ねんぐ せいど 年貢を幕府や大名におさめていた農民は、制度のうえ 一方、米をつくり、 みぶん では、武士につぐ高い身分とされていましたが、きびしい年貢のとりたてに ツ、る せんば せいかっ よって、苦しい生活をおくっていました。しかし、この時代には、千歯こき の - フぐ ひりよう とうみ はつめい や唐箕などの新しい農具が発明され、干鰯などの肥料も用いられるようにな のうぎようせいさん ったため、農業生産はたいへん増大したのです。 かね ◆あ米とあ金 こめしよくりよう しやかい 江戸時代に、米は食糧として重要であっただけでなく、社会のしくみをつ りよ・つち - やくわり ひじよう だいみよう くるうえで、非常に大きな役割をもっていました。大名の領地の大きさや農 なんまんごく やしきひろ 民の田畑、屋敷の広さは、何万石とか何石などと、米の石高によってあらわ ばあい されました。幕府や大名は、農民から年貢をとる場合も、貨幣ではなく米で 一おさめさせたのです。その米の一音は、本や御家、また大名の臣たち " ~ にあたえられましたが、残りの大部分は、大坂や江戸にはこばれ、売りはら てつば - フ ~ 一われてお金にかえられました。こうしてえたおで、大名たちは鉄砲や火薬 ちょうどひん さんきんこ - った、 さまざまな調度品を購入したり、それを参勤交代の費用としたりしました。 また、江戸時代は、貨幣済が発達しました。通貨には、・・鑛貨の三、 し J ・フド ) おおばん きんか 不類かあり、それらが同時に使用されました。金貨は大判と小判かあり、銀 みん しゆるい つほう こめ あたら だいみよう 、 ) - フ : ゅ・つ おお のうみん ー ) ト - フ じゅ・フよ - フ ・たいみよう ねん なんごく こめ ひょ・フ だいみよ・つ もも・ のうみん れん おお こめ かやく のう えどむら < 江戸村 いしかわけん ( 石川県 )
ちから げんろくぶんか げんろくわんかん ちゅうしん 元禄文化とは、元禄年間 ( 一六八八 5 一七〇四年 ) を中心とした三〇年あま かみかた ちゅうしんはな ぶんか りの間に、おもに上方の都市を中心に花ひらいた文化のことをいいます。 みずおと おずと まつおばしよう みなさんは、「古池や蛙飛びこむ水の音」という松尾芭蕉の有名な句を知っ あそ かんが げいじゅっ ていますね。ことばの遊びと考えられていた俳諧をりつばな芸術に部めた色 しよう げんろくじご、 だい - うてきぶんかくしやひとり しよう 蕉は、元禄時代の代表的な文学者の一人です。この巻の四章では、みなさ んとい 0 しょに「奥の細道」を橘していくことにしましよう。元禄時代には、 ばしよう こ - フしよくいも・・こ、おとこ せけんむねざんよう さくしゃ 芭蕉のほかにも、「好色一代男」、「世間胸算用」などの作者である弗原西鶴 じよ・フるり ちかまつもんざえもん ばしよう - フ、・そ - フし ちカまっ そして浄瑠璃の近松門左衛門がいます。芭蕉の俳諧、西鶴の浮世草子、近松 じよ、フるり みち にんげんろくじご、 の浄瑠璃とそれぞれのえらんだ道はちがいますが、この三人は元禄時代を代 ひょう じだい ぶんかく 力しカ あ口卩卩 表する文化人といえましよう。またこの時代には、文学だけでなく、 絵画、 わさんれきかく まんそ - フカく の - フカ′、 京 工芸、和算、暦学、本草学、農学などの広い分野で、印本人の創造力が発 されました。 ーー、力いきゅ - っ この文化をささえたのは、けっして支配階級の武士たちではありません。 ちょうにん 力をつけてきた町人たちの意気ごみが、すばらしい僊を生みしたのです。 しの - フこ - フしよう みぶんせいど 士農工商という身分制度のなかで、不自由ながらも人びとはけんめいに生 きていました。さっそく、そのくらしぶりを見ていくことにしましよう。 ぶんか ぶんかじん ふるいけ し、し ふじゅう わん かん ひと さ、カく ゅうめ ねん よらさ、カ′、 とうきようと
しのう 中大名のくらし たいみようイようれつ ・大名行列・ しょだいみよう んし史 諸大名の配置・ 歴 池田家の政治・ ・江戸の再建 版本・尢画面 しよみん せいかっ 春から秋の農作業・ ・大画面 ・年貢をあさめる・ ・新しい農具 : 田の子・ べざいせんー「 : う ・大画面 ・弁オ船の出航 : つなよし 章 も ~ ~ 綱吉の時代 たいーようぐんつなよしせいじ 五代将軍綱吉の政治 こうしよう カラーロ絵 ( 姫路城 ) ・ かんねんびよう この巻の年表・ はじめに : あもな駐ん物・ 4 」い・ ( よ - っ 庶民の生活 よる たいかめれわん あき くちえひめししよう のうさ、まう 十ーーし 4 1 10 6 38 33 29 18 68 66 58 55 52 よ万役 第 1 章 第 2 章 商家の あもなん やすけ を - 池畄晃政 弥助の一家 ( 1609 ー 82 ) 船鬚 レ庄屋、こ いつカ・ しようや ゆいしようせつ 由比正雪 ( 1605 ー 51 ) ( 10 )
