「なんだかわからねえが、心にささることばばかりだ。」 せいしょ 奥野がいったように、ただ聖書をすらすらと読みすすめるだけならば、こんなふし ぎなおもいにはならなかったでしよう。 いっかく 版下に書かれた一字一字は、それぞれ一点、一画のつくりからなっていて、それな りに彫るには時間がかかりました。そんなとき、彫りながらいつのまにか、かんがえ ないよう いみ こんでしまうのは、そのことばのもつ意味であり、内容でした。 あい じゅうじか 「愛だの、十字架だのと、このまえのマルコ伝のときもてこずったが、なんだか、や つばりほんとうのようにおもえてならぬ。」 と、いちどやめてしまったあとのほうが、もっとほかのものも読んでみたいと、心か らおもうようになっていたのです。 ちょうど奥野が日本語として正しいか、ふさわしいかを一字ずったしかめながら、 読みすすめていくうちに、いつのまにか聖書の教えにみちびかれていったかたちによ くにていました。 けれど、たしかにそうだとおもっていても、心はみだれ、おそれにおののくことが よくありました。 おくの はんした ゼん 154
「わたしがもうすこし元気ならば、ださせてもらえるのにーー」 りゅうざん へポンに日曜学校のはなしをきいて、そういってざんねんがるのは隆山です。 けつかく 隆山はこのころ、結核のぐあいがおもいのほかわるく、ヘポンたちの日本語の先生 もできなくなり、ほとんどねたきりなのです。 へポンはおもてむきは医者として、なんども隆山をみまいにいきました。そして、 ねっしんに神のことをたずねる隆山に、ヘポンもまた心をこめて話しました。 隆山はもうあまりながくはないと、じぶんでもおもっているのでしよう。 こくせき 「先生。わたしはこのとおり日本人ですが、わたしのほんとうの国籍は天にあるので しん せいしょ しよう。キリストを信じたものは天国へいけると、聖書にありましたね。」 と、死ぬ日のことをかんがえ、そんなことをへポンにいうことがありました。 しんこう 隆山の信仰はいくたびにはっきりしてきました。へポンは隆山の手をとって、心か いの ら祈り、よろこびあいました。 せんれい 隆山のねがいはキリストにしたがうあかしをするために、洗礼をうけることでし けれど、キリスト教を信じることは、けっしてゆるされないころです。ことに、洗 8
しのざき かいどう やがて、篠崎たちはバラの会堂にあつまり祈りつづけました。そのうちに、みんな につん の心がひとつになって、ここに、日本人としてはじめての教会が生まれました。日本 きりすとこうかい しんきよう 基督公会といって、プロテスタント ( 新教 ) としてははじめてのもので、明治五年 ( 一八七二年 ) 三月十日のことです。 いの 135
ちひっ こじまただしがはく まっぴ ばくまつめいじき 末尾になりましたが、幕末、明治期を活写してくださった小島直画伯と、遅筆のわたしを たんとうおかじまこうじ しんぼうづよく待ち、はげましてくださった担当の岡島康治さんに、心よりお礼をもうし ます。 かっしゃ かんべじゅんきち 神戸淳吉 168
刀嵳馬 子く て、 刺しに フ 診え客 ら み を 111 英こ田たロ が之の一 助マ と字が おのけ 伝一日の 101 益 い の ち 本洗芫く 礼う わ る い 人 も す の か 71 九か 人ら のだ 英をと 学ぞ心 生の 60 者 48 あ や し い 療 医所 34 41 に げ る ろ し き た 男 24 を つ き つ け ら て 1 7 小ご 屋や の 共い 人児 辞じ 圭し 84 91
ー P H P 心の児童書・創作シリーズ第 定 価 は 昭 五 十 年 月 現 在 も の で 名 木 イ貞 山那 中須 冬正 児幹 絵作 わでゆ冬 たやら眠 るっせか 三ててら きいさ 痛たるめ 探怪、ク 偵事助マ 物件手八 語にのが ・ ~ ノレ・愛 八吉用 の少の 推年パ 理がイ は急プ 冴ぎを え足く ・ 980 円 わ り . 庭 . 自市 長坂 尾本 み伊 の都 る子 絵作 らし、 / ト か土や学 れ曜で生 るまたゼ のでまロ だ毎ら子 日なこ いと 小時。れ 学間そい 生、れ子 の三もは 切人そ学 実のの校 な家はか 姿庭すら を教、帰 描師月る くに曜の 。しかが 980 円 っ て く も ど て ん 若森 菜 は 珪な 絵作 込い帰ノ みのっナ 、でての 老は以家 人ご来で とと戻働 子心つく ど配て佐 もだ来あ の。なし れかは 合らも いのうお を仕一盆 描事緒に き歌に娘 まを遊の す盛べ所 980 円 よ と 980 円 き暮、 きとん いひさ を。ば きたお 。