ちからづよ 会場をうずめたからだの不自由な人びどは、今まてのくるしみ、かなしみ、 なが はずかしさをぜんぶ流しさった、すがすがしいはれやかさて、そのこどばに 力強くうなずいたのてす。 やがて、人びどの心にやきつけられた愛の火は、月日どどもにますますも , てかっていきました。 ふじゅ ) ひと からだの不自由な人びどは、じぶんのカて立ちあがりました。ふつうの人 ひどもまた、気 》しあわせの人びどに、手をさしのべるこどのたいせっさを知 もうじん としよかん てんじぼん り、盲人のための図書館をたて、点字本をつくるために、力をあわせるよう になってきました。 こころ ヘレン・ケラ 1 女史はなくなられました。みなさん、どうか〃心のどもし たか び〃を高くかかげて、ケラ 1 女史によろこんていただけるよ、フにどりよくし ましよ、フ かいじよう ひと じよし こころ ひと ふじゅう じよし ひと ちから つきひ ちから ( おわり ) びと 171
どこかに行「てし「たのか、一わも見あたりません」 どなみだぐんてい てつだ お手伝いのノ 1 トマンさんは、テラスのわきにほころびかけたま「かな ( 一フを ) して、 「こどしのさいしょの、このパラをつんてあげようど思「ていたのに = こえ ど声をつまらせした。 ( 六月ニ十七日には、八十八オのたんじよう日をわうはずてしたのに ! ) じよし しんぶん せんせかい 女史の死は、テレビ、ラジオ、新聞て全世界にひろく知らされました。ワ だいとう・りよう・ シントン・ポスト紙は、アイゼンハワ 1 大統領の顔に手をあて、そのえがお をほめているヘレンの写真を大きくのせて、その死をいたみました。 ひと じよし アメリカはもちろん、全世界の人びどに人の道をどいたケラ 1 女史てした にほん ふか が、日本どのつながりは、どても深く強いものがあるのてす。日本の人びど のおどろき、かなしみは、、、・ > 力はかりてしよう。すべての日本人は、心から がっ にち しやしん ぜんせかい おお つよ ひと みち 、お にほんじん こころ 168
> つも小鳥どいっしょてす。 かいじよう だいがっしょ ) 『ヘレン・ケラーの歌』の大合唱が、大波のように会場をゆるがしました。 よろこびのうずまきてす。ヘレンもトムソン女史のサインに合わせて手を気 ってこたえたあど、「【」にいつも光を」どよびかけました。 ふじゅ ) 「からだの不自由なみなさん。どくに目の不自由なみなさん。 くに たいよう 日本は太陽ののぼる国だどみなさんはおしえられていますが、みなさん たいよう は、それ : た見るこどかてきないてしよ、フ。しかし、太陽を見るこどかて ひと ふしあわせだどいうこどはありませ きる人がしあわせて、見えない人は、 こころ たいせつなこどは、心てす。心に『光』をもち、どんなこどにものぞ あか みをうしなわず明るくすすむこどてす。 ふじゅ ) みなさんは、ふつうの人びどどいっしょに生きるのてす。からだが不自由 げん だからどいって、すこしもひけめをかんじるこどはないのてす。さあ、元 気をだしましよう」 にほん ひと ことり うた こころ ひと こころ ひかり おおなみ ひかり ふじゅう じよし 170
と、新聞、映画社の人たち。その十一年まえ、 につかじへんお しようわ ねんらいにち ラ昭和十二年来日したとたんに日華事変が起こっ て、忽々として帰国した女史にとって、この第 しん へ二回目の訪問は、こんどこそ、信じていること ふじゅうひと にほんかんけいしやはな を日本の関係者に話して、目の不自由な人のた くる なやひと 章めに、聾唖の苦しみに悩む人のために、大きな つよけっしん えんじよて 等援助の手をのべようと、強い決心をしていたこ ちから とでしよう。ホームを歩く女史の足取りも、カ かん よっよ 臣強いものを感じさせたのでした。 