吟香 - みる会図書館


検索対象: 愛をつたえた青い目の医者 ヘボン博士と日本の夜あけ
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1. 愛をつたえた青い目の医者 ヘボン博士と日本の夜あけ

けん なん軒もありました。 げんこうかつじ さっそく、英文で書かれた分の原稿は活字に組まれましたが、日本語のカタカナや ひらがなは、さすがの中国にもありません。 ぎんこう 「いよいよ、吟香さまのおでましだ。」 吟香のやくめは中国にない日本語の活字のもとをつくることです。 もくしつ はんした まず一字ずつ、カタカナやひらがなの版下を書きました。それをかたい木質のツゲ なまり じがた にきざませて、字母という活字になる字型をつくらせました。こうしてから字型を鉛 ちゅうぞう で鋳造し、ようやくひとつの字ーー活字にしたてあげるのです。 なまりせい 「さあ、どうだ。日本ではじめての鉛製の活字だ。それがおいらの書いた字でできた れきしてきだいじけん んだぜ。歴史的な大事件じゃねえか。」 だいいちごう 吟香が第一号にできた鉛製の活字を手にして、おおげさにはしゃぐのもむりからぬ かっきてき いんさっし ことで、日本の印刷史の上でも画期的なことだったからです。 こうせい えいぶん いつぼう、活字づくりとならんで、英文の原稿の校正と、あわただしくすごすうち じしょ に、年はあけ、三月となりました。辞書のすすみぐあいもほぼみとおしがついたの で、クララがさきに日本へかえることになりました。

2. 愛をつたえた青い目の医者 ヘボン博士と日本の夜あけ

つかっていた吟香にあらためました。 「いい時に、いい人があたえられた。」 たんご いそがしいへポンが心からよろこんだのは、もう、辞書の単語が二万語にもなり、 まとめる時がきていたからです。 くちはっちょうてはっちょう さいわい、吟香はヘポンがみこんだとおり、ロ八丁、手八丁のやり手のうえ、ヘポ じしょ かんしゃ ンを尊敬し、また感謝しているだけに、辞書づくりにはおおはりきりです。 いそがしいへポンといっしょに、どんどんしごとをすすめ、やがて、ぼうだいな辞 けいおう げんこう わえいごりんしゅうせい 書の原稿をまとめあげました。『和英語林集成』という書名の辞書で、あくる年慶応 二年 ( 一八六六年 ) 九月のことです。 もくはん いんさっ ところが、原稿がまとまっても日本では印刷することができません。木版による印 かつじ 刷はできても、そのころの日本には、活字も印刷機もないからです。 「そうだ。支那 ( 中国 ) へいけば、印刷することができる。」 しんりようじよ かんじゃ へポンは毎日五十人ほどもくる患者にわけをはなし、しばらく診療所をやすんで、 ぎんこう クララと吟香たちと中国へわたりました。 えいご かんじ シャンハイ 印刷のできるという上海は、中国の大きな町で、漢字や英語の活字のある印刷所は しな ぎんこう

3. 愛をつたえた青い目の医者 ヘボン博士と日本の夜あけ

『よる、おぼろ月夜なり。 ( 一 0 おかみさん = わかれ = 」く。手をにぎ 0 、さ」 なら、ごきげんよろしく、やがてあとからわたくしかえります、とわかれる。』 ぎんこう ざっくばらんの吟香らしく、その日の日記に吟香はそう書きしるしています。 いんさっ わえいごりんしゅうせい やがて、その年の五月、ヘポンが心をこめてまとめた『和英語林集成』の印刷がで しんりいち き、また、『真理易知』というやはりキリスト教の。ハンフレットもできたので、ヘポ ンたちはいさんで日本へかえってきました。 くしんじしょ へポンはその苦心の辞書を、まっていてくれたアメリカ人や日本人にわけてあげま した。 はつおん 「なんと、べんりな本ができたものだろう。われわれが日本語をわかりやすく発音で いみ えいぶんせつめい きるように、ローマ字でつづってある。その意味があとで英文で説明してあって、よ く、くふうしてある辞書だ。」 と、アメリカ人たちは外国人のたちばでほめれば、日本人もまた、 かんじ 「ローマ字でつづってあるだけでなく、カタカナ、漢字もかいてあって、英語をベん 8

4. 愛をつたえた青い目の医者 ヘボン博士と日本の夜あけ

じゅく えいがくしょ しゅうぶんかん ン塾と、もと英学所といった修文館のふたっしか英学をおしえるところがないので す。 じゅくせい クララはヘポンたちとそうだんしても、ほんのすこししか塾生をとれませんでし だんじよきようがく ねんれい た。へポン塾は男女共学であり、年齢もこの人たちよりもひくかったからです。 とうきよう 「もっともっと横浜にも、東京にも、英学をおしえるところがひつようだわ。それに 女学生だけの塾もほしいわ。」 クララのなげきはヘポンもおなじでした。 わえいごりんしゅうせい 「いま、わたしにできることは、あの『和英語林集成』の第二版をはやくつくること めいじ だ。明治になってから、新しいことばもふえたし、新版をつくったら、いくらかでも 日本の英学のお役にたつはずだ。」 りかい 和英語林集成は、ことばをとおして日本と西洋とがたがいに理解しあえるものだけ しゆっぱん に、新版の出版がのぞまれていたのです。 きしだぎんこう ただざんねんなことに、第一版のときにいろいろはたらいた岸田吟香は、もうたの むことはできません。 吟香は ( ポンにわるかった目をなおしてもらってから、すっかりその目薬のすばら せいよう だいにはん 120

