明治 - みる会図書館


検索対象: 愛をつたえた青い目の医者 ヘボン博士と日本の夜あけ
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1. 愛をつたえた青い目の医者 ヘボン博士と日本の夜あけ

ものたちはなにかとそうだんし、たよりにしていました。 だんじようだい ぶつきよう こうしたことはそっくりそのまま、役所の弾正台につつぬけになり、仏教がわへも さいだい ったわっていました。と、どうじに、ヘポンの医者としてのはたらきも、細大もらさ ず、仁村たちはしらべあげていました。 めいじしんせいふ ところで、キリスト教に目をひからせる明治新政府はさておき、どうして本願寺派 しんけい などの仏教がわが、これほどまでに神経をとがらしているのでしよう。 じつは明治新政府になってから、仏教はいちだんとひくいものとみくだされ、みは なされるようになっていました。 いせじんぐう あまてらすおおみかみ しそん 「日本は神国だ。伊勢神宮におまつりしてある天照大神こそ神であり、そのご子孫が てんのう しんとう こっきよう 天皇である。神道はこれからの国教だ。」 と、明治新政府は神社による神道という教えを、国教のようにおもくみるようになっ たからです。 「なんというむちゃなことを : 仏教は千二百年あまりもつづいているのに、き ゅうに、神道、神道と、あがめて、はんたいに伝統のある仏教をないがしろにすると にむら しんこく じんじゃ 0 ぞんとう ほんがんじは 139

2. 愛をつたえた青い目の医者 ヘボン博士と日本の夜あけ

ち ざす、天皇を中心とした新しい勢力とが、おおぜいの人の血をながし、すさまじいあ らそいをしました。そして、ついにふるい勢力の徳川幕府はおしきられ、たおれる時 がきました。日本を三百年にわたっておさめていた政治を、天皇にかえす大政奉還を したのです。 とうきよう えど めいじしんせいふ めいじてんのう どうじに、明治天皇を中心とした明治新政府が生まれ、いままでの江戸は東京とあ みやこ らためられ、新しい都としてさだめられました。 とくがわけ 徳川家によるふるい日本はついにきえさったのでした。 「しかし、ほんとうに日本は近代国家として、新しく生まれかわったのだろうか。」 へポンたちは明治新政府のかんがえが、なんとしてもしんばいでした。 せんしんこく 先進国のアメリカやヨーロツ。ハの国ぐににつづこうと、そのすすんだ文明、文化を と ぐんび さんぎよう とりいれること、諸外国にまけぬ産業をおこし、国を富ますこと、強い軍備で国をま もることーーなど、これまでにない新しい政治、すすんだ国家をめざしながら、こと キリスト教にかんしては、まったく幕府のころとおなじだからです。 しんせいふ 「新政府になってから、かえってキリスト教をきびしくとりしまっている。」 さんぽ へポンはまい日、散歩にでて、とくにそのことをつよく感じるのは、町かどに新し しよがいこく せいりよく 112

3. 愛をつたえた青い目の医者 ヘボン博士と日本の夜あけ

なった。」 と、三百年ものながいあいだとりしまりつづけてきたキリスト教を、おおやけにみと めることにしたのです。 めいじ たてふだ もちろん、きびしいいましめを書いた立札も、その日ーー明治六年二月十九日をも って、日本中からすっかりとりのけられてしまいました。 もく ちょうじゃ だんじようだいぶつきよう では、あの弾正台や仏教がわの諜者たちはどうなったのでしよう。もう、さぐる目 にむら 的がなくなったいじよう、しごとはまったくありません。仁村たちはまた、むかしの 仏教の僧にもどっていきました。 せいしよほんやく ところで、ヘポンたちがひそかにすすめていた聖書の翻訳は、はんたいにどうどう とすすめられるようになりました。 ごう じよしゅ おくの せんきようし そして、ヘポンはプラウンたち宣教師と、奥野たち日本人の助手といっしょに、合 きゅうやくせいしょ しゆっぱん どうやく 同訳の新約聖書を明治十三年 ( 一八八〇年 ) に出版しました。つづいて、旧約聖書を かんやく ぜんかん 明治二十年 ( 一八八七年 ) に出版し、ようやく全巻そろって完訳できました。 シンガポールでギュッラフがはじめて、日本語の聖書をつくってから、なんと五十 かんせい 年めに完訳が完成したのです。 てき そう 162