・生類みの 朱子学をすすめる・ あこうろうし 赤穂浪主の討ち入り : つなよし ・綱吉の死・ げんろくぶんか 4 元禄文化と町人 = はらさいカく ・フきょぞ・フしさつか ・浮世草子作家、井原西鶴・ たいカめ・れおおさカ ・大画面・大坂、難波橋・ は」 , て・な・つ ・奥の細道の旅・ 芭蕉と俳諧 : きょ・フしつ れきしはかせ べざいせん ・図解でみよう「弁オ船のすべて」・ しの・フ・ : フーそっ ・生活をしろう「士農工商」 : えどじたいゼんき ・文化をしろう「江戸時代前期の文化」 : そうにんしつ ・くわしくしろう「この巻のなんでも相談室・ 3 」 : れきし ・うつりかわりをしろう「貨幣の歴史」 : 矗・地図でしらべよう「江戸時の交通」 : ・たすねてみよう「この巻の史跡・資料饂・驩厖饂 ・おうちの方へ せいかっ んか な : わばし かん ちょうにん ぶんか 101 96 86 82 125 120 116 108 - イゞ冫 104 131 150 148 146 144 140 138 136 132
うむ。一六三五年、 たいしさつぐ 4 とくカ ~ 、・えみつ 三代将軍徳川家光は、 全国の諸大名に 領国と江戸とに 一年おきにすむよう ゼんこく ねん ねん 大名の妻や子を ひとじち 人質として江戸 屋敷にすまわせ たんじゃ。 家族とは わん 一年おきにしか 会えなかった のかなあ。 大名も たいへん 霜箙本 0 大名行列 ( 13 )
一一 ( 0 日ヂ 一 A< 五五四号、 せきし 宥根の関所ーー おきろ′ . * あ 明け六つ 関所が 伊ひ、らく じかん さあ、 ならんで ならんで。 * 明け六つ : ・午前六時ごろ。
- の 0 圦一 なんだか、 じかん 時間が カカり・土 6 亠 9 なあ。 おんならた 女改めで ござい土 しょ , つ。 それは Ä.JA フい , フ ことで・ : ? ・ 40 では、 わたしが 教えて あげま しト 6 , っ 0 まあ、 柵の中を 見て ごらん。 みもー」しようめいしト・ せ、、ーしト・つ・つ・ : フ * 手 : ・関所を通行するさい、本んであることをしめす身元証明書。 まず 役人か * てかた 手形を しらべる。 ( 15 )
ふむふむ、 おんなじようげ 女上下三人 かみきりふたり うち髪切ニ人 っ足ああ少 ! そを れ軽れやしし て番ヨよしでて い所 ! の通けいち手てさそし よれったが形しのら 。なしらっと出だ結 - 。 いて、てし果ヵ 女 2 * ひとみおんな そこでは 人見女の手で、 顔やかみの毛 ( まで よくしらべ られる。 に ) ト・せい きびしいもの たなあ : さあ、 おまえさん たちの 番だよ。 こうして幕府は、あもに江戸 ちゅうしん をまもるをめに、江戸を中に 五十な所あまりの関所をつ < り ました。関所では、とくに江戸 へもちこまれる鉄砲と、江戸ガ じよせい ら出ていく女性をしらべました。 大名の家族ガ江戸ガらぬけ出ヴ のをふせぐためです。これを、 いりてっぽうておんな 「入鉄砲と出女」といいました。 よおし、 通れ′・ いみよう とお 亠のり・かし J , っ ごさいます。 てっぽう ( 16 )
つど . クけ しょ・フち ご承知でも ござろ , フか ご通行のさい かぶりものは むよう 「無用・・ ご主君は、 お乗物の戸を t ひらいてお通り なさるよ , つ。 しゆく・れ わが主君 池田光政が、 まもな′、 どうぜいせんにん 同勢千人で 0 通行いたし ます。 のりもの みつまさ とお なお、 工うれっしゅうやり 行列衆の槍は、 せきしよない 関所内では横に ふせてお通り なさるよ , フ : ねん 念のため。 しようち 承知い・ナ・ ました。 では ごめん′ . とお ふ , つつ。 こ , フしては いられぬ。 はやつうこうにん 早く通行人を さばくのた ( 17 )
ほ 1 コ元」 : に「朝」アーヾ・朝引第 i に阯衂可 : 講ロコ j 朝に勝 荷物を宿ガらの讎には かくしゆく こぶために、幕府は街道の各宿 し」・フかいこ - フし、く に人馬をあきました ( 東海道百 - っーまひ、く・こ - っ なかせんどう 人・馬百頭、中山道五十人、馬 こ・フつうりようぞ・フにい 「「「五十頭 ) 。しガし交通量の増大 しゅ・、ばきんごう のうみ・れ にともなって、宿場近郷の農民 たちもガりされるようになり ました。「。れを助郷とよびます。 さんきんこうた、 いつのうはんき 参勤交代の時期が四月の農繁期 にあたったため、助郷は農民に とって大きな負担でした。 ( 19 )