かくしゅうはそう 仏教がわの各宗派の僧たちは、なんどもそうだんしたのち、キリスト教をねらいは とくがわばくふじだい めいじせいふ じめました。キリスト教は、徳川幕府時代から明治政府になったいまでも、信じては こうげき ならぬ教えです。攻撃し、たたきつぶすあいてとしては、これほどかっこうのものは ありません。 だんじようだい せん こうして、仏教がわは、キリスト教をとりしまる弾正台とれんらくをとりつつ、宣 とうきよう よこはまながさきはこだて ちょうじゃ 教師たちのいる東京をはじめ、横浜、長崎、函館などに、諜者をおくりこんでいたの です。 ところが、この仏教がわをびつくりさせることがおこりました。 せいしよじしょてんのう 「へポンが聖書と辞書を天皇にさしあげたそうな。聖書を天皇におくることは、ヘポ ンが日本へきてからのながいねがいであったという。」 仏教がわはこのしらせには、みんなにが虫をかみつぶしたおもいです。 へポンは日本へきている外国人のなかでは、その人がらのよさでしたしまれていま わえい・こりんしゅうせい すし、また、あの『和英語林集成』はだいひょうばんになった辞書です。 そのヘポンが天皇にあって、聖書などをじきじき手わたしたわけではありません こうい が、それにしても天皇もへポンに、好意をもったのではないでしようか。 きようし ぶつきよう 141
ち ざす、天皇を中心とした新しい勢力とが、おおぜいの人の血をながし、すさまじいあ らそいをしました。そして、ついにふるい勢力の徳川幕府はおしきられ、たおれる時 がきました。日本を三百年にわたっておさめていた政治を、天皇にかえす大政奉還を したのです。 とうきよう えど めいじしんせいふ めいじてんのう どうじに、明治天皇を中心とした明治新政府が生まれ、いままでの江戸は東京とあ みやこ らためられ、新しい都としてさだめられました。 とくがわけ 徳川家によるふるい日本はついにきえさったのでした。 「しかし、ほんとうに日本は近代国家として、新しく生まれかわったのだろうか。」 へポンたちは明治新政府のかんがえが、なんとしてもしんばいでした。 せんしんこく 先進国のアメリカやヨーロツ。ハの国ぐににつづこうと、そのすすんだ文明、文化を と ぐんび さんぎよう とりいれること、諸外国にまけぬ産業をおこし、国を富ますこと、強い軍備で国をま もることーーなど、これまでにない新しい政治、すすんだ国家をめざしながら、こと キリスト教にかんしては、まったく幕府のころとおなじだからです。 しんせいふ 「新政府になってから、かえってキリスト教をきびしくとりしまっている。」 さんぽ へポンはまい日、散歩にでて、とくにそのことをつよく感じるのは、町かどに新し しよがいこく せいりよく 112
しんりようほんやく こうしたさまざまなできごとは、ヘポンのまい日の診療、翻訳などのなかで、つぎ つぎとおこったことで、月日がたつのも気づかぬほどでした。 こくない けれど、そのあいだにも日本の国内ははげしく動き、大きくかわりつつありまし こ 0 じつけんてんのう たいせいほんかん とくがわばくふ せいじ 「徳川幕府はつぶれる。政治の実権を天皇にかえす大政奉還のときがきた。」 「幕府にかわって、新しい政治は天皇によってはじめられる。新日本のたんじよう だ。」 きんだいてきこっか ほうけんてき 封建的なしくみをかたくなにつづけようとする徳川幕府がたと、近代的な国家をめ えいがく 英学でうらみを 111
新をさかいにきれてしまったのです。 てんのう 「新政府のれんぢゅうは、将軍や藩主のかわりに、天皇をたて、天皇につかえ、それ をささえにいけばよいだろうが、まけたほうのわれわれは、だれにつかえ、だれをさ さえに生きていけばよいのだ。」 「いやいや、もう、そんなたおれるもの、きえるものにたよっていてはならないの せいしょ だ。聖書にいう、この世界を、人間を、そして、一本の草花にいたるまでつくったと いう、神にたよることではないか。それがいま、いちばん正しいことではなかろう か。」 じゅくせい ふあんてい おおくのくるしみをなめ、いま、なお不安定なまい日をおくっている塾生たちは、 すこしずつ、聖書の教えがわかってきました。 じやきよう きんし 日本中が国をあげて禁止している、邪教だというキリストの教えが、いまのじぶん の心のよりどころのようにおもえてきたのです。 めいじいしん 「ぼくの命は、明治維新をさかいに死んでいる。これからはキリストによって、新し く生きるのだ。」 へいあん だんあっ 「とりしまりとか、弾圧をおそれていては、たましいの平安はない。すくいはない。」 132
れいぎじよう 「いやいや、そんなことがあってはならぬ。天皇はただ礼儀上おうけとりになられた あまてらすおおみかみ だけということだ。天照大神を日本の神としてあがめておられる天皇が、なんで、キ リストなどの本を手にとられるものか。それよりも、ゆだんのならぬキリスト教をた ちょうじゃ たきつぶすためにも、もっと諜者をはりこませ、とりしまりをきびしくせねばなら 0 ぶつきよう ちょうほう 仏教がわは、もうまけてはいられぬと、とりつぶすための諜報にのりだしました。 ももえしようきち すると、諜者のひとり桃江正吉は耳よりなはなしをききこみました。桃江はバラか こうえいじりゅうずい そう ら洗礼をうけながら、じつは光永寺隆端という僧でした。 せいしょ こうかいいん 「日本語の聖書を、いま、どこかで刷っているらしい。公会員たちがまちどおしそう にうわさをしていたが : : : 」 「ゴープルの聖書がまた、でまわっているのか。それとも、べつのものか。」 あんどうりゅうたろう しのざき おどろいたようにききかえしたのは、やはり諜者の安藤劉太郎でした。安藤は篠崎 ゅうりゅう ほんがんじは らといっしょにバラから洗礼をうけていましたが、じつは猶竜という本願寺派の僧で した。 せんきようし 『ゴープルの聖書』というのは、ヘポンといっしょに成仏寺でくらした、宣教師のジ せんれい じようぶつじ