4. 愛をつたえた青い目の医者 ヘボン博士と日本の夜あけ

『われわれ幕府がたであったものは、明治新政府では出世はのぞめない。これから新 しい道をきりひらいていくには、英学しかない。たとえ、それを教えてくれる人が、 じやきよう せんきようし 邪教といわれるキリスト教の宣教師であろうと、われわれはキリスト教をまなぶので はない。あくまでも英学をまなんで、新政府のれんぢゅうをおいこしてやることにあ る。』 と、どの人も明治新政府からことごとにしめだされたうらみ、つらみをのべているこ とです。 えいぺい そのためには、まず、なにをおいてもすすんだ英米の学問を身につけて、つまはじ きをした新政府のれんぢゅうをみかえしてやりたいというおもいで、いつばいなので す。 しゆっせ 118

5. 愛をつたえた青い目の医者 ヘボン博士と日本の夜あけ

よらのむよ毎をわたった」。舞う本妙不治。病それら 書 、ここ、、れたハンセン病患者の悲惨な姿を目撃し円 ハンセン病との長しカオカし この瞬間から、日本におけるハン 0 既 岡本文良作・高田三郎絵セン病との長く困難な闘【が始ま。た。 の 評第回青少年読書感想文全国コンクール課題図書 ( 中学生の部 ) 明治間年、伊豆の青年依田勉三は、その さいはての荒野へ 生涯を未開の地北海道の開拓にかけるべ ン ーーー辺境の荒 希望にもえて旅立った ョ 北海道開拓にかけた依田勉三と晩成社の人たち 野を、緑あふれる豊穣の地に変えようと した男たちの、雄大なドラマ。 木暮正夫作・横内襄絵 イ ちょの姉と妹は耳が不自由でした。そし てそのことが彼女の一生を決めることに 円 刀天使はひそやかに なりました 「社会福祉の母」と呼ば圓 ノ 丸山ちょの愛と献身の日々 れた丸山ちょの、かぎりない愛情と勇気 の 遠藤寛子作・鴇田幹絵の生涯を描く、感動の記録です。 昭和年。福岡、平和台球場。博多高校 こ夏のダイヤモンド のエース島石正美は不屈の闘志で力投す 円 片足のエース。の力投物語る。彼は小児「ヒのため右足が不自由だ g ったーー・甲子園をめざす球児たちの、熱 いたたかいの物語。 川村たかし作・小林与志絵 定価は昭和五十九年一月現在のものです。 1100 円

6. 愛をつたえた青い目の医者 ヘボン博士と日本の夜あけ

ざいさんうむ みぶんじようげ 身分の上下も、財産の有無も、学問の優劣も、男女のちがいも、美しいか、美しく どうれつ ないかということも、ことごとく、神のまえにはみんな同列、おなじだというので す。 「いったい、こんなことをいうキリストとは、なにものだろう。」 キリスト教にせをむけながらも、塾生たちはあらためて、聖書を読む気になりまし もちろん、日本人とはまったくえんのない、二千年まえのユダヤ ( 今のイスラエ ル ) のできごとに、とまどい、あきれるものもいました。けれど、読みすすめるにつ れ、いまのじぶんたちが、むなしく、はかないものにおもえてきました。 とくがわしようぐんはんしゅ めいじいしん 「ぼくらは、こんどの明治維新のたたかいでは、徳川将軍や藩主のために、命をささ めいよ せんぞだいだい げてたたかってきた。それが先祖代々、正しいとされ、名誉とされてきた武士のかん がえだった。ところが、その将軍や藩主がたたかいにやぶれてしまったいま、なんの けんい 力も、権威もなくなってしまった。どうじに、けらいだったぼくらは、もう、つかえ る人も、命をささげる人もいなくなってしまった。」 かんけい 三百年ものながいあいだ、ゆるぎなくつづいていた上下の関係が、きゅうに明治維 ゅうれつ だんじよ 131