5. 愛をつたえた青い目の医者 ヘボン博士と日本の夜あけ

しいききめにかんしんしてしまいました。そして、とくに、ヘポンにたのみこんで、 その目薬のつくりかたを教えてもらいました。 いってき 一滴、ぼとりとさすだけで びたりとなおる目薬 せいきすい 平文先生大発明、世界一の精綺水 くちはっちょうてはっちょう と、もちまえのロ八丁、手八丁をいかし、いまではその目薬、精綺水をつくって、 日本中を売りあるいているからです。 もちろん、ヘポンも吟香にたのめないからといって、手をこまねいていたわけでは ありません。 じしょ しんやくせいしょ ほんやく 「辞書のことだけでなく、新約聖書ももうすこしで翻訳がおわりそうだし、ここで、 ぶんしよう しつかりした日本語の先生をさがして、訳した文章がよいかどうか、みてもらわなけ れば : : : 」 と、ってをもとめてさがしていたのです。 121

6. 愛をつたえた青い目の医者 ヘボン博士と日本の夜あけ

れ。」 おくの せんきようし しつもん 奥野はヘポンたち宣教師がわの質問に、はらだたしさをおさえきれないのでしょ う、一気にそういって、ヘポンたちをにらみつけました。 かたな 奥野はよほどくらしにこまっているとみえ、もと武士といいながら、刀を売りはら ったのか、さげていません。また、きているものもまことにそまつです。 けれど、ヘポンたちにへつらわず、おくせず、また、しようじきなこたえに、ヘポ ンはつよく胸をうたれました。 きようし へポンは奥野にたくさんのてあてをだし、日本語の教師になってもらいました。ま とう」よう よこはま かぞく た家族のいる東京から横浜までかようことはできないので、とりあえず奥野ひとり、 へポンの家にすみこむことになりました。 ぎんこう 奥野はほがらかで、やり手の吟香とははんたいに、ロ数のすくない、まじめな人で した。ことに、日本語を教えることはできると、はっきりいっただけに、学問にたい そうくわしい人でした。 「奥野さんはしらないものはしらないと、かならずことわるといわれたが、なにをた のう ずねても、きちんとこたえてくださる。日本のことわざに、能ある鷹はつめをかくす むね 123

7. 愛をつたえた青い目の医者 ヘボン博士と日本の夜あけ

ということわざがあるが、奥野さんもそのように、ひかえめで、おくゆかしい人 へポンは奥野の古武士をおもわせる重厚な人がらに、アメリカ人とか、日本人など こくせき そんけい という国籍をこえたしたしさ、尊敬をもつようになりました。 そのことは奥野もおなじです。 きようよう 吟香がヘポンのあたたかな人がら、ふかい教養に、心からしたがったように、奥野 もまた、ヘポンにつかえることに、このうえないよろこびをかんじていたのです。 わえいごりんしゅうせい だいにはん ついか やく しんやく そのため、『和英語林集成』の第二版のことばの追加、ほぼ訳しおえたという新約 せいしょ てきひ 聖書の日本語としての適否など、奥野はじぶんのしごととして、全力をそそぎました。 また、そのやりがいのあるはたらきがうれしくてなりません。 「なぜだろう、このよろこびは : : : 」 奥野にはそれがなんであるのか、じぶんにはけんとうがっきません。 レ」く・か、わ これまで徳川がたにつかえ、それがほろびてからは、いいがたいくるしみや差別を うけてきました。いま、そのむかしをおもうと、天と地のちがいがあるほど、心は平 あん 安です。 だ。」 おくの こぶし じゅうこう さべっ へい 124

8. 愛をつたえた青い目の医者 ヘボン博士と日本の夜あけ

ぎた とうかいどうちゅうびざくりげ 喜多さんの東海道中膝栗毛まで読んでいるとは、こんな外国人はじめてだ。」 ごう ぎんこうきしだぎんこう 銀公は岸田吟香という号をもっているほど、中国、日本の学問にくわしく、人にも きようよう 教えたことのあるひとかどの学者です。それだけに、ヘポンの教養のふかさにおどろ いてしまったのです。 じしょ えいご なお、そのうえ、日本へきてからこっこっと、日本語でひく英語の辞書づくりには げんでいるということです。 「なんと、もう二万語もあつまっているそうな。」 銀公はヘポンのあたたかな人がらにひかれ、いろいろはなしこんでいるうちに、辞 げんこう 書の原稿もみせてもらい、いよいよ頭がさがったのです。 あそにん へポンもまた、銀公がただの遊び人ではなく、国をうれい、また、学問をこのむ人 そんけい がらに、尊敬としたしみをかんじました。 りゅうざん ( そうだ。なくなった隆山さんにかわって、辞書づくりを手つだってもらおう。それ にいましごとがないそうだから、きいてくれるかもしれぬ。 ) ぎんこう へポンは銀公にたのむと、銀公はおおよろこびで、さっそく、その日からへポンの じよしゅ 助手になりました。また、このときから、やくざっぽい銀公という名まえを、まえに