せいじ いっぽう、日本の政治の中心である江戸では、外国や外国人のあっかいをどうする かで、大あれにあれていました。なかでも、外国人をおいだし、どうじにこれまで日 そんのうじよういは 本をおさめていた幕府をたおし、天皇をたてようという尊王攘夷派がたいそういきお いをふるい、はんたいするものとことごとにあらそっていました。 たいろういいなおすけ かいこく このため、外国に開国をふみきった幕府の大老、井伊直弼は外国人をにくむ攘夷派 の武士たちにとうとう、きりころされ、また、外国人がなん人もころされるという事 けん 件が、あいついでおこりました。 ある日、こんどはヘポンのおくさんのクララがおそわれ、かたをきられておおけが からだと心の医者 ばくふ てんのう えど “し
ものたちはなにかとそうだんし、たよりにしていました。 だんじようだい ぶつきよう こうしたことはそっくりそのまま、役所の弾正台につつぬけになり、仏教がわへも さいだい ったわっていました。と、どうじに、ヘポンの医者としてのはたらきも、細大もらさ ず、仁村たちはしらべあげていました。 めいじしんせいふ ところで、キリスト教に目をひからせる明治新政府はさておき、どうして本願寺派 しんけい などの仏教がわが、これほどまでに神経をとがらしているのでしよう。 じつは明治新政府になってから、仏教はいちだんとひくいものとみくだされ、みは なされるようになっていました。 いせじんぐう あまてらすおおみかみ しそん 「日本は神国だ。伊勢神宮におまつりしてある天照大神こそ神であり、そのご子孫が てんのう しんとう こっきよう 天皇である。神道はこれからの国教だ。」 と、明治新政府は神社による神道という教えを、国教のようにおもくみるようになっ たからです。 「なんというむちゃなことを : 仏教は千二百年あまりもつづいているのに、き ゅうに、神道、神道と、あがめて、はんたいに伝統のある仏教をないがしろにすると にむら しんこく じんじゃ 0 ぞんとう ほんがんじは 139
礼をうけたことがわかれば、たちまち、つかまえられ、法にそむくものとして、ころ されてしまうときでした。 「いいえ、かくごしています。死ぬるも生きるも、神さまのお心のままです。どう ぞ、神を信じるものとして、洗礼をおさずけくださいませ。」 りゅうざん 隆山のいのちがけのねがいは、おくさんも、むすこ、むすめもとめることができま せん。いいえ、隆山のさいごのたのみをかなえさせたいーーと、かえって、ヘポンや ハラにたのむほどでした。 へポンは先輩のバラにたのんで、隆山に洗礼をさずけてもらいました。 隆山はほっとしたのでしよう。 「もう、こわいものはない。これで天国へいける。」 やのりゅうざん それからまもなく、海なりのするくらい日の午後、矢野隆山はその一生をおえま けいおうがんねん しんじゃ した。慶応元年十二月十四日、日本人のプロテスタントの信者として、はじめてのこ とです。 「先生。父のあんなやすらかな顔ははじめてです。父がいつもはなしていた天国のキ リストさまのところへいったのですね。」 せんばい ほう
うえの ぎんこう ながや そのころ、江戸の上野のうら長屋に、銀公という三十すぎの遊び人がいました。 「おらあ、まい日ぶらぶらしてるからって、やくざな遊び人じゃねえ。こうみえたっ てんか ろうにん て、天下の浪人さまだ。」 と、つよがりをいうのも、じつはこれからの日本のゆくすえを、まじめにかんがえて いた人だからです。 ほんみようきしだぎんじおかやまっくざかや 銀公というのは、なかまたちのよび名で、本名を岸田銀次。岡山の造り酒屋の生ま そんのうじよういは れです。学問ずきなところから、しだいに尊王攘夷派にくわわり、そのため、はんた いする幕府からにらまれ、しばらく身をかくさなければならなくなったのです。 ばくふ じしょ ローマ字の日本語辞書 えど あそにん
どもはいないかなあ。塾であつまることができないだろうか。」 れいはい 「すばらしいかんがえだわ。日曜日の礼拝のあとならどう : 。日曜学校よ。」 なるほど、なるほど : へポンたちは手をたたいてよろこびました。 えいご けれど、キリスト教をひろめられないときだけに、英語のべんきよう会ということ せいしょ にして、英語の聖書をよむ会にしました。 「はじめはひとりでも、ふたりでもよい。こころざしのあるものだけではじめよう。」 えいがくしょ はやしただすももざぶろう と、ヘポンの英学所の教え子が二人、クララのヘポン塾から、あの林董の桃一二郎たち が五人やってきました。 「ありがたいことだ。日本の日曜学校の歴史は、きよう、これからはじまる。聖書も だいいち 第一ページからまなぼう。」 へポンたちは祈ってから、それぞれにわたしてある聖書の第一。ヘージをひらかせま した。 『はじめに、神、天地をつくりたまえり。』 そうせいき けいおうがんねん と、いうことばからはじまる『創世記』から読みすすめていきました。慶応元年 ( 一 八六五年 ) 六月はじめの日曜日のことです。 いの 0 れきし 8