とっぜんえいがはん 厚突然、映画班のたくフライヤーが、あたり一 しゅんかん めんまひる 面を真昼のように照らしました。その瞬間、ヘ あゆ レン・ケラーの歩みが、ちょっとたじろいで、 目をビクビクとしたのをわたしは見ました。わたしは、まだはじめてのごあいさつもし ないのに、このありさまを見て、びつくりしたのです。 くちふじゅう 目も、耳も、そしてロも不自由な女史が、どうしてフライヤーの光に、たじろいだの みみ じよし かいめ しんぶんえいがしやひと そうそう ろうあ ほう↓もん ある じよし じよし ひかり あしど ねん 174
・んとく はつおん 4 わ・ん・か / 、 もはればれと、大きなものに包まれてしまう。会得し切ったロ話法による発音も、音楽 かんせい を聴くように快よく耳に響く。完成された『偉大な人間』にただただ俯仰するのみとい ったことでした。 ひしょ しようわ ねんがっ 昭和二十三年八月三十日午後八時四十七分、女史と秘書トムソン女史を乗せた汽車は、 とくめー、 とうきようえき・とうちゃく せんりようか にほんそうしれいふ 【び東京駅に到着した。まだ占領下の日本、総司令部の特命で仕立てられた特別車から、ヘ らいにち・ とうきようえき レン・ケラーは、東京駅のホームに、その第二回目の来日の一歩をしるしたのでした。 げんすい マッカーサー元帥の賓客という、きび しい資格でしたが、女史はほんとうに日 はんふじゅうひと 本の不自由な人びとのためにやってきた たちば のだという立場から、資格とはかけちが ったような和やかさでした。 じよし ふるとも 古い友だちの、そして女史の招聘責任 いわはしたけおし 者の大阪ライトハウスの岩橋武夫氏 ( 故 えきと・つ ほ - つよ - っ 人 ) と駅頭での抱擁も、あたりの人たち まと かん洋〕き かずおおひと の感激の的でした。出迎えた数多い人び じん しやおおさか なご こころ じよし みみひび でむか ひんきやく にち 1 」 ) 」 つつ しようへいせきにん ひと ふんじよし かいめ にんげん した 一」・つ - わほ・つ じよし ふぎよう とくべっしゃ 書斎で点字本を読むヘレン・ケラー きしゃ 173
0 ・・ じよし であろうか。それはやがて、解決するときもありました。 はこわ じよし げんすいほうもん マッカーサー元帥訪問をおえて、女史らは休養のため八月一二十一日、箱根 ( 。 たいしゅう ごぜん こくみんかんげいたいかい こうきょまえひろば 皇居前広場で国民歓迎大会が開かれたのは、九月五日の午前、五万人からの大衆が、 うんしゅう 女史の風貎に接しようと雲集していました。 とくせつ 高い特設のステージに立った女史は、 「大ぜいの皆さんが、わたしのために集まってくださったのをうれしく思います。皆さ がたあたまこ んの気持ちは、あなた方の頭を越えて、 この高いステージに昇ってきて、そして こころかよ わたしのスカートから、わたしの心に通 ってきています。」 かん洋〕キ」 と、感激にふるえながら語ったのでした。 しんたい わたしたちふつうの身体のものには、そ れいみようき の話が、いかに霊妙に聞かれたことだつを】、「 ながねんげつたいけん たでしよう。長い年月の体験が、普通人 えとく かんか / 、 いじようの感覚を会得しているのでしょ ふうほうせつ みな ひら じよし あっ きゅうよう がっか がっ 第ーと みな 175