7. 愛をつたえた青い目の医者 ヘボン博士と日本の夜あけ

しんりようじよ へポンはそのあいだも聖書の翻訳にはげんでいましたが、もう診療所はやめてい じゅく とうきよう て、塾といっしょに東京にうつっていました。そして、その塾はのちに、いくつかの しろがね キリスト教の塾といっしょになって、やがて、白金というところに学校をつくりまし めいじがくいん た。それがいまもある『明治学院』です。明治十九年 ( 一八八六年 ) のことです。 はんけん しょてん わえいごりんしゅうせい まるぜん へポンはこの学院のために、あの『和英語林集成』の版権を、丸善という書店にゆ きふ ずり、その大金をそっくり学院に寄附してしまいました。 じしょ えいがくはってん 『和英語林集成』は、日本の英学の発展に大きなはたらきをした辞書で、そのころも まださかんに売れていました。そのような本をおしげもなくさしだしたいさぎよさ に、人びとはたいそうおどろき、また、かんしんしました。すると、ヘポンもクララ もにつこりして、こうこたえるのでした。 「わたしたちは神さまのおいいつけで、日本へやってきた旅人です。神さまのところ たから へかえれば、まだまだ、たくさんの、つかいきれない宝があります。なんのしんばい もありません。」 たびびと 163

8. 愛をつたえた青い目の医者 ヘボン博士と日本の夜あけ

せいふ おくのまさつな けれど、なかなかよい人がなく、ようやく、二年ほどたって、奥野昌綱という人が めいじ みつかりました。明治一二年 ( 一八七〇年 ) 五月のことです。 とくがわ けんどう やり 「奥野さんはもと徳 、川がたの武士で、剣道はもちろん、槍にかけてはなかなかのうで えど しようぎたい めいじいしん まえだそうだ。こんどの明治維新のたたかいでは、江戸をまもる彰義隊にくわわり、 くろう かんぐん 政府がわの官軍とたたかい、それがやぶられてからはたいへんな苦労をされたとい う。もちろん、徳 、川がたの人は、みんなひどいしうちをうけているが、奥野さんもく うやくわずのくらしをしていなさるそうな。」 おがわよしやす せんれい 奥野をしようかいしたのは、小川義綏といって、まえの年洗礼をうけた人でした。 洗礼をうけることは、まだまだあぶないころだけに、そのような人のしようかいな み ら、身もとはたしかなはずです。 けれど、学問のほうはどうなのでしよう。 めいよ 「な、なんといわれる。わたしはこうみえても、名誉をおもんじる日本の武士でした。 けっしてじゅうぶんとはもうせぬが、あなたに日本語をお教えすることはできる。た だし、はじめにいっておきますが、しっていることだけをお教えする。しらないもの は、しらないと、かならずおことわりいたす。もし、それでよければおっかいくださ 122

9. 愛をつたえた青い目の医者 ヘボン博士と日本の夜あけ

あとがき この本のヘポン先生との出会いは、いまから十年ほどまえになります。 けれど、出会いともうしましても、わたしは先生にもちろんお目にかかったことはあり めいじ ません。先生はわたしが生まれるまえの一九一一年 ( 明治四四年 ) 九月二十一日、アメリ しゅう 力のニュージャージー州ィースト・オレンジで、九十六才でなくなっているからです。 いんちょう しょだいそうり せいりがくえいせいがくきようべん また、わたしは先生が生理学や衛生学の教鞭をとられ、さらにのちには初代総理 ( 院長 ) めいじがくいん をなさった明治学院で学んだものではありません。 じようし せいしょ しんけっ じつは、先生が心血をそそぎ、祈りつつ上梓された日本語の聖書が出会いなのです。あ まるこぞん しんやくせいしょ ふるほんそくばい る時、わたしは古本の即売会で新約聖書のうちの一巻『馬可伝』を手にしました。いまの しる ふくいんしょ 新約聖書は巻名はカタカナで、『マルコの福音書』というように記されていますが、その きようみ わほん もくはんず かんじ 本の巻名は漢字で書かれ、また、木版刷りの和本であったことにも、つよく興味をひかれ たのです。 ふしぎなことに、この本の訳者名も、発行所名もいっさい記されていないので、もし、 そのゆいしょありげなっくりなどに目をとめなかったら、ヘポン先生のものとは気づかず やくしやめい いの

10. 愛をつたえた青い目の医者 ヘボン博士と日本の夜あけ

しのざき かいどう やがて、篠崎たちはバラの会堂にあつまり祈りつづけました。そのうちに、みんな につん の心がひとつになって、ここに、日本人としてはじめての教会が生まれました。日本 きりすとこうかい しんきよう 基督公会といって、プロテスタント ( 新教 ) としてははじめてのもので、明治五年 ( 一八七二年 ) 三月十日のことです。 いの 135