻 き 機に乗せられるといわれていた。十五歳になったばかりの少年にとって、自分の おもむ むす 命があと半年しかないと承知したうえで赴くことはあまりに難かしすぎた。くる 日も、くる日も、そればかり思いつめていたので、敗戦になると、戦争は終った、 もう死に行かなくていいのだということが逆にしばらくは信じられなかった。 自分が次の世代へなにをつたえうるかーーーそう考えるとき、私はいつも十五歳 の夏へたちもどり、戦争を避けてとおれない気がするのである。 けいしよ、つ この十年の間には、戦後生まれが日本人口の過半数をこえ、戦争体験の継承に ついてもあらためて問い直さねばならなくなった。また一方では、民話をめぐっ おおえけんさぶろう ての大江健三郎の発一言が注目され、戦争民話の掘り起こしもさかんになってきて こんどポプラ社文庫へおさめるにあたって、旧版五編のほかに創作三編を加えた。 「あほうの六太の話」は雑誌《日本児童文学》に、「父たちがねむる島」は雑誌《暮 おおはば しの設計》 ( 中央公論 ) に載せたものだが、後者は大幅に改作し、「おもちや買い のじいやん」は新しく書き下ろした。 み ん とっこう 185
に われ じ 田お , △、い し、 つ ど ト ん っ しカゝ し、 ナ ら や か ム た ん らむ : 亜わ し、 さ 田お 日か戦莞ち 小 こ 0 よ な 4 し、 み 争豸は も 首 ど た ち の を す す わ ゆ わ し、 う ら そ な し 見みし 男胯戦莞て わ げ ち は 重 や 争 ら の あ な い と せ遊 世 路ろ っ 界 3 、こド か ん た 地し す 知し ま る い の れ う な な ん る り ら 気きた っ さ が 田お し カゝ ノつ ノつ 町た 立た の は おもあし は かんが 155