たのでした。 もっとも、三回目は東南アジアを回歴してからのことで、休養が主であるとされてい とうきよう・おおさか こうえんか ふくし たのでしたが、それでも、東京、大阪と講演会にのぞんで『福祉』ということについて しんせつ 親切に意見をのべられたのでした。 しようわ にちぜんしつ はわたくうこう 一・ 9 昭和三十年五月二十八日、前日マニラから羽田空港に着いた女史は、第二回の来日記 ねん せつりつ とうきよう きょ - つか 念として設立された東京へレン・ケラー協会に、まず足を迅んで、大きな歓迎に応えた じよし 一っふく ひと のでした。女史のあゆむところ、世界のそれぞれのところに、幸福の、平和のたねが一 せいちょう しんちゅうゆた たの 粒ずつまかれ、そして成長して行く。女史の心中も豊かに、楽しいものがありましよう。 こっきようこ しゅうきようこ みんぞく あか それは、国境を越え、宗教を越え、あらゆる民族に、あらゆる国々に、明るいひかりを さしこんで行くのです。 かいめ ひびやこうかいどう この三回目の来日のおり、日比谷公会堂での講演で、 ふそく もうろうあしゃ キ一よういくしせつ 「この前きたときより不足ながら、盲聾唖者のための教育施設もできた。こんどはさら かんぜん しやかい しどうしゃ に完全なものにしてくださるように。 ンディキャップの人で、社会の指導者になって かんきようもと しようがいしゃ ぶんた いる多くの人をわたしは知っている。よい環境の下において障害者も十分立ちなおれる のです。」 0 おお ひと ねんがっ かいめ とうなん せかい かいれき じよし こうえん ひと きゅうようおも じよし かんげ・・ らいにち - き 178
わず手をのばして、やけどをしそうになったこどもありました。 にん ヘレンのあそびあいては、りようり人の子て、マ 1 サどいう黒入の女の子 てしたこのふたりは、よくきかあって、 いろんないたずらをしてあるきま 。だいどころへいって、おかしをつまんだり、しちめん鳥のたまごをさ かしたり、おかあさんのへやから、おしろいやようふくをもちだしてきて、 おしゃれごっこもよくやりました。 「ヘレンは、かわいそうな子だからね。すこしぐらいのいたずらは、おおめ にみてやらなくちゃあね」 ど、おど、フ ) ん力い、フど 「ほんどうてすわ。のびのびどあかるくそだてましようよ。ひがんだこころ にてもなるど、たいへんてすものね」 ど、おかあさんもこたえるのてした。 おお けれど、ヘレンのいたずらは、大きくなるにしたがって、だんだんはげし ちょう こくじん おんな
るこどになりました。ヘレンもまねかれて、この会にし沙っせきし、みんな のまえて『目のふじゅうな人のしあわせ』について、おはなしをしした。 しよう その年、じぶんの一生を、目や耳の ふじゅ、フなひどひどに」けて、りつ ばなしごどをしているヘレンど、サリ ( ン先生は、テンプル大学から、人道《、第引 : . 」 はくし 博士のくらいをさずけられました。 しかし、一九三六年、ヘレンにどっコ てまたまた、かなしいこどかおこりま した。ヘレンがっえども、はしらども たのみにしていたサリバン先生が、ス コットランドてなくなられたのてす。 せんせい 先生はニ十さいから七十さいまての ねん せんせい ひと みみ しようじよ きようりよくしてくれた少女におれいをいうへレン 159
「どうかして、ヘレンをすくってやらないど = = ・・・ = 」 「ど、フしたら、 てしよ、フ」 あかるいえがおのたえなかったケラー家は、ヘレンが大きくなるにつれて、 かなしみか」カ ~ 、なるばかりてした。 どころがある日、そどからかえってきたおど - フさんは、、フれしくてたまら な > どい、フよ、フこ、 いっ , っ↓め / ル」 ~ はな ( 【一かけ・ーた。 「ポルチモアに、クシホルム先生どいう、すばらしい目のおいしやさまがい にん るんだそ、フだ。ほかのいしやにみはなされたよ、フなひどを、 いく人もなお したんだって」 ゅめかどばかり、おかあさんもよろこびのこえをあげました。 さっそく、ヘレンはおどうさんどおかあさんにつれられて、ポルチモア一 てかけました。 しかし、りつばないしゃのクシホルム先生も、ヘレンの目をなおすこどは せんせい せんせい おお