めしき ーらまと ジゆいた タのてつ ン心れな アのがに フんこリ いさちと しば待ひ 美おをで たき生い いと誕嫁 描ののが とし孫娘 絵作 治子 義美 木源 鈴生 く ば オし ス ル そ さ く 田新 中 秀冬 幸二 絵作 980 円 す分うま ま自そか きはるつ 行オえ ミらげ しキも逃 捜るがが ていス / レ してバザ がれ一ス 気らリポ るめフら れしのか らい地山 えも園ル まっ遊サ かいはの つ。人地 はすた園 にでえ遊 は ば け ヒ 少コ 鵜ヤ ロロ 井赤 口座・ 文憲 秀久 絵作 そヤが僭 れン森つ はににい た親捨て えして鵜 がんら飼 たでれい いきてに と鵜まえ で匠うな あの。く つ子小な た克さっ に頃鵜 とかヒ つらコ てヒヤ 980 円 み つ け た 小柴 林田 和克 子子 絵作 時はてな 間千のお , 何ひき 。百らは 五もああ のつけ の 時てみ を土に は器 せの遺 る破 片を 手か訪 のられ 中彼た 980 円 く ー小学中級以上向■
「クララ、まず、お祈りをしよう。」 「はい。」 ぞんどう ながいあいだねがっていた日本への伝道と、病人をいやすはたらきが、いま、これ からかなえられようとするのです。 きんし でも、その日本はキリスト教をかたく禁止しています。また、外国人をきらい、お りあらばきりころそうという武士たちがおおいといわれています。 ヘップバ ーンたちはそのことをおもうと、伝道どころか、あすの命、いえ、たった いまでも、あんしんはなりません。 ヘップバ ーンとクララは心をこめて祈りました。祈りだけがささえです。 ーンは目をあけ、音のしたほうをみました。 そのとき、ごとん、という音に、ヘップバ 「あっ : ろうか 廊下に刀のようなものをもった大男が、クララたちのようすをうかがっています。 「ど、どなた : 。どなた、ですか。」 ヘップバーンは本でおぼえた日本語でさけびました。けれど、あいてはだまったま まです。 かたな いの
そうこうじ 近くの宗興寺です。」 と、それぞれがおちつくと、はじめての日曜日にはみんなそろって、礼拝をしまし 「日本の人に、キリストの教えが、ひとりでもおおくったえられますように : : : 」 心をこめて祈る祈りは、ヘポンをはじめみんなのねがいでもありました。 このあと、ヘポンたちはプラウンのおじようさんがひくピアノに声をあわせ、讃美 歌をうたいました。 「ありやりや、なんの音だあ。」 ピアノなどきいたことのない成仏寺の和尚、門番、それにあそびにきていた子ども たちも、目をまるくしました。 へポンたちがひさしぶりにくつろいでいると、和尚がひとりのわかものをつれてき ました。 さだじろう 「このあいだからたのまれていた、したばたらきの男がみつかった。この定次郎じ かんじ 和尚はカタカナと漢字で書きつづった書きつけをみせました。 いの おしよう れいはい さんび
しかく さだじろう 定次郎となのる刺客は、ヘポンにわかるようにそういい、じぶんの病気へのあたた なみだ ぶれい かないたわり、ころそうとねらっていた無礼などを、涙をながしてあやまりました。 へポンはただただおどろくばかりで、なんといってよいかわかりません。 すると、定次郎はぬきはなったしこみづえをおさめると、ひきとめるヘポンをふり きって、にげるようにいってしまいました。 ゅめ へポンは夢か、まぼろしでもみているここちです。 定次郎がしたばたらきにしてはよく読み書きができ、えがたい日本語の先生であっ がてん たことに、いま、はじめて合点がいきました。 けれど、それにしても、もうかなりむしばまれていたからだのことをおもうと、日 本人にキリストの愛をつたえ、病める人をいやしてあげたいと、ねがってきたのに、 いったい、なにをしてあげただろうか : へポンは心がうずき、くるしくなるばか りでした。 あい
す。 「もう、このうえは神さまにおねがいするほかはない。」 すべてはキリストにゆだねたとはいいながら、ぎりぎりのどたんばになると、治兵 ふあん 衛の心はみだれました。不安になり、おそろしくなりました。 いの 一まい、と刷りつづけました。ただた 治兵衛は夜どおし祈りながら、一まい・ だ祈りつつ、とうとう、さいごの一枚を刷りあげました。 刷りあがったぞ。」 、刷れた : 「ああ、刷れた : せいしょ ほっとしたよろこびとどうじに、おもわず口にでた聖書のことばがありました。 『なんじら、世にありてはなやみあり、されど、おおしかれ、われ、すでに世にかて り。』 かんしゃ じへえ 治兵衛は神にまもられたことを心から感謝し、祈りました。 おくの このよろこびは、すぐ奥野にもしらせられました。そして、奥野もまたへポンにつ たえました。 ありがとう。ありがとう。」 「ありがとう : へポンもまた、ただただ、お礼をいうばかりでした。 